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(あのときの「想い」をもう一度 ひろ爺のえっせー 8月号 今年も飛鳥川のサクラが開花した。 2020年夏、胃がん手術の後、主治医から「余命6か月」の告知を受けることに。その時「来年のサクラはもう見ることができないのか?」という思いが頭をよぎった。 術後は体力回復のため食べることと歩くことが仕事となった。散歩コースは我が家から東へ7〜8分で行ける飛鳥川と、西へやはり7〜8分の曽我川へ。初秋から歩き始めた二つの川沿いには多くの桜の木が植わっており、紅葉していく木々を観ながら年を越し、固い蕾が徐々に膨らんでくるのを観ながら歩くうち、1年目のサクラを見るに至った。 病後、80年の我が人生を振り返ることが多くなっている。子供のころからサクラに縁があった。西行が庵を結んだことで有名な「桜の吉野」から東へ、奈良県最東端の四郷村(現東吉野村)で私は育った。山に囲まれた村のあいだに「づきやま」と呼ぶ小高い丘があり、神社の周りに大小10本ぐらいの桜の木があった。季節になるとそこにはサクラを観る村人たちがお酒や巻きずしをもって集まった。 その後、もう見ることが無いと思ったサクラの開花を5度も迎えることができ、「生かされている」喜びを実感しているこの頃ではある。 ひろ爺のえっせー 7月号 産経新聞 朝晴れエッセー「大和の茶粥おかいさん」 2024.8.17 朝刊掲載 大和の茶粥「おかいさん」 中学を卒業するまで茶粥で育った、私の田舎奈良の東吉野では茶粥のことを「おかいさん」といった。祖母が茶粥をつくる70年以上前のシーンをよく覚えている。かまどに鍋を置き、チャン袋(茶袋)に入れた番茶でコメを煮、木の杓子で掬っては落として吹きこぼれを防ぎ、出来上がるまでそばを離れなかった。絶品の茶粥の味は大阪市出身の今は亡き母が受け継いだ。 2020年7月、胃に進行性のがんが見つかり「ステージ4、余命6か月」の告知を受けた。胃の3分の2を切除する手術と抗がん剤で激やせとなり、ご飯やトーストが喉を通らない。そんな時、宇陀市に住む妹が鍋いっぱいの3代目「おかいさん」を持ってきてくれた。 がんとの闘いは、朝1杯のニンジンジュースと茶粥の朝食からはじまった 産経新聞「ビブリオエッセー」 【書名・著者】 「敦煌」井上靖(新潮文庫など) いつもの散歩コースでこの本に出会った。江戸時代の町家や町並みが残る橿原・今井町の古書店である。掘り出し物の一冊を見つけるのが私の趣味で、その本は古い徳間書店版だった。『敦煌』。昔、映画で見た記憶がよみがえり、奥付の発行年を見ると昭和60年代。映画化の頃に出版されたものだと知った。 そういえば当時、「なら・シルクロード博」もあった。敦煌やシルクロードという言葉は今や懐かしい。井上さんの原作はそんなブームのずっと前、昭和34年の刊行だった。 中国は宋(北宋)の時代。進士の試験に落ちた主人公、趙行徳は開封の町をさまよい、一人の女を救う。それは西夏の女で、お礼にと一枚の小さな布片を渡された。書かれていたのは奇妙な西夏文字。たちまち興味をもった行徳は、はるかな異郷へ旅立つ決意をした。 行徳は城内で捕らえられ西夏の漢人部隊に配属され、回鶻(かいこつ=ウイグル)人との戦闘に参加する。そこで上役の朱王令と出会った。幾多の戦いを共にし、互いを認め合い、後に西夏軍の敦煌進撃に反乱を起こす二人である。そこには二人が心を通わせた回鶻王族の娘の存在があった。行徳は仏典に目を開かれ、仏教へと導かれる。 沙州と呼ばれた敦煌は西夏(せいか)によって壊滅していく。そこは仏教東漸の要のひとつとなる重要な場所であり、物語の圧巻は命を賭して莫大な経典類を守り抜く場面だろう。 敦煌という題名だけでシルクロードの砂漠や険しい山々、さまざまな異民族の姿などが浮かび、歴史のロマンをかきたてられる。この本の歴史地図や写真で想像がさらにふくらんだ。 そんなぜいたくな時間旅行。たった100円で買った古本のおかげである。 ひろ爺のえっせー 5月号 産経新聞「ビブリオエッセー」 【書名・著者】 「十六の話」司馬遼太郎(中公文庫) 【見出し】 華厳の一文に思い描いた西域 書棚から『十六の話』を引き出した。「洪庵のたいまつ」「二十一世紀に生きる君たちへ」など有名な文章が並ぶこの本の中で、私は「華厳をめぐる話」が思い出深い。 「タクラマカン沙漠の縁辺にたたずむと、その巨大な空虚に圧倒される」。1行目から読者を引きつける。読みながら何十年も前、NHK特集の『シルクロード』を胸躍らせて見た記憶がよみがえる。あのとき、見たこともない西域という言葉に想像が膨らんだ。 司馬さんはシルクロードのオアシス都市に立ち、仏教のたどった道を印象深く書いている。砂粒の中の宇宙からインド文明と中国文明の話になり、釈迦に思いを巡らす。さらに華厳経の成立へと話は展開し、その真理は「あらゆるところに遍く満ちみち、あまねく照らす」と書いた。姿も色もない毘盧遮那仏が応身としての大仏へ。華厳への深い思いを語り、華厳宗の大本山、東大寺の話に入ってゆく。 このあと司馬さんは産経新聞の同僚だった写真家、井上博道さんとの出会いにふれた。東大寺を心から愛し、撮り続けたこの人のことを。実は私がある銀行の奈良支店に勤めていた頃、ご縁があって井上さんを知り、この「華厳をめぐる話」の「東大寺と井上博道氏のこと」という章に毛筆のサインをいただいた。東大寺つながりでもう1冊。あの清水公照師の『ありのまんまでええやないの』にもご縁があって師の毛筆のサインが書いてある。ともに宝物だ。 2冊の本から、私的な連想だが、お水取りのことや自分のサラリーマン時代の悲喜こもごもがよみがえる。いつも東大寺がそばにあった。 司馬さんの生誕100年の記事を読みながらこんな昔話を思い出している。 ひろ爺のえっせー 4月号 産経新聞「ビブリオエッセー」 3回目 20230816 夕刊掲載 【書名・著者】 「深い河」遠藤周作(講談社文庫) 【見出し】 母なる大河とそれぞれの人生 インドの人口が今年半ばの推計値で世界一になったようだ。そんな報道を見て、『深い河』を思い出した。私たち日本人は亡き先祖を迎える時期だが、この小説の登場人物はそれぞれの思いを抱え、輪廻転生、生まれ変わりを信じる人たちの母なるガンジス河へ旅に出る。 磯辺は亡くなる直前の妻が残した言葉をかみしめていた。「必ず…生まれかわるから、この世界の何処かに」。だから自分を探してほしいと言いおいて妻は息絶えた。木口はビルマの戦線で生死の極限を共にした戦友の法要のため、また美津子は大学時代に関係を持った大津の行方と愛の意味を探しに。美津子には神学を学ぶ大津を誘惑した過去があった。そして沼田は自分の身代わりになったと信じる一羽の鳥への思いを秘めてインドツアーに参加した。 今年が生誕100年になる遠藤周作。機知に富んだエッセーやユーモア小説を書いた狐狸庵先生の顔とともに、キリスト教をテーマにした『沈黙』など数々の名作が思い浮かぶ。信仰や神、キリスト教についての長い思索の末、遠藤はインドにたどり着いた。 6年前、私は会社のOBと北インドを旅する機会があった。巡ったのは世界遺産など表の顔のインド。道端の生ごみを食む牛たちの姿に少し感ずるものはあったが私のイメージするカオスなインドに触れる機会はあまりなかった。小説の登場人物たちはヒンズー教の聖地ヴァーラーナスィで何を見つけたのか。 美津子は沐浴する人たちであふれるガンジス河の近くで変わり果てた大津に出会う。物語のクライマックスだ。読みながら思った。悠久の時を超えて流れる母なる大河は善も悪も、清も濁も、不条理をも流し続けていくのだろう。 ひろ爺のえっせー 3月号 産経新聞「ビブリオエッセー」 2回目 2022.8.19夕刊掲載 【書名・著者】 「西行花伝」辻邦夫(新潮文庫) 【見出し】 3度目の桜を心待ちに わが家から東へ7、8分も歩くと飛鳥川があり、同じくらい西へ歩くと曽我川が流れています。二つの川べりは桜並木でも知られ、毎年、蕾の頃から徐々に膨らみ、満開を迎え、散っていくのを見続けてきました。また東南へ、春の藤原京跡は菜の花の黄色と池の周りにある桜のピンクが見事なコントラストを見せます。 そんな桜の場面を思い浮かべながらこの小説を読み返しました。西行がまだ北面の武士、佐藤義清として院の警護にあたっていた頃。法勝寺で開かれた花の宴で「女院の艶やかな気品が、淡い薄紅の香りとなって、ほんのりと、そこに照り映える」場面。西行は花に重ねて一心に女院(待賢門院)だけを見つめていました。 『西行花伝』は章ごとに語りを変え、西行の内面まで動乱の時代の中に描きます。それは若くして出家した不世出の天才歌人を多彩な音色で織り上げた交響絵巻。待賢門院への思いを抱き続けたその生涯は私の心をとらえて離しません。かつて『背徳者ユリアヌス』を読んで圧倒され、辻文学を読み始めました。私は生まれ育ったのが東吉野ということもあり、辻さんが「構想三十年」と書いた『西行花伝』も忘れられない一冊です。 桜に寄せる西行の思いは多くの歌に残されています。「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」。やはりこの歌でしょうか。最後にその願いを遂げたといわれる生涯でした (あのときの「想い」をもう一度 ひろ爺のえっせー2月号 1回目 産経新聞「ビブリオエッセー」
守るべきもののために あの戦争の最末期、1945年8月9日にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦してきたことを知ったのは社会人になってからだった。当時、学校ではこんな近い歴史も教えてはくれなかった。ましてポツダム宣言受諾後に千島列島の北東端にある占守島でこんな戦いがあったことはかなり後まで知らなかった。この小説は国境の島をめぐる戦争と人間のドラマだ。 最後の夏、本土決戦を見据えた大規模な動員計画の中で召集された3人。45歳の翻訳書編集者と歴戦の軍曹、若い医師を主人公に物語は進む。行先は占守島。 ソ連軍が島へ攻め込んできたのは終戦から3日後の8月18日未明だった「終わってから仕掛けてきた戦争なのだ。日本はすでに敗戦国であり戦うことは許されなかったが・・・。 島へ送られたソ連兵の複雑な心境も描かれている。「スターリンは僕らに、しなくてもよい戦争をしろと命じた」と語らせる。そしてソ連軍将校は報告書で日本兵をたたえて「領土を侵されてはならぬというこの上なく正当な理由によって彼らは果敢に戦いました」と書いた。 思い出すのは母から聞いた話だ。終戦の時、母と生まれて間もない私はピョンヤンに近い炭鉱の町に取り残された。父は現地召集で終戦となって先に引き揚げていたが私たちは帰れず、現地に留まった。その後ようやく引き上げることになり、2歳の私の手を引いた母はソ連兵を恐れて髪を短く切ったそうだ。戦時のことは多くを語らなかった母だけに記憶に残った。 浅田ファンの私はこの小説を何度か読んだ。今回はウクライナ進行や安倍元首相が凶弾に倒れたことなどがきっかけだが、改めて北方領土返還への思いがこみ上げてくる。 |