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政治に言いたい放題、趣味に書きたい放題

娘の嫁ぐ日

ホームページ開設当初から27回にわたって連載したものをまとめてUPしました。

 (1) 生と死の間

「今夜がヤマです、呼ぶべき人がいたら今のうちに連絡しておいてください」・・・その日の夕刻、大学病院
の面会室で主治医から告げられ、私はただ呆然とするばかりでした。3日前から40度3分の熱がほとんど下
がらず、病室のベッドで朦朧として横たわり、幼い身で死と戦っている1歳3ヶ月のわが娘に対し「何とか助
かってほしい、生きていてほしい」と祈りながら見守る以外なすすべはなかった。

 峠を越えるとそこは隣県となる、奈良県の最東端四郷村(現東吉野村)。山と清流以外何もない山村で育っ
た私は、高校卒業と同時に近畿を地盤とする当時の相互銀行へ就職した。大阪市内の繁華街ミナミに近く、家
電製品の立ち並ぶ商店街にある支店に配属され、堺の独身寮からの通勤で私の社会人としての第一歩がはじま
った。

 校則が厳しく卒業の日まで髪を伸ばすことができなかった私は、坊主頭で入行し、貸付係に配属された。会
社勤めと都会の生活に漸く慣れたころ、ちょっぴりホームシックとなり、田舎への思いが募った時期があっ
た。とはいえ故郷の山村へ帰っても農業というほどの田畑もなく、山仕事以外する仕事がなかった。「教員の
免状さえとれば、郷里において(以前あこがれたこともあった)学校の教員に就くことができるかもしれな
い」などと考え、仕事が終ってから密かに天王寺にある予備校へ通った。会社勤めをしながら大学の2部に入
り、教職員の免状を取るつもりであった。

 経済の高度成長が始まって間もない昭和40年代のはじめ、大阪本店のその銀行が東京進出をはかることに
なり、人事部から呼ばれた。


(2) 出会い-東京

 人事課長から「当行としては初めて東京に支店を出すことになった。ついては開設準備委員として行っても
らいたい」といわれた。大阪の騒々しさから逃れ、田舎へ帰って教師になろうと2つの大学の2部に願書を出
しているところであったが、このときの人事課長の言葉で、私は「銀行で頑張ってみよう」と決心することと
なり、「行かせてください」と答えていた。そしてその後東京において妻と知り合うこととなる。

 彼女は東京支店開店3年目に、現地採用にて八重洲にあるその支店へ入行してきた。昭和43年4月1日、
朝礼で新入の挨拶をしたとき、私は「結婚するならこの娘だ」と決めたように記憶している。その後職場の上
司や同僚に知られないようにしながら、ウイークデーは雨の外苑・夜霧の日比谷で待ち合わせ、休日は山下公
園・鎌倉・江ノ島などでデートを楽しんだ。私23〜25歳、彼女18〜20歳、青春真っ只中。

 45年5月、彼女の卒業した学園がある東京麹町の結婚式場で挙式を済ませた私たちは、新婚3ヶ月を横浜
の社宅で過ごすこととなり、そのあとわずか3ヶ月で大阪へ転勤となった。突然の辞令で住む家のない私に、
人事から「名古屋支店長の家が空いているので、転勤で帰ってこられるまで入居させてもらったら」と言わ
れ、結婚4ヶ月目から羽曳野市にあるその一軒家で、大阪での新しい生活が始まった。私にとっての再度の大
阪勤務は、入行時の支店とさほど離れていない、ミナミのど真ん中、御堂筋に面する大型店となった。
    

(3) 新婚時代

 銀行の閉店は午後3時、前任の東京支店時代内勤の私は、シャッターがしまってからその日の勘定と現金を
合わすなど残務整理をして、(支店長が時間管理にうるさいこともあって)たいていは定刻の4時45分には
支店をあとにしていた。その後担当が渉外に替わってからも、銀行を後にするのは相変わらず早かった。

 ミナミの店に転勤してからは、仕事が遅くなることが多い上、立地上のこともあって飲む機会がやたら増
え、麻雀かどちらかで帰宅が深夜になることも多くなった。当初は夜遅く帰宅すると、食事を用意した妻がテ
ーブルにうつぶせになったまま、泣き寝入ってしまっていることもあった。初めての関西で、知る人とてなく
さびしかったに違いない。

 借上げ社宅となったその1戸建は、借りるときのただひとつの条件「毎週日曜日の庭の芝刈り」がちょっと
しんどいと思った以外、二人きりの生活には広すぎることがあっても満足であった。それでも「名古屋の支店
長が急に転勤で帰ってこられたとき」のことを考え、隣の藤井寺市にある公団住宅を申し込んでおいた。運良
く抽選にあたり、2DKへ移り住むことになった。当時その銀行は業界のトップをきって隔週の土曜日を休み
とする「隔週5日制」を採用していた。休みの番であったある土曜日、その公団からバスで10分のところに
ある大型住宅店の次長が、支店長を伴い我が家を訪ねてきた。その次長は私の入行時の直属の上司でもあっ
た。

 人口急増の町に立地するその支店は来店客の多さで有名で、「あの店は忙しすぎて昼食をとる時間もなく、
立ったままお握りで済ましている」と行内の評判となっていた。そのような繁忙店では、「ネコの手も借りた
い」状況であった。妻の場合、同じ銀行で勤務したことがあるだけに、即戦力と考えたのであろう二人の用件
はやはり「パートとして働いてほしい」ということであった。


 (4) 誕 生

 その頃人一倍子供好きの私は、「まだか、まだ中にいてへんか?」しばしば妻のおなかに向かってつぶやく
ほど子供のできる日を心待ちにしていた。そんな事もあって、「子供ができるまで」との約束で、妻はフルパ
ートとしてその支店で働くことになった。短い期間であったが唯一共働きをした期間であった。そんなある
日、「今度の休み、病院へついていってくれない?」という妻のおなかをよく気をつけてみると幾分大きくな
って見え、最近彼女の嗜好にも変化が現れている事に気がついていた。「待望の赤ちゃん」ができていること
を期待して待つ私に、診察室から出てくるなり「先生に想像妊娠だっていわれた」と答える彼女の決まり悪そ
うな顔を思い出す。

 私たちに待望の第一子が授かったのは、結婚3年目、昭和47年4月18日、産声を上げたところは首都圏
の越谷市、当時の妻の実家に程近い産婦人科病院であった。勤務する銀行に義母から電話があった「生まれた
わよ、とっても可愛い女の赤ちゃん、母子とも元気だから安心して」。「俺も親父になったンや」と思うものの
聞くだけではなかなか実感がわかず、すぐにでも飛んでいきたい心境であった。新幹線ができて近くなったと
はいえ、やはり埼玉県は遠く、義母には「次の日曜日に会いに行きます」と答えていた。産院でガラス越しに
見るその子は、生まれたばかりとは思えないほど整った顔立ちをしており、なんともいえない可愛い顔で私に
向かって微笑んだように見えた。  


 (5) 引越し

  娘が高熱を出したのは、初めて待望の建売住宅を手に入れ、引越しを済ませて3日目であった。大阪へ通勤
可能で、比較的実家に近く、交通の便のよい 橿原市に一戸建てを買うことができ、新居と同じ市内に父の姉
である伯母の家があった。 

 山村ゆえ実家から通学できる高校が2〜3校しかなかったので、3年間下宿をさせてもらった家でもあっ
た。久しぶりに伯母を訪ねて「次の日曜日、引越しして来ることになりましてん」と挨拶がてら言う私に「そ
の日いはあかん、引越しはほかの日にしい」と伯母、「なんであかんの?、日が悪いなんて何の根拠もないで
すやん、もう決めてしもてるし、それに平日はめったに会社休まれへん、日が悪いなんて迷信、迷信」と私。
「どうしてもその日いにせんならんのやったら、引越しの日いまでに嫁さんの鏡台だけでも新しい家に入れと
き」と伯母。

 伯母は祖母の血を引いてか宗教がかったところがあり、「北海道のF夫(伯母の弟、私の叔父)の家の裏に
杭が見える、あれを抜かんと F夫の病気治れへん」とか「先祖の因縁がどうの」とかよくいっていた。 伯
母の母、
 私にとっての父方の祖母は、山深いその村で、父ら9人の子供を生み育てたのち、老後は一人で住み、お稲
荷さんを奉って生計をたてていた。私が子供のころ、近所の人が熱を出したり、怪我をしてもまず祖母の奉る
神さんにお参りし、祖母に「おかじ」(おまじないのようなもの)をしてもらっているのをよく見たものであ
る。 

 生前母は私に、『あなたが小さいころ熱を出したとき、「神さんより先にお医者さんに連れて行った」と叱
られたことがある』と話していた。母はこの時代には珍しく大阪の女学校を出ており、この田舎における風習
などにはなかなか馴染めなかったようだ。また節分のときだったと思うが、お稲荷さんの信者が集まり、夜遅
く手分けして懐中電灯(提灯だったかも知れない)を手に山中に入り、今もって意味はわからないが「せんぎ
ょ、せんぎょ、おせんぎょ」と唱えながら、狐の穴へ油揚げや寿司を供えに行く行事もあった。
 
 このような環境で育った私でありながら「お神水(こうずい)さんいうて有難がっているけど神棚に長いこ
と置いてあるあんな水、傷口につけて大丈夫かいな」とか「呪文で病気や怪我が治るわけない」と思ってお
り、おまじないや迷信を信じにくい性質(たち)であった。

 
 (6) 大学病院
 
 伯母の「日が悪い」という言葉を信じたわけでもなかったが、2〜3日前に妻の鏡台だけは新築へ運んでお
いた。親子3人、一戸建に落ち着いて3日後のことであった。銀行で渉外活動から帰店直後、「アキちゃんの
様子がおかしいの」との妻の電話に、「早よ医者に連れて行っとき」と答える私。そういえば昨夜、私に似て
か西瓜が好きな彼女は結構よく食べていたように思う。「おなかをこわしたのかもしれない」ぐらいに思い、
あまり重大に考えず、その日の残務整理を続けていた。妻としても引越し前なら、ちょっとしたことでもかか
りつけの小児科へ連れて行くのを、転居したばかりなので行きつけの病院とて無く、「大したことはない」と
考えたのかもしれない。

 つぎの電話で「いま病院にいる、すぐ帰ってきて、救急車で病院へきたんだけど、すごい熱で引きつけが止
まらないの」いまにも泣かんばかりの妻の声に容易ならないものを感じ、急いで帰り支度にかかった。いつも
はあっという間の通勤の特急がこのときほど遅く感じたことはなかった。「着くまでに死んでしまうのではな
いか、死んでしもたらどうしょう」頭にちらつくのは悪い想像ばかり、「そんなことがあってたまるか」と心
の中で打ち消すものの、不安が募るばかりの車中であった。

 救急車で運ばれた病院は県下随一の大学付属病院で、私が病室へ入った時、彼女はまだ引きつけており、ベ
ッドの脇には20歳代と思えるインターンのような2人が、医学書らしきものを手に、なにやら話し合ってい
た。後で分かったことであるが、「引きつけ」の止め方がわからず、医学書をめくりながら相談していたよう
であった。
 「小児の痙攣を止めるくらいそれほど難しくはない」ことや「短時間でとめておれば脳の損傷は大したこと
にはならなかったと思える」ことを、のちに大変お世話になる同じ大学病院第二外科(脳外科)の助教授から
聞かされ、病院の処置に対し今更ながら怨む気持ちが膨らむばかりであった。

 
(7) 神との取引
 
  職場から病院へ直行した私の慌てかたに心配した上司・同僚が、病院へ着いたあと次々と駆けつけてくれた
が、お礼をいう余裕もなかった。やっと痙攣は止まったものの、その夜は熱が下がらず、医師から「髄膜炎の
可能性もありますので、脊髄から液をとって調べます」と言われ、看護婦から承諾書にサインさせられ、手術
室まで連れて行かれた。「お父さんが抱いてあげてください」と全裸にされた熱い身体を後ろ向きに抱き、医
師の指示に従う以外なすすべもなかった。麻酔をかけられているとはいえ、太い注射器を背中につきたてられ
た彼女に、「こんな幼い子になんとむごいことを」と思うばかりであった。

 医者から「今夜」といわれたその夜、私は生まれてはじめて本気で神に祈った。「ここまで危険な状態にな
ってしまった以上、神様もそう無条件では助けてくれないだろう」と勝手に思い、私はある決心をした、それ
は神と取引をする事であった。「生かしてさえくれたら、たとえどのような状態になっても神様に文句は言い
ません」と。祈りが通じたのか、取引に応じて下さったのか、その夜から快方にむかい、翌日にはあれほど高
かった熱もひき、私はあの世から娘を取り戻すことができた。
 
 幼い子は病状が急変するのも早いが、また回復するのも早いもので、1週間後には医師から「退院してもよ
ろしいですよ」と言われるほどになっていた。娘の身体はすっかり回復しているかに見えたが、私には2、3
日前からなんとなく彼女の様子がおかしいことが気になっていた。あれほどしっかりとした目で、私に微笑ん
だ彼女の目の焦点が合っていないこと、全然言葉が出てこないこと、そして何より手足に変な動き(不随意運
動)があることであった。「全快すれば自然に治るもの」と勝手に決めていたものの、今医師から「退院」の
言葉を聞き、なにか納得のいかないものを感じた。
 
 
 (8) 脳損傷  

 彼女は驚くほど言葉が出るのがはやかった。生後10ヶ月ごろにはもうしっかり話すことができた。言葉数
も日に日に増えていた。引越し前に住んでいた公団で彼女を抱いて2階の自宅への階段を昇るとき、いつも
「イッチ・ニー」と掛け声をかけてくれた。親バカかもしれないが、彼女はあまりも愛らしい娘であった。公
団へ引っ越す前、藤井寺にいたころ写真に凝っていた出入りの酒屋さんが、「アキちゃんの写真を撮らせてほ
しい」と何度も頼まれ、大きく引き伸ばしたヌード写真を持ってきてくれたことがあった。また親子3人で電
車に乗って出かけるときも、「なんとかわいいお子さんでしょう」と知らない人から声をかけられることも2
度や3度ではなかった。

 「先生、退院はありがたいのですが、娘の様子がちょっとおかしいように思いますが?」、不随意運動や言
葉が出てこない事などを説明すると、しばらく観察した後やっと異常に気がついたのか、その医師は「第2外
科(脳外科)で検査して見ることにしましょう」とわれわれに言った。翌日から病室を移り、そこは大病院、
例によって「検査、検査」の毎日が始まった。主治医となったのは、第2外科の助教授で、その先生からはい
ろいろ親身になって的確な指導助言をもらうことができた。脳の状態を調べるため、大人でも相当つらいとい
われる、造影剤を注射してのCT撮影は「できるなら替わってやりたい」と思ったのは母親もおなじだったで
あろう。

 検査の結果、助教授から「熱性痙攣による脳損傷」という病名のあと、「脳細胞は再生しない、現代の医学
では・・・・・」との説明があった。聞く私たちも事態がいまひとつ理解ができず、「大変なことになった」
と思うと同時に私の頭には「絶望」の二字も浮かんでは消えた。続いての先生の話は「高熱による痙攣のた
め、脳の毛細血管が詰まっている状態であり、脳の中で血管が膨らみ「水痘症」になる危険性もあり、いまは
その対策をする事しかなく、現代の医学では脳の中を手術して治療することまではできない」またしても「現
代の医学」という言葉を聞くことになり、「水痘症」という言葉に何か恐ろしいものを感じる私であった。

 
(9) 退 院  

  その後の治療で水痘症の恐れはなくなり、生命の危険性からは遠ざかったものの、「このあとどうしたらい
いものか」妻と二人途方にくれる日々であった。 検査で入院中、病院から銀行へ通勤する毎日となった。、
夜遅く病院へ帰り睡魔に襲われ眠ってしまったところ、狭いベッドから落ちた事もあった。妻と交代で眠り、
翌朝早く出勤する生活がずいぶん長く続いたように思う。

  そんなある日、いつもより早く病院へ直行すると、主治医が回診中であり、中学・高校の後輩でもある友人
のF君が来てくれていた。看護婦さんが彼に対し「アキちゃんお父さんよ」と言うのを聞いて、多少ショック
を感じた事を思い出す。 私が大阪の銀行へ通勤しており、平日の昼間めったに病室へ顔を見せることができ
ないので、近くに勤務先のあった彼が顔を出してくれ、なにかと助けてくれていたのを思い、いまさらながら
感謝の念を抱いたことであった。
 
 いつものように病院へ直行するための帰り支度をしていると、高校の同級生K子からの電話が鳴った。「今
晩あいてたらつきあってくれへん?結婚話がおきているので相談に乗ってほしい」との事。10年以上も前に
なるが高校生のころ、同じクラスに少し色は黒いが清楚な感じのK子がいた。その高校は4:1の割合で女子
が少なく、女生徒の制服はネクタイの代りに直径7〜8センチもありそうなブローチをしており、われわれが
見てもあまりカッコイイとは思えなかった。しかしなぜか彼女には似合っており、同級生の間では結構マドン
ナ的存在であった。私もあこがれた一人で、手紙で交際を申し込み、体よく断られたいきさつがあった。のち
の噂で同級生の彼がいることがわかった。卒業後はもちろん、在学中も二人きりで話をしたことはほとんどな
かった。

 彼女は卒業と同時に大阪の東部が地盤の地方銀行へ入った。その後都銀に吸収され、S銀行となったが、彼
女はまだ独身で市内の支店に勤務している事は風の便りに聞いていた。「何で今ごろ俺に?」と思うと同時
に、一瞬ながら高校のころの胸のときめきがよみがえった。「せっかくやけど、今娘が入院中でこれから病院
へ行かなあかんね、付き合いでけへんけど、よかったらこれから特急に乗るさかい途中まで一緒に帰ろ、電車
の中で話聞くわ」と冷静に答えていた。彼女の家は私と同じ沿線の少し先の駅であった。指定席で隣合わせに
座り、初めての二人きりの会話となったが、取りとめの無い話に終始した30分であったように記憶してい
る。
  当然結婚しただろうが、その後の彼女の消息は知らない。 
 
 
(10) 告訴せず  

  退院した後、娘の身体はすっかり元気になり、外見は全く普通で愛くるしい顔立ちは病気になる前そのまま
で、歩くことができるようにもなっていた。すっかり元気になったものの、親の言うことが全く理解できなく
なっており、言葉は失ったままであった。右利きだったが、左脳に損傷があるため、利き手が麻痺して自由に
使えず箸も持てない。大小便も親に教えることができなくなってしまっていた。

  食事は食べさせれば何とかなったが、一番困ったのは「排泄」と夜「寝ない」ことであった。小便にいかせ
る時間を少しでも間違えると水浸し。親が眼を離した少しの間に、部屋中は「うんこだらけ」となることもし
ばしばであった。それ以上につらかったのは夜寝ないことであった。大小便は親が眼を離さない限り何とかな
るが、夜、何度寝かせようとしても、起きては動き回ることをどうすることもできなかった。私たち二人もほ
とんど一睡もできないことがあり、夜になるのが怖く感じる日々であった。
 
 当時彼女の場合、他の障害の子より手のかかる点は、「多動性」ということであった。どうしてもじっとし
ていることができず、放っておけばどこへ行くか分からず、部屋へおいておけばそこらじゅうのものを手当た
り次第破壊してしまい、例え10分とて目を離すことができないことにあった。 
 
 途方にくれる日々のなかで、当時本屋にあった、「子に詫びる母の…」の本を買ってきて、間接的に妻を責
めたり、妻は私の親に対する愚痴を言ったり、仲のよかった夫婦間の信頼関係もこの時ばかりは少し危うくな
った時期でもあった。 そんなころ「絶望…一家心中」の言葉が頭に浮かんでは消え、「死に方」についていろ
いろ考えるようになった。何度か妻に「この事」の相談を持ちかけようと考えたが、いつも前向きで明るい彼女
にそれを言う事はできなかった。あるいは彼女もそれを考えており、明るく見せることで私にそれを言わせな
いように気をつけていたのかも知れない。
 
 救急車で運ばれた直後の病院の対応について、「追求すべきか」、「医療ミスとして告訴すべきか」真剣に
悩んだこともあった。「仮に何がしかの賠償をとれたとしても、娘にとっていいことなのか、そういう親だと
病院に警戒されて、今後の彼女の治療に支障をきたしたりしては何もならない」と思い、「この子にとって何
が一番いいのか」だけを考えることにした。一応元気になった彼女は、外面的には普通の女の子に見えるもの
の、あいかわらず言葉は失ったまま、以前の親子の対話は戻ってこなかった。

 
(11) 発 作  

   時が経つにつれ、少しづつではあるが夫婦の気持ちもおちつき、「気長にやるしかない」と思うようにな
ってきていた。ただ、すぐにでも何とかしてやりたかったことは、この頃さらに強くなってきた「発作」であ
った。立っていても急に目がつり上がり、身体を硬直させながらその場で回り出すことがたびたび起こるよう
になっていた。相変わらず「大、小便も親に教えることができず、夜1人で寝ることもできなかった。「多動性」
の特徴として、ひとときもおちついていることはなく、目の前にあるものは全てひっくり返し、破り、壊し、
そして少し目を離すと部屋中が排泄物で手のつけようがなくなることも続いていた。

 寝かせようと思いベッドへ連れて行っても、相変わらず静かにしていることができず、添い寝をして彼女の
両手を掴まえ、足は私の両足で固定させ、時には午前2時、3時まで寝入るのを待つしかなかった。 
 そんな時、東大を卒業されて、大阪で「幼児発達教室」を開いておられる「K先生」の存在を知り、妻と二
人その教室へ通わせることにした。会社が休みの日は私も同行し、一緒に授業を受けることになった。そこへ
は生まれつき何らかの障害を持って成長に問題のある子や、娘のように脳の損傷などで発育に支障をきたして
いる多くの子供が来ていた。

  その教室は遊びを取り入れたり、音楽を利用したりしながらそれぞれの状態に応じた訓練をほどこす事で、
成長を促すやり方で運営していた。娘はこのころから「音楽」には多少反応することがわかった。最大の悩み
であった「発作」についても相談にのってもらった。「薬が合っていないのかも知れない」とのことで、病院
を紹介してもらったりもした。それは京都にある小児の発作など発達専門の病院で、その後同市内で移転した
ものの、いまも定期的に「脳波」をとり、発作の症状に合った「薬」をもらいに行っている。
 
 彼女が2歳半ぐらいになったころ、妻のお腹に二人目が宿っていることがわかった。二人には嬉しさより先
に不安が頭をよぎった。「二人目の子供にも何かあったらどうしよう」ということと、育児への心配であっ
た。あるとき、私の実父と妻の両親が顔を合わせた時、「子供は多いほうがええ」と何気なく言った父に対
し、「簡単におっしゃるけどその子供の面倒はだれがみるんですか?」と妻の母が少し色をなして言い返した
ことがあった。確かに当時の状況では妻の負担はあまりにも大きく、10分と手の離せない娘の世話と、生ま
れてくる子供の育児との両立は大変な難題であった。「もし眼を放した隙に彼女が赤ちゃんに接近したらとど
うなるか」などと余計な心配までした。

  娘をいつもの教室へ連れていったある日、下の子ができたことをK先生に相談した。「何も心配することは
ありません、生みなさい」この一言で私たち夫婦は大変勇気付けられ、安心して第2子の誕生を待つことがで
きた。

 
(12) おとうと
   
  長男も妻の実家に近い、埼玉県の病院で産声をあげた。その後彼が生後10ヶ月で保育園に入るまで、我が
家でどんな混乱があったかなぜかあまり記憶がない。何かといっては遠い草加市(妻の実家は同じ埼玉県の越
谷市から草加市へ引っ越していた)から駆けつけて世話をしてくれた、妻方の「子どもたちのおばあちゃん」
はじめ、いろいろな人の手を借りたことは間違いない。幸い家内には姉妹以上の友達がいてくれた。いろいろ
な人の応援がなかったらどうなっていたかわからない。姉に手がかかることを察するわけもないのに、息子は
小さい時から全くといっていいくらい手のかからない子であり、親に心配をかけることの少ない子であった。

 それでも母親には結構心配したこともあったかもしれないが、私で記憶にあるのは、一歳位のころだった
か、妻が何かの用事で出かけているとき、抱いたままコタツに入った瞬間、急に激しく泣き出したことがあっ
た。理由がわからないまま休日の救急へ急いだところ,当直の先生から「腕の脱臼です、ハイもう大丈夫、こ
れからは癖にならないように気をつけてください」といわれ、治療代も要らなかったことがあった。もう一度
は3〜4歳ぐらいのころ、ある学校の校庭で私と遊んでいるとき、急に車が入ってきて轢かれそうになった事
があった。このときばかりは肝を冷やし、われを忘れ車の運転手に怒鳴っていた。

 息子のことで心配したりびっくりしたことは、このことぐらいしか記憶に無い。この頃妻は車に乗ることが
できなかったため、子供の送り迎えなどはもっぱら自転車で、普通なら前に小さいほうの息子、後ろに娘を乗
せて走るべきところ、反対に乗せて走っていたのを思い出す。彼は1年に満たない小さいときから、母親の自
転車で、けなげにも楽しそうに保育園に通う毎日であった。  

 
 (13) 幼稚園  

  3歳ぐらいのころだったか、 「音楽には少し反応するものの、アキちゃんが親の言うことも理解できない
のは、ひょっとしたら耳に異常があるからかも知れない」と考え、聾学校で診てもらうことを思いついた。そ
の頃家に自動車が無かったため、暑いときであったが妻と二人で彼女を連れ、駅から歩いて奈良にあるその学
校への道を急いだ。そこは想像したより遠く、疲れて寝てしまった娘を抱いている腕が、どうにも辛く道端に
座り込んでしまった。それでも「耳の障害」に期待?し、やっとの思いでたどり着いた。彼女の耳のそばでい
ろんな音を発するなど、聴覚の検査をした結果、「耳は正常」との診断がくだった。普通なら喜ぶはずのその
診断は、私達にとっては辛い結論となった。

  妻としてはいつも付きっきりで、ほんのひと時も手を離すことができない。少しの時間でも預かってくれる
ところがないものか、いろいろ探して歩いた。奈良市のはずれにある施設も行ってみた。そんな時、私たちの
住む市に設立されて間もない、「樫の木園」という障害者訓練施設があることを知り、入園を申し込むことに
した。幼稚園にも通うことができない娘にとって、週1日であったが行くところができ、ありがたく感じた。
その園で妻が知り合った父兄から「公立の幼稚園でも受け入れてくれる」ところがあることを聞き、近くの小
学校と併設されている幼稚園へ相談に行ったところ、「年長組」に入園することができた。娘が「普通の子」た
ちと一緒に過ごす事のできた唯一の1年間であった。

  その幼稚園で、障害者教育を熱心にやっておられた園長さんから、神戸大学に「脳損傷の権威」がおられる」
ことを聞き、紹介状を手に神戸にあるその大学付属病院へと車を走らせた。診察の結果「同じ脳損傷でも私の
専門は微損傷で、せめて3歳ぐらいになってから起こったことであればなんとかなったかもしれない。そのこ
ろになると、脳細胞もある程度固まっており、微損傷で済んでいた可能性がある。貴方の娘さんの場合、まだ
脳の組織ができあがっていない1歳台に起こった損傷で、ダメージが大きく治療は難しい。往きは一縷の期待
で走った阪神高速も、帰りの車内には妻との会話もなく、沈みきった空気が流れていた。 

 
 (14) 信仰心  

 「藁にもすがりたい」心境であったその頃、同じ支店でともに融資渉外をしていた先輩が、私が娘のことで
悩んでいることを知り、いろいろ相談に乗ってくれた。彼はその前年、20才台の若い妻を癌で亡くしてお
り、小さな一人娘が残されており、亡き奥さんの実家に引き取られていた。よく一緒に飲みに行ったが、ある
とき「今、丸山ワクチンという癌の特効薬として注目を浴びている薬があるけど、それと同じように、末期ガ
ンはじめあらゆる難病に効くという「『奇跡の水』を処方する病院が県内にある」事を教えてくれた。私たち
三人は早速その薬を求め病院へと向かった。

  待合室では録音テープが回っており、この薬(薬事法では認められていないが)によって「治る見込みのな
い病気が治った」こと、医者が見離した「難病が奇跡的に治癒した」ことなど数々の例が語られていた。診察
のあと、そのままある宗教の「別席」というところへ連れて行かれ、「子供の病気を治したければ親の信心が
肝心」と入信を勧められた。突然のことでもあり「入信については少し考える時間が欲しい」とその日は薬だ
け貰って帰宅してしまった。
「彼女のためだったらなんでもする」と思っているつもりが、「なぜあの時帰ってしまったのか、私達の信仰
心の無さが彼女の回復を妨げているのかもしれない」と自分を責めたこともあった。

  「本気で信ずるもの、信仰するものがある人は幸せだろうな」、と思ったことはあるが、信仰心と娘の病気
を関連づけて考えたことは、今までなかった。その後もどこで聞きつけたのか、新興宗教への入信の勧めが相
次いだ。ある夜、以前近所に住んでおり、我が家より少し田舎へ引っ越して行った夫婦が訪ねてきた。これま
でも選挙の度何度か訪問があったが、今日はその宗教団体の「ビデオ」を放映させて欲しいとのことであっ
た。よくできたビデオで感動さえ覚えたが、見終わった後、このご夫婦から何故かいつもの「入信の勧め」は
なかった。その後も仏教を中心にいろいろ本を読んでみたりもするが、特定の宗教団体に入信することは今も
って無い。

 娘は就学年齢に達したものの、普通の学校は無理と判断し,「養護学校」へ入学させることになった。毎日飲
ませる「発作のための薬」のせいだろうか、彼女は少しも太ることができず、ひ弱なもやしっ子として育って
いた。

 (15) 親父とおふくろ 

  私の実家の父はその後94歳まで長生きしたが、この頃通院している病院で「肺繊維症」を宣告され、ある
日医者から私だけが呼ばれ、「先行きそれほど生きられない」事を宣告された。母もまた脚の骨の手術を行
い、その経過があまりよくなく,夫の病気、孫への心配が重なり,不眠症で苦しんでいた。

 ある時など実家から「すぐ来て欲しい」との電話に、「何事か」と駆けつけてみると,母が布団の中で苦し
んでいるので近づくとかなり酒くさい匂いがし、枕もとにはオールドのビンが空になって転がっていた。聞い
てみると「昨日もおとといも一睡もできなくて」今夜こそ寝ようと少しづつ飲んでいたら、大変なアルコール
性中毒症になっていたということであった。私は「寝られへん、寝られへんて言うてるけど、心配せんでも知
らん間に必ず寝てる。寝よう、寝ようと思うさかい余計寝られんようになってしまうんや」と話した。

  私の記憶にある限りでは、あまり身体の強くない母であったが、あの敗戦のとき、2歳の(途中栄養失調で
歩けなくなった)私を背中に、引き揚げて帰ってきたときのことを聞くにつけ、この母のどこにそのような強
さがあったのか不思議に思う。
 母は、山深い吉野の山奥、9人兄弟の6番目に生まれた父のもとに嫁いだ。「5男故に耕す畑とてない」父
とともにふるさとを離れ朝鮮へ渡り、平城(ピョンヤン)に近い炭鉱の町に平穏な暮らしを築き、そこに私が
生まれたと聞く。

  当時「大勢の現地従業員を使い、慕われていた父のもとには来客の絶え間がなかった」と、年取って先ほど
のことも忘れてしまう父の口から昨日のことのように話すのをよく聞いた。敗戦の色濃くなったころ、父は現
地召集を受け、終戦と同時に母と私より 先に故国の土を踏んだのであった。
 異国となってしまった地に残された母は、小さい私とどのようにして「引き揚げ」の日を待ったのか、私に
は記憶のかけらさえない。

 母から聞いたことがあったはずなのに、今の私にはその様子を想像することさえできない。おそらくのちに
読んで感動を覚えた山崎豊子の小説「大地の子」(あれは中国が舞台であったが)それに似た状況にあったの
だろう。

 除隊となって帰郷した父は、当時現地の様子を知るすべもなく、占い師に生死を聞きに行ったことも何度に
及んだことか、「生きてはいないでしょう」という占いがでたりもした。それでも父は引き揚げ船のつく港に
向かったという、「岸壁の父」であった。

 その頃北朝鮮では、私を背負い「ぼた拾い」でわずかな金をかせいだり、売り食いで糊口をしのいでいたと
いう。
 やっと「引き揚げ」の日が来た。僅かに残った財産の中から最少限必要なものを身体に縛り付け、ソ連兵の
強姦を恐れ、断髪姿となった母は、2歳の私の手を引いて引き揚げ団に加わった。

 平城から京城(ソウル)までの徒歩による行進の途中、「夜河を渡っているとき悲痛な女性の泣き声を耳に
した」ことを母のくちから聞いたころがある。それは「手を引いていたわが子を暗闇の水に流してしまった母
親の悲鳴であった」と。38度線という言葉は母の口からよく聞いたものであるが、ここまでたどり着くまで
の苦労は計り知れない。

 やっとのことで本土にたどり着いたとき私は3歳となっていたが、栄養失調で骨と皮、腹だけ異常に膨れて
おり、歩くことさえおぼつかなかった。
 今でも田舎の近所の5〜6歳くらい上の人から、「あのときのひろ坊(60歳近くなったいまでもそう呼ば
れる)には気持ち悪うてよう近づかんかった、それでも口だけは達者やった、なんや訳のわからん朝鮮語も話
しとったわ」と言われる。

 そんな母の突然の死は、亜希子が養護学校小学1年の秋、祭りの前日だった。晩年母は障害の子を抱えた私
たちの行く末を案じ、「私が死ぬときには亜季ちゃんも連れて行ってあげたい」などということもあった。
「こんな子でも私たちにはかけがえのない娘や、おかちゃんにそんなこと言われたくない」とよほど言おうと
したが母の気持ちを察して言葉を飲み込んだ ものであった。

  (16) 養護学校   

  彼女が通うことになった養護学校は、我が家から山間部へ車で40分ぐらい走ったところにあり、そこへは
スクールバスで通学することができた。これまでほとんど付きっ切りであった母親であるが、朝、バスの着く
駅まで送っていけば、夕刻の迎えまで多少時間の余裕も出来、自動車教習所へ通う事になった。意外に早く免
許も取れ、駅までの送迎は軽自動車で行くことができるようになり、雨の日も苦痛ではなくなっていた。
 その養護学校は小、中、高等部まであり、わが娘のように完全な介護が必要な子もあれば、言葉も話せ、一
人で通学できる生徒まで障害の程度にも大きな幅があった。

  重度の子であっても毎日の指導・訓練により、徐々にではあるがいろいろなことが身についてくるものであ
る。右手に麻痺が残っているため、利き手となっている左手にフォークを持たせばどうにか自分で食べ物を口
に運ぶことができるようになり、排泄のほうも時間通りにさえ連れて行けば、漏らしたりする事もなくなって
いた。
 遅々とした成長であったが、なんとかここまでこぎつけることができたのは、母親の努力もさることなが
ら、今までお世話になった発達教室の先生、通所施設の指導員、養護学校の先生方、関係方々の指導・援助な
くしては考えることができない。

  高度成長からバブル経済に突入する頃、勤務の都合上何事も母親任せにしてきた私であり、妻から「母子家
庭」と言われたりもしたが、小学部のころ、養護学校の父親参観日に出席したことがあった。
 参観のあとの先生との懇談の席上ある男の子の父親が、学校や先生方へありったけの不満をぶつけ、子供へ
の対応の悪さを散々にいっているのを聞いた。それは懇談というより、攻撃であった。手のかかる子供を、預
かってくれるだけでも大変あり難く思っている私にとっては、「献身的に面倒を見てくれる先生方に何と言う
ことを」と思い、逆にその父親に対する怒りが込み上げたことであった。

  何の因縁か娘が教室でその人の息子に机から突き落とされ、顔面を地面に打ちつけ、口じゅう血だらけとな
り、上下ほとんどの歯がぐらぐらになって帰ってきたことがあった。普通の子なら言って聞かせ、じっとして
いることにより、治癒する可能性もあるが、理解できない彼女の場合、手や舌で触ることにより引っ付く事は
難しいだろうと思った。全部の「歯」がなくなった場合、どうしたらいいのか、上下総入れ歯など可能なもの
かと大変な不安を感じ、絶望的となった。ぐらつく歯を本能的にかばうことが出来たのか、痛くて触らなかっ
たのか、ありがたいことに奇跡的に治癒し丈夫な歯になったことは、今もってありがたいと思うとともに不思
議でならない。       
                        
 
(17) 彼女の一番落ち着く場所  

  当時の娘の部屋は非常にシンプルだった。壊すことが出来ないものや、壊してもいいものなど必要最小限の
ものだけしか置いてなかった。あるときテレビをもってきたものの、「壊し屋」の本領発揮となり、置くこと
を断念した時期があった。それでも親がいるときはできるだけ一緒にいてやるためにも、テレビを置く必要が
あったし、テレビを視聴することで「何か成長のために役に立てば」という思いもあった。目立たないように
工夫はするものの、少し目を離せば、気がつけばつまみが取れていたり、ときには本体を倒してしまっている
こともあった。不思議なもので、こんなとき下敷きになったり、怪我をしたりしたことは一度も無い。

 いろいろ悩んだ末、ダイヤルなどはすべて隠し、木枠の中へテレビを入れ針金などで固定し、倒れないよう
工夫した、それでも何度か倒されもしたが、そのうち気にならなくなったのか触ることもほとんど無くなって
いった。

 普通、部屋の鍵は内側からかけるのものであるが、我が家では娘の部屋と寝室には外側に鍵がついている。
勝手に出て行ってしまわないようにする為である。「もし私たちが知らないうちに家から出てしまったらどう
なるか」を妻と二人で想像したことがある。「道路にでて車に轢かれて死んでしまうかもしれない」とか「何
処へいったかわからなくなって探しようも無い」考えるだけでもぞっとした。一度だけ「アキちゃんがいな
い」と動転したことを妻から聞いたことがある。このときは数軒離れた家に上がりこんでいたことで、大事に
は至らなかった。

 最近では長年住み慣れた自分の部屋は彼女にとって一番落ち着く場所なのであろう、何時の間にかここで本
さえ持たせておけば、母親も安心して家のことなどできるようになった。夏にはソファーで、冬にはコタツ
で。

 
18 義父の死、500キロを越えて妻に会いにきた

 娘が養護学校中等部に通っていた頃のある夜、草加の実家の義母から電話があった。妻が出、いつものハッ
ピーコールだと思って横で聞いていたが、普段と様子が違っていた。ただならぬものを感じた私は電話の内容
を詳しく聞いてみると。「お父さんが交通事故で入院した」ということであった。直ぐにでも妻を駆けつけさ
せようと思ったが、新幹線も間に合わない時間であり、その日はどうしようもなく、アキを連れて行くのは無
理なため、翌日朝一番、妻と小学生の長男二人で行かせる事にし、私とアキが留守番をする事になった。

 まだ暗いうち二人を送り出したあとベッドに戻り、うとうとと眠りに落ちてしまった。暫くして目がさめた
時、階下の玄関でドンドンとドアを叩く音がした。「今ごろ誰やろ」と思いながら起きあがろうとするが、意
識はあるものの身体が言うことを利かない。

「玄関に誰かが、行かなくては」と思うが、返事をしようにも声が出ない、金縛りにあったように何か強い力
でベッドに縛りつられたような感じとなり、そのまままた少し寝入ってしまった。
 どれほど時間が経ったのか、階下からのベルの音で再び目を覚ました私は、急いで階段を駆け下り電話をと
った。「先ほどお父さんが息を引き取った、M子はまだなの?」と義母の声、「朝一番の電車に乗ったはずで
すが、まだ新幹線の中だと思います…・・」。

 妻の父は、先ほど玄関で扉がたたかれた時と、ちょうど同じころに亡くなったのであったが、「そのとき義
父は愛する一人娘の妻に会いに来た」と強く思うようになったのは、のちに「氏の人生を不意打ちにした」と
帯に書かれた石原慎太郎の著書「わが人生の時の時」のなかの「父の死んだ日」の項を読んだ時であった。石
原氏も「父が死んだ日、その父が関西にいる結婚の媒酌をした老婦人宅を訪れた」事を書いている。

 妻の父は酒はまったくといっていいほど飲めず、ギャンブルにもまるで縁のない人で、決まった時間に「職
場と自宅を往復する」だけで満足の人であった。会社の休みの日には、近くの川へ弁当を持って出かけ、釣り
糸を垂れるのが唯一の趣味であった。

 義父は小遣いを貯めては年に2〜3回、義母と二人私達の家に来て、孫とともに近くの名所や観光地を訪ね
る事を最大の楽しみとしていた。
 奈良に行けば東大寺大仏・春日大社を拝観し、奈良公園で鹿にえさをやったり、京都では清水寺を見て嵐山
を歩き、斑鳩の里では法隆寺をたずね、十津川谷瀬のつり橋を孫と一緒に渡ったり、我が家から1時間以内で
いける長谷寺・室生寺、赤目・香落谷渓谷へも足を運んだ。 
  
 

19 妻の実家からの帰り、台風に遭遇  

  私たち親子も夏休みには妻の実家へ向かう為東名を走ったり、中央道を飛ばしたりするのが楽しみであっ
た。埼玉へ向かうとき自宅を出るのはたいてい朝の3時とか4時の暗いうちにしていた。西名阪から東名阪を
少し走り、桑名で降り、名四国道・1号線を岡崎くらいまで行き、東名に入るのが習慣となっていた。早く行
くことが出来て高速料金を少しでも節約する為の工夫であった。

 妻の実家では娘用に部屋に可能な限りものをおかないようにし、待っていてくれた。それでも我が家のよう
に鍵を掛けることが出来ないし、すべてを取り払うわけにはいかないため、娘を捕まえておくのは大変で、二
人にとっては大変疲れる帰省ではあった。

 その夏も私の夏期休暇で妻の実家にきていたが、帰ると決めていた日、関東に台風が接近しており、朝から
テレビの台風情報を見ていたが、微妙なところであった。休みも明日1日しか残ってなくて、会社へ出勤する
前の日ぐらいは家でゆっくりしたかった。両親も連れて帰るつもりであったが、義母には何か用事があり、義
父と5人で帰ることになった。義母は「なにもこんなとき帰らなくても台風が去ってからにしたら」と何度も
言ったが「大丈夫、東名も通行止めにはなっていないし」ということで少し雨風はあったが、夕刻には家に着
くつもりで昼前家を後にした。

 首都高速から東名に入ってしばらくいくうち、道路標識に「東名閉鎖」の報が出たため、どこかのインター
で高速道路を降りねばならなくなった。やむを得ず御殿場あたりだったと思うが、国道1号線に出た。カーラ
ジオの台風情報を聞きながら、しばらく進むうち1号線も通行止めとなり、わき道に入った。義父は「旅館代
ぐらい心配しなくても良いからどこかに泊まろう」といってくれたが、都合よく適当なホテルが無いし、娘の
ことを考えると何とか今日中に帰っておきたかった。そのうち大きな川の近くの道路に出たが、坂道で止まっ
たまま渋滞で一向に進まない、川は氾濫しそうな勢いでますます増水して道路に迫ってくるように見え、生き
た心地はしなかった。

 何とか四日市までたどり着き、東名阪は通行出来ることがわかったときは、命拾いをした思いであった。名
阪に入っても、深夜の自動車道は前にも後ろにも出会う車も無かったが、大雨で窓はバケツの水をぶっかけら
れたようになり、前が全然見えないまま走ると恐怖感が増し、途中一時停止したりもしながら、家に着いたと
きは夜が明けかかっていた。

 その間娘も小さかった長男もよく辛抱したものだったが、国道1号線から四日市に行く途中、娘が便意を催
し小雨になっていた国道沿いでさせたのを思い出す。あのときの国道沿いの家の方、ご迷惑をおかけしまし
た。   

 
20 義父母のふるさと  

  義父が亡くなる2年ほど前だったか、私を「自分たちの故郷に連れて行きたい」と言い出し、その頃乗って
いた1400CCをクレスタに乗り換える資金を手伝ってくれた。妻の両親はともに栃木県那須郡の出身であ
った。
 早朝3時、一家4人で自宅を出発、毎年のようにサニーで妻の実家へ向かう東名をその日はクレスタで走る
と、スピード感も爽快で運転も楽々であった。

 遠出をするときの悩みはなんといっても娘のトイレ、自分で教えることができないため時間を決めて母親が
連れて行くことになっていたが、渋滞などで時間が過ぎてもトイレが見つからないときなどあせることが多か
った。
 埼玉草加市で両親を拾い、日光街道(国道4号線)で一路那須地方を目ざした。栃木県に入り、宇都宮市を
過ぎ、まずは日光へ寄る事にした。ここは中学の修学旅行以来であったが、途中いろは坂を登り東照宮にお参
りし、華厳の滝を見て中禅寺湖畔で昼食を取り、また車中の人となり、両親それぞれの故里に向かった。

  田舎といえば、つい私のふるさとのように山々に囲まれたところを想像してしまうが、行けども行けども平
野なのには驚いた。それでも義父の実家は、低いが山らしいものもあり里山のようなところにある先祖の墓参
りなどもした。一方、同じ那須地方でも義母の生家は見渡す限り平野が続くところにある大きな農家であっ
た。ここでは手作りの豆腐や取れたての野菜のてんぷらなどをご馳走になった。これらはこのような田舎でし
か味わうことの出来ない素朴な味がした。

 そして義父が亡くなる前の年、いつものように両親二人して我が家へ遊びに来た。「今回はどこへ連れて行
こうか、この辺の主だったところは大体行ったし、高野山なんてのはどう?」。年の割にシャイなところがあ
る義父は、どこへ連れて行っても「良かった」とか、美味しいものを食べさせても素直に「美味い」とか言う
ことはなかった。ところがこの時の「高野山」だけは何故か気に入り、「いいところへつれていってもらっ
た」といって喜んでくれた。
  
 
21 弟の付き合いで  

  娘連れで旅行することや帰省することは親にとって苦痛であった。この頃は細くてひ弱だったので、抱い
てもそれほど重くなかったが、やはり道中のトイレが悩みであった。最近でこそどこへ出かけても清掃が行き
届いていることが当たり前となっているが、当時の公共トイレなどは汚いところが多かった。母親が後ろから
抱えたまま用を足させるには、汚れたトイレはどうにも辛いものらしかった。

 また宿泊の際、ホテルの部屋においても膝の上に載せておくか、捕まえておかなければ部屋の中がむちゃく
ちゃになるし、鍵がかかっていなければどこへ行ってしまうかわからないのが悩みであった。食事も部屋食な
らともかくレストランなどで他の客と一緒だとこれも大変であった。

 それでも弟の「夏休みの日記」のために、家族旅行には出来る限り行くようにしていた。そんな時「小豆
島」に一泊旅行に出かけたことがあった。寒霞渓をロープウエーで降りるとき、アキは高所恐怖からかケーブ
ルカーの中でおもらしをしてしまった。このとき買ったオリーブの木は引っ越すときそのままおいてきてしま
ったが、前の家で大きく育っていた。

  ちょっと目を放した隙にどこへいってしまうか知れない娘がいる我が家では、アウトドアでのレジャー経験
がほとんどなかった。海水浴などへ連れて行くことも少なかったので、息子にはかわいそうに思い、私の実家
へ帰省するとき吉野川の上流の人がいないところで格好の場所を見つけ水浴びをさせたことがあった。なれな
い息子は最初水を怖がっていたがそのうち慣れ、嬉々として水で遊び、彼女も楽しそうであった。
 

22 初めて父母から離れた夜  

 義父の交通事故の知らせで、妻が息子を連れ朝早く実家へ出かけたが、私も葬儀に参列するためには、娘を
施設に預けて行かなくてはならない。昨夜妻がこのようなことも想定し、用意した彼女の身の回り品を持って
普段通う養護学校の近くにある障害児緊急あづかりの施設へと急いだ。学校の「お泊り保育」以外、われわれ
夫婦二人の手元から離したことがなく、足ではさんでないと寝ない娘を、たとえ一晩でも預けるのは大きな不
安であった。秋とはいえ寒さの早い吉野のその施設へ彼女を預け、「大丈夫やろか?ちゃんと寝るやろか」と
思いながら帰り道を急いだ。

 葬式も済んで草加から戻った3人は取るものもとりあえず娘を迎えに行った。家族が顔を合わしたとき、ア
キはどうしても母親の顔を見ようとせず、無視するように目をそらしてしまい、いつものように妻の目を正視
するようになるまで3〜4日はかかった。「捨てられたとでも思ったのだろうか」誰にともなくつぶやき、
「大丈夫よ、お父さんとお母さんが元気な限り、どこへも預けたりはしないから」と言い聞かせる妻であっ
た。

 この頃義父の法事などで母親が1泊で出かけたときなど、私が一緒にいても母親が帰ってきてはじめて顔を
合わす時は、同様にまともに母親の顔を見ようとしなかった。
 最近では同じような子供を持つ母親達が「ガス抜き」のため、冬には蟹など食べに、また季節のいい時には
旬の物など味わいに行くことが多くなり、一晩母親の手を離れることがあっても、私と一緒であれば「目をそ
らし」たりはしなくなった。
        
 
 23 養護学校 高等部
  
  娘は普通の子供達に比べればあまりにも遅い進歩かも知れないが、養護学校中等部を経て高等部へ進学する
頃には彼女なりに成長していた。
一人で寝ることができるようになったし、いくらか自分の意思も出てきた。何よりも助かるのは、誰かが掴ま
えていなくても少しくらいならじっとしていられる様になったことと、自分の部屋であれば「本」さえ持たせ
ておけば1時間や2時間ぐらい一人でいることもできるようになった。彼女が熱心に読む?本は主に「赤ちゃ
ん」の本。

 妻は「お父さんに似て本の好きな子だ」というが、一心不乱に見ているものの、本が逆さまになっているこ
とも多い。かといってどんな本でもいいというのでもなく、古くなった本は見なくなってしまうので、常に新
しい彼女の「好きな本」を用意しなければならない。
出かけるときも本が必需品、出かけた先でじっとしてほしいときに見せるためである。これにより家以外でも
少しはじっとしていることができる。

 またあれほどひ弱にみえた身体もこの頃から太り始め、最近では「既製品が合わないから着るものが高くつ
く」と妻はというが、私の見る限り彼女のものは華奢なときから、安物を着せているのは見たことも無く、衣
装もちである。

 「わからへんのにそんな高いものでなくても」という私に、「わからないからこそいいものを着せてやりた
い、アキちゃんの年金は全て彼女のために使ってやりたい」と妻。
 また「わからないから」ということでは、我が家では蟹に目がない長男のリクエストで冬には鍋といえば
「蟹ちり」をすることが多かった。中身をとって食べさせるのは主に妻の役目であるが、あるとき冗談半分に
「アキちゃんはわからへんから、「蟹かまぼこ」でも買っておいたらボリュームがあっていいのと違う?」と
いう私に「なんてこと言うの」と怒りつつ彼女のために蟹の中身を食器に貯める妻。「アキちゃんと一緒の鍋
物は食べた気がしない」とぼやく。

 わからないだろうと思う反面、意外とよくわかっていることも多く、そのひとつが「味」、旨いものがよく
わかっている。まずいものは食べようとしない。我が家では彼女のことを「グルメ」ともいう。

 一方弟は相変わらず親に心配をかけることはほとんどなく成長していった。小学校高学年になる頃、よく食
べるようになったためか少し太り始めた彼は、「このままではデブになってしまう」と自分で食事制限をして
ジョギングなどしたこともあった。そのためか太りすぎることもなく育つことができた。また近所の遊び中心
の塾へ通い、少年野球にも入っていたが、ようやくレギュラーになれたころ、「僕は身体もそんなに大きくな
いし、野球で一流になれるとも思えないからちゃんとした塾へ通っていい学校へ入る」といって自分で少年野
球を退部してきた。家から近い県立名門 「畝傍高校」をめざし、塾は隣市にある進学塾に通うことになっ
た。
     
 
24 福祉作業所

  休日、風呂好きの彼女を入浴させるのは私の役目。「若い娘と一緒に風呂へはいれるパパは幸せね」などと
と妻は言うが、できれば私としては「一緒に入ってくれない娘」のほうがいい。
  ほかの父はめったにできない大人になった娘との入浴も、銀行を辞めて2度目の会社家電量販のときは土日
が休みでないためほとんどなかった。彼女は風呂では湯船に入らないときがすまない、真夏など「シャワーだ
け」でと思っても空の浴槽に入ってしまう為、彼女のために沸かすことになるのが常であった。

  養護学校の高等部を卒業し、「作業所」に通うことになった。同じ市内ということもあって、ここでは親同
士いい人たちとめぐり合うことができ、妻にとっての「一生の友達」ができたのは有難いことであった。
  また作業所ではまず娘には無理と思っていたようなことができるようになった。「割箸入れ」の作業をやる
ことになったが、初めは箸を持たせても、全部割ってしまったらしいが、彼女の場合当然のことであった。そ
れでも作業所のほうではあきらめず、「割れないようにした割り箸?」を持たせ練習させたりしながら、どう
にかその作業ができるようになった。作業所では月3000円の給料も貰って帰るようになった。

  いいことばかり多かった作業所通いの中でも、2つの悪い「癖」がでてきた。一つは他の子の真似をするこ
とによって覚えたのか「自傷行為」をする事で、気に入らないことがあると、自分の手や腕を噛む。真っ赤な
歯型がついたり、場合によっては腫れ上がったりする事がある。いまではいつも噛むところは歯形などの痕が
消えない。

  またもうひとつ悩みとなっているのが、これも障害児独特の「思いこみ」である。例えば風邪を引いて「咳
をする」と風邪が治ってもずっと咳き続け、ひどい時には3日3晩ほとんど一睡もせず咳き続けることがあ
る。こんなときには家族もほとんど寝ることができず、悶々とした2〜3夜を過ごさなければならない。
 

25 おばあちゃんの墓参り

 社会人2年生となっていた大手証券会社に勤める息子に声をかけ、親子4人久しぶりに車で「埼玉のおばあ
ちゃん」のお墓参りに行くこととなった。

 前年医者から癌の宣告を受け、「人生の残りを娘の元で」との希望で同居をはじめたものの、われわれ家族
と暮らせたのもつかの間、直ぐ病院の人となり、あまりにも短い闘病生活であった。
 元気なときの義母は気丈な人であったため、治療のためにも「告知したほうがよい」との長男らの考えで、
自分の病気を知らされていた。また、日ごろはあれほど孫娘を愛し、成長を気にかけていた義母であったが、
死ぬ何日か前には、看病する妻に「アキちゃんの世話も大変だけど,今日と明日は私だけにかまって欲しい」
といったという。

 葬式はこちらで執り行い、骨壷は義弟が持って帰り、義父が眠る草加の墓へ納骨を済ませてあった。

 家族4人、昔よくしたように土曜の早朝4時に我が家を出発、名阪・東名・国道4号線を走り、埼玉県にあ
る二人の墓へおまいりした。そのあと「遠くの親戚より近くの他人」の通り、生前の義母になにかと尽くして
くれ、お世話になった「装飾貴金属細工業」を営む近所のNさんの家に立ちよった。お礼を言うつもりが反っ
てご馳走になり、生前の義母の思い出話は尽きなかった。「もっとゆっくりして」と引き止めるN家を辞し、
帰途既に予約済みの伊豆修善寺温泉の、そこそこ高級な観光旅館に泊る事となった。

 娘と自宅以外で宿泊するのは何年振りだろうか。小さいときは捕まえておくのは何とかなったが、大きくな
ってから娘連れでこかへ泊ることなどほとんどあきらめていた。思いの外スムースに部屋食をとる事ができ、
母親と大浴場にも入ることもできた。
Nさん宅で勧められるまま、ご馳走に手をだしている間に満腹となってしまい、せっかくの旅館の料理をほと
んど食べることが出来なかった事は、いまだに残念に思う。

 こうして四人だけで旅行する事はもうないだろうし、この小旅行はアキも結構楽しそうだったし、義母にも
良い供養となった。
 
 
26 沖縄旅行と愛母弁当
  
 会社から永年勤続で家族旅行の費用が出ると聞いたとき、「アキと3人で沖縄へ行ってみないか」という私に
「今じゃ飛行機も大丈夫よね」と妻、娘にとっては始めての飛行機旅行となった。便利なもので関空まで自家
用車で行き、那覇空港でレンタカーを借り、ナビつきの車で首里城、守礼の門や南国の植物園など好きなとこ
ろへ行くことができた。おまけに申し合わせていたわけでもないのに、ホテルの朝食で、同じ銀行に勤め、住
まいも近くで家族ぐるみで親しくさせてもらっている一家と会うことにもなった。

 この素敵なホテル「ルネッサンスリゾートホテル」で私たちは2泊することになっていた。1泊目の夕食
は、暮れ行く美しい海がバックのムードあふれるイタリアンレストランで、私たち両親はワイン、アキちゃん
は特製の1杯3000円もする南国のフルーツたっぷりのトロピカルジュースで乾杯。二泊目の夕食は私のリ
クエストで和食にしたが、これもおいしく一家3人楽しい時間をすごすことができた。

 修善寺温泉や沖縄行きで自信のついた私たちは、岡山の「鷲羽山ホテル」で泊まったり、浜名湖「ホテル九
重」へも足を伸ばした。この館山寺温泉の名旅館は、銀行の「ディーリングセクション」の責任者だったこ
ろ、本部と東京分室があった合同の慰安旅行で行って気に入り、その後支店を変わるたび3度も泊まることと
なった。このとき御殿場のアウトレットモールに足を伸ばし、台風の東名をこわごわこのホテルまで戻ったこ
とも懐かしい。
 
 そして、あまりご飯を食べず、おかずばかり食べる彼女のため、おかず8対ご飯2の母親特製弁当を手に作
業所へ「箸入れ」の作業などしに通う日々。
 
 
最終回 娘の嫁ぐ日  

  ある小説に、『小さい頃の子供が「親に向ける笑顔の愛おしさ」で子供に対する苦労の「もと」は十分取っ
ている』というような一節がありました。
私自身、彼女が高熱を出す前の、小さい頃のあの「可愛い笑顔」を思うと今も胸がいっぱいになる。いや今三
十路を超えるようになってもいとおしくて仕方がない。太ってしまって6?キログラムもある彼女を抱きしめ
るときもある。

  いつまでも妻と二人が元気で面倒を見られるのなら、このまま作業所へ通う日々が彼女にとって一番いいの
かもしれないが、両親どちらかが事故に遭ったり、突然死ぬようなことがあったとき、果たしてちゃんとした
施設でこのように、手のかかる娘の面倒を見てくれるところがあるのだろうか。

  親の手元から離れる場合心配なことが二つある、ひとつは「大きくなれば自然に治る」と医者から言われた
てんかん性の「発作」、年々数は減っても強くなる傾向にある。家ではほとんど畳や床のうえなので、また座
っていることが多いのであまり心配がないが、場所によっては危険。
 そしてもうひとつの心配は突然近くの人に「かまい」にいき、力の加減がわからないのか強くつかんだり、
髪の毛を引っ張ってしまうことがある。母親はこれを「ギャーする」というが、彼女の場合まず1番好きな人に
行く、つぎに弱そうな人に行く、赤ちゃんなどがいたらと想像するに恐ろしく、私などは生傷の絶え間がな
い。

 突然われわれ両親がいなくなったことを想像したとき、脳裏をよぎったのは「身動きの取れないようにベッ
ドに縛り付けられた娘の姿」である。
『両親が元気な間に、「親がいなくなってもちゃんと看てくれる施設を見つけること」が、私たちの最大の課
題であると思うようになった。通所と泊まりを繰り返し、今から見守りながらそこに慣れるようにしておいて
あげたい』。私たちはその日が「娘の嫁ぐ日」と決め、そのような施設を選ぶ日々が続いた。その日が来るこ
とが早いほうがいいと思ったり、できるだけ遅くなってほしいとおもったり。

 すばらしい施設が見つかった、そして「娘の嫁ぐ日」がやってきた。     終り


〔後記〕
 娘が嫁いだ(?)ところで一旦終わらせていただきます、拙い文章で読み苦しいと事もあったと思います
が、ご愛読ありがとうございました。
 施設での生活は、スタッフの皆様方の多大の努力もあって概ね順調のようです。彼女は毎週土日は我が家で
過ごしますが、月曜日(最近では日曜夕刻になった)には母親の運転する車で、嬉しそうに施設のほうへ向か
っているようです。
 機会がありましたら施設との往還文などを基にその後の彼女の生活を綴ってみたいと思っています。
 

バナースペース