エンターテイメント

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エンターテイメント№194    2020.6
もう一度 東南アジア

今年の5月10日は私たち夫婦の結婚50周年でした。昨年末来、記念の金婚旅行を予定し、トラピックスで予約していたが、正月早々入院することになってしまいました。

当初 5月までには治癒して、「行けるかも」と思っていたが、その後旅行予定日までに全快は無理と見て、病院からキャンセルの電話をした。その後は予期せぬコロナ禍でキャンセルするまでもなくこの時期の海外ツアーはすべて中止となっていきました。

猛威のコロナ感染も少しは落ち着き、国内では出口戦略を言われるようになり、緊急事態宣言も解除されるようになってきた今、「もう一度海外へ行ける日が来るかもしれない」と思いと「生きている間は無理か?」との思いが交錯している。

もし行けるとなればやはり「東南アジアのどこか」と思う。なぜ?と問われると近くて(フライト時間が長すぎない)安いというのもあるが、「タイ台湾ベトナムカンボジアミャンマーインドネシアマレーシア、そしてインド」の道路。

3人も4人も載せたものすごい数のバイクの群れや、トウクトウクなどが横断歩道で、信号
でも停まってくれない。これを渡るときの気分が、なぜか懐かしい。韓国や中国・香港・マカオも行ったが、上記の国々のような喧噪さはなかった。

20回以上の海外で、うち約半数の10回が、三水会という会社のOB会 10人前後で行った旅行。OBの飲み会だけならどこにでもあるだろうが、そのメンバーで寝食を共にして異国を彷徨う団体はめったにないらしい。

旅行会社のツアーは大体20から30人ぐらいであるが、食事時、10人も集まるテーブルは私たちだけ。いつも聞かれるのが「なんの団体さん?」。「銀行のOB」、と答えると、みんな不思議に思えるらしい。ある時、聞いてきた元メガBKの男性が「信じられない」、現役時代足の引っ張り合いをしていたOBが飲み会だけならともかく、数日間も寝食を共にすることはありえない」と。


前にも書いたと思いますが、この旅行長く続いている第1の理由は気の合うメンバーの人柄。しかしそれだけなら思い付きで1回か2回。何といってもツアーのコンダクタ-を務めてくれているYさんがいてくれるからこそ。

企画から申し込み、旅客機の中での出入国票記入から動画の撮影まで。晩年になってこれらの飲み会のメンバーでいられることは本当に幸せなことだと思っています。もう一度海外へ行けることを楽しみに。しっかり養生をして長時間歩ける身体にしたいと思うこの頃ではあります。





















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エンターテイメント№193    2020.5
 
1 8 1 18歳と81歳                             
             同市内に住む友人inaba氏(長男ママ友のご主人)からの提供           

 プラスの力   9+9=18歳  最期にかける力 9×9=81歳
   
 高速道路を暴走するのが18歳
 高速道路を逆走するのが81歳
 恋に溺れるのが18歳  風呂で溺れるのが81歳
 ドキドキが止まらないのが18歳  動悸が止まらないのが81歳
 世界を駆け巡り自分探しの旅をしているのが18歳  出掛けたままわからなくなって皆が探しているのが81歳
 これからの18歳に・・・拍手    これまでの81歳に合掌
 人生につまずくのが18歳  小石につまずくのが81歳
 自動車の免許書取れるのが18歳  自動車の免許書返却するのが81歳
 メイドに声かけられるのが18歳  冥土からお呼びがかかるのが81歳
 片思いの18歳  肩重い81歳
友達が増えるのが18歳 友達が減るのが81歳
 階段をスキップして上がるのが18歳  階段でストップして立ち止まるのが81歳
 恋で胸を詰まらせるのが18歳  餅で喉を詰まらせるのが81歳
 バイクで走り出すのが18歳  俳句をひねり出すのが81歳
 「君の名は」の主人公はと聞いて花瀧宮本二葉と答えるのが18歳  「君の名は」の主人公はと聞いて後宮春樹・氏家真知子と答えるのが81歳
 若葉マークが18歳  枯葉(もみじ)マークが81歳
 歯を食いしばり歯向かう18歳  歯に衣着せぬもの言う歯のない81歳
 おしゃれがしたくなるのが18歳  駄洒落が言いたくなる81歳
 大喰らいでどんどん太るのが18歳  小食でどんどん痩せるのが81歳
 頂点を目指すのが18歳  終点を目指すのが81歳
 もうすぐ大人だと思う18歳  もう大人しくなる81歳

 「面白そうだったので「18歳と81歳の違い」を検索すると、元ネタは2015年10月29日に放送された「笑点」で出た「お題」らしいです。inaba氏























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エンターテイメント№192    2020.4

サクラこそエンターテイメント

いま 新型コロナウイルスの感染拡大で、我が国も重大な局面を迎えています。ホームページ更新のUPを進めているとき、国民的コメディアン「志村けん」死亡の報に接した。もう「大丈夫ダア」の声を聞くことができなくなりました。心よりご冥福をお祈りします。

このホームページへ最初に「エンターテイメント」をUPしたのは2004年2月。その時は意味も深く考えずに、「娯楽・楽しみ」ぐらいの意味で、雑文集「おもいつくままに」とともに、HPの2大コンテンツとしました。

「entertainment」の意味を調べてみると、歓待・もてなし・宴会・パーティー・娯楽・慰み・催し物・余興・演芸などが上がってくる(Weblioによる)

私自身、年齢が後期高齢の75才。病気の関係で50kを割る激やせ、体力が無い。ステロイド薬を飲んでいるため免疫がゼロに近く、糖尿病の血糖値がかなりの高値。いま私にウイルスが襲い掛かったらひとたまりもない。

家の中だけでは気が滅入るし、歩かないことには筋肉・体力を取り戻すことができない。が、感染が怖くてどこへも行けない。それでも橿原市民しか行かないであろうデパートの地下食品売り場か、地元のスーパー・ホームセンターぐらいへはマスクをつけて恐々歩いて行く。

何とか「体力を」と、高たんぱく高カロリーの食事をとれば血糖値が下がらない。カロリーや糖質を抑えた食事では体力が戻らない。

そこで毎日桜の開花を待ちながら日課となってしまった飛鳥川堤防散歩での「サクラ」の情報を。

3月11日 飛鳥川のサクラ情報。散歩コースのサクラ(蕾が膨らんできた)、植物にはウイルス関係ない! 
  

 
3月17日 準備OK、飛鳥川のサクラ。本日はフライングまだない。 ↓

  


3月20日
 飛鳥川のサクラ、本日初開花見つけた。2輪と他の木で1輪計3輪。ほかの樹々は赤い蕾が膨らんで開花秒読み。 ↓

  


 
3月21日 たまにチラホラ開花の木あり。ほとんどの樹々は蕾膨らみ、スタンバイ状態。 ↓

 


3月22日  まだ一分咲きまではいかない
 ↓

       


3.23
 一分咲きの木、二分咲きの木、三分の木。他の樹々はチラホラ。 ↓

   


3.26 七分咲きか ↓

   


3.30  満開 ↓

 















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エンターテイメント№191    2020.1
  
同じ市内の住人で、(長男 小・中学のママ友)夫婦ともども親しくさせ ていただいている友人から入手、
あまり面白いので了解を得て 転載させていただきました。一度目は (おもいつくままに)2017.8 №181

シルバー川柳  №2         提供 橿原市 INABA氏
              

第18回(H30年)
 ディサービス 「お迎えです」はやめてくれ
 ベンツから 乗り換えたのは車椅子
 朝起きて 調子いいから医者に行く
 百年も生きりゃ 貯金に先立たれ
第18回(H30年)
仲いいね いえ夫は杖代わり
「インスタバエ」新種の蠅かと孫に問い

うまかった 何を食べたか忘れたが

Siriだけは 何度 聞いても怒らない
第18回(H30年)
靴下を 立って履くのはE難度    「ご主人は?」「お盆に帰る」と詐欺に言い 「もう止めた」検査ばかりで病気増え  お揃いの茶碗にされる 俺と猫
第18回(H30年)
納得をするまで計る 血圧計 家事ヘルパー 来られる前に掃除する 歩幅減り 歩数が増えた万歩計  私だけが 伴侶いると妻嘆く
第18回(H30年)
古希を過ぎ 鏡の中に母を見る 無宗教 今は全てが神頼み 君たちも どう生きるかと子に聞かれ  懐メロが 新しすぎて歌えない
 
     2019.9
第19回(R1年)
四元号 生き抜き迎える
白寿かな
みずあそび じじとおそろい手しわしわ グレーヘア したいがすでにハゲ頭 既読スルー いいえ只今格闘中
第19回(R1年)
初孫で 娘の家まで定期券
メルカリで 誰も買わないワシの服 女房から 生前退位せまられる 
 (Noです)
失言は 家庭内でも命
取り
第19回(R1年)
オレオレの 相手をしたい
ほどの暇
婚活の 殺し文句は
「看取ります」
居ないとき 妻の枕を尻に敷く   挑んでも 店員を呼ぶセルフレジ
第19回(R1年)
ボーっとして テレビの中から叱られる 高齢者 疑心暗鬼の キャッシュレス 問診に オレより妻が答えてくれる
 爺ちゃんに スマホ教える孫5才
第19回(R1年)
自分でも 事実か分らぬ
武勇伝
若作り しても話題はみな昭和
筋肉は 裏切らないと老いて知る 徘徊の ルート AIにも読めず
              



















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エンターテイメント№190    2019.12月  
  ドラマ 
BS時代劇 「薄桜記(はくおうき)」 全11  

キャスト

丹下典膳(山本耕史) 長尾千春柴本 幸) 中山安兵衛(高橋和也) 
丹下ぬひ(檀 ふみ)  長尾権兵衛(辰巳琢郎) お菊(かとうかず子) 
長尾龍之進(忍成修吾) 千坂兵部(草刈正雄) 吉良上野介(長塚京三)
富子(萬田久子)堀部弥兵衛(津川雅彦) 紀伊国屋文左衛門(江守 徹) 
白竿屋長兵衛(高嶋政伸) お三(ともさかりえ 

薄桜記』(はくおうき)は、五味康祐の時代小説。『産経新聞』夕刊に1958年7月から1959年4月にかけて連載され、新潮社から1959年に刊行、新潮文庫より1965年に文庫化された。2007年9月に改版、現在まで刊行されている。高田馬場の決闘や赤穂浪士による吉良邸討ち入りを背景に、2人の剣士・丹下典膳と堀部安兵衛の友情や、上杉家江戸家老の名代・長尾竜之進の妹・千春をめぐる悲恋が描かれる。 また、それを原作とした映画、舞台劇、テレビドラマ– Wikipedia

初回放送は2012年7月13日(金)からだったらしいが、今年7~8月NHK BSTVで再放送、録画したものを一気に見た。

「あらすじ」
主人公・丹下典膳(山本耕史)は、旗本にして、卓越した一刀流の剣豪。しかし、妻の名誉を守るために片腕を失い、そしてお家も断絶してしまう。浪人となった典膳を助けたのが、のちに赤穂藩の家臣となる堀部安兵衛。一方、武士としての筋を守る典膳は、吉良上野介(きらこうずけのすけ)の用心棒となり、片腕の剣豪として、赤穂浪士たちと向かい合う立場となる・・・。そしてこのドラマを貫くのは、武士社会の掟(おきて)により、愛しながらも別れざるをえなかった、典膳と妻との、美しくも切ないラブストーリー。

あまりにも有名な「赤穂浪士討ち入り、忠臣蔵」は映画やドラマで嫌というほど観てきた。ほとんどがこれにより英雄となった大石 内蔵助他赤穂浪士の側から描いたもので、討ち入りの相手吉良側から描いたものは少ない。このドラマの主人公丹下典膳は由緒ある旗本の武士であったが、片腕を失い家も断絶してしまい、吉良家の用心棒となっていた。討ち入りの噂を聞き、それに備える吉良方を描いている。 

江戸時代、不義密通に対する罰則は、武士以外でも死罪だった。本来間夫(まぶ)を殺害しても罪に問われなかった。が、両者を殺害しなければならなかった。できるだけ不義密通が表沙汰(おもてざた)にならないよう、早めに妻を離縁したりしたが、妻だけを生かすと「武士の未練」とされたらしい。

典膳の妻千春を演じた柴本幸という女優、所作が素晴らしく、凛とした武士の妻を好演。いままでこの女優を知らなかったが、真野 響子・柴俊夫の娘と知り、なるほどと思った。

 

 

















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エンターテイメント№189    2019.11月   

ドラマ  ノーサイドゲーム

キャスト

君嶋隼人:大泉洋  君嶋真希(妻):松たか子、  柴門琢磨(監督):大谷亮平、 
風間有也:中村芝翫、 滝川桂一郎;上川隆也、 浜畑譲:廣瀬俊朗(元プロラグビー選手)、岸和田徹(キャプテン):高橋光臣、 社長;西郷輝彦、 
佐倉多英(マネージャー);笹本玲奈、  原作;池井戸潤

連続ドラマ「ノーサイド・ゲーム」は今年9月15日が最終回だった。新しく始まるドラマはほとんど録画しているが、駄作も多いのでHDDにあるものを初回か2回目ぐらいを観て、面白くないものは消し、観たいと思うものだけCMを削除してブルーレイに撮り貯めている。

今年はラグビーというスポーツを初めてテレビ観戦し、興味を持ったこともあり、このスポーツを主題にしたドラマを観ることにした、大手自動車メーカーが所有するラグビーチームの活躍をバックに、池井戸潤原作らしく、企業間の競争や企業内経営陣の熾烈な出世競争を描いている。                                 

「ノーサイド・ゲーム」は、大泉演じる大手自動車メーカー・トキワ自動車の中堅サラリーマン・君嶋が、経営戦略室から府中工場へと異動させられ、さらには同社の企業スポーツであるラグビー部のGM(ゼネラルマネージャー)にも任命、14億もの赤字を抱えるラグビー部「アストロズ」の再起に奔走する物語だ。

「アストロズ」優勝へ部員一同と駆け抜ける一方で、トキワ自動車本社では滝川常務(上川隆也)を中心とした不正なカザマ商事買収があるも、君嶋の働きで阻止。滝川は失脚する。しかしそれは経営戦略室長のかつての上司・脇坂(石川禅)の戦略であり、君嶋は脇坂に利用されていたうえ、「アストロズ廃部」を公言されてしまい、見事な手のひら返しにあう。

私自身少なからず感心したのは、この原作本、今年6月に発行されたもの(書き始めたのはかなり前?)なのに、ラグビーワールドカップで日本チームの活躍を予言するかのようなドラマになっていること。また白熱した試合の臨場感と、ラグビーというチームスポーツを軸にしたシーン展開が素晴らしく、屈強な男たちをかっこよく見せている。『半沢直樹』以来、観応えのあるドラマである。

 



















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エンターテイメント№188 2019.10 映画18
アルキメデスの大戦

·      櫂直:菅田将暉   田中正二郎:柄本佑  尾崎鏡子:浜辺美波 

·      大里清:笑福亭鶴瓶  永野修身;國村隼  嶋田繁太郎:橋爪功
     平山忠道:
田中泯  山本五十六:舘ひろし    監督 山崎貴

映画館で観るのは約2年ぶり、17年10月の「関ケ原」以来。7/26 公開の「アルキメデスの大戦」、題名に惹かれてカミさんとイオンモールのTOHOシネマへ。

戦艦「大和」を阻止せよ!!! 日本の未来を1人の数学の天才が変える!? 、時は1933年。日本海軍の中枢・海軍省の会議室で、次世代の旗艦を決める新型戦艦建造計画会議が開かれ、2つの陣営が設計採用を争う事に。これからの海戦を見据え、高速の小型戦艦を打ち出す”航空主兵主義”派に対し、海軍内で権力を握る”大艦巨砲主義”派の計画は、世界でも類を見ない超巨大戦艦の建造だった――!! Yahoo 作品情報より

     

最近の我が国の映画、大作の原作が「漫画」というのが結構多い。これも漫画を原作とした実写映画。「数学」で戦争を止めようとした男の物語。

1933年(昭和8年)、海軍では新造艦をめぐる会議が行われており、永野修身中将と山本五十六少将は、来る航空戦に備え航空母艦の必要性を説く(航空主兵主義) 

日本と海軍に幻滅する数学者は、「戦争を阻止する」という山本の説得を頑なに断り、米国の大学へ留学しようとするが、最終的には「国民に幻想を与える戦艦案廃止に応じる。

「これからの戦争は航空機が主体になり、巨大戦艦は不要になるであろう」と考えている山本五十六海軍少将。対し、いかなる手段を講じても「大和」を建造する、平山忠道造船中将。平山が計画している無駄に大きい巨大戦艦の建造計画案とは。

「それが沈没することで結果的に日本の破滅を防ぐため」だと。

そして、1945年(昭和20年)4月7日大日本帝国海軍の巨大戦艦大和は、米軍の魚雷と爆撃による猛攻を受け沈没していった。

       

 





















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エンターテイメント187 2019.9 私の読書歴 50

「新聞という病」その2 安倍政権   門田隆将 著 産経セレクト刊

安倍晋三氏の第1次政権は1年で終わりました。その後首相に返り咲き、現在は第4次政権で通算の在職は2703日(2019年5月20日時点)となっています。戦前を含め最長は明治から大正時代の桂太郎(通算2886日)です。2位は沖縄返還を実現した佐藤栄作(同2798日)、3位は初代首相の伊藤博文(同2720日)。安倍首相はいま4位で、11月19日にトップの桂太郎と並びます。NIKKEI STILE

安倍政権が長続きしており、支持率も安定している。その世論調査でいつも思うのだが「支持しない」の理由が「人柄が信用できないから」の率が結構高いこと。直近 8/2 NHKでも35%と一時よりは低くなっているものの、私には「何故?」という疑問がわく。

思うに朝日・毎日など大新聞は安倍政権誕生時から異常なまでに敵対心を持ってきた、何故?。

本書を読んで感じたこと、前月号では「日本の新聞なのに何故韓国や中國寄りなのか?」の疑問に対する門田氏の考えをまとめてみました。

今回は「日本の新聞は、何故これほどまでに安倍さんが嫌いなのか?」を読み解くことにした。

①    2017.3 北朝鮮の移動式発射台から同時に4発弾道ミサイル発射、4月には米中首脳会談を前に新たなミサイル。この国家の危機のとき新聞は、かの「森友」問題に紙面を使い続けた。首相の直接関与で追及が無理と分かった時点で「忖度」なる言葉まで捻りだして、推測に推測を重ねた不毛な議論を報じた。国民の命に係わる核ミサイル問題に本気に取り組んだのは産経だった。

②    横田めぐみさんに言及したトランプ大統領の演説の翌日、安倍首相が国連総会で行った演説に刮目(門田氏が)、東京が第3の被爆都市にならないため、決死の覚悟の演説だったから。しかしこの演説の全文を紹介したのは、産経一紙だけ。

③    2019.2からのハノイでの米朝会談。翌日は台湾の228事件記念日、習近平主席の「一国二制度を受け入れよ」に対する蔡英文氏のインタビューに成功した産経は、「安倍首相に決断を促す蔡氏の言葉を引き出した。 

④    戦後70年の安倍首相の談話。朝日は「政治家が未来に向けてビジョンを語るのは大切なことだ。だが、植民地支配や侵略の被害にあったり、過剰な負担を押し付けられたりしている側の人々に寄り添う姿勢が無ければ説得力は生まれない」と中国・韓国を後押し。毎日は「同盟を強化する動機が、台頭する中国をけん制することに偏りすぎてはいけない。と中国側に立つ主張。

⑤    2018.12 日韓議員連盟と韓日議員連盟との合同総会がソウルで。今回初めて安倍首相が祝辞も出さず、文氏への親書も託さなかった。しかし、安倍首相を批判する新聞はあっても肝心の議員連盟の行動を非難したのはまたしても産経一紙。

⑥    安保法制問題は日本の「安全保障」という極めて重要な課題に対して、新聞は「戦争に踏み出す日本」「これは徴兵制につながる」という趣旨の論評。

⑦    甘利さんの経済再生担当大臣が辞任に追い込まれて時、朝日は週刊誌の記事に丸乗りして、安倍首相の責任を追及。しかし政権への打撃を企図したこれらの記事は、記者たちにとってむなしい結果となった。

⑧    森友問題から加計問題に至る不毛の5か月間。ありもしない関係を吹聴して商売に利用した経営者(森友氏)の証人喚問にまで発展したが、安倍首相の関与というファクトはついに出てこなかった。

⑨    加計問題 アベノミクスの「成長戦略」の柱の一つ岩盤規制に穴をあけようとした。だが新聞は何が「総理のご意向」かの検証もせず、ただ政権に打撃を与えることを目的に「印象操作」のための日々、紙面を費やした。

安倍政権打倒のため野党とマスコミがタッグを組んで政権打倒キャンペーン。よい例が財務省の福田前次官の(胸さわっていい?)のセクハラ騒動。テレビ朝日の女性記者が隠し撮りをした音声を週刊新潮に持ち込んだ事件。なぜテレ朝自身が報じなかったかという疑問。

安倍首相が好きか・嫌いか。安倍内閣を倒すか、倒さないか。その目的を実現するためにはファクト(事実)など「関係ない」という露骨な姿勢。新聞は「政治運動体」の機関誌、すなわち倒閣運動のビラに成り下がっている。

冒頭の私の疑問、こんなにも安定している政権のトップが世論調査で「人柄が信用できない」は、これら大新聞らマスメディアに「刷り込まれた」人たちの意見なのであろう。

 















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エンターテイメント186 2019.8 私の読書歴 49

「新聞という病」その1  韓国関連 

     門田隆将 著 産経セレクト刊

我が家の購読紙は「日本経済新聞」、25歳の頃から半世紀にもわたってこの新聞を読んでいます。現役時代、銀行の「資金証券部という特殊な部署にいたころは、勉強のためもあって4紙もとっていたことがあります。「読売」「日経」「日経金融新聞」「ニッキン(日本金融新聞 週1)」。

それまでしばらく朝日新聞を取っていたこともある、社会人として幼かったそのころの私にとって「良識派は、朝日を読むものだ」と思っていました。 しかしいま、私の知り合いの中でも、識見とまともな政治感覚とを持っている人は「産経新聞」を取っています。

ジャーナリストで保守の論客門田隆将氏は、新潮社で「週刊新潮」の記者などを務めていた人で、私の好きな番組「そこまで言って委員会」のレギュラーパネラーとして出演、毎週欠かさず観ております。

氏がこの本で言いたいのは、今のマスメディアはあまりにも左に寄りすぎているということ。中でも長く日本のジャーナリズムに君臨してきた「新聞」というメディアは「衰退の一途をたどっている」と警告している。なぜなら、メディアの多様化で新聞離れが進んでいることや、朝日・毎日などの新聞はなぜか「愛国」や「祖国愛」といったものを毛嫌いして「反日」を唱え続けて日本を貶めているからだと。

この本、今年5月初版であるから、もう少し前から門田氏は、「韓国への制裁を発動せよ」と強く訴えている。今ようやく官邸や世耕経産大臣らによってそれが実行されようとしている。確かに我が国にも経済的な不利益は大きいだろう、しかし、もう我慢の限界にきている。我々国民にもマイナス面があるにしても、これ以上舐められるわけにはいかない。このような環境の中で河野外相の一歩も引かない毅然たる態度に感動さえ覚えています。

新聞が「反日」という論拠をこの本から抜粋してみます。

・ 「日本には何をやってもいい」と思い込んでいる韓国、約束を守らない韓国は日本に対してその節度と敬意を払ってこなかった。人の好い日本人は忍耐で付き合いを続けてきたが「限界にきた」と、今ようやく日本人全体が認識。

どんなことがあっても日本を悪者にしたい「反日日本人」、親韓派の媚韓政治家、そして媚韓メディアは「悪いのは日本側」と言い続けてきた。このように常に日本側が譲歩してきたため、際限なく増長してしまったのがいまの韓国。

・  2018.12 韓国側のレーダー照射の暴挙が明確であっても、逆に日本に謝罪を求めてくる、嘘も100回言えば本当になる。これに対して新聞は中途半端な報道しかしない。

・  17.11 朝日の社説吉村大阪市長を糾弾! 民間団体が建てた慰安婦像がサンフランシスコ市の公共物となり、60年続いてきた大阪市との友好も断たれることになった。慰安婦は性奴隷ではなく、兵隊の数十倍の給与で募集されたもので、貧しかった韓国人も応募しただけなのに。

・  朝日、のちに取り消したが「私は慰安婦狩りをした」という吉田清治なる人物の虚偽証言を長期間にわたって記事にし、元慰安婦が「女子挺身隊の名で戦場に連行されたと記した。(1991.8)

・  日本人でありながら事実など関係なく、国家間の約束や条約をひっくり返す韓国を支持するのは一体どんな背景を持つ人なのだろうか。朝日新聞というのは不思議な新聞である。ここまで日本と日本人を貶め、不利な立場に追い込んできたメディアはほかに例を見ない、とも。   
                       以下次号 その2 対安倍政権 





















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エンターテイメント185 2019.7 私の読書歴 48

「今こそ韓国に謝ろう」 そして「さらば」と言おう」                                百田尚樹 著 飛鳥新書文庫版

鳩山元首相(これほどひどい人が我が国の元首相という事実は歴史から消すことができないのが悔しい)が2015年、日本統治時代に独立運動家などが収容されたソウル市内の西大門刑務所の跡地で“土下座”をし、日本の朝鮮半島統治に対して謝罪した。

「日本は(いわゆる『元徴用工』に関する)確定判決文に従って賠償に応じるべきだ」 「相手国が『これ以上やらなくてもいい』というときまで、心から繰り返し謝罪しなければならない」と、こう発言しているのも鳩山由紀夫元首相。

いかに反日教育に力を入れようが、韓国にとって元日本のトップが「ひざまずいて謝罪した」との報道に勝る反日の材料はないだろう。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は「頭の中は北朝鮮だけ」。「北の首席スポークスマン」と揶揄(やゆ)されて、今や世界の笑いものになろうとしているが、鳩山氏の頭の中は「韓益」だけ」。

皮肉なもので、鳩山宇宙人は百田尚樹が自著の題名にした「今こそ韓国に謝ろう」を、違う意味で韓国で謝罪している。

2018年の来日外国人は3100万人、うち韓国人は中国に次ぎ2番目に多く、750万人も。難波周辺を歩いていても中国人とそれほど変わらない多くの韓国人に出会う。『あれほどの反日教育が行われても、なぜこれほどの人たちが「嫌いなはずの日本へ」』?、その答えは、表記百田尚樹の、「今こそ韓国に謝ろう」の本のなかにあった。

百田氏によると、韓国は、閣僚の靖国神社参拝に反対したり、日本の集団的自衛権にまで口をだしてくる。なぜこれほどわが国の内政を干渉してくるのか?。その答えは「韓国人は自国を日本の一部だと思っている」からで、彼らは他国の政治や文化にまで口を出しているつもりはないのではないかと。 そして、「自分たちは日本人」である」と思っているからだと。

これらは日韓併合30年間に刷り込まれた「思い込み」であるのではないかと。たしかに来日韓国人の多さ、や他国である我が国の何にでも口を出してくるのは、私にもそう思う以外に考えにくいような気がしています。




















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エンターテイメント№184 2019.6 私の読書歴 47 

 「今こそ韓国に謝ろう」 そして「さらば」と言おう                        百田尚樹 著 飛鳥新書文庫版

アジア・東南アジアの国と地域には13か国、延べ20回ほど行きました、一番多かったのは「近くて安い」ということもあって韓国。ハングルの看板などが無ければ、日本の市街とほとんど変わらなくて、13か国の中でもっとも異国を感じない国でした。韓国文化にも親しみやすかったし、食いものはアジアの中で日本の次に美味しいと思いました。

李明博大統領の竹島上陸前までは第一次韓流ブームで、両国が一番近く感じる時期でした。その後反日がエスカレートしていった朴槿恵政権のとき、敢えて日本語が通じない地域へも行ったが、韓国人はみな日本人歓迎だったし、親切でした。

しかし最近の韓国、特に文在寅になって、慰安婦問題、徴用工問題など条約を守らず論理のすり替えなど嫌がらせの数々。なぜこれほど反日なのだろう、そして日本を憎むのだろうか。

百田尚樹 著「今こそ、韓国に謝ろう」の、題名だけ見た(?)人がネットで「あれだけのことをされて「なんで謝らなあかんね」とツイートしていたのを見て苦笑しました。その本には、日本が韓国に対して良かれとして行った半島復興のための投資と政策の数々を「余計なおせっかいを」と強烈な皮肉を込めた題名でした。

併合時代の35年間におびただしいお金と労力をつぎ込んで世界の最貧国だった朝鮮半島を豊かな国土に変えた。はたしてそれは良いことだったのか?と。

「漢江の奇跡」朝鮮戦争で壊滅的打撃をうけた大韓民国(韓国)が、1960年代後半以降、外債などによって急速に復興し、経済成長と民主化を達成した1960年代前半まで世界の最貧困国だった韓国は、国内総生産 (GDP) が北朝鮮を下回っていた。しかし、韓国は日韓基本条約の日韓請求権協定で個別に国民に支給すると日本側に説明して請求権資金として支払われた3億ドルの無償提供資金を、韓国経済発展のための国内投資資金に回したことで半世紀で世界10位圏の経済大国に発展し、その恩恵を受けた韓国企業は巨大な財閥に成長した

併合時代韓国総統府が行った朝鮮の改革の数々(百田氏は「破壊」と皮肉っているが)

*   国民皆教育 半島に40校しかなかった小学校を→ 4271校に(1943年までに)、 文盲率90%→40%以下に(ハングルで) 帝国大学創立 「京城帝国大学」は 東大 京大に次ぐ6番目。
*   山々の破壊 全土がはげ山(植林という考えなし)で常に洪水に → 緑化運動でかなりのところで緑を取り戻した。(最近、カラマツ林50万本 日本産という理由で伐採)。
*   河川の破壊 護岸工事やダム建設 鴨緑江の水豊ダム(当時世界最大級)70万kw時 世界2位(黒部ダムの2倍。)
*    ほとんどなかった、漢江に1100mの橋。韓国が作った橋は14年で崩壊。(そういえばマレーシアのツインビルも、韓国と日本で1棟づつ建てたが韓国側のほうが傾いてきている(マレーシアのガイドに聞いた)
*   海岸の破壊(実は護岸) 
*   電気事業 両班など(ロウソク・石油ランプ)、庶民(エゴマ油 松脂)→地方の民家まで電気。
*   農業を歪めた 荒地ばかりだった水田や畑に 耕地面積は倍に。食料増産により人口爆発 1300万人→2550万人(1942年) 平均寿命24歳→42歳(30年間で)。
*   農業国→工業国へ 農林水産80%→ 43% 工業生産18→41 日本企業の投資で170の大工場、100万人以上の雇用。
*   併合前の朝鮮 世界最貧国 不潔の極り 漢城(今のソウル)市街でも牛や馬、人糞まで落ちていて悪臭で鼻が曲がるほどだった。また小便で顔洗う人もいた。
*   貨幣が通用しない 物々交換。
*   身分制度の破壊 (支配階級)王族 貴族 両班(ヤンパン)、(被支配階級) 中人(チュンイン)、 常民(さんみん)=常奴 賤民 (妓生など)。   白丁(ペクチョン)=姓なし 常民と結婚できない 日当たる場所に住めない 文字 敬語以外で話せない 公共の場 棺桶使えない 墓ダメ 他  → 奴婢(奴隷)  戸籍制度導入 奴隷制廃止、いまの韓国人のほとんどが自分のルーツは両班だというらしいが。両班 働かない 特権だらけ。
*   刑罰の破壊 「凌遅刑」の廃止 生きている人間の肉を少しづつ削っていく、むち打ち刑は残ったが。
*   シバジの禁止 代理出産 種受け業。 乳出しチョゴリの禁止(長男を生んだ女性の誇り)
*   嘗糞の禁止 人間の便を舐めて 体調を診断。
*   韓国が言う総統府が行った「七奪」とは?  ①主権 奪ったのではなく逆に主権を与えた ②国王 純宗を李王として皇族に準ずる身分に。 ③国語 (これも与えた)総督府は文字を持たなかった民衆にハングルを教育。 ④人命?(割愛)、⑤姓名 戸籍を作り姓を与えた。「創氏改名」は誤解、(戸籍で結婚したら日本と同じく同性にしただけ)。 ⑥土地 総督府は朝鮮人民に土地を与えた。 ⑦資源 山々に植林 鉄道敷設 道路整備 ダム 港 橋 ビル・工場 学校を与えた。
*    歴史にifはないが 朝鮮併合してなければ ロシアの植民地に 
*   強制連行 日本の学生は無償労働、朝鮮人には正規の給料。日本国内の在日61万人、うち戦時徴用245人0.05%
*   慰安婦問題 従軍慰安婦の朝鮮人は2割で志願、韓国が騒ぐ慰安婦問題、すべての根源は朝日新聞の記事。     ※「妓生(キーセン)」外国人向けの娼婦。



*   最近、日本の良い文化などを、韓国人が「自国の文化」だと言い出した。

例えば 茶道 華道 歌舞伎 折り紙 神社 祇園祭 ねぶた 扇子 錦鯉 演歌 花札 寿司 刺身 しゃぶしゃぶ うどん 味噌汁 納豆 醤油 たくあん 海苔 日本庭園 日本刀 日本酒 和牛 ソメイヨシノ(日本人が盗んだ) 柔道 相撲 空手 流鏑馬 居合道 合気道 サムライ 武士道 忍者 切腹   空いた口が 塞がらない

もう「さらば」と言うしかない






















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エンターテイメント
№183 
 2019.05 私の読書歴 46
「ひろ坊」が選んだ作家と小説2選 

さだまさし ; 「さだまさしの小説なんて」と正直そう思っていました。何年か前、映画にもなった「眉山」や「解夏」、「精霊流し」などは読んだことがあったが、「誰でも2冊や3冊の本は書けるんや」ぐらいに思っていました。カミさんが大のさだまさしファン、家の中にCDだけでは飽き足らず、小説が増えてきた。今読む本がないので、まあ、読んでみよかと、最近手に取ってみたのが「茨の木」と「はかぼんさん」

「茨の木」で、ただの歌手の道楽ではないことが分かり、「はかぼんさん」では読み始めて「小説でなく本当の話」だと思い込んでしまった。それほど作り話の巧さを感じる、直木賞とっても不思議ではないほどの「書き手」だと思います。

津本陽 ; 「下天は夢か」、「おおわらんじの男 八代将軍徳川吉宗」

池宮彰一郎 ; 「天下騒乱 鍵屋の辻」、 「高杉晋作」

宮本 輝 ; 家の本棚に文庫本だけで30冊は下らない。 「流転の海8部作(シリーズ)」、=ライフワークとなる大長編、9部が出たようだ、買いに行こう。あと1冊、多すぎて!選ぶのがむつかしいがあえていうなら「錦繍」か。

船戸与一 ; 早稲田大学探検部出身だけあって 「黄色い蜃気楼」・「猛き箱舟」ともに舞台が壮絶で、全編緊張の連続。手に汗して読んだ。

宮尾登美子 ; 「鬼龍院花子の生涯」=「なめたらいかんぜよ」は、映画の中でも夏目雅子のセリフが話題となった。[蔵]

高村薫 ; 「マークスの山」 「レディ・ジョーカー」

渡辺淳一、 「失楽園」=日経新聞連載中、通勤電車の中で「前が膨らんでないか」と周りを気にしながら読んだもんです。 「化身」

福井晴敏 ; 「亡国のイージス」=日本の防衛は今のままでよいのか?と。 「終戦のローレライ」

池井戸潤 ; 「半沢直樹シリーズ」=一応私も元銀行員、MOF(大蔵省)検査・国税検査など面白過ぎ。「ロスジェネの逆襲」

東野圭吾 ; この作家も多すぎて選ぶのが大変! 「さまよう刃」、=愛する娘をもてあそばれ殺された父親の気持ち、は分かる、「死刑になってほしい」なんて生易しいもんではない、自分で殺すしかない。「白夜行」

百田尚樹 ; 「日本国記」=素晴らしい日本通史を読んで百田氏の力量を再認識。小説は間違いなくこの二作=「海賊と呼ばれた男」、「永遠のゼロ」

門田泰明 ; 「存亡」、「夜光虫

高田郁 ; 「あい」、「出世花」同市内に住む友人からの勧めで最近知ることになった作家。まだ作品が少ないが、心洗われる小説を書く人。
















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エンターテイメント№182  2019.04 私の読書歴45
「ひろ坊」が選んだ作家と小説2選 

堺屋太一が 今年2月に亡くなった。

現役時代自分自身に、月最低10冊の読書をノルマを課していた時期がありました。小説が好きなので本屋へ行くと、ついそちらの方に目がいってしまうので、購入する本の半分は「仕事に役立つ」教養書などと決めていました。

小説以外でよく買ったのが堺屋太一や大前研一などの経済未来予測書。それに世界で売れている経営書や松下幸之助など日本の経営者が書いたもの。

堺屋太一の小説では通産官僚の時書いた「油断」が印象に残っている。「峠の群像」 は赤穂藩断絶を現代の企業倒産になぞらえ現代的に描いた小説、大河ドラマにもなった。

吉川英治 ; 「宮本武蔵」「三国志8巻」 ともに大長編。

遠藤周作 ; 「深い河」 この本を読んでインドへ行きたくなった。23年を経てようやく一昨年インド旅行が実現したが、残念ながらこの小説にまつわるガンジス川へは行けなかった。もう一冊は「沈黙」

大江健三郎; (1994年ノーベル賞) : 「万延元年のフットボール」「飼育」、暗すぎるのであまり好きではない。

藤沢周平 ; 映画にもなった「たそがれ清兵衛」、他にも結構読んだが短編が多かったので題名はあまり記憶にない。

北杜夫 ; 「楡家の人々」、 随筆集「どくとるマンボウ」 シリーズもよく読んだ。

石坂洋治郎 ; 「若い人」「日の当たる坂道」、ともに石原裕次郎主演で映画になった。

辻邦夫 ; 「背教者ユリアヌス」「西行花伝」どちらも大作・力作、本の装填も立派で私の本棚では目立った存在となっている。

西木 正明 ; ドキュメンタリーと思ってしまうほどリアリティな「オホーツク諜報船」、「ルーズベルトの刺客」もよかった、ほかにも夢中になる本をよく読んだ。

小松左京 ; 「復活の日」「日本沈没」、「首都消失」というのもあった。

城山三郎 ; 東京裁判の結果、文官でただひとり絞首刑となった広田弘毅を描いた 「落日燃ゆ」。昭和20年代の高度成長期に実際に起こった白木屋百貨店乗っ取り事件をモデルにして創作された「乗っ取り」

新田次郎 ; 数学者で「国家の品格」などの著作でも著名な藤原正彦の父、作家藤原ていの夫でもある。「孤高の人」「珊瑚」

佐木隆三 ; 「復讐するはわれにあり」、一冊しか思い浮かばない。

水上勉 : 「雁の寺」「飢餓海峡」

松本清張 ; 多すぎて選ぶのがむつかしいが、「点と線」「ゼロの焦点」

高木彬光 ; 「白昼の死角」「成吉思汗の秘密」、清張に次ぐ推理小説作家

森村誠一 ; 「悪魔の飽食」「人間の証明」






















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Trip&Tour (21-4)      

2つのシェラトンに泊まる!名店「成隆行蟹王府」で上海蟹を食す! 上海・無錫・蘇州4日間  最終日  

4日目(好天)

朝目覚めて16階の窓からみた風景、目の前の高層ビルの間にそこだけ(昔の)低層住宅街が残っていたのが印象的。ホテル「シェトラン虹口三至来登酒店」レストランで朝食、帰国の荷物をまとめたあと、同室のM氏と、バスがくるまでこの古い街を散策。これだけ大きなホテルだと帰り路に迷う心配がないので安心。

上海市内観光

まずは、多倫路エリア散策 多倫路は、2011年初夏にリニューアル工事を終えたレトロストリート。

魯迅と内山完造が文学を語らい、詩人金子光晴が気ままに歩いた戦前の日本人街、住宅街四川北路とエル字型に繋がる道で、両側に共同租界時代の建物を残し、また当時から文化人や工芸美術家が多く住んでいたところから書籍、美術、工芸の店を集め、作り手が直接お客に触れ合える場所にしたのが多倫路文化街らしい。

     

だらだらと歩くだけでもレトロでモダンな上海の雰囲気を満喫できた。途中中日友好会館があり、入っていくと、壁にはいまどきわが国でもあまり見ることのない昭和天皇・皇后と毛沢東・周恩来の写真(上は天皇皇后と鄧 小平夫妻)等の額があり、中国と日本の歴史を感じました。

さらに歩くうち、どこかで見た女優のポスター、ほかでもない清朝末期の大スター日本人歌手で女優の李香蘭。その町で同じツアーメンバーの一人が日本から持ってきた古紙幣?を骨董店で換金。

魯迅公園散策 

公園に行く途中、ガイドがロージン(老人)公園と言った「魯迅公園」は、一周のんびり歩いて1時間ほどの大きな公園でした。園内は老若男女、大勢の人たちで賑わっていたが、なかでもガイドの言うとおり、それぞれの方法で楽しむ老人の多さが目立った。

工芸品展でショッピングのあと、

ワイタン(外灘)散策、 市内中央部を流れる黄浦江西岸(中山東一路)に面する「外灘」、2日目の夜のクルージングで夜景を楽しんだが、本日は昼のワイタン、空は晴れていて爽快。

       

昼食は「北京ダック」+北京料理

田子坊(でんしぼう=たこぼう)

狭く迷路のような路地に様々なアートショップや外国料理店、ブティックや小物店などが例えようのないほど密集している。外国人観光客も多く、レストランは中国料理以外の各国料理店も多い。店のオーナーも外国人が多く、日本人が経営する店も存在するらしい。現在は豫園や新天地に次ぐ上海の観光ショッピングエリア。ほかの国にはあんまりない、ごちゃまぜな雰囲気。

猥雑な田子坊ではぐれないようにと思うあまり疲れてしまった私たちに、ガイドが薦めたのは表にスターバックスがあるビル地下街の喫茶店、ここで休憩することに。

一行はマンゴ-ジュースを頼んだものの支払いは円ダメ、カードダメ、人民元もダメ。ここで使えるのはスマホでバーコードのいわゆるQRコード決済。ガイドに払ってもらい、円でお返し。ことキャッシュレスについては日本の遅れを痛感。

19:05、 20分ほど遅れて空路関空へ離陸。10時を過ぎるであろう関空から橿原市へのリムジンバスは到底無理、電車でも難波までが精いっぱい?。どうするか迷っていたとき、ツアーで知り合った大和高田市のご夫婦が、「娘が関空まで車で迎えに来てくれるので同乗して行っては」とのありがたいお言葉。大和高田から近いこともあって先に深夜のわが家の真ん前まで、本当に助かった。

この旅行、フライト時間が短いのでANAのエコノミーでも楽々。ホテル一流、8回の食事も有名店ばかりなのにかなり安価で費用対効果抜群。関空からは自宅前まで送ってもらえて、これまたラッキーな旅となりました。

 









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エンターテイメント
180   2019.2

Trip&Tour (21-3

2つのシェラトンに泊まる!名店「成隆行蟹王府」で上海蟹を食す! 

上海・無錫・蘇州4日間      3日目 (曇りときどき雨)

3日目の観光は「上海市内」。観光のルートは日程表通りとはならないことが多く、後になると順番などは忘れている。しかし私が撮った写真が順番を覚えてくれている。海外へ行ったときは最低500枚、多いときは1000枚も撮ることがあります。

日程表では朝一番に「豫園商城散策」となっていたが、写真の順番でまずは「上海博物館」。

「上海博物館」 1952年にオープンした上海博物館は、上海で最大の博物館。円形の4階建ての館内には、11のテーマ別の展示室があり、総展示物数は13万点以上ともいわれています。             
紀元前18世紀以前の貴重な青銅器や、唐代から清代までの書・絵画、3000年前の貨幣など、希少価値の高い収蔵品の数々が。

「老外散策と双塔」 老外とはラオワイ、「外国人」という意味らしい。国際色豊かなグルメストリートで美食街でした。虹梅路と虹許路を繋ぐ長さ500mほどの通りで、中華料理店はもちろん、日本料理、タイ料理、メキシコ料理、ベルギー料理、ビアレストラン、バーなど、さまざまなお店が集まる賑やかな通りでした。   

「双塔」
 南翔老街の中にある仏塔で、建立はそんなに古くはないようで、老街のシンボルとして中心部にありました。通りは老街らしい感じの良さで、修学旅行生らしい子供たちを多く見かけました。ここは小龍包発祥の地でもあります。

昼食は「小龍包」などの南翔料理

途中ラテックス寝具店とシルク店にてショッピング。この寝具店はベトナムや香港・マカオ旅行にも組み込まれており興味はなかったが、シルク店には目を見張るような芸術品ともいえる一見に値する凄い作品(商品)が多く並んでいました。
夕刻になっていよいよ本日観光のメインの一つ「豫園」へ

「豫園観光」 私の薄れていく記憶の中でも、22年前のChinaで一番印象に残っていたのがこの「豫園」周辺。

上海の中心地に位置する「豫園(よえん)」は、「外灘(わいたん)」と並ぶ上海で人気の観光地の一つです。400年以上の歴史がある明代の伝統庭園とそれに隣接する商業エリア「豫園商城」は、当時にタイムスリップしたかのような歴史を感じさせました。  

前回の旅行時にも感じましたが、世界中の観光客でこれほど人の多い観光地はあまりないと思います。暮れていくこの豫園周辺の建物には、しばし酔ってしまうような「雰囲気」がありました。

【OP】上海雑技 夜のオプショナルは、一度は観てみたかった上海雑技団の演技。動物などを使ったサーカスとは違い、この雑技は人間の能力を再確認できる超人的な技が見どころとか。劇場には目の青い欧米人の多さが目立ちました。

「夕食は名店「成隆行蟹王府」にて上海蟹料理」 今回のツアーは期待以上のものが多かったが、上海蟹料理だけはガッカリ。上海随一の名店らしいが、蟹とは言っても上海のは、小さすぎて食べるところがほとんどない。脚などに至っては箸も通らないほどで、やっと取り出した身は爪楊枝くらい、口に入れても蟹の味がしない。

ここで蟹を食することにより、わが日本には「ズワイガニ(松場?ガニ)という素晴らしいものがある事」を強く感じる機会となりました。
以下(最終4日目は)次号へ

 















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エンターテイメント179

Trip&Tour (21-2     

2つのシェラトンに泊まる! 名店「成隆行蟹王府」で上海蟹を食す!上海・無錫・蘇州4日間  2 
  
 
     

2日目(曇りときどき晴)

 6:30 シェラトン無錫浜湖ホテルで バイキングの朝食

無錫市 ; 中国南部に位置し、上海から130km離れた街。現地ガイドの話によると、かつて錫鉱石の採掘量が多い土地だったが、漢代初期のころまでに掘り尽くしてしまい、そこから「錫の無い街」無錫と呼ばれるようになったとのこと。

無錫市は、上海市と南京市のほぼ中間に位置し、常住人口約643万人(戸籍人口約468万人)、面積4,788平方キロメートルの都市。南に中国五大湖のひとつである太湖を臨む、長江流域「江南」の美しい古都で、古くから「魚米の里」(物産豊かな所)として知られています。

また、総合工業都市としてめざましい発展を遂げており、日系企業など多くの外資系企業が進出し、経済中心都市の一つとなっています。

太湖の面積は、琵琶湖の3倍以上もあり(水深は約2mと浅いらしい)、湖中の48島の小島が、湖に面した山や半島とともに、72峰とよばれ、美しい景色を形づくっています。また、太湖に突き出た黿頭渚公園の園内には、日本から贈られた桜の木が多数植えられ、春にはたくさんの花見客で賑わっているとのこと。

≪無錫市内観光≫

「太湖畔と淡水真珠工場」

無錫という市、緑が多く、町が美しく、「ここがほんまに中国?」と同行の皆が驚くほど。太湖へのバスの途中で若くて(初めはそう見えた)かっこいい美人女性ガイドがに乗り込んできた。彼女の案内でまずは太湖畔を散策、その後バスの中でこれから行く 淡水真珠工場の案内や無錫のPR。

真珠工場に着くと、造っているのは真珠ばかりと思いきや、場内一室で「クリーム(真珠)」の実演販売。工場を後にした直後気になる女性ガイドがバスから降車、「真珠工場の回し者だったのか」とその時気が付く。

「南禅寺商城」へ

無錫市の市中心部には古い歴史をもつ南禅寺(なんぜんじ)という寺院があり、多くの観光客が訪れていた。南禅寺の周辺は商業街(買い物スポット)になっており、無錫市旅遊街とよばれ市の観光名所に指定されている。

南禅寺にマッチするような外観の商業街になっているため、雰囲気はいい。上海の豫園(よえん)、蘇州の観前街のように、観光スポットと商業街が一緒になったパターンらしい。中国ではよく見かける観光地モデルのひとつとか。

              

バスにて蘇州へ

蘇州市 ; (そしゅうし、中国語: 蘇州市/苏州市、)は、中華人民共和国江蘇省東南部に位置する地級市。 古くから絹織物で発展し、上海市に隣接する地の利もあり、現在も省の経済的中心である。

人口1046万人(‘17.10)、中国340中9番目の大都市である。

≪蘇州観光≫

「寒山寺」 ; 江蘇省蘇州市楓橋鎮に所在する臨済宗の仏教寺院。蘇州駅南南西3kmにあり、寒山拾得の故事で名高い寺院でもあります。

1940年の日本映画『支那の夜』の挿入歌『蘇州夜曲』でも、登場する寺院です。 歌の三番の最後のフレーズが「涙ぐむよなおぼろの月に 鐘が鳴ります寒山寺」とあります。 22年前の研修旅行の際にも訪れたはずですが、文化大革命の後遺症か閑散としたモノクロの印象しかありませんでした。が、今回の訪問でお寺周囲も含めカラフルで絢爛たるお寺となっていました。

「世界遺産 耦(ぐう)園」 ; 世界遺産の蘇州園林のなかの一つで、1876年に造られた。持ち主は清代の蔵書家・沈秉成。最愛の妻とともに過ごす私邸として造られたため、数ある蘇州の庭園のなかでももっともロマンチックなデザインといわれる。建築物や、屋内に飾られた書画など専門家の評価も高いらしい。

「世界遺産 京杭大運河」 ; 北京と杭州を繋いでいる「京杭大運河」は中国の歴史を大きく動かした「大運河」です。隋の時代となって、暴君のイメージが強い皇帝煬帝が行ったもっとも有名な事業です。運河の開削によって、それまで陸路でしか往来できなかった北部の黄河流域と南部の長江流域が結ばれ、中国統一の基盤が整備されました。
                

お昼は「松鼠桂魚」や「おこげ料理」の蘇州料理

新幹線にて蘇州から上海へ、途中車内の案内表示装置に最高297kmの表示が。

夕食「巴国布衣」にて四川料理と変面ショー

黄浦江ナイトクルーズ 上海は浦東(プードン)地区の夜景を見ながらのクルーズ。船上より両側の対照的なライトアップの夜景を楽しむことができた。

驚いたのは船から見るその風景、22年前には対岸にボディの途中が丸いテレビ塔しかなかった。それがどうだろう。前月号の「おもいつくままに」にも書いたように、「その周辺に632mの超高層ビルShanghai Tower、や森ビルなど近未来的なビル群。これらが発する光と色彩に感嘆するほかなかった。ここはまさに香港の100万ドルをしのぎ、「200万ドルの夜景」と銘打つだけのことはあった。

    

今夜からの2連泊のホテル「シェトラン虹口三至来登酒店」へ。

 









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エンターテイメント
178   2018.12

Trip&Tour (21-1)  

  2つのシェラトンに泊まる!名店「成隆行蟹王府」で上海蟹を食す! 上海・無錫・蘇州4日間 (トラピックスの命名) 2018.11.14 ~ その1


1日目 11/14 (曇りときどき晴) 

この旅行会もSさんの名コンダクターのおかげで回を重ね、ついに10回目、続いていた東南アジアをちょっと離れて今回は中国へ。

9:15 関空発 ANA 11:15 上海浦東(プードン)国際空港着、朝食は機内食。

上海新場古鎮

上海浦東(プードン)空港着後、「バスにて無錫へ」の途中、近代的な幹線道路から少し入ったところにこんなこんな町が。
  

1128年ごろに形成された街で、当時は海に近いため塩を作る街として知られていた。路地や運河沿いには明〜清代に建てられた民家や橋が並び、レストランや工芸品店も多い。映画『ラスト、コーション』のロケ地としても有名だとか。

一路無錫へ 車に戻り、高速道路を蘇州経由で。車から見る人口2400万人の上海、高層ビルが立ち並ぶ風景は(行ったことはないが)マンハッタンにも似た大都会の風景。

蘇州夜曲で知られる観光地蘇州も経済発展し、高層ビル・高層住宅が林立し。今では人口1200万人の大都市に。

バスの窓外に目をやると、中低層の住宅や店舗などを地域丸ごと取り壊し、その周辺に入居者もいない高層ビルや多くの高層住宅を建てている現場を何か所も目にした。 無錫到着後南禅寺商城散策。

夕食は 「スペアリブ」がついた無錫料理。
 

無錫夜の古運河遊覧(夜のオプション) 運河の遊覧船に乗って夜景を楽しむことができた。無錫は観光に力を入れていて、運河沿いの岸辺の家々などイルミネーションでライトアップされて町並みがとても綺麗でした。また船内には「無錫旅情」の曲が流れており、旅情に浸ることに。

その後 無錫蜜群遺址博物館見学してホテルへ

宿泊1日目は シェラトン無錫浜湖ホテル














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エンターテイメント№177  2018.11  私の読書歴44
「ひろ坊」が選んだ作家と小説 2作品 Ⅱ 

司馬遼太郎 ; 私の読書歴で読んだ本が最大の量と思えるのはやはり司馬遼太郎。小説以外でも「街道をゆく」43巻、「この国のかたち」も6巻ほかエッセイも多い。どれも素晴らしい膨大な作品群のなかで2冊というのはいかにも厳しい。それでもあえて挙げるなら①「龍馬がゆく」もう1冊は②「坂の上の雲」か。

石原慎太郎  ;  政治家である反面、もとはといえば、1955年「太陽の季節」で華々しくデビューした芥川賞作家。私の選ぶ1冊目 ①「わが人生の時の時」、 次点は②「弟」。 「弟」は私の青春時代から熱烈ファンだった弟裕次郎を描いた作品だから。田中角栄を描いた晩年(まだ亡くなられてはいないが)の作品「天才」も面白く読ませてもらった。

三島由紀夫 ; 自衛隊市ヶ谷駐屯地でのあの事件は私の脳裏に強烈に焼き付いている。1冊目①「豊饒の海」そして②「金閣寺」。吉永小百合や山口百恵で映画化された「潮騒」もこの人の作品。

川端康成 ; ノーベル文学賞作家、その後自死。 ①「伊豆の踊子」、②「雪国」、〈国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなつた〉私の中に入り込んでいる。

安倍公房 ; ①「燃え尽きた地図」、次に②「他人の顔」

埴谷 雄高; ①「死霊」だけは読んだが。

五木寛之 ; 「蒼ざめた馬を見よ」「さらばモスクワ愚連隊」は20代のころ読んだ。①青春の門 「第1部 筑豊篇」「第2部 自立篇」「第3部 放浪篇」「第4部 堕落篇」「第5部 望郷篇」第6部 再起篇」「第7部 挑戦篇」「第8部 風雲篇と超長編。  ②「戒厳令の夜」

井上靖 ; ①「孔子」分厚い立派な装填を買った、②「氷壁」

大江健三郎 ; ノーベル賞受賞、暗くてネガティブ作品が多く、あまり好きな作家ではない。 それでも4~5作品は読んだ。①「万延元年のフットボール」。大島渚監督で映画化された②「飼育」

幸田文  幸田露伴の娘、思春期の時読んだ①「おとうと」、②「流れる」

山崎豊子 ; 好きな作家10人に入る。社会派といわれるだけに徹底した取材でどれも長編で素晴らしい、2作品だけといわれると迷う。①「大地の子」=何故なら2歳の時、北朝鮮から引き揚げ、母が命がけで連れて帰ってくれなかったら私も大地の子ならぬ「半島の子」となっていたかもしれない。②「華麗なる一族」=私も一応銀行員として契約社員含めて45年間勤務。他に「沈まぬ太陽」「白い巨塔」「女系家族」「不毛地帯」「運命の人」など、どれも夢中で読んだ。

 











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  エンターテイメント176  2018.10

海外旅行総集編 その2
2007.4
  韓国済州島(会社慰安旅行)

 ロッテホテルJeju このホテルに泊まるだけでもお値打ち。夜はホテル周辺のビーチにオランダの水車ライトアップ、ガーデン内の火山爆発などのショー、そして一番楽しみなギャンブラー気分に。

ホテル内で私初めてのカジノ経験、思い出してみるにのちに行ったマカオと比べて、入場はパスポートが必要であり、一度中へ入るとカクテルなど洋酒が無料、格段に高級感というかVIP気分を。

翌日は島内観光、馬に乗り小林旭気分に(渡り鳥シリーズ)、なったり、バギーで疾走も。島は5月でホテル内のサツキ満開、ハンリン公園などもチューリップなど花爛漫。 

2009.2  台湾(カミさんと)新幹線に乗る高雄・台北4日間」 
少し贅沢な旅行だったので、高雄・台北とも圓山大飯店(台北はスイートR)。新幹線はビジネスクラス。乗る前受け取った豪華弁当を車内で食べ終わったころに、何も言わないのにホットコーヒーが来たことにちょっぴり感動。

日本語上手な年配のガイドさんの好意で、連れて行ってもらった「予定になかった愛河(アイフォー)のランタン祭り」にも感動。 

2010.10  韓国 (友人と二人旅)「④つの世界遺産を巡る~釜山・慶州・水原・ソウル3日間」

慶州 ①世界遺産慶州歴史地域(雁鴨池ライトアップ観光) 慶州月城良洞民俗村

〃②世界遺産石窟庵 仏国寺 高速列車KTXにてソウルへ 明洞散策 ソウル

水原 ③世界遺産水原の華城

ソウル④世界遺産宗廟 

2011.7  韓国(三水会6名) ソウル国会議事堂 ソウルタワー ①世界遺産水原の華城

②世界遺産宗廟 → 南山韓屋村→ ロッテワールド →③世界遺産江華の支石墓群→伝灯寺 ④世界遺産朝鮮王陵〈宣陵〉  ⑤世界遺産昌徳宮 

2012.4  台湾(三水会10名) 「おきがる台湾縦断4日間」  台北九分 →台湾新幹線

→高雄 寿山公園蓮池潭(竜虎塔) 史跡赤崁楼(台南市) 宝覚寺(巨大な弥勒菩薩)

日月潭  文武廟  故宮博物館  忠烈祠(衛兵交代式)  鼎泰豐(小龍包)饒河街夜市  101展望台














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 エンターテイメント 175  2018.09

海外旅行総集編 その1

    行った順に  「タイ・香港」 「中国・香港」 「韓国」 「タイ」 「台湾」 「韓国(済州)」 「韓国」 「韓国」 「台湾」 「カンボジア・ベトナム(ハノイ)」 「インドネシア」 「韓国」 「マレーシア」 「ミャンマー」 「ベトナム(ダナンなど中部)」 「香港・マカオ」 「インド」 「ベトナム(ホーチミン)」 (赤字は三水会

三水会での次の旅行が決まりました。みんな歳をとってきているので「長いフライトはつらい」「乗継の時間待ちが長すぎる」などの意見が多く、近場へ行くことに。済州も候補でしたが最終的に11月中旬「上海・蘇州・無錫へ8人」でということになりました。

「三水会」とは会社でともに仕事をしたOB仲間で、毎月第3水曜日に集まる飲み会です。この会での旅行、次で世話人のYさんと私が参加してからちょうど10回目、私の海外は、米・欧など西の方へは一度も行ったことがありません。

いままでの海外を思い出してみるに、上記の通り徹底してアジア・東南アジアであります。最初から7回は旅行明細などとってなかったので詳しくは思い出せませんが、その後はパンフなど整理して残しています。今月号は2009年までの旅行を思いだしてみます。

1991.5  タイ・香港(取引先と2人)   タイのガラス工場見学  近畿銀行香港支店訪問  

取引先の「バンコク郊外の工場見学」、私にとっては初めての海外。関空の開港は1994年なのでこのときは伊丹からバンコクへ。バンコク→香港間は (キャセイパシフィック)ファーストクラスを利用。このころの香港空港は着陸が世界一危険といわれた啓徳空港。100万ドルの夜景ビクトリアピークは写真に残っていない分、目に焼き付いています。

1997.9  中国・香港 (支店長研修10名)上海→蘇州(経済特区) 香港→深圳→東莞(船井電機工場見学)

今でこそ世界の工場どころか、最先端の技術を持つ世界第2の経済大国。このころの中国 鄧小平の政策「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である=白猫黒猫論」で「改革・開放」政策を進めて間もないころ。このときからたった20年しかたってない。 

    「上海」へは、関空から2時間足らずで。研修旅行ということもあって主に「上海」や「蘇州」の経済特区を見学。数日後上海から飛行機で香港まで飛び、香港から九龍半島をマイクロバスで陸路目指した。返還(直)前だったので、九龍から中国本土へ向かう途中の道路上の「税関」を経由した。

2003.1  韓国(カミさんと)  ソウル 明洞 東大門 南大門 

このころは韓流ブームの少し前、「李明博の竹島」はかなりあとで慰安婦問題もないころ。極寒時のソウルの「寒さ」を実感することに。ホテルはロッテホテル、焼ける前の南大門も写真に残っている。個人旅行だったので二人に一人のガイド付がつき、有名店での鋏で切るカルビは美味しかった。

2006.5  タイ(カミさんと)  バンコク→アユタヤ

    この旅行も個人旅行だったので私たち二人に一人のガイド付き。日本留学経験もある現地ガイドと親密に、バンコクでは普通の観光客には案内しないところも。その後も数年間このガイドが私のホームページを見てくれていて、メールのやり取りをした。アユタヤの遺跡には圧倒されたが、バンパイア宮殿の美しさに感動しました。










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エンターテイメント
№174 
  2018.8     
私の読書歴 
43  
        
    

「ひろ坊」が選んだ作家と小説 1

若いころは「国木田独歩」で始まる「昭和39年新潮社刊日本文学全集72巻」や、「同43年発刊の河出書房世界文学全集42巻」はほとんど読んだ。

この日本文学全集では、68巻目にやっと「三島由紀夫」が収まったたぐらいで、あと「石原慎太郎」の太陽の季節はじめ、その後日本の文壇で活躍する「大江健三郎」「松本清張」「福永武彦」「庄野潤三」「遠藤周作」などは「新人」として、最後の2~3冊に一人1冊ではなく何人かまとめて出てきたと記憶している。

河出書房「世界文学全集」全42巻。これは東京勤務時代に会社の何人かで予約注文し、配本の都度勤め先へ配達してもらっていた。かなり分厚いもので字も細かく詰まっていて、「ホメロス」から始まり、「シェイクスピア」「ゲーテ」「ドストエーフスキー」「トルストイ」「ヘミングウェイ」など長編が多く収められていた。38巻目にかなり哲学的な小説家「カフカ」と「サルトル」が収められていた。

20代前半ごろから好きな作家のハードカバー描き下ろし出版を待って買うのが好きだった。本屋で初版本を手に入れて、その本が版を重ねると悦に入っていた。

前述の日本文学全集「新人」として掲載された各作家の小説、つまり昭和30年代から現在まで読んだ本の中から「面白かった本」を選んでみることにした。一作家一冊だけとなると少ししんどいので次点としてもう一冊を選んでみた。

浅田次郎; 60年あまりの読書人生の中で「一番面白かった小説を一つだけ挙げよ」と言われたら何を選ぶか。文学的な価値とか難しいことではなく、「面白かったという基準だけで選んだとしたら」である。それでも大変迷うことになるはずであるが、私の場合、あっさり浅田次郎の①「蒼穹の昴」を挙げる。

もともと清朝の末期、西太后の時代に興味があった。映画も「ラストエンペラー」が大好き。この物語は清朝の時代、燃料用の牛馬の糞拾いを生活の糧とする貧しいが、利発な少年「春児(チュンル)」が自ら男の大事なところをちょん切り、ついには紫禁城で西太后直々に仕える宦官の頂上に、同じ簗家屯地方の名主の次男「簗文秀(リャンウエンシウ)」が科挙の難関を次々と突破して、挙士となり、「月日も動かす」進士に、しかも状元という最優秀の成績で登第されていくという二人の出世物語である。

主人公は上記の宦官と科挙であるが、「中国三大悪女」と言われた「西大后」を、巷間言われているような人とは少し違った血も涙もある「女性」として描いている。かなりの長編であったが一気に読んだ。この蒼穹の昴の副産物というか「蒼穹」発売のあとすぐ「珍妃の井戸」という描き下ろしも出た。

面白くて夢中になって読んだ長編は、読み終わってしまうとロス感がある。終わってしまったはずの「蒼穹」のあと、しばらくして、「中原の虹」というスケールの大きい続編が出た。「あの宦官や科挙の青年たちはどうなったか?」と、喜んで買ってきたものである。
浅田の②は 「終わらざる夏」

高橋和己;20代前半、東京にいたころ学生たちがよく読んでいたかなり左翼な週刊誌「朝日ジャーナル」を購読していた(そのころは「安保反対だったし今のように保守反動ではなかった)。その中に連載していた(大本教・出口王仁三郎をモデルとした)小説②「邪宗門」で出会った高橋和己。若くして亡くなった(39歳)ので20冊ぐらいしか出ていないが、その後出版されたこの人の本はすべて読んだ。
①「わが心は石に非ず」。

私が読んだ本の中で、頁数がおそらく最大と思える司馬遼太郎以下については次の機会に。











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エンターテイメント
№173 
  2018.7                      
     役者と「役」のイメージ

歴史上の人物など小説のテレビ化、映画化で気になるのはその人物の心象。演ずる役者によって、(私の中で)イメージが「固定してしまう」というのがよくある。たとえば幕末モノなどで薩・長・土勤王藩士や新撰組隊士の役。勤王の志士たちの魅力もさることながら、私は何故か新撰組の面々に興味がある。

なかでも、函館五稜郭まで行って最後の戦いに挑んだ土方歳三。「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者となり、明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。
この新撰組について言えば、なぜか私のなかでは土方歳三は渡哲也、近藤勇隊長はハナ肇、と決まっている。他の俳優が彼らの役をやってもピンとこないし、観ていても慣れるまで時間がかかる。いつか観た映画かドラマでイメージがぴったりはまり、それ以降は私の中でこびりついてしまっているからであろう。

13代将軍徳川家定の御台所(正室)となった篤姫は大河ドラマ「篤姫」は宮崎あおい、そして「西郷どん」の北川景子。先に観て私の中にストンと落ちている宮崎ではあるが、北川篤姫も悪くない。二人とも写真で見る天璋院篤姫よりはかなり美人で、やはりドラマのヒロインはきれいな方がいい。

幕末のころの人物には結構写真が残っているのでそのイメージで見てしまうが、坂本龍馬はあの写真のイメージより、司馬遼太郎の小説「龍馬が行く」を読んで作ってしまったイメージの方が大きい。颯爽とした男前、いつかの大河「龍馬伝」の福山雅治は私のイメージに近い。

信長も(前述の土方もそうであるが)渡哲也、家康は津川雅彦のタヌキおやじぶり。そして秀吉、本当にいろんな人が演じたのを観たが竹中直人が一番印象に残っている。

そういうことでいけば今の大河西郷どんの鈴木亮平、若いときの鈴木西郷はいまのところあまり違和感はない、これからどうなるか。いつか見た東映の大作映画では里見 浩太朗が演じていたが、あの上野のお山の銅像に似たメイクだった。

西郷隆盛、東京・上野の銅像の除幕式のとき臨席していた西郷の未亡人・糸が、幕が外された銅像の顔を見るなり「ちご、ちご!うちの旦那さんは、こげな人じゃなか」とつぶやいたそうである。

ことほど左様に、実際と伝わっていくイメージは変わっていくのだろう










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エンターテイメント№172   2018.6           
     あいついだスターの死  

2018年2月21日大杉漣 、4月27日 朝丘 雪路、5月16日 西城秀樹、 星由里子    

最近になって立て続けに大物芸能人の訃報に接した、特に後の3人はほとんど同時だった。

大杉漣は平成になって活躍が目立ったが、他の3人はどちらかといえば昭和のスター。

大杉漣  現役活躍中の突然の死は耳を疑った。旅行番組のレポーター?、平凡な父親役、恐いヤクザなどどんな役もこなせる名優。映画「泣いたらアカンで通天閣」、TVドラマ池井戸潤の「花咲舞は黙っていない」の父親役を思い出す。

朝丘 雪路  イレブンPMのホステス役が懐かしい。この人の印象は芸能人にしてはあまりにも「いいとこ」の御嬢さん、そのセレブぶりの逸話は枚挙にいとまがない。お嬢ちゃんが誘拐されたときはママよりパパの津川雅彦の動静が注目された。

星由里子  最近まで舞台などで活躍していたようだが、私にとってはデビューしたころ、加山雄三の若大将シリーズのマドンナ役がまぶしかった。1961年から10年にわたって17本ものシリーズ(うちシリーズ後半は酒井和歌子)に出演。若大将の恋人役、今のテレビタレントではない本当の意味での銀幕のスター女優。

ちょうど私の高校1年からかけだしの社会人時代と重なる。吉永小百合より1学年上のはずであるが芸能界デビューは小百合のほうが先。そのころサユリストだった私にとっては、「もっときれいな人が現れた」と思い、胸をわくわくしながら映画館へ足を運んだのを覚えている。

加山雄三が東宝からデビューしたころの私は日活一辺倒、寝ても覚めても裕次郎の私にとって当時の加山にはそれほど魅力は感じなかった。それでもシリーズを見に行ったのは星由里子目当て。裕次郎がどこか不良っぽく、出演作どれも裕さんが出ているだけでよかった。

その日活の救世主的な裕次郎に対して東宝では対抗できるスターが必要だった。その後は黒澤監督作品に出るなど俳優として成長、音楽の方ではある意味シンガーソングの元祖的な存在になっていったが。

若大将シリーズで澄ちゃん役のめちゃきれいだった「星由里子が突然結婚」の報道に心が揺れた、相手はあまり評判のよくない実業家の御曹司で別れるのも早かった。この結婚で私の心は吉永小百合に戻った。

西城秀樹  新御三家。私の世代は断然初代のご三家、カラオケで歌うのは舟木一夫、橋幸夫で、西城や郷ひろみの歌は歌ったことがないし歌えない。そうは言っても「秀樹 感激!」のころのファンの熱狂ぶりはすさまじいものがあった。TVドラマ「寺内貫太郎一家」での親父との喧嘩ぶりはよくも観ていた。63歳、私より10歳も若い。
ご冥福をお祈りします











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エンターテイメント
№171 
Trip &Tour (20-3)  2018.4
   わくわく♪ホーチミン5日間 Vol Ⅲ   2018.1.30~2.3  

4日目
本日のOP(オプショナルツアー)はクチトンネル観光と、夜は民族舞踊鑑賞とベトナム料理の夕食。

「クチトンネル観光」についてはあまり知識もなく、行く前は「ベトナム戦争と関連あるトンネル」?。そんなものが「観光資源」になるんかなあ」ぐらいにしか考えていなかった。

このトンネルは、ホーチミン市の西北70kmほどの距離にあり、南ベトナム民族解放戦線(いわゆるべトコン)の有力な拠点だった。

バスはホーチミン郊外の道、途中いくつかの田舎の村を通り過ぎていった。途中ゴムの木の林や、市内へ出荷する花などを作る農家もあった。

バスが着いたところは私の田舎の山村にある林のようなところ。そこに大きなトンネル分布地図の看板がなければどうということのないところ。まずは看板の前で全員の集合写真。あとすぐに地下をくぐって林の中へ、そこで観たものとは!。

そのトンネルは、一見何の変哲もない雑木林の下に掘られていた。それはまるで、蟻の巣のようにはりめぐらされ、全長は実に200キロメートルにも及ぶという。

見学用として実際に入ることができるトンネル(というより穴)、15分コーストと30分コースどちらかを選択できたが全員一致で15分コースへ。中は大人が身をかがめて、這うようにしてやっと進めるくらい。私は中腰で歩いたが、前を行く背の高いSさんは途中から這って進んでいた。ベトナム人は比較的背は低いが、完全武装の大柄な米兵ではとても入れないはず。それでも見学用に元より少し広げたとのこと。

トンネルの周りには、多くの落とし穴が設けてあった。また兵士一人がやっと入れる隠れ穴もあり、我々一行のなかのKさんが入ってマンホールのふたのようなものをかぶせ、その上に落ち葉などをひいた。まさかそこに人が隠れているなんてことは考えられないだろう。

しかも村民たちは、このトンネルの中に潜みながら、生活を続けていたという。そこには子供たちの勉強する場所(学校)などもあったようだ。もちろん食料も自足自給で村一丸となって、生活しながら戦っていたことがうかがえた。生活するとなると食事を作る煙も発生する、それも少し離れた穴から出るように工夫されていた。

このトンネルを見学して初めて、南ベトナム民族解放戦線の実態が分かったような気がした。粗末な手製の武器や古風な落とし穴戦術などで突然侵入してきた外国軍に対し、平和な暮らしを取り戻すべく立ち上がった民衆のエネルギーが感じられました。

ここでベトナム戦争について、少しおさらいしてみることにしたい。

ベトナム戦争が本格化したのは1965年頃。

この戦争は、インドシナ戦争でホーチミンらがフランスの植民地支配を打ち破ったことにはじまる。ホーチミンらがベトナム全土を支配することを嫌ったアメリカは、ベトナム南部に傀儡国家=「ベトナム共和国」を樹立した。

ホーチミンらがベトナム全土を共産主義化し、さらにドミノ倒しのように他の東南アジア諸国も共産主義化することを恐れたからのようです(「ドミノ理論」)。これに対し、北ベトナムの支援の元に解放戦線が戦ったのがベトナム戦争。

そしてそのエネルギーが、いままで一度も戦争で負けたことのない大国、近代兵器に身を固めた巨象を打ち負かすことができたのに違いない。

クチトンネルを後にし、高級ベトナム料理を味わいながら民族舞踊鑑賞のためレックスホテルへ。

5つ星のラグジュアリーホテル「レックス・ホテル・サイゴン」の5階フロアに営業しているホアマイ・レストランは、一流シェフが料理に腕を振るうベトナム料理および中華料理レストラン。5つ星と銘打つホテルのレストランといえば、敷居が高いイメージがあるが、このレストランは上品ながらも気軽に入れるカジュアルさもあるとのこと。

ショーが終わって舞踊団にチップを渡し、記念撮影を。4連泊したホテルに帰るバスの中、なにか名残惜しいホーチミンの夜、ライトアップされたホーチミン市人民委員会などを写真におさめた。
 

5日目
その後ホテルへ戻り、早朝(というより深夜)帰国のため荷物を整理しつつ迎えのバスを待つ。ガイドから弁当?を受け取り、現地時間深夜1時半ごろホーチミン空港へ。弁当の中身は焼いてない食パンとヨーグルトのようなもの、そしてベトナムのちょっと解らない缶詰。そのまま捨てるわけにもいかず、空港で少し食べて港内へ。

ホーチミンから香港3時間ほどのフライト、乗って間もなく機内食。香港空港内レストランでビールを飲みながら4時間ほど時間をつぶし、香港航空に乗り込んだらまたしても機内食・・・・。

美味しくない機内食を摂りながらいつもの「けつねうろん食べたい」気持ちに。関空着は17:30、例によって空港内がんこ寿司できつねうどんと握りずしを食べながら、空港バスなど帰りの交通機関時間に合わせ三々五々流れ解散へ。お疲れ様。









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エンターテイメント№170 Trip &Tour (20-2)    2018.3       

わくわく♪ホーチミン5日間 Vol Ⅱ   2018.1.30~2.3

 3日目 (2/1)

今回のトラピックスツアーは基本料金を低く抑えて、3日目 4日目は基本自由行動でオプショナルツアー(OP)を用意。3日目のOPは、「ミトーメコン川クルーズ」。夜は夕食のついた「水上人形劇鑑賞」、以前ハノイでこの人形劇は観ているので、パスしてホテル周辺のどこかいい店で飲み会をということになった。

メコンの名はタイ語に由来するらしい、東南アジア最長の川で、中国・ミャンマー・ラオス・タイ・カンボジア・ベトナムを流れる。全長約 4350km。流域面積約 81万km2。中国青海省南部,チベット高原の東部にあたるタンラ 山脈に源を発し、ランツアン江と呼ばれて雲南省を南流したのち、ミャンマー・ラオス国境、次いでラオス・タイ国境をなしながら南へ流れる。

さらにラオス北部の山岳地帯を貫流、再びラオス・タイ国境となって東へ南へと流れ、カンボジア平野に流入。ここを南流して横切り、プノンペン付近で右岸にバサック川を分流したのち、ベトナムに入り、広大なデルタをつくりながらホーチミン市の南方で南シナ海に注ぐ。

朝、何時ものバスに乗り、ホーチーミン市内からミトー(Mỹ Tho)まで、途中高速道路に乗り 1時間30分ぐらい。例により車窓から走っている車の観察、相変わらずバイクが多い。バスはほとんどがヒュンダイ(現代)、私たちの乗るバスも。タクシーや乗用車はトヨタが多いが、ヒュンダイやキヤがそれに次ぐ、あとはホンダ・三菱など。

港から30人ぐらいは乗れそうなエンジン付きボートでメコン川沿いをクルージング。さほど広いとは思えない川に見えたが、向こう岸は中洲の島らしい。たくさんの実をつけたココナツ椰子や、大きな実をつけた木々が茂る島へ、島全体が果樹園になっている。

上陸?して、まずははちみつ園へ、可愛いスタイルの良い娘さんが蜂蜜の巣を抱えて観光客に見せていた、園主のお嬢さんらしい。蜂蜜に栄養価の高いお茶を混ぜ、キンカンの汁を絞ったものを試飲、甘く体が熱くなるような気がした。ここで大きなニシキヘビ?を首に巻いて、はい・ポーズ。

あと、ココナッツキャンディ工場も見学、また別のところではハスの実やバナナのドライフードも試食。

島の密林を歩いていると下のほうに小さな川が!、よく見ると現地の人が手漕ぎする小さなボートが。私たちもこれに4人づつに分かれて乗り、マングローブの林をボートで進むデルタクルーズ。ここではベトナムらしい南国気分を味わうことができた。そしてこの小さな舟が大メコンへ、ここ川中でエンジン付きの船に乗り換え元来た港へ。

ミトー料理の昼食は生春巻きとフォー(ベトナムのうどん)。鯛のような(怪魚のような)焼き魚を垂直に立て、この身を野菜などと生地に巻いて食する(店員が巻いてくれる)、ビールはサイゴンビール。食事の後バスはホーチミンのホテルへ。

夕食は地元のどこか美味しいところをと、ガイドに教えてもらい、おすすめの中華料理店をめざし夜のホーチミンをぶらり。徒歩15分ぐらいということだったが、途中日本料理店や居酒屋が立ち並ぶところで胸もあらわな十代と思えるマッサージ嬢が強烈な客引き。捕まって連れて行かれそうになった人も。

ベトナムへきて初めてベトナム料理以外を味わうことに。当地ではかなりの高級店なのだろう、中華なので変な香草などもなく味はまあまあ。他ではあまり食べられなかった分、ここではお腹がいっぱいに。










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エンターテイメント№169 Trip &Tour (20-1) 2018.2
  わくわく♪ホーチミン5日間 Vol Ⅰ 2018.1.30~2.3  

 1日目 (1/30)

このメンバーでの海外旅行は9回目、今回はその旅行会3度目のベトナム。初回は2013年4月、「アンコールワットとハロン湾」の組み合わせでベトナムはハノイだけ。2回目は2016年4月、南北に長いこの国のど真ん中でこの国3番目の大都市ダナン。周辺にリゾート地やホイアン・フエなどの古都。そして今回はベトナム最大の都市ホーチミンだけに滞在する。

メンバーは昨年1月のインド旅行から2人減って8人。

 安いツアーは直行便を使わず、売れにくい時間帯の他空港経由が多い、この旅行も香港経由。関空で出国手続きを済ませ、いつもの出発式乾杯の後 16:50発で乗り継ぎの地 香港(着20:15)へ、航空会社は香港航空。香港もかなり寒く7度前後とか。空港3時間弱の滞在後、23:05発でホーチミンへ。機は到着予定の00:50からかなり遅れて真夜中のホーチミン空港へ。

ここで海外旅行経験初めてのハプニング、乗り継ぎの場合荷物は直接目的の地へくるはず。コンベアの荷物がいくら待っても誰のものも回ってこない。かなりの時間が経ってから「荷物はこれで終わり」との係員のジェスチャー。私たちの荷物は何処へ?、問い合わせに行くと「荷物はまだある」との説明。

やっとのことでキャリーバッグを手にして現地ガイドが待つ空港の外へ。そのガイド、居たにはいたが、なかなかホテル行きのバスに案内しない、理由はツアーメンバー19人のうち二人が居ないのでバスを出せないとのこと。

その2人は「ガイドを見つけることができず直接ホテルへ行ったらしい」とのことで、予定より1時間以上遅れてAM3:00(日本時間5:00)を過ぎてホテル到着。

2日目(1/31)

空港から20分ほどで4日間連泊するアジアンホテルへ。このホテル市内観光する拠点としては、立地は良く便利。コンビニ、お土産屋も近くにあり、隣のビルにはデパートも。ホテルは古いがフロントスタッフの皆さんがにこやかでフレンドリー。ほとんど寝る時間もなく8:30朝食、部屋で出発の12:00を待つ。

昼間バスで行くホーチミン市内観光予定は、統一会堂・サイゴン大教会・中央郵便局・天后宮(ティエンハウ寺)・ドンコイ通り海福寺・地元スーパーマーケット・総合民芸品店など。このうち統一会堂・サイゴン大教会・中央郵便局はホテルから歩いてもいける場所。

統一会堂 ; 旧南ベトナム大統領官邸でベトナム戦争終結のシンボル。政情が不安定だった時代に建物の呼び名もたびたび変遷し、 1873年から1955年の呼称は「ノロドン宮殿」、1955年 から1975年の間は「独立宮殿」、そして現在の統一会堂。

サイゴン大教会 ; カトリックの大司教座大聖堂、聖マリア大聖堂とも。サイゴンがフランスの植民地だった1863年から1880年にかけて建設された。

中央郵便局 ; 通常の郵便・通信業務を行っており、コロニアルスタイルの観光名所としても著名で、パリのオルセー美術館(当時駅舎)をモデルにしたといわれる。建物中心ホールの中央部および建物両翼は観光客相手のみやげ物売り場となっている。

天后宮 ; チョロン(中華街)にある道教寺院。 1760年に福建省出身の 華僑によって建てられたこのお寺には、 航海安全の守り神・天后聖母祀られています。海難事故から多くの人々を救った伝説を持つ天后聖母は、 はるばる海を渡ってベトナムにやって来た華僑たちから強い信仰を集めていたよう。

ドンコイ通り海福寺 ; 海福寺〔時宗〕. 本堂. 概要 元応年中(1319〜1321) 遊行二祖上人の弟子、但阿弥陀仏の開基といわれている。 本堂の左手に「三つ首様 」と呼ばれる珍しい墓があり、首から上の病を治すといわれ、お参りをする人が絶えないという。

ベトナム華人の代表的な同郷会館、穂城会館前では何とも鮮やかな金色の衣装をまとった人たちが、観光客相手に龍の舞・・・・。

ドンコイ通りトンボ ; 雑貨ショップが軒を連ねるドンコイ通り、その真ん中にあるトンボはバッグや財布など服飾雑貨が充実しているショップ。ベトナム人と日本人夫妻が経営するとあって、日本のトレンドをおさえた 洒落たアイテムが揃っている。ベトナム人経営よりかは品質もしっかりとのこと、店舗も広く、日本語が 上手いベトナム人スタッフもいた。

夜はサイゴン川ディナークルーズ ; 食事はツアーごとにテーブルが分かれており、一品ずつテーブルに運んでくれる。サイゴンビールとベトナム料理とをいただきながらベトナムの夜景を楽しむことが出来た。日本人観光客がいることを知ってか、伝統的なベトナム音楽とともに、日本の歌も4~5曲、酔うほどにいい気分に。










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エンターテイメント№168 2017.12月  

 2017亡くなった有名人へ ; ひろ坊のコメント 

1/3 神山繁 87歳 俳優 肺炎 ; ずいぶんいろんな映画に出ていたなあ、大物悪者も

1/21 松方弘樹 74歳 俳優 映画監督 映画プロデューサー 脳リンパ腫 ; 日本映画界最後の本物俳優、今の人たちはタレン

1/25 藤村俊二 82歳 俳優 声優 タレント 振付師 心不全 ; 昭和9年会 石原裕次郎と同年

2/7中山美保 78歳 吉本新喜劇 肺血腫による呼吸困難 ; 吉本のミボリン

2/8土屋嘉男 89歳 俳優 肺がん ; 黒澤映画7人の侍にも出ていた

2/13 鈴木清順 93歳 映画監督、俳優 慢性閉塞性肺疾患 ; 日活異色の監督「ツゴイネルワイゼン」

2/16 船村徹 84歳 作曲家・歌手 心不全 ; 大ヒット曲多すぎて、なかでもひばりの「みだれ髪」は私の19番

3/1 ムッシュかまやつ かまやつひろし 78歳 ミュージシャン 俳優 膵癌 ; ザ・スパイダース、それにしてもそのころ「3人ひろし」活躍した守屋浩、井上ひろし 古いなあ

3/14 渡瀬恒彦 72歳 俳優 多臓器不全 ; 淡路島出身 私の好きな渡哲也の弟

3/20 デイヴィッド・ロックフェラー 101歳 心不全 ; 銀行家・実業家・財団

4/6 京唄子 89歳 女優 漫才師 肺炎 ; 大口やけど大型美人

4/12 ペギー葉山 83歳 歌手 肺炎 :南国土佐を後にして、一度東京で会ったことがある、労音の打合せで。

4/17 渡部昇一 86歳 評論家、英語学者、上智大学名誉教授 心不全 ; 亡くなる少し前、石原慎太郎・堺屋太一とテレビで見た

4/23 三遊亭円歌 85(88)歳 落語家 結腸ガンによる腸閉塞 ; 山のあなあな若い人は知らんやろなあ

4/25 井上雅博 60歳 前ヤフー代表取締役社長 交通事故のため ; 若すぎる死

4/2727 佐田の山晋松 79歳 第50代横綱 肺炎 ; 渋い横綱だった

5/3 月丘夢路 94歳 女優 肺炎 ; 日活井上梅次監督の妻、松竹小津作品にも出ていた

6/13 野際陽子 81歳 女優 肺腺がん ; 思い出すのは千葉進一とキーハンターやなあ

7/11 上田利治 80歳 元プロ野球選手、監督 肺炎 ; 3年連続で日本一になるなど4年連続を含む5回のリーグ優勝

7/18 日野原重明 105歳 聖路加国際病院名誉医師 呼吸不全 ; 100歳を超えても「死ぬのは怖い」と言っておられた

7/21 平尾昌晃 79歳 歌手 作曲家 肺炎 ; 「みよちゃん」のころはあれほどの大作曲家になるとは思えなかった

6/22 小林麻央 34歳 フリーアナウンサー 乳がん ; 今年一番胸を痛めた「死」だった

8/28 羽田孜 82歳 元総理 老衰 ; 新進党

10/5 三条正人 75歳 東京ロマンチカ メインボーカル 悪性リンパ腫 ; 香山美子

10/26 篠沢秀夫 84歳 学習院大学名誉教授 ALSと診断 ; クイズ・ダービー

11/6 中村鋭一 87歳 元アナウンサー タレント 政治家 肺炎 ; 虎キチだけでなく政治家も務めた

12/2 はしだのりひこ 72歳 フォーク歌手、元フォーク・クルセダーズ メンバー 死因書いてなかった ; 「おらは死んじまっただぁ」

12/6 海老一染之助 83歳 伝統演芸・曲芸師 肺炎 ; 最近は一人で出ていた、正月この人たちが出てこないとさびしい

12/8 野村沙知代 85歳 野村克也氏の妻、タレント 虚血性心不全 ; 怖いおばはんというイメージ、一人になったノムさん寂しいやろなあ

 12/18 まつば ゴン太 ペット   老衰  つい呼んでしまう                                                             合掌












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エンターテイメント
№167 
2017.11月 
倍賞千恵子コンサート
   

10月4日、カミさんと「倍賞千恵子with小六禮次郎コンサート」へ 。何で今、倍賞千恵子かって?、私が唯一言葉を交わしたことのあるスター女優・歌手が大阪へ。また千恵子・美津子姉妹の自宅へも何度も行った、そのことは「おもいつくままに」
2004.6.6「忘れ得ぬ6月8日」、2004.8.「もう一度、倍賞千恵子さん姉妹のこと」へ2度UPしている。

コンサート会場は大阪上本町新歌舞伎座、この劇場の前はよく通るが入ったのは初めて。席は3階の2列目真ん中、舞台はかなり下に見える。歌は55年前の彼女のヒット曲、1962年発売の「下町の太陽」から始まった。この歌がヒットし、翌年彼女の主演で松竹映画となったが、東京に行く前、大阪日本橋支店にいたころこの映画を観た記憶がある。

1967(S41)年東京支店開店の日、彼女は窓口担当の私の横に座ったが、ほとんど立ったままお客さに(サインなどで)応対してくれた。当時銀行のイメージガールだったが、23才ぐらいだったか、彼女の一番綺麗な時期だったと思う。その時二言三言 言葉をかわしたが、彼女の家に行ったのは、振り込まれた映画のギャラを定期預金にしてもらいに。ご自宅ではいつもお母さんが相手をして下さった。

失礼ながら今はあのお歳(76歳)だから声の方は大丈夫かと、それは杞憂で、あの透き通った声は健在。高音も無理なく出ていて、うたう歌はいい曲ばかり、素晴らしいコンサートだった。アンコールは「さよならはダンスの後で」。

倍賞 千恵子(ばいしょう ちえこ、1941年〈昭和16年〉6月29日 – )は、日本の女優、歌手、声優。愛称は「チコちゃん」。 実妹は女優の倍賞美津子。弟は猪木事務所社長の倍賞鉄夫、日産自動車硬式野球部元監督の倍賞明。夫は作曲家の小六禮次郎氏。

彼女はこのコンサートで語っていたが、SKD(松竹歌劇団)に入る前の少女時代は童謡歌手だった、当時安田章子といったその後の由紀さおりはライバルだったらしい。映画俳優としては「男はつらいよ」のサクラ役はあまりにもポピュラーですが、高倉健と倍賞千恵子、名優・名女優が共演した「幸せの黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」「駅 STATION」は映画史に残る感動の名作である。

歌の合間にスクリーンが下りてきてあの映画「男はつらいよ」の一場面。「子供に飴玉の一つでも買ってやんな」と出された寅さんの財布には500円札1枚、妹のサクラはその財布に自分の財布から1万円札を」。このシリーズ全部で48作、すべてに妹サクラ役で。葛飾柴又にはフーテンの寅さんの銅像が建っているが、しばらくしてサクラの銅像もできているらしい。

トークの中で「私の大事な旦那さんは「前田吟」さんではありません」、と6歳下の夫小六禮次郎さんを紹介。

童謡歌手だっただけにうたう歌も童謡・小学唱歌など心に残る名作ばかり、作曲家でピアニストの小六禮次郎氏のピアノ伴奏で。

愛の讃歌  ♪さくら貝の唄 ♪叱られて ♪波浮の港 ♪月の沙漠 ♪港が見える丘♪さくらのバラード ♪オホーツクの舟唄 ♪花はおくらないで下さい ♪忘れな草をあなたに ♪しあわせについて ♪シャボン玉  ♪里の秋  ♪歌を忘れたカナリア(ネットと記憶で少し曖昧) 










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エンターテイメント
№166 
2017.10月 映画17

関ヶ原  2017.9.1  TOHOシネマズ 橿原

監督・脚本 原田眞人    原作 司馬遼太郎
石田三成 岡田准一 徳川家康 役所広司 初芽 有村架純 島左近 平岳大 小早川秀秋 東出昌大  

『関ヶ原』は、2017年制作の日本映画。石田三成と徳川家康を主人公に、豊臣秀吉の死から天下分け目の関ヶ原の戦いに至るまでの過程を描いた司馬遼太郎原作の歴史小説『関ヶ原』の映画化作品。司馬遼太郎の小説の映画化は、1999年公開の『梟の城』以来18年振りとなる。ウィキぺディアより

司馬遼太郎の本はかなり読んでいる。昔は「竜馬が行く」「坂の上の雲」など描き下ろし初版をハードカバーで買い本棚に並べるのが好きだった。年を重ねるにつれ「文庫本」を買うことが多くなっている。「街道を行く48作」などはほとんどそろっているし、他にも本棚の多くを司馬遼の文庫本が占めている。同氏の「豊臣家の人々」や、他の作家のこの時代のものもよく読んでいたので、「関ヶ原」も見たつもりが本棚になかった。

この映画の見所は主役(岡田)・準主役(役所)の演技力とテンポの良さ、それに合戦シーンの迫力。いつも自宅の46インチで見ているのとの違いは明らか。

光成は武将というより怜悧な官僚というイメージが強いが、この映画での岡田准一、義理堅い人情味のある人物を好演している。

タヌキおやじ家康の役所広司、まあこの俳優、昔は役所勤めだったらしいが、くそ憎たらしく演じて圧巻である。いま時代劇で北大路・津川・高橋も年老い、重鎮の役をこなせる俳優は少ない。

そしていま女優として成長中の有村架純、大型時代劇のヒロイン、大丈夫だろうかと観ていたがまあ合格点。

今回映画館へ一緒に足を運んだのは同市内の友達夫妻と、わが夫婦4人で。長男のママ友どうしでもある同夫妻とは飲んだりカラオケをしたり、時には政治論を交わす。政治・ビジネス信条などは似通ったところがあり、飲みながら話すと時間がいくらあっても足りない。今回も映画を観たあとの感想を4人で飲みながら語るのも楽しみ。

司馬遼太郎の名作小説を、岡田准一、役所広司、有村架純ら豪華キャスト共演で映画化。 (略) 原田眞人監督がメガホンをとり、石田三成の義を貫いた生き様を軸に、関ヶ原の戦いを真っ向から描き出す。幼くして豊臣秀吉に才能を認められ、取りたてられた石田三成は、秀吉に忠誠を誓いながらも、正義ではなく利害で天下を治める秀吉の姿勢に疑問も抱いていた。そんな三成の下には、猛将として名高い島左近や伊賀の忍びの初芽らが仕えるようになるが、秀吉の体調が思わしくないなか、天下取りの野望を抱く徳川家康は、言葉巧みに武将たちを自陣に引き込んでいった。そして1598年8月、秀吉が逝去。1600年9月15日、毛利輝元を総大将に立てた三成の西軍と、家康率いる東軍が関ヶ原で天下分け目の決戦に挑むこととなる。主演の岡田が不器用で人間味あふれる新たな三成像に挑み、役所が天下取りの野望に燃える家康役を演じる。さらに三成を命がけで守りながら彼に密かに恋心を抱く忍び・初芽役で、有村が本格時代劇に初挑戦した。映画.comより

観た後その友人と同じ感想を語ったのはラストシーンのこと。あると思っていたがなかった次の逸話。この時代侍としては相手の軍門に降るより、切腹が妥当。光成の人生観からはこの選択肢はなかった。引き立てられて刑場へ向かう途中、喉の渇きを訴えるが、農民(警護の者?)が「柿」を手渡そうとしたもののその時下痢気味だったか光成は「柿は痰の毒」と言って食べなかったという。










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エンターテイメント№165 
2017.9月
Trip &Tour (19-5

白亜のタージマハルと絶景の階段井戸チャンドバオリド いいとこどり周遊6日間(クラブツーリズムの旅行名)

5日目 
朝起きてみると、かなり熱っぽい。ホテルのレストランで「体温計」を頼んだが無いらしい。38度ぐらいはあったかも知れない。「このホテルでもう一泊」だったら寝ていてみんなが帰るのを待ったかもしれないが、今夜から帰国の途につくのにこんなところに置いて行かれるわけにはいかない。

シェラトン連泊2日目、バイキングの朝食後いつものバスで5時間かけてデリーへ。

昼食はタンドリー料理。インドのレストランの従業員の多い事ときたら、客の数と変わらないくらい。レストランのスタッフ省力化が進み、ますます少なくなっていく日本のそれと比べてそのギャップを思う。

インド門、 私たちは大通りを歩いて、このインドの重要な記念碑を訪れた。

インド門は、 高さ 42 mのアーチ型の慰霊碑で、第一次世界大戦でイギリス兵として戦って亡くなった、何万人ものインド人兵士を追悼するために造られ、1919 年のアフガン戦争で亡くなった 13000人を超える兵士の名前も刻まれているらしい。この印象的なデザインの建造物をじっくりと眺めた。ここでは軍事パレードやマーチング バンドを見学したりするほか、緑の芝生の上でピクニックやゲームを楽しむことができるらしい。

最初の訪問地デリーで行く予定だったクトゥブ・ミナールは、デリーにある世界最高のミナレット(塔)。1200年ごろに奴隷王朝の建国者であるクトウブディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられた。ヒンドゥー様式とイスラム様式が混在した様式となっている。

クトゥブ・ミナールで、角度によって」高い塔を指で押さえているような写真を撮ってくれる人がいた。「ここの施設の守衛親切や」と思いきや、撮ったあと「チップ・チップ」とうるさい。この施設守衛のアルバイトだったことに気が付く。

ミナレット見学のあとはショッピングモールへ。前にも書いたようにインドのクルマはほとんどがスズキと思っていたが、日本で言うとイオンモールにあたるその施設に入っていく自動車を見て驚いた。ベンツやBMWやレクサスのような高級車ばかり。それもそのはず、セキュリティチェックのための探知機をくぐって入ったその施設はインドにしてはかなりの高級品が並べられていた。

東南アジアの地元のスーパーなどで「安い買い物」をするのが好きな私は、皆がスターバックスでコーヒーしている間に売り場に行ってみた。棚の商品は日本で売っているものとあまり変わりなく、ものによっては日本より高い、ちなみに皆が飲んだコーヒーは日本円で500円以上。日当が1000円のこの国で。

途中 紅茶店・民芸品店を訪れ、夕食後デリー空港へ。ANAにて空路成田へ、8時間弱と往きよりはかなり早い。機中泊。

6日目最終日と後日譚
   
成田からの飛行機は窓際、上空からの日本列島を楽しんでいるうち1時間20分で    伊丹着18:20。

   Hさん、ガイドからバースディ に贈られたTシャツの後日談。インド製ということも珍しく、Hさんすっかり気に入って翌日はドヤ顔でこれを着ての観光。帰って奥様が旅行の他の洗濯物等とともに洗濯機にかけたところ、他の洗濯物もすべて真っ青に。

またタージ・マハルで持ち込み禁止の ライターを預かったのも同じHさん、逮捕でもされたら日本へ帰れない?、巧く隠して警備員のボディタッチを逃れたとのこと、この人の度胸に感心。

お腹に自信ない人もいて、(Sさんが)日本から持って行った紙パンツをはいた人が3人。10人のうち7人がなんらかで体調崩した。旅行中ずっと風邪気味であった私は紙パンツは履かず、5・6日目はトイレ(大)にも行かず我慢したが、家に着いた途端、強烈な下痢に見舞われ。夜熱も出て翌日は一日中寝ている羽目に。

食事は行くとこ行くとこカレー、中身は鶏肉ばかりで美味くはなく、食欲は落ちるばかり。そんなこともあろうかと(添乗員の薦めもあって)持って行ったレトルトの梅粥は電子レンジでチンすることも袋ごと湯につけることもできず、湯を入れてみたが失敗。旅行中美味いと思ったのはカップヌードルだけ。他の人もSさんが紙パンツとともに、たくさん持って行ってくれた どん兵衛などインスタント食品が救いとなった。

インドへ行った人は「もう一生行かない」か、「もう一度行ってみたい」に分かれるという。5か月経って「行ってみたい」に傾いてはいる、行くなら今度は「ガンジス川で沐浴」へも。   












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エンターテイメント
№164 
2017.8月 
Trip&Tour (19-4)

白亜のタージマハルと絶景の階段井戸チャンドバオリド いいとこどり周遊6日間(クラブツーリズムの旅行名)

4日目(4/2)

訪れた三つ目の都市アグラ( Agra アーグラ)はインドのウッタル・プラデーシュ州に属する都市。同州最大の都市で、2011年現在の人口は約157万人。アーグラー、アグラとも表記する。世界遺産に登録されているタージ・マハル廟、アーグラ城塞があることで知られる。

アグラ市内観光、このツアー メインイベントの「タージ・マハル」へ。この名前を聞いた事がないという方はいないと思うくらい 有名で美しく白亜の巨大なお墓。インドを旅行する人でタージマハルに行った事がない、 という人に出会うのが難しいくらいの場所だという。この旅行会社ツアーの中でも「インドは8回目、ここへはほとんど来ている」という人がいた。

いよいよ「世界遺産白亜の霊廟タージ・マハル」へ、といっても、これがまた入るのが大変。ガイドから「途中荷物検査あるので、大きなバッグはダメ、たばこ・ライターほか持って入れないモノは全てバスのなかへ」とのこと。持って行けるのは貴重品の入った小さいバッグと水ぐらい、砂漠と同じで水はいのち。

馬車なども走る道を、ゴルフ場のカートのような乗り物にて苑内へ、ここでハプニング。持って入れないはずのタバコのライターを持って入ってしまった I さん。バスに戻ることもできない、「わしに任しとき」と言って持ち物検査の前にライターを預かった最年長のHさん、この後のボディタッチで果たしてHさんの運命やいかに?。

タージ・マハルは1653年竣工とされる。
謀反を起こした臣下の討伐に付き従っていたムムターズ・マハルは、遠征先のブルハーンプルで産後の肥立ちが悪く1631に死亡した。彼女の遺言のひとつに、「後世に残る墓を」所望した。彼女はブルハーンプルのザイナアーバードの庭園に葬られ、毎週金曜日にはシャー・ジャハーンが訪れていた。

タージ・マハル前の絶好の撮影ポイント、ここでまたかなりインパクトのあるハプニング。それは10人ほどの美しい衣装の美女たちが華やかなポーズで写真におさまっていた。3人いるHさんのなかで一番若いHさん(ハッピバスディのHさんではない)が、彼女たちに何をか得意の英語で話しかけていた。

その話の内容について、旅行後にHさんからメールが届いた。以下は彼からのメールママ内容。

私は「しまったスコットランドの歌手だったか?」と思い沈黙。多分ケルテイックウーマンと確信しました。
変な空気の理由は、「何だ?私達をケルテイックウーマンと知らないで写真を撮ったの?」 なのか。 「お忍びだから黙っていよう。」だったのか不明。
日本でも映画プリンセス豊臣の主題歌やパナソニックの3年ほど前、テレビのコマーシャルでは「amaging grace]が流れていたし。 荒川静香がスケート音楽で「you raise me up]を使って有名になりました。
モデルにしては美女軍団で無かったので不思議だったのが解決。
彼女らの歌声はまさに天使のようで、前から好きな歌手です。 ちなみに、アイルランドでは若返りに入れ替わりをしているそうで、4人~6人です。

私は知らなかったが、ケルティック・ウーマン(Celtic Woman)は、アイルランド出身の女性で構成される4人組の音楽グループ(過去には5人組、6人組の時代もあり)。結成後、ツアーやスケジュール等によりメンバーが変遷している。私たち10人も彼女たちと同じ写真に収まった。本物であればこの写真、貴重なものに。 このとき女性グループは10人ほどいたが、歌手のほかはスタッフなどではないか?とHさん。

タージ・マハルの後は世界遺産アグラ城へ。 デリーからアグラへの遷都に伴い、皇帝アクバルが1565年に着工して1573年に完成した。その後ジャハーンギール、シャージャハーンまで3代の居城となった。アウラング・ゼーブが兄弟間の後継者争いに勝つと、父であるシャー・ジャハーンをタージ・マハルの見える城塞内の「囚われの塔」(ムサンマン・ブルジ)に幽閉してデリーに移ったという。

外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されている。ムサンマン・ブルジの内壁や床は幾何学的な装飾が施された白大理石でできている。1983年にユネスコの世界遺産に登録された。

そのあと大理石店見学、大理石でできた美術品はかなり精巧にできていて結構なお値段。      

次にタージマハルを望めるカフェへ、アフタヌーンティでしばしの休憩。

フォーポイントバイ・シェラトン連泊の2日目夜、添乗員の薦めたオプショナルは「観劇」か、ホテル内での「オイルマッサージ」。観劇4人、マッサージ6人と別れた。私は体調のこともあってよく寝られるようにとマッサージ組へ。観劇の内容は、タージマハルの建設にまつわるムガール皇帝と妃の悲話を踊りと歌を交えながら演じる劇だったとのこと。

ホテルでのオイルマッサージ。マッサージは好きでスーパー銭湯などでよくやってもらうが、体中、頭髪までオイルを塗られたのは初めて。ここのホテル、シェラトンと言うことで一流なのにバスタブがなくシャワーだけ。部屋がキンキンに冷えているので「熱い湯で」と思ったがぬるい湯しか出ず、風邪気味なのでブルっと来た、その後観劇から帰ったメンバーとホテルで夕食。









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エンターテイメント
№163
 
2017.7月 
Trip&Tour (19-3)

白亜のタージマハルと絶景の階段井戸チャンドバオリド いいとこどり周遊6日間(クラブツーリズムの旅行名)

3日目(4/1)
ジャイプルは面積:112 km²、人口:305万人 (2011年)。デリーの南西約260kmに位置し、ラージャスターン州の州都であり、インド第11位の都市。約10kmの赤い城壁に囲まれ、別名「ピンク・シティー」と呼ばれる。

朝食前、今朝も同部屋トリオでホテル周辺散策。大量の生ごみが撒かれた道路に牛たちが。この光景は東南アジアのどの途上国でも見たことがない。インド人は牛を食べないらしい、街の中で悠々と歩いている牛をよく見かけた。ガイドの話によると、その理由はそれほど宗教的なものではなく、赤ちゃんが牛のミルクで育つことが多く、昔から恩人?(牛)なので慣習的に食べないとのこと。それにしてもここらの道路は汚い、大きな家の前サルたちも見た。

今日の観光は世界遺産アンペール城 、5~6人乗りのジープに分乗して山上の城塞に向かっていく。ここはジャイプル郊外の北東11kmの城郭都市アンベールにある宮殿。後ろの山上にジャイガル城塞がある。

種々の民族が行き交う要衝であったため、丘陵地帯に強固な城砦を築き異民族の侵入に備えたとのこと。その時代に築かれたチッタウルガル、クンバルガー、ランタンボール、ガグロン、アンバー(アンベール)、ジャイサルメールの6つの城砦が2013年、「ラジャスタンの丘陵城砦群」として世界文化遺産に登録された。アンペール宮殿と山上のジャイガル城砦から観る遠景は素晴らしいものがあった。

次にはハワー・マハルへ、ジャイプル、ピンク・シティと呼ばれる街区の一角にある宮殿史蹟。隣接する世界文化遺産である天文台史蹟「ジャンタル・マンタル」とともに、ジャイプル市内での観光地となっている。

そしてその世界遺産ジャンタル・マンタル天文台へ、ジャイプルの街を造ったサワーイ・ジャイ・シン2世は天文学に深い造詣があり、ここジャイプル以外にも天体観測施設を造ったそうである。中でもこのジャイプールのジャンタル・マンタルが一番大きく広い敷地内には約20もの天体観測器が設置されている。太陽や月の運行を計測する観測器が並んでいたが、非常に精密かつ巨大!当時の最先端の天文技術と建築技術を駆使して造られたものなのでしょうか。

ジャイプルの旧市街の中心に、シティ・パレスという宮殿がありました。ラジャスターンの州都であるジャイプルは、18世紀にマハーラージャと呼ばれる藩王によって造られた街。ちなみにマハーラージャとは「偉大な王」と言う意味。シティ・パレスは1726年に当時のマハーラージャのサワーイー・ジャイ・スィン2世によって建てられたそうです。シティ・パレスには今でもそのマハーラージャの子孫が住んでいるらしいが、敷地の一部は宮殿博物館として一般に公開されていた。

インドを代表する繊維更紗の店工場見学の後、タージマハルのあるアグラヘ(約6時間)。

途中バネリー村にて 幾何学模様 が美しい絶景?(旅行会社のうたい文句)の階段井戸チャンドバオリを見学。ジャイブル近郊のアブハネリ村にある巨大な階段井戸、かなり下のほうで藻?でグリーンになった井戸水らしいものが見えた。この井戸はインドで最も深く大きな階段井戸の一つであり、9世紀に建造され、階段の総数は3500、階数は13階でその深さは約30メートルに達するという。

この場所はいくつかの映画の撮影にも使われており、「落下の王国」などの映画の中で見ることができるらしい。

ここで尿意を催した私はトイレへ、ホテル以外のインドのトイレは大抵有料、二人で10ルピーが相場だったか。トイレから出ると外で器に入れた水を手にかけてくれる。この水で洗ったら手が余計に汚くなるような気がしたが、かけてもらって10ルピーを。

アグラ着 フォーポイント・バイ・シェラトンにて連泊へ。










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エンターテイメント
№162 2017.6月 
Trip&Tour (19-2)

白亜のタージマハルと絶景の階段井戸チャンドバオリド いいとこどり周遊6日間(クラブツーリズムの旅行名)

2日目(3・31)

今回のインド旅行、行ったところは広いこの国のなかでも北部にあるデリー、ジャイプル、アグラの3都市のみ、デリーが三角点の頂点で西南にジャイプル、南東にアグラ。3都市は車で5~6時間の距離にある。

インドとインドの首都;ニューデリーについて調べてみた。インドは、南アジアに位置し、インド亜大陸を領有する連邦共和制国家で、インド共和国とも呼ばれる。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持ち、29 の州(states)と、7つの連邦直轄領(union territories)から構成されている。

人口;13億5,000万人、公用語;英語・ヒンディー語、通貨はルピー。添乗員からルピーへのチェンジは5,000円ぐらいでいいのではないかとのこと、1ルピーは2円弱。大抵の国では最低10,000円は両替する。この国ではあまり買い物するところが無いということか?。

デリー首都圏はニューデリーとオールドデリーに分けられる。ニューデリーの中にニューデリー行政区があり、ここに連邦の首都機能がある。古くは現在のオールドデリーだけの町 であったが、イギリス統治下の新しい首府としてニューデリーが建設された。イギリスの設計と建設による新都市部分をニューデリーと呼び、古くからある町をオールドデリーと呼んでいる。

2016年の近郊を含む都市圏人口は2,573万人であり、世界第3位の巨大都市。ちなみに都市圏人口は「世界1位東京・横浜3,784万人、2位ジャカルタ3,053万人=2014年」。

同部屋の3人で朝食前の散歩。ホテル横の道らしくない道から人がゾロゾロ、牛や猪?(イノブタだった)もいた。人の出てくる方向へ行ってみると 早朝なのに大人から子供まで大勢の人たちが思い思いの形で過ごしており、ヨガのようなことをしている人たちもいた。午後は大変暑いので朝早いうちに公園で過ごしているのだろうか。

ホテルに戻ってビュフェ方式朝食、その後デリー市内観光。
まずは赤い城(赤い砦、レッド・フォートへ、英: Red Fort)インドのデリーにあるムガル帝国時代の城塞。デリー城(Delhi Fort)とも。なお、インドで「赤い城」と言えば同じく帝国時代に築かれたアグラ城を指す場合もあるらしい。毎年8月15日のインド独立記念日には、ここで首相演説が行われるという。

そのあと5日目にいくはずの世界遺産フマユーン廟へ、これも首都デリーにある、ムガル帝国の第2代皇帝フマユーンの墓廟。インドにおけるイスラム建築の精華のひとつと評され、その建築スタイルはタージ・マハルにも影響を与えたといわれるとおり美しい(5月号のTopぺーじ=ぶらり旅・散歩にも)。その後ツアーのバスで二つ目の都市ジャイプルへ。

外国へ行くとバスから観る自動車がどこの国のメーカーのものか気になる。他の東南アジアの国々ではトヨタやホンダをよく見たが、ここインドでは圧倒的にスズキ、私の観た感じでは7割がスズキの軽か普通乗用車、他の3割が国産タタ・他の日本車・韓国・欧州車など。インドでスズキはすごかった。

ジャイブルでのホテルは、ケーケーロイヤルホテル。ロビーではそれらしい衣装の小学生くらいの男の子が踊っていた、柱の陰には父親らしい人が。何がしかのルピーをあげると、次の人の前へ。我々一行のなかにも子供にせがまれると弱い人が多い。私たちの後日本人と思える若い女性の前で踊るのだが、チップについて気が付いているのかいないのか、なかなかくれない。そのうち諦めて次の標的へ。ホテルは昨夜に比べるとかなりまし。

ホテルでの夕食、ここでもビュフェ方式、本日Happy Birthdayの人が。しかも喜寿。我々10人の中の最年長Hさん、添乗員から大きなバースディケーキとインド産のTシャツをプレゼントされて喜ぶ笑顔がかわいい(?失礼)。このインド産のTシャツについては後日譚がある。










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エンターテイメント
№161 
2017.5月 

Trip&Tour (19-1)

白亜のタージマハルと絶景の階段井戸チャンドバオリド いいとこどり周遊6日間(クラブツーリズムの旅行名)

「ついに行ってきたインドの地」、とは言ってもこの広大な国土のほんの一分、インド北部 車で5~6時間の三角点3都市。
今回の旅行ほど異例づくめとハプニングの多い海外旅行は今までなかった。10~12人のこの旅行会、今回で8回目、アジア・東南アジアはほとんど行った。インドが候補となった時、新聞広告で見つけた6~7万円の「格安インド」を私が提案、その旅行会社は「てるみくらぶ」。今回のインドへ出発前後大変な騒ぎとなっていた。

旅行会の母体の飲み会で私の「てるみくらぶ」案はあっさり却下された。否決理由は「いくらなんでも安すぎる」、「大手ではないので現地で異例のことがあった場合、対応できるか?」など。私たちがこの会社のインド行き企画にのっていたとすれば出発は1月頃、まあ、何とか無事行けたかも知れない、しかし何かの都合で3~4月に延びていればあの報道通りになっていたかも。

今回の旅行会社はクラブ・ツーリズム。いままで8回のうち日本から添乗員がついていったのは、読売旅行のミャンマーに次いで2度目、査証が必要だったのはカンボジア・ミャンマーに次いで3度目。インドのビザ申請は結構難しいとのことで、今回は初めて旅行会社に依頼することになったが、申請書に添付する写真もパスポート用写真ではなく、大きさ背景などかなり厳しかった。

出発の3日ほど前、(伊丹からインドまでついて行ってくれる)添乗員からの電話、「インドではお腹を壊す人が多いので、その薬も用意してほしい、下痢止めも必要かもしれないが、暑さとカレー料理ばかりで胃腸が弱る、整腸剤・胃薬を用意した方が良い。また食欲が落ちることを考え、レトルトの粥・カップラーメンなどを、熱中症対策として粉末のポカリスエットなども持って行った方がいいのではないか、ホテルには歯磨きが無いかも知れない」等々。

1日目(3/30)

旅行に合わせ体調に気を付けたつもりが出発前から風邪気味、「まあ暑いところへ行くから風邪など吹っ飛んでしまうだろう」、これが間違いであったことに後で気が付く。

この旅行会では伊丹→成田経由は初、関空なら私の住む橿原からリムジンバスに乗れば一直線であるが伊丹へは上本町から高速バス。空港まで約1時間はほぼ同じ。

今回の航空会社はANA,伊丹→成田は1時間20分で15:30着。成田空港17:35発でデリーへ到着は23:50。時差が3時間半あるので実際の飛行所要時間は9時間45分、伊丹成田間を合わせると約11時間の長旅、10人の平均年齢は72歳強、果たして「みんな元気に日本の地を踏めるか、運命やいかに」と、全員の無事を祈って成田空港内で出発式恒例の乾杯。

デリー空港からは現地の旅行会社のバスでデリーのホテル「プレミア・イン」まで。まずこのホテルでありえない展開に。粗末なホテルなのは仕方がないとしても、3人部屋にベッドが2つ。最近はカミさんと旅行しても一緒に寝ないのに、一つベッドで爺が二人寝ることに・・・・。











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エンターテイメント№160 2017.2月  ドラマ 
「大河ドラマ「篤姫」

韓流ドラマにはまっていた頃がある、李明博の竹島上陸以降観る気がしなくなっ  てしまったが。

そのころから長編ドラマは放映時に観るのではなく録画したものを一気に観てしまうことが多くなっている。とはいっても日本のドラマは韓流に比べ、NHKの大河ドラマ以外それほど長いものは少ない。

私の中の大河ベスト1は、2008年NHK大河第47作「篤姫」。歴代視聴率ベスト10の中にも第5位に入っている。ちなみにベスト5、 1位は44作目の「義経」、2位に43作「新撰組!」、3位「龍馬伝」、4位「独眼竜政宗」、そして5位にこの「篤姫」が入っている。原作は宮尾登美子

天璋院(てんしょういん) / 篤姫(あつひめ、天保6年12月19日(1836年2月5日) – 明治16年(1883年)11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった人物。

実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫である。

幼名は一(かつ、もしくは、いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となった)Wikipediaによる

このドラマ、幕末から明治に至る激動の時代を実に分かりやすく描いていて、全作50話をあっという間に観た。この時代のことは司馬遼太郎の「龍馬はいく」「幕末」「新撰組」や他の作家の作品もずいぶん読んだ。

物語のあらすじなどは歴史上のことで周知のこと。ここでは幕末の 志士たち とその豪華な俳優陣について書いてみたい。主演の篤姫を演じた宮崎あおい、皇女和宮の堀北真希両美人女優も良かったが、篤姫相手役小松帯刀を演じた瑛太も好演。助演陣もドラマの初章は、島津斉彬の高橋英樹、終盤の勝海舟役北大路欣也、二人の重厚な演技がドラマを引き締めている。生みの親 島津忠剛の長塚京三、母お幸の樋口加南子、嫁いだ将軍家での奇行が目立つ徳川家定役堺雅人、家定の母本寿院高畑淳子と芸達者揃い。

幾島役松坂慶子、帯刀の妻となるお近 ともさかりえ、大奥女中稲森いずみ、御年寄岩井友美・高橋由美子、家定側室志賀の鶴田真由、天璋院の女中 中村メイコ ・中嶋朋子と済々 。

他にも幕末の有名人坂本龍馬 、西郷隆盛、幕閣老中阿部正弘・井伊直弼、徳川慶喜、徳川家茂、大久保利通 名前を挙げればきりがない。
もう一度は観るだろうと50話のDVDは手元にある。











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エンターテイメント
№159 2017.1月 
Trip&Tour (18-3

憧れのヴェネチアン・マカオに泊まる
  WE LOVE香港・マカオ4日間
 

3・4日目 
+5日目早朝 

朝食は「糖朝」、この店は香港でも結構有名らしい。香港スイーツブームの火付け役として、2002年に日本にも進出、今も根強い人気を誇っているのが『糖朝』とか。どこの国のガイドブックにも必ず載っている超有名店で、観光客で行列ができるなんてことはザラとのこと。

ワンタン麺とマンゴープリン。麺類(特にラーメン)大好き人間の私、ここのワンタンメン結構うまいが、単品とプリン、ちょっと物足りなく思ったが朝食なら、まあ、こんなものか。

ここからは高速船で約1時間、初体験マカオへ。狭いマカオであるが世界遺産がかなりあると聞いて楽しみにしていたマカオ歴史地区を観光(約1時間半程度)。「聖ポール天主堂」「ナーチャ廟」「旧城壁」、「聖ドミニコ教会」「仁慈堂」「セナド広場」「民政総署」など、まあ、どれもスケール的に大したことはない。途中ポール天主堂のところで熱々のエッグタルトがあ配られ、昼食はビュフェ方式のポルトガル料理店へ。

その後マカオタワー周辺散策、タワー入館料は140香港ドルとちょっと高い。展望台で目にしたものは、高所恐怖症の私には信じられない光景、それはバンジージャンプとスカイウォーク。こんな高いところから飛び降りるなんて正気の沙汰ではない。スカイウォークもそうだ、なんぼ命綱がついているとは言え、柵のないタワーの外を歩くなんて信じられない。夕食はマカオ料理。そのあと高級ホテル群の夜景を見て期待のザ・ヴェネチアンマカオリゾートホテルへ。

バスの中の現地ガイド(言葉が巧すぎると思ったらもと日本人)に入った情報によると台風が香港を直撃しているとのこと。明日の香港発の飛行機の遅延・欠航が決定的とのこと。早朝のTV放送で一番強い警報が出ると、マカオの一切の交通手段がストップとのこと。予定されていた噴水ショーなど夜のオプションもすべて中止。

ヴェネチアンホテルに着いて驚きの連続、とてつもなく広い建物に、ぎっしり世界中の有名ブランド店が集まった一つの町とカジノとホテルが同居。館内の地図をもらったが方向音痴でない人(私は極端な方向音痴)も簡単には自分の部屋には戻れない。明日の天気を気にしつつ70平米あるというスイートルーム(といってもここは全室スイート)へ。その後大の賭け事大嫌いのカミさんを説得して一番楽しみにしていた「カジノ」へ。

ここのカジノもかなりの広さ。10年ほど前に行ったロッテホテルJeju(済州)とはまた違った雰囲気。Jejuのカジノは同国韓国人の入場を禁止しているためか入場のときはたしかパスポートの提示が必要だったし、中に入ってみるとアルコール飲料など無料で、服装なども結構フォーマル、室内はかなり高級感が漂っていたような気がする。マカオのここは広くてフリー、だれでも気軽に入れる大衆娯楽場と言う感じ。ルーレットなどやりたかったが、監視付なのでカミさんにも分かりやすいスロットへ。

HKドル紙幣がそのままスロット機へ、絵柄が揃ってもコインは出なくて溜まったコイン数が表示されるだけ、終了したらボタンを押すとレシートが、これで現金に引き換えられる。「ビギナーズラック」というのは確かにある、彼女が座る機械は「出る出る」、その分私の方のスロット機で直ぐなくなる。

翌朝、予定通りであれば早い朝食の後、マカオから高速船で香港へ、夜の8時には関空へ戻れる予定であったが。早朝、ガイドから連絡があり、マカオ行フェリーの就航は難しいとのこと。ホテルは3時ごろにはチェックアウトとなるが、連絡があるまでホテル近辺館内にて足止め。

取り合えず「何か食べよう」ということになったがどこへ行っていいかわからず、マクドナルドで。 こんな絢爛のリゾートでマクドランチとは!。

いつ入るか分からない連絡があるまで時間をつぶすしかなく、昨夜のカジノで少しだけスロット、あとはヴェネチアンの二階へ。ここ館内にはヴェニスの町に倣って運河にボートと世界の有名店が目白押し。カミさんには興味深々ながら店員が確保(台風による交通ストップで)できないのかほとんどの店は閉店状態。夕刻5時ごろになってようやくガイドから6時ごろ高速船が動くだろうとの連絡が。

 ガイドに見送られ(パスポートがないとガイドは入関できない)乗り場へ。次の船がどうなるのか、乗り遅れた船のキップがそのまま使えるのか?、など係員などに聞いても言葉が通じない、30人ほどいた立ちっ放しのツアーの人たちも茫然。そこで私のスマホが大活躍、外にいるガイドに連絡、彼からの通話を係員に聞かせ何とか次の船に乗ることに。

フェリーは動いても今日中の飛行機に乗れる可能性は少なく、場合によっては香港でもう1泊の可能性も。それは良いとしても次の日もANAに乗れる保証はないとのことで最終便に乗れるよう急ぐしかない。何とか間に合った日本向け最終便は羽田行きにて機中泊、早朝羽田から伊丹へ。パグ犬ゴン太の預け先には連絡済であるが老犬につき心配。香港では返還後最大級の台風だったとのこと、こんなハプニングは二度とごめんである。










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エンターテイメント
№158 2016.12月 
Trip&Tour (18-2)

憧れのヴェネチアン・マカオに泊まる
     WE LOVE香港・マカオ4日間 


2日目 
 
ホテル出発の後、市内レストランで鮑入り中華粥の朝食後、市内観光とショッピングへ。まずはレパルスベイ&天后廟。海に面した香港で最も美しいビーチといわれる、淺水灣(レパルスベイ)。香港島の南に位置するレパルスベイは、11月頃まで海水浴を楽しむことができ、多くの人で賑わうビーチ。ここは、ハリウッド映画の名作『慕情』(1955年 ジェニファー・ジョーンズ、ウイリアム・ホールデン)の舞台としても大変有名です。ずいぶん前に観たが海水浴シーンがあったのを覚えている。

 次は近くにある航海の守り神、天后(媽祖)を祀る天后廟。香港だけでも100箇所ほどあらしいが、その中で一番華やかなのは、ここレパルス・ベイの天后廟。天后以外にも、観音様や福の神、縁起物が集まるスポット。レパルス・ベイの南東端にあったお土産屋さんで我が苗字を入れた縁起物の札を注文、後でバスに届けられた。
 このころからまた大粒の雨に。

 香港コンベンションセンターを経て、2階建て路面電車の乗車体験、電車の外は雨粒が荒く窓に容赦なく吹き付ける。そのあと香港島からスターフェリーに乗り込み対岸の夜景を動画に収める、風が強く後で見たビデオには大きな音。

 行きたくもない宝石店や寝具店にてショッピング、寝具店では高い枕を数個注文する同じツアーの人もいた。
 昼食は広東式飲茶料理、飲茶と言うより中華料理、前に食べた香港式のそれとは違った感じであまりおいしくはない。

 その後オプショナリーまでしばし自由時間。「ペニンシュラでアフタヌーンティーを」と思ったが、雨のなか少し歩かなければならないので、近くにあったコンチネンタルホテルのロビーでしばし休憩。

 DFS Tギャラリアにもよったが、ガイドによると、香港は酒・たばこ・自動車・ガソリン以外はすべてノータックス。デューティフリーの意味はあまりないとのこと。

 午後からのオプショナル香港歴史博物館やSKY100、夜の女人街散策などすべて中止。夕食は北京ダック付の北京料理、この後の「シンフォニーオブライツも中止か」と思いきや、少し雨も上がってきたので開催されることになった。 

「シンフォニー・オブ・ライツ(幻彩詠香江)」とは。香港政府観光局が2003年から毎晩8時から13分にわたり開催しているナイトイベント。ビクトリアハーバー100万ドルの夜景に、香港島、九龍半島の主要な高層ビルから放たれる色とりどりのレーザーが加わり、世界中から訪れる観光客を魅了し続けているらしい。

 また、このシンフォニー・オブ・ライツはギネス世界記録でも「世界最大の永続的な光と音のショー」として認定されているという。少々悪天候であったが九龍側から観た香港島の夜景をしっかりと動画に収めることができた。












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エンターテイメント№157 2016.11月 
Trip&Tour (18-1

憧れのヴェネチアン・マカオに泊まる
     WE LOVE香港・マカオ4日間

カミさんとの海外は‘09年の台湾以来7年ぶり、この時が彼女の還暦祝い。その間OBの飲み会仲間では毎年アジア・東南アジアへ。旅行はカミさんも女仲間と行く方が断然多い、今回は1年遅れのサファイア婚(45年)記念。

1日目
10月18日、いつものように我が家の最寄駅大和八木からリムジンバスで関空へ。ギリギリは嫌なので待ち合わせ時間より1時間近く早く着くバスに乗る。これが正解、空港はいつもに比べてかなりの混雑、高校生などの修学旅行が多いからか。今回の航空会社はANA、関空発10:55の定刻を少し遅れて離陸。香港(チェクラップコク)国際空港には14:00(現地時間、大阪は15:00)頃着陸。

香港は3度目、前の2回は‘91年と返還直前の’97年。何れも旧の空港、世界一離着陸の難しいと言われたカイタック(啓徳)空港。新しい空港は比べようのないくらい大きく広い。実はこの大型ハブ空港は乗り継ぎで一度経験がある 、’15年 OB飲み会マレーシア旅行で、行き復り併せて10時間以上空港内に滞在している。

 香港は言うまでもなく中華人民共和国の特別行政区(一国2制度)、1997.7.1 イギリスから返還された。九龍半島・香港島からなる1,104Kmという狭い地域に人口707万人、世界でも最も人口密度の高い地域の一つである。

 したがって、やたらと住居費が高く、ガイドの話では初任給約15~16万円に対し、家賃は郊外でも2LDK 20万円。多くの人は5万から8万円のエレベーターのない1Kに住んでいるらしい。貧富の差が大きくジャッキー・チェンなどリッチな人は九龍の大邸宅に住んでいるという。

 人種は中国系で93%を占め、言語は広東語。中国標準語である北京語はほとんど通じないそうである。ちなみに日本人は14,000人ほど住んでいるらしい。
 気候は温帯夏雨気候に属しており、通貨は香港ドル。現地ガイドに依頼した両替は10,000円につき702香港ドル(1香港ドル=14.25円)。

空港には当然ながら旅行会社現地ガイドが待っていた。このツアー、関空からだけかと思いきや成田や福岡空港などからもきており、全員で50人余り、3台のバスに分乗してまずは市内見学、1881ヘリテージに着いたころから雨に。「1881Heritage」とは、九龍の観光メッカ、尖沙咀の新しい名所旧跡として注目を 集めているところとか。香港の歴史的価値の ある建築物をそのまま利用し、ホテル、高級ブティック、レストランなどが入っている。

前出のOB仲間の旅行、雨季に行ってもほとんど雨に遭ってない。カミさんも自称大の晴れ女、「大降りでも必ず止む」と豪語する。次の観光「バードガーデン」に到着のころは大降りというより土砂降り、それでも何人かは降りて観光に行ったがほとんどの人はバスの中。次のフラワー市場においても同様、傘など役に立たなくてずぶ濡れになるのが目に見えていて行く気がしない。

それにしても今夜のメインイベント「ビクトリアピーク」の夜景が気になる。前回は持参したカメラがバカチョンで夜景の写真が巧く取れなかった。重いのと大きくて邪魔になるのを承知で夜景撮りたさにNikonの一眼レフ持参。

夕食の四川料理の後、ビクトリアピークの山頂獅子亭展望台に着いたころ雨は小止みに。しかし空は厚い雲、夜景は見えるには見えたが残念ながら素晴らしい写真は無理。

このあとホテルに着いたのが11:00頃だったか、朝5時起きで19時間、疲れた。ホテルは九龍にあるペンタホテル、割と新しく32階建て695室もある、大きなホテル、口コミ情報などでも評判は悪くなかったが、客室はかなり狭い。フロント階のエレベータ前は中国人客で身動きが取れないほど、その喧しき事この上なし。












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エンターテイメント№156 2016.10月 

スポーツ音痴が観た最近のスポーツ

リオパラ ; メダル数だけでどうとか言うつもりはないけれど、我が国の結果、金ゼロ、メダル合計24。対して中国、金107、計239、この差はいったい何なんやろ。政治体制の問題?人権問題をよく批判される中国なのに。東京までにはなんとかせにゃ、主催国がこんなんでは世界の笑いものになる。

 相撲 ; 稀勢の里またしても見事に期待を裏切ってくれた。この大関ほど期待してない時は結構頑張るのに、いよいよと言うときは必ずこけてくれる相撲取りをあまり知らない。2敗となってあきらめかけたが10日目まで何とかその2敗を守っていたので小さな期待が少しは生まれていたのに。この間(かん)、先場所まであんなに弱かった寝屋川出身のカド番大関豪栄道がえらく強なって全勝できていた。

この時点で、私としては13勝2敗で稀勢の里が豪栄道に勝って優勝、豪栄道準優勝となったら、今場所後稀勢が横綱、来場所豪栄道が綱取り、二場所連続で和製横綱誕生などと考えた。案の定と言うかやっぱりというか稀勢は綱取り振出となってしまった。しかし来場所豪栄道が何とかしてくれるかも知れない、そうなれば大阪フィーバー間違いなし。今場所は遠藤もよく頑張った、この人も期待をしたらろくなことないんやけど・・・・。

バスケット 「B.LEAGUE ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ」2016.9.22開幕。スポーツ音痴の私、100%ルールが分かっているのはゴルフと野球と卓球(中学・高1でやってた)ぐらい。サッカーもラグビーもテニスもバレーボールも国際試合だけのにわかファン。ましてバスケットは1試合終いまで観たことがない。

プロ野球 ; 今年のセはカープがぶっちぎりの優勝。逆にパは日ハムの大逆転。二刀流大谷の活躍はそれこそ神っていた、10勝・3割・20ホーマー、こんなやつおれへんで。しかも優勝決める試合を1-0で抑えるなんて。

 それにしても巨人菅野の勝ち運のなさはハンパない(この言い方やっぱりおかしい?)。ほんまやったらもう15勝ぐらいしていてもおかしくないのに。好投していても援護射撃がない、勝ち越して勝利投手の権利を得ても後の投手が総崩れ、今シーズンこんな試合を何度見た事か。「菅野ってチームメートから嫌われているのとちゃうか」と思ったくらい。今年のGは坂本の首位打者狙い以外何もない、なんとかしたれや打撃陣、救援陣。

もひとつプロ野球 ; 三浦大輔 引退。 私の高校の後輩、同窓で数少ない一流。12.07.29 「おもいつくままに」№ 122  ハマの番長vsジャイアンツ    ご参照ください。











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エンターテイメント
№155 2016.9月 

リオ五輪から東京へ

治安の悪さや競技会場工事の遅れなどで開会さえ危ぶまれたリオデジャネイロオリンピック。終わってみれば素晴らしい大会となった。開会式も閉会式も感動的だったし競技における不手際もほとんどなかったようである。我が国としては史上最高だったメダルの数もさることながら、その内容にも見るべきものが多かった。

金12、銀8、銅21、計41。

金メダル獲得は 競泳 萩野公介、 柔道 大野将平、 体操団体 内村航平・加藤良平・田中佑典・山室光史・白井健三、  柔道女子70k級 田知本遥、 男子90k級 ベイカー茉秋、 体操男子総合 内村航平、 競泳女子200平 金藤、 レスリング 女子フリースタイル48k級 東坂絵莉、 レスリング女子フリー58k級 伊調馨、レスリング女子フリー69k級 土性沙羅、 バドミントン 高橋麗華・松友美佐紀高松コンビ、 レスリング 女子フリー 川井梨沙子。

開会早々から競泳で日本人二人が同じレースで金と銅。この二人、幼少のころからのライバルで、インタビューを聞いていても二人の良い関係が伝わってきた。体操男子、団体と総合の内村、期待通りの金。柔道は全階級でメダル、御家元の面目は大いにたつこととなった。

銀メダルで印象的というより驚いたのはなんといっても陸上男子4×100m。個人トータルのタイムから見て奇跡としか思えない。アンカー ケンブリッジの走りもお見事。

テニス界の世界一桁ランカー錦織、実力は十分。4大大会などの活躍もいいが、やはり日の丸を背負ってのオリンピックで結果を出してくれたことが嬉しい。女子でも喜んで出ていたのに「蚊が怖い」と言って出なかった日本のトッププロがいたが、少し残念だ。

銀でもう一つ、卓球男子団体、正直ここまで来るとは思えなかった。
最後にもう一つ、勝って当たり前の吉田沙保里、主将と言う重責も背負っての今大会。勝負の世界負けることもある、いくら期待が大きいからと言って銀でも立派、そこまで謝ることはない。

銅メダルで2件、1つはウエイトリフティングの三宅、お父さんとよく似たなにか懐かしい気もするあの顔であとがないところでよく挙げた。
 最後に卓球の愛ちゃん、この選手ほど日本人みんなに(中国や台湾でも大人気らしい)愛されている人はいないだろう。泣き虫だったあの頃、台にも届かないような小さい時から卓球に打ち込む姿は頭から離れない。その福原が生意気盛りの15歳を優しくリードする立派な女性に成長した。自分自身は勝てなかったが彼女がいない団体のメダルはなかっただろう。

感動をありがとう、次は東京。 

【リオデジャネイロ=共同】国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長はリオデジャネイロ五輪の閉会式前日の20日、メインプレスセンターで大会を総括する記者会見を行い、南米初開催となった五輪について「象徴的な、記憶に残る大会になった。厳しい社会問題を抱える中でもスポーツを通して連帯と結束の力を示した」と評価した。









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Trip&Tour (16-4
エンターテイメント№154 2016.8月 

湯快リゾート  粟津温泉

毎年行く(昨年は2回)旅行会の楽しみの一つは毎月ある飲み会で、いったん払った会費が戻ってくることである、これが結構多額になることが多い。行くところがいつも海外なのでツアーの費用以外の飲み食いや観光の費用が予想しにくいこともあって、多めに集めることになる。「出したカネが戻っても」と思うかもしれないが、一回出したものはそれで終わり、戻ってくるとなんか得をしたような気になるのは不思議なものである。

「4月のベトナム中部の旅」後の飲み会で、余った金が配られると同時に一部が集金された。「何で?」と思っていると、「次は国内1泊」とのKさんの一言で粟津温泉旅行が決まった。

新大阪発のバスでわれわれ10人含め約30人、一路北陸路へ。温泉は久しぶり、現役銀行員のころ支店単位の慰安旅行はたいてい温泉旅館の宴会だった。そんなこともあってか近隣の温泉には大抵行った。多かったのは白浜か伊勢か、はたまた芦原か加賀近辺だったろうか。石川県は輪島などにも行ったが粟津温泉は初めて。

「余ったお金で」ということで、いつもは高級旅館に泊まる人も、「湯快なる温泉旅行」を一度は行ってみよう」と言うことになった、私にとっても初めての湯快リゾート。

新規に旅館を建設するのではなく、廃業したり競売にかけられた物件を安く買い取るいわゆる「居ぬき出店」で初期投資を抑え、部屋の案内や布団引き(引いてあった)、部屋食などなくして仲居さんの人件費を極力抑え、低価格化を行ったビジネスモデルである。

夜は宴会などと言う雰囲気には程遠かったが、夕食・朝食ともに和洋中、デザート、ご当地メニューと種類も豊富で多彩、ビュフェ方式とはいえ当たり前のことではあるが、ホテルの外国のバイキングなどとは違って刺身やにぎり寿司など和食が充実していた。お風呂を出たところには、マッサージ機や背中をローラーする器具などが置いてあり無料で堪能できた。

翌日は帰るバスの時間までを、オプション料金を払ってバスで金沢へ。まずはキンピカの金箔工芸のお店へ。そのあと久しぶりの兼六公園をしばし散策、当然ながら桜の花も紅葉もなかったが池に映る新緑が目に染みるようだった。

 時間の関係で金沢城公園は急ぎ足で通り過ぎ、おなかのすいたところで金沢の台所近江町市場へ。市場の中にある和食の店で海鮮どんぶりかお刺身定食で乾杯。朝チェックアウトしたホテルへ戻って帰りのバスへ。解散場所新大阪では例によって1泊2日の反省会を駅の居酒屋で、それにしてもまあ、よく飲む旅行会ではある。









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エンターテイメント
№153 2016.7月 
Trip&Tour (16-3)
ベトナム中部満喫の旅6日間 
 Vol Ⅲ.  

中部の大都市ダナン拠点で、リゾートの浜辺と古都の雰囲気を満喫  

 5・6(最終)日目

 バイキング朝食のあと、2連泊のセンチュリーリバーサイドホテルをチェックアウト。本日は3日目に行かなかったところのフエ市内観光。午後から観光予定のカイディン帝の墓所や、トゥドゥック帝廟へ行く前の自由時間、「じっとしていても」ということで私たちだけでホテル周辺を散策することに。外国へ行ったら「市場」が面白いということで、一行11人は街で地図をもらって地元の市場を目指す。

 東南アジア独特の横断歩道とは言えない「危ない事この上ない」歩道を渡ったり、バイクの群れをかわしながら目的地へ。地元の人に聞いても教えてはくれるもののうまくは言葉が通じない。歩いても歩いてもそこへたどり着けず、集合時間まであまり時間がなくなり途中で引き返すことに。

 最初にに訪れたのはトゥドゥック帝廟、フエ王朝と呼ばれる阮朝4代目のトゥドック帝は歴代の中で最も在位が長かったと言われていました。この帝廟はもとトゥドゥック帝の別荘で、この敷地内で帝は狐と戯れていた逸話があるという。トゥドゥック帝の死後、ここは墓所として改築されて現在に至ります。廟内には皇帝を祀っている寺院と、トゥドゥック帝の墓があります。

  トゥドゥック帝廟は中国様式にのっとって造られました。
トゥドゥック帝の在位期間に造られたので、どんな目的でこの廟が建設されたかはいまだはっきりは分かっていませんが、王宮とは別に上記のとおり長期間滞在用の別荘地として造られたというのが通説らしい。

  廟の中央には大きな湖があり、小船の乗り場もあることから、当時トゥドゥック帝はここでボートに乗って釣りなどに興じていたのではないかと言われています。確かに他の帝廟とは異なる雰囲気で、野鳥の声や心地よい風は別荘地のようでもありました。

 次の観光はベトナム中部の都市フエ(Hue)の郊外にあるカイディン帝(啓定帝=けいていてい=1925年没)の墓所。啓定帝(1885.10.8~1925.11.6)はベトナム阮朝(グエンちょう、げんちょう)はベトナム第12代の皇帝。諱(いみな)は阮福宝嶹(Nguyễn Phúc Bửu Đảo)、後に阮福晙(Nguyễn Phúc Tuấn)と改めた。13代続いた王朝の最後から二人目の王の墓。 在位期間6年と短いが、石作りの立派なもの。

フエは、1802年に成立し1945年まで存続した阮朝(グエン朝)の都が置かれた古都で、同市郊外には歴代の王の廟(びょう)がある。12代のカイディン帝廟もその一つで、フランス植民地時代の1920年から12年の歳月をかけて建設された、中国と西洋の折衷(せっちゅう)様式の廟である。 

約6年かけて建築したこの墓所はフランスの影響を受けていたためか、ヨーロッパ風の高い塔が建っていました。しかし、中国文化も色濃く残っていて、帝廟の前には中国秦の始皇帝陵にあるような(観てないけど)兵馬俑のような兵士の像が立っていました。帝廟内部は写真や遺品、カイディン帝の像などが展示されていました。

 航空便の時間に合わせるためかなり早い夕食の後、来るときはホーチミン乗り継ぎだったがベトナム航空機乗継便にてフエをあとにハノイへ。そして関空へ着いたのは6日目の朝6:40.早いので恒例の反省会はなしで各自我が家へ。

あとがき
この旅行記、最初に「首都ハノイへも最大都市ホーチミンも行かず中部だけ」と書いたが、台湾でいえば「台北も高雄も寄らず」みたいなもの。どの国でも大都市と地方都市では格差があるが、途上国では特にその差が大きいように思う。しかし、このやたら南北に細長い国の「真ん中」へ行ってみて思ったのは、前に行った首都ハノイ程成長国独特の熱気は感じなかったが、リゾート地だからからか道路も広く、意外に清潔でいい気分にさせてくれるところだった。 

商売熱心?な現地女性ガイドの言うことには「ここダナンは今後大きく発展する」のは間違いなく、今のうちに「土地を買うこと」をしきりに勧めていた、両大都市に比べれば相当お買い得だと。ここは社会主義国なので土地そのものの所有は認められていないが、「借地権」は50~100年認められているという、まあ、買ったと同じようなものなのだろう。 









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エンターテイメント
№152 2016.6月 

Trip&Tour (16-2
ベトナム中部満喫の旅6日間 Vol Ⅱ.
中部の大都市ダナン拠点で、リゾートの浜辺と古都の雰囲気を満喫
 
3日目、4日目 

 
3日目

朝食バイキング、今日も前回ハノイへ行ったとき食べ損なったフォーと、野菜・果物をたっぷりとった後、連泊のコテージ風リゾートホテルをチェックアウト。

本日午前はダナン市内観光。先ずはチャンバ遺跡からの出土品を展示するチャム彫刻博物館を見学。

チャンパ王国(ベトナム語 Chăm Pa、占婆192-1832年)は、ベトナム中部沿海地方に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされるらしい。中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだという。 

あとフランス統治時に建てられたダナン大聖堂見学。ホテルや商店が建ち並ぶチャンフー通りの一角にそびえるダナン大聖堂。頂には鶏の像があることから「鶏教会」とも呼ばれ親しまれている。ミサの時間には教会内部に入ることができ、聖歌の冊子を貰うことができるとのことでしたが、今回は外から内部を覗きこむだけ。教会外回りのマリアやイエスの石像や、窓から垣間見える内部のステンドグラスもきれいだった。 

午後からベトナム中部の都市フエへ。

途中立ち寄った海岸でちょっとしたハプニング。砂浜を歩いているとバスケットのようなものをぶら下げた老婆に声をかけられ、日本のコイン500円硬貨や100円玉を差出された。身振り手振りで分かったことは千円札に替えてくれとのこと。

日本人観光客にもらったか何かを売ったか?。たまったコインがお札でないと現地通貨に替えにくいからだろうと勝手に解釈し1000円札を出して500円玉2枚もらった。今度はYさんに100円玉を10枚出して替えてくれと言う、1000円札をだし、代わりにもらったコインを数えてみると8枚しかない。落語の「時そば」のように巧みに2枚ごまかされた。Yさんは(200円ぐらいくれてやってもええけど)だまし方が気に食わない」と追いかけて行って2枚取り返した。 

フエは19世紀から20世紀にかけベトナムに存在した阮朝の首都。フエ市内観光はまずはグエン朝王宮太和殿、王宮門、フラッグタワーの見学。あと全員シクロ(人力自転車)に乗って王宮周辺から市内観光。グエン朝では、清朝の紫禁城に倣ってこの王宮を造営した。元紫禁城には現在故宮という呼称があるが、こちらには特に何の呼称もない。ちなみにベトナムではフエを「故都フエ」と呼ぶ。「古都」ではなく「故都」。確かに「故」にも「古い」という意味があるが、微妙にニュアンスが違う。 

夕食はフエの宮廷レストラン。宮廷料理の食事前、全員当時の王族の衣装で記念写真。この旅行会のコンダクターYさんはその体格の良さから王様の衣装や王冠が良く似合った。出てくる料理の彫刻?した野菜、見た目にはいいのだが「食べないように」との条件。王さまが食べたという料理も見た目とは逆にあまりおいしいものではなかった。

食事中無形文化遺産となっている宮廷雅楽「ニャニャック」。笛、バンジョウのような弦楽器、琴のような一弦楽器3人で演奏、音調が日本の笙や楽太鼓を演奏する雅楽に似てなくはない。ヴォーカルはスタイルが良く髪の長い女性歌手。ショーの後CDを売りに来たが1枚だけ買ってあとはコピーすることにした。

ホテルはフエ市内のセンチュリーリバーサイドホテルで連泊。 

4日目

朝食後世界遺産フォンニャケバン(PHONG NHA-KEBANG )鍾乳洞へ。本日の観光は1日かけてこの鍾乳洞だけ。前回ベトナムへ行った際、ハノイのハロン湾にもあったが、「鍾乳洞なんてどこでもよく似たものだろう」、と思いつつバスに乗り込む。

フォンニャケバンに行く途中、バスの車窓から濃い緑の田んぼのところどころに直径10メートルぐらいだろうか丸い小さな池のようなものがあった。ガイドの説明ではベトナム戦争時の砲弾の痕とのこと。こんな「静かな田舎にもベトナム戦争の爪痕」を想う。

フォンニャケバンに着いて20人乗り位の女性が船頭さんのボートに乗りこみソン川をさかのぼりました。

フォンニャケバン国立公園(PHONG NHA-KEBANG)、はベトナムのクアンビン省にある国立公園。2003年7月3日、ユネスコによってベトナムで5番目となる世界遺産に登録された。4億年以上前にできたとされるアジア最古のカルスト地帯。国立公園面積は、約86,000ha。公園のほとんどが原生林で、専門家によると568種の植物876種の動物が生息しているという。ここには大小約300の洞窟があるらしいが、ほとんどがまだ詳しく調査されていない。我々が見学したフォンニャ洞、他ティエンソン洞、ヴォム洞など一部が開発されているだけらしい。

洞窟の中まで舟で行くのが珍しく、舟から観る両岸の鍾乳洞もいいが、上陸してみる鍾乳洞内は非常に美しく幻想的だった。 英国の王立地理学会の報告によると、フォンニャ洞の長さは7,729m、その美しさ、大きさ、広さなどから最高の評価を与えられているという。

日本も含め、いままで数か所の鍾乳洞を観たが此処のは格別、往復8時間かけて行った甲斐があった。











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エンターテイメント
№151 2016.5月   
Trip&Tour (17-1
ベトナム中部満喫の旅6日間 2016.4.19~24 Vol Ⅰ

中部の大都市ダナン拠点で、リゾートの浜辺と古都の雰囲気を満喫

 1日目 

このメンバーの海外旅行も回を重ねて(私が参加してから)7回目。今回は旅行会初めて同じ国2度目の訪問となった。最初は2013年4月、「アンコールワットとハロン湾」の組み合わせでベトナムはハノイだけ。今回は首都のハノイも最大都市ホーチミンも乗り継ぎだけで、ベトナム中部のみのというツアーとなった。メンバーは昨年9月のミャンマーから一人増えて11人。 


 関空発10:30、ベトナム航空でホーチミン乗り継ぎ中部の都市ダナンへ。今回は関空であまり時間がなく、空港内でのいつもの出発乾杯式はなし。
5時間30分でホーチミン。ここでの乗り継ぎ時間もあまりなく、あわてて国内線でダナンへ。着いたのは現地時間で17:20、日本との時差は2時間。 

ベトナム社会主義共和国は南北1650km、東西600kmと南北に長く、一番狭いところでは東西に50kmしかない。人口9.250万人、国家主席チャン・ダイ・クアン、首相グエン・スアン・フック、通貨はドン、10000円が約200万ドンに。

ベトナム中部最大の都市ダナン。ハノイやホーチミンと違って流れる時間がゆっくりしていて居心地のいいのがダナンの魅力とか、まわりに自然も多く、またホイアン、フエ、ミーソンへも近く中部観光の拠点としても最高の場所だということです。 

空港からバスでホテルへ、Sandy Beach Non Nuoc Rezortホテルは、レストランなどあるメインの施設からカートで独立したコテージ風の建物へ案内してくれる、中長期滞在用に向いたリゾートホテル。プライベートビーチに映る朝日は素晴らしかった(Topページ)。 

2日目 

「ダナン市内観光のあと古都ホイヤン」の二日目の予定を少し変更して、市内観光を翌日に回してまずはホイヤンへ。ベトナム中部クアンナム省の都市で、ダナン市の南方30キロトゥボン河の河口に位置する港町。ここにはあの有名な来遠橋(日本橋)、がある。17世紀ごろには日本人街があり、少なくとも300人以上の日本人が住んでいたという。日本人が作ったとされる来遠橋は年代を感じるものであった。

  日本橋を渡ってグエンティミンカイ通りに入ったすぐ右手にある黒い民家フンフンの家。200年以上の歴史を持ち、現在は8代目となる子孫が住んでいる。注目は天井、ベトナム、日本、中国の建築様式が混じり、洪水の際に荷物を上に運べるように天井には四角い窓が設置されていました。土産物屋も兼ねていて、無料でお茶も飲めました。

午後からチャンバ王国の聖地ミーソンへ。その遺跡の入り口付近で劇場のようなところに案内され、チャムダンスショー。このダンスはタイやカンボジアやインドネシアのあの古典舞踊とは少し違った軽やかでチャーミングな踊りだった。

ミーソン遺跡ベトナム中部クアンナム省にある古代チャンパ王国の聖なる遺跡。1999年ユネスコの世界遺産に登録された。ベトナム戦争当時の爆撃によって破壊されたせいかタイのアユタヤ世界遺産遺跡群のようなスケールはないが、建造物の色や形が酷似して見えた。遺跡群のなかで結婚式場のPRにでも使うのか、若い美男美女のカップルの撮影が行われていた。 

夕食の後ホイヤンのランタン祭りへ。ベトナム中部の世界遺産の町ホイアンでは、毎月満月の夜にランタン祭りが行われている。旧暦の14日はわれわれが訪れた新暦4月20日、満月になるこの日は、ホイアンの家々は電気が消え、提灯の明かりだけが町を照らし、地元の人たちや外国人観光客で賑っていました。観光後ダナンの素敵な連泊のリゾートホテルへ。

本日の反省会はやめて、明日夜本館レストランで行うための予約をしたあとそれぞれの部屋へ。









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エンターテイメント
№150 2016.5月 

 TVドキュメント(1) BSジャパン
 日本を動かした5人のキーパーソン Ⅳ 
     
 
松下幸之助

戦後70年、敗戦から復興を果たした日本。
そこには復興を後押しした5人のキーパーソンがいた。
     
 前月「おもいつくままに」から移動)

私が契約社員で再入社した銀行で、パナソニック出身の人とビジネスマッチングの仕事で机を並べたことがあった。他の会社を卒業した人もおり、我々はみな相手の会社を「御社」と言った、だが彼の電話では「お会社さま」。

 この言い方には当初は少し違和感を覚えたが、彼の誠実な勤務態度といい、この「お会社さま」という言い方といい、やはり人には長く育った出身企業の「会社柄」が出るのだろうと感心したことがあった。経営の神様松下幸之助さんの「仕事に対する取り組み方や、お客様を大切にする気持ちの影響がこの人にも現れているのか」と思ったものである。 

私が銀行のあと転籍した家電量販の社長は、当時NEBAの会長をされていた。NEBAとは今はもうないが日本電気大型店協会という業界団体。当時ヤマダ・コジマ・ヨドバシなどはこの団体に入ってなく、いわば家電業界のアウトサイダーだった。幸之助氏は「これらの電器屋には売りたくない」と頑張っていたと聞いた。メーカー主導で販売体制を確立していたナショナル電器(当時)としては、仁義なき安売りで業界秩序を乱してほしくなかったのだろう。

 これまで大企業は別として多くの経営者に会う機会があった。会社員として入り事業を拡大したり、経営の危機を乗り越えた中興の祖と言われる経営者も偉いが、大小にかかわらずオーナー社長は雇われ社長より偉い、創業者はもっと偉いと私は思った。

 その「偉い」をすべてもち、一代で世界的メーカーに育てあげたこの人ほど「偉い」経営者はあまりいない。 
 
 松下幸之助、1894年11月27日―1989年4月27日。パナソニックを一代で築き上げた経営の神様。和歌山県出身。創業は鶴橋でソケットの製造販売、事業拡大で野田の大開町で松下電気器具製作所を創業。

 私が銀行の支店で4年間、肌着の会社で3年間計7年も勤務した地、大阪福島野田阪神近くにある小さな公園に記念の碑があって、野田へ行ったときにはたまに寄る。

主な著書・関連書籍に「松下幸之助成功の金言365」「松下幸之助から未来のリーダーたちへ」「松下幸之助「一日一話」 仕事の知恵・人生の知恵」「松下幸之助夢を育てる」「松下幸之助の哲学 いかに生き、いかに栄えるか」「松下幸之助経営回想録」「松下幸之助若き社会人に贈ることば 自分の幸せは自分でつくれ」「松下幸之助 人を活かし育てるプロの教え」「松下幸之助日々のことば 生きる知恵・仕事のヒント(上・下)」「松下幸之助 私の行き方考え方」「松下幸之助発想の軌跡 経営の道・人間の道」「松下幸之助・経営の真髄」「松下幸之助散策・哲学の庭」「松下幸之助の予言 三度の不況を乗り切った日本人の信念」「松下幸之助は語る 情熱がなければ人は動かん」「松下幸之助が今の時代に伝えたいこと」「松下幸之助に学ぶ経営学」など多数。 

松下幸之助の名言集より

失敗の多くは、成功するまでに
あきらめてしまうところに、原因があるように思われる。
最後の最後まで、
あきらめてはいけないのである。

石の上にも三年という。
しかし、三年を一年で習得する努力を
怠ってはならない。

いかにすぐれた才能があっても、
健康を損なってしまっては
十分な仕事もできず、
その才能もいかされないまま
終わってしまいます。

では健康であるために
必要なことは何かというと
栄養であるとか、
休養とかいろいろあるが、
特に大切なのは心の持ち方です。

命をかけるというほどの熱意を持って
仕事に打ち込んでいる人は
少々忙しくても疲れもせず、
病気もしないものです。

こけたら、
立ちなはれ。

「天は二物を与えず」と言うが、
逆に「なるほど、天は二物を与えないが、
しかし一物は与えてくれる」
ということが言えると思う。

その与えられた一つのものを、
大事にして育て上げることである。

すべての人を
自分より偉いと思って仕事をすれば、
く大きな仕事ができるものだ。 

現在与えられた今の仕事に
打ち込めないような心構えでは
どこの職場に変わっても
決していい仕事はできない。

たとえ平凡で小さなことでも、
それを自分なりに深く噛みしめ味わえば
大きな体験に匹敵します。
とにかく、考えてみることである。
工夫してみることである。
そして、やってみることである。
失敗すればやり直せばいい。

どんなに悔いても
過去は変わらない。 
尽くすことである。

人の心は
日に日に変わっていく。
そして、人の境遇もまた、
昨日と今日は同じではないのである。
悪い時が過ぎれば、
よい時は必ず来る。

おしなべて、
事を成す人は必ず時の来るのを待つ。
あせらずあわてず、
静かに時の来るのを待つ。

人類の生命は無限。
だからその未来は無限。
だから、まだまだお互いに
進歩しなければならないのである。

冷静ほど、
大事なことはないのである。

失敗すればやり直せばいい。
やり直してダメなら、もう一度工夫し、
もう一度やり直せばいい。

知識はなくてもいいんや
熱心ささえ
誰にも負けなかったら
             必ず道は開ける。
            









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エンターテイメント
№149 2016.4月                         

TVドキュメント(1) BSジャパン
 日本を動かした5人のキーパーソン 
  田中 角栄 

戦後70年、敗戦から復興を果たした日本。そこには復興を後押しした5人のキーパーソンがいた。

私の読書歴43「天才」 石原慎太郎著 幻冬舎刊 2016.1.20第1刷 2.29第6刷 
戦後の復興を後押しした5人のキーパーソン、前々回は5人のうち、芸能界の2大スーパースター石原裕次郎と美空ひばりについて、前回は野球界のスーパースター長嶋茂雄について書いた。今回は稀有な天才政治家 田中角栄元首相を書いた慎太郎の本。 

ハードカバーには 
 ・反田中の急先鋒だった石原が、今なぜ「田中角栄」にひかれるのか。
 ・石原慎太郎が田中角栄に成り代わって書いた衝撃の霊言! 
 ・幼いころから身につけた金銭感覚と類稀なる人間通を武器に総理にまで伸し上がった男の知られざる素顔。   ・・・・とある。 

良きにつけ悪しきにつけ、この政治家を現わす言葉に、曰く 今太閤、コンピューター付ブルドーダー 、日中国交正常化井戸を掘った人、日本列島改造論本を書いて実践した人、ロッキード事件の被告。
 首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取ったりもした。

昭和39年、44歳で大蔵大臣に就任したさい、大蔵省幹部を前にしての挨拶
「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。・・・・・・一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室にきてほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。・・・・・・できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上。」

人はなぜこれほどまでにこの政治家に惹かれるのだろうか。
「天才」、この小説は田中角栄一人称で書かれている、慎太郎氏が角さんに成り代わって。 

慎太郎氏は 「長い後書き」のなかで、次のように締めくくっている。

いずれにせよ、彼の先見性に満ちた発想の正確性を今日の日本の在りようが歴史の現実として証している。端的に言って政治家個人としての独自の発想でまだ若い時代に40近い議員立法を成し遂げ、それが未だに法律として通用しているという実績を持つ政治家は他に誰もいはしまい。 

いずれにせよ、私たちは田中角栄という未曽有の天才をアメリカという私たちの年来の支配者の策謀で失ってしまったのだった。歴史への回顧にもしもという言葉は禁句だとしても、無慈悲に奪われてしまった田中角栄という天才の人生は、この国にとって実は掛け替えのないものだったということを改めて知ることは、決して意味のないことではありはしまい。 

以下 次号









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エンターテイメント №148 2016.3月 
                               

TVドキュメント(1) BSジャパン
 日本を動かした5人のキーパーソン 長嶋 茂雄

戦後の復興を後押しした5人のキーパーソン、前回はその5人のうち、芸能界の2大スーパースター石原裕次郎と美空ひばりについて書いた。この二人の歌や映画は人々に様々な影響を与えたことは間違いない。 

スポーツ界にもすごいスーパースターがいた、いや今もいる巨人のON。
世界の王、人間的にも記録もすごい人ではある。しかし長嶋、記録では王に負けてはいるが、長嶋はやはり記憶に残る選手ではある。長嶋の愛されるゆえんはその勝負強いバッティングや、華麗な守備にあるのは当然として、やはりそのパーソナリティにあるのだろう。 

数々の長島語録とエピソード

・「うーん」「ええ」「いわゆる」「ひとつの」「ややもすると」

・打撃論「打つべきときに、打つべき球を打つ」

・アメリカでマクドナルドを見て「アメリカにも進出しているんだ」

・キャンプでアメリカへ「こっちの子は英語はうまいなあ」

「こっちは外車ばかりだねえ、さすがアメリカだ」

・セコムのCMやってるのに泥棒に入られる、翌日株価暴落。

http://2chart.fc2web.com/cho.html 長嶋茂雄伝説から 

・昭和34.6.25 プロ野球初めての天覧試合 阪神戦。9回裏4対4、あと何分かで天皇陛下が帰られる、そのときサヨナラホームラン。

・43.5.11 対中日戦 2死2塁敬遠のサインにツーボールの後、バット  を持たず打席に立つ。

・サードの守備について、ショートへのボールもとって遊撃手の広岡に怒  られた。

・神宮球場のヤクルト戦、連れて行った長男一茂を球場に置き去りにして  帰ってしまった。 etc

 愛すべき人 長嶋。 

以下 次号











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エンターテイメント
№147 2016.2月 
                               

TVドキュメント(1) BSジャパン
 日本を動かした5人のキーパーソンⅠ  ひばりと裕次郎

 戦後70年、敗戦から復興を果たした日本。
そこには復興を後押しした5人のキーパーソンがいた


2015年8月5日放送のこの番組、今年になってその再放送を観た。その5人とは、美空ひばり、石原裕次郎、長嶋茂雄、田中角栄、松下幸之助。彼らが果たした役割とは。  

昨年は戦後70年ということもあって、昭和史を振り返る番組が多かった。綺羅星のごとくいた多くの有名人の中でこの5人。この昭和から平成の70年は私自身の人生そのものでもある、私が選んでも間違いなくこの5人、よく選んだものだと思う。そしてこの5人のエピソードの間へ次のようなイベントや事件を織り交ぜていく。コメンテーターのあの大女優 司葉子はこの5人ともに少なからず縁があったという。 

 (1)皇太子さま・美智子さま 世紀のご成婚秘話 (2)未解決「3億円事件」…事件記者が明かす真相とは!? (3)V9戦士・柴田勲が見た長嶋茂雄の仰天エピソード (4)「沖縄本土復帰」昭和47年5月15日、あの日の混乱ぶりは…  (5)妻・石原まき子が語る裕次郎の素顔 (6)バブルという時代…なぜバブルは起きたのか (7)小泉劇場、国民はなぜ「小泉」を求めたのか (8)秘蔵映像「松下幸之助×田原総一朗」対談

彼らが果たした役割とは。彼らが残した“言葉”にスポットを当て、その時々の世相・流行・エンターテインメントを織り交ぜながら、戦後70年の歩みを振り返る。戦後70年の歴史の中で、人々の心に明かりを灯し、復興を後押ししたキーパーソンがいた。美空ひばり、石原裕次郎、長嶋茂雄、田中角栄、松下幸之助。――。

 
今回はこのなかで、芸能人で戦後復興のキーパーソンとなった二人のスーパースターを取り上げたい。

私はジャイアンツファン、関西なのに何故?ってよく聞かれる、理由を言うと話が少し長くなる。

中学生のころ、ラジオから流れる裕次郎の歌が好きだった。「俺は待ってるぜ」(S32)、「錆びたナイフ」(S32)、「男の横丁」(S33)、「口笛が聞こえる港町」(S33)。映画が見たくても吉野の山奥には映画館はなかったが、高校生になって学校があるその小さな市に8つも映画館があった。そのなかの高田キネマは日活の3本建が良くかかっており、石原裕次郎の映画は必ず観た 

いつのころだったか(S34)その裕ちゃんが「セバンゴーサン」で始まる(男の友情 背番号3)、弟分の長島を応援する歌を唄った。そのころは、周りの友人たちも阪神ファンが多かったが、大好きな裕ちゃんが好きな選手だからと、気が付けば長嶋のいる巨人のファンとなっていた 

美空ひばりについていえば、彼女の若いころはなぜかあまり好きではなかった。こましゃくれた感じと言い、二卵性のステージママがいたり、どうしようもない弟がいたり・・・・それでも歌は大概知っていた。あるとき「悲しい酒」(S41)を聞いていて、何かこの人が背負っている「悲しい人生」が見えてくるような気がした。そして大歌手で大女優で、何不自由ないはずの彼女が可哀そうに思えたのである。

この番組を見てひばりを慕う人のなんと多い事か、実は気配りのできる素晴らしい女性だったのだ。 

この戦後二大スーパースター、奇しくも52才であの世の人となった。辞世の曲、裕次郎「わが人生に悔いなし」、ひばり「川の流れのように」。 後編 次号












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エンターテイメント
№146 
2016.1月 私の読書歴 42                 
    あい 永遠に在り」  高田 郁 著 ハルキ文庫 

 上総の貧しい農村に生まれたあいは、糸紡ぎの上手な愛らしい少女だった。18歳になったあいは運命の糸に導かれるようにして、ひとりの男と結ばれる。男の名は、関寛斎。苦労の末に医師となった寛斎は、戊辰戦争で多くの命を救い、栄達を約束される。しかし、彼は立身出世に目もくれず、患者のために医療の堤となっていきたいと願う。あいはそんな夫を誰よりもよく理解し、寄り添い、支え抜く。やがて二人は一大決心のもと北海道開拓への道へと踏み出すが・・・・・・。幕末から明治へと激動の時代を生きた夫婦の生涯を通じて、愛すること、生きることの意味を問う感動の物語。  裏表紙より 

高田郁(かおる)の小説はこれが初めて、その後、ドラマにもなった「銭二貫」を読んだ。
 主人公の夫、関寛斎という人は司馬遼太郎など多くの作家によって題台とされた実在の人物である。その偉大とも思える人物が「婆はわしより偉かった」と言った言葉が残っているという。 

「先生(あいは夫をこう呼ぶ)、長崎へお出でませ」。「幾度も無駄な話はするな。私は他人の懐をあてにして留学などしない」という夫の言葉を聞き、あいは厳かに告げた。「ならば、私を離縁してくださいませ。初太郎とスミと大助を連れて、このまま家を出ます」「先生はコレラ禍の江戸へ行かれる時、私に仰いましたね。自分は強い意志を持って医師になったと、そうであるなら,何故その意思を貫こうとなさらないのですか」 

苦労に苦労を重ね医師として功成し遂げ、徳島藩主蜂須賀家の御典医まで上り詰めた寛斎は、古希(当時は文字通り古来稀な年齢だったろう)を過ぎ、使命感に揺さぶられ未開の地(蝦夷)北海道開拓へ行く決心をする。

「あい」の健康を心配し、一人で旅たつはずが、病身の妻も「連れていってくださいな、私も一緒に。きっとお役にたちますよ、田畑仕事は、先生よりも私の方が上手ですからね。「あい」と妻の名を呼ぶと、寛斎は顔を歪める。その双眸に盛り上がる涙を零すまい、と寛斎は唇を引き結んで堪えた。 

北海道に来たものの札幌で病床に就いていたあいが、夢にまで見た斗満(とまむ)の地は夫の手で開かれて、今は足寄郡陸別町となっている。
「栄達を求めず、清貧に明け暮れ、ただ自分の求める理想に向かって生きる夫を支え尽くした「あい」、本を読みながら目は潤みっぱなしだった。 一読に値する1冊ではある。










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エンターテイメント
№145 2015.12月   
Trip&Tour (15-3

魅惑のミャンマー5日間 45日目)最終回
    いきなり自動車天国?の国だった  

4日目  朝、同室の旅行会の長老Hさんと海の近くまで散歩してみようと外出。海岸はそう遠くはなかったが、貨物船の船着き場なのか大型のクレーンが林立しており、浜へは出られそうになかった。今回の旅行でやりたたかったことの一つ、「この国の人たちの生活と、ふれあえたら」との思いで、早朝の庶民の市場見学に切り替え。市場と言っても何の設備もなく幅4~5メートルほどの道端に鶏の足や、大小様々の魚、野菜果物、そして衣類や雑貨が並ぶ。野菜の切れ端などはそのまま道路へ放り投げている人もいた。 

何か買うものはないかと探していると、日本で見るものとは違う形の、一房に14~15本ぐらいついている短いがかなり太めのバナナ。買おうと思っても言葉が全く通じないので、1,000チャット(約120円)紙幣をだしてバナナを指差すと500チャットお釣りを。バナナにはひもをつけて持ちやすいようにしてくれ、値段を確認したわけでもないのに、ちゃんとお釣りもくれ素朴さが覗えた。 

3連泊のホテルに戻って朝食の後荷物をまとめてロビーへ。このロビーで気になったのが各国の標準時間。ニューヨーク、ロンドン、お隣のバンコクは当然としても、香港、ソウルの時計がかかっている。かなりの親日と聞いていたのに「ソウルがあって東京がないのは解せない、何で?」と抗議しようと思ったが大人げないと思い止めた。

本日の観光はヤンゴン市内見物。昨日行ったバゴーと同じようなものが多い、まずはヤンゴンの中心部にあるシュエダゴンバゴダ、伝説によれば、約2500年前に建てられたとされているが、考古学的研究によれば6~10世紀の間に建立されたと考えられている。地震によって幾度も破壊されており、現在の仏塔の原型は15世紀ころ成立したらしい。

シュエダゴン・パゴダの境内は、東西南北の門から入り、エレベーター上がった上部にある。境内は高さ約100メートルの黄金のストゥーパを中心に60余りの仏塔や廟が林立する空間になっており、供物や土産物を売る店も数多い。なお、ミャンマーでは寺院の境内には裸足で入るものとされており、このパゴダも例外ではなかった。

境内には生まれた日の各曜日の守り神(仏?)があり、そこへお参りすればご利益があると聞き、それぞれが自分の生まれた曜日(生年月日から調べ、あらかじめ知らされていた)の仏壇?へ。私の場合日曜日、この曜日が、9人のうち4人と一番多かった。
 次にはチャウダッジーバゴダ、昨日バゴーにもあったが巨大な寝仏、高さ17.7m、長さ65.8m、寝釈迦の足裏には108個の仏教宇宙観図絵が描かれている。ヤンゴンで一番大きな涅槃仏だそうである。

そしてバゴダの最後はスーレーバゴダ、高さ48m、今まで見たバゴダはみな丸いものであったが、この寺院のバゴダは8角形。約2000年前、仏陀の聖髪を納めるために建てられたと伝えられている。 

途中マーケット、チャイナタウンを通り、ミャンマー料理の夕食。このレストランでハプニング、食事も終わりになりかけたとき、突然部屋が真っ暗に。旅行前、添乗員から「懐中電灯を」と伝えられていたため、スワ停電?と思ったとき音楽が流れ、電気がともると大きなケーキが運ばれて来た。このツアーの客の中から2名の名前が呼ばれ、我々の仲間からは髭のSさん、他の旅行客から老年女性。大きなケーキに2人でナイフを入れ、みんなにふるまわれた、添乗員のプレゼントだという。 

夕食の後、この旅最後のイベント、昼間行ったシュエダゴン・バゴダのライトアップされたところで記念写真。

5日目  その後空港へ、帰りも北京経由で(機中泊)関空にはPM1時前到着、機中で今回初参加のメンバーで2番目に若いHさんと「きつねうどん食べたいなあ」異口同音。関空内「がんこ寿司」の寿司とうどん、ビールで解散会、やっぱり日本の食い物はいい。 

あとがき 

旅行前、この旅行で制覇できると思っていた世界3大仏教遺跡はどれだったのか?。実は途中で今回の安いツアーには入っていないことが分かり少しがっかり。該当は(ミャンマー)マンダレー管区にあるバガン(行政区画の一つ)、そこには大小さまざまな「パゴダ」と呼ばれる仏塔が3,000棟以上も点在しているという。

旅行後11月8日、この国では歴史的な総選挙が行われ、アウン・サン・スーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)が圧勝した。旅行中3大仏教遺跡ではなくて「何のために?」と思ったりもしたが、大統領より偉くなるスー・チーさんが軟禁されていたという家の前にも立ったし、これからかなりなスピードで成長していくと思われるこの国を見ておくことができて、「行ってよかった」と思うこのごろであります。










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エンターテイメント
№144 2015.11月  Trip&Tour (15-1)

魅惑のミャンマー5日間Ⅱ(いきなり自動車天国?の国だった) 

 3日目  バゴーへ

ホテルにて朝食後「ビルマの竪琴」の舞台となったバゴーへ、バスで約2時間。

 街には阪急バスが走っている。他にも日本語を塗り替えもせず走らせている車を多く見た。この国は、ほとんどが中古車なのでしょうが、車社会でした。90%以上が日本車、そのまた90%がトヨタ。他の東南アジアのようにそれほどバイクを経ず一気に自動車社会になったようで、道路や信号などインフラが追い付いていないように見えた。

先ずはミャンマー南部の古都バゴーにある仏教僧院チャッカワイン僧院見学。市街中心部 を流れるバゴー川沿いに位置し、1,000人以上の僧侶が修行する同国最大規模の僧院として知られる。見どころは11:00ごろから始まる食事風景だという。僧侶たちの入浴、食事の準備から食事風景まで見学できる。時間が来ると合図の音に合わせ大勢の修業僧が集まってくる。なかには小学生くらいにしか見えない子供もいる。

大きな鍋から皿に盛ったご飯を、観光客からも喜捨できるようになっている。私見であるが神聖な修行風景を、入浴や食事の風景まで観光資源とするのはいかがなものかと。また、托鉢というのであれば、私財を喜捨すべきで用意してある食事を、観光客らから僧たちに渡していくのを托鉢風景というのはよくわからない。

次に行ったとこはシュエモード・バゴダ。バゴー王朝の栄華を偲ばせる巨大な仏塔。8~9世紀ごろ当初23mの高さだったのが、再建を繰り返すうちに114mとミャンマーで最も高いバゴダとなったという。そのあと、シュエターリャウン寝仏。ミャンマー最古といわれる寝釈迦像、全長54.88m、高さ16m。そしてチャイプーンバゴダ。4面仏像が東西南北をむいている。 

夕食は中国人経営と言われる日本食レストラン。

あした4日目は機中泊となるので、1,2泊目には遅くてできなかったこの旅行恒例の客室内飲み会。近くのスーパーで仕入れてきたビールと北京空港で買ってきたウイスキーで乾杯。(ヤンゴン3連泊)






 




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エンターテイメント№143 2015.10月    
Trip&Tour (15-1)

魅惑のミャンマー5日間(いきなり自動車天国?の国だった) 
 (1・2日目)

 1日目  ミャンマー ヤンゴンへ

  我々10人前後の旅行会で「こんどはミャンマー」と決まったのは、この国には世界3大仏教遺跡の一つがあるということだった。あとの二つ、カンボジア アンコールワット遺跡(AngkorWat 2013.1)、インドネシア ボロブドゥール遺跡(Brobudur 2014.1)は観光済みだったからである。このことについては後に詳しく説明する必要があります。

ミャンマー連邦共和国は東南アジアに位置する共和制国家。1989年までの名称はビルマ。インドシナ半島西部に位置し、北東に中華人民共和国、東にラオス、南東にタイ、西にバングラデシュ、北西にインドと国境を接する。面積68万平方キロ(日本の約1.8倍)。行く前ヤンゴンだと思っていた首都はネピドー(「ヤンゴン=ラングーン改め」は旧首都)。通貨はチャット。人口5,100万人、人口の6割はビルマ族、他にいま難民で話題のロヒンギャ族など多くの少数民族がいる。

このツアーは我々9人を含め、24人、読売旅行としてはミャンマー行第1号だったらしい。飛行機は中華国際航空、北京経由ヤンゴン行となっている、ミャンマー入国にはビザが必要。いままでアジア・東南アジアへは十数回行っているが、日本から添乗員がついていくのは18年前行った中国以来2度目。ことほどさように辺鄙なとこへということか?。添乗員が一人当たり5,000円だけ現地通貨チャットに両替、40,000チャットくれた。このことについてもあとで述べます。

第一日目は移動のみ、関空13:50発3時間35分のフライトで北京へ、16:25(現地時間)着、日本との時差は1時間。北京での乗り継ぎの通関は結構厳重、嫌というほどボディチェックされた。空港内の3時間滞在は退屈?と思っていたが、それほどの時間の余裕は感じなかった。中国国際空港から4時間半の飛行でヤンゴン到着は深夜24時半(日本時間午前3時)。日本との時差は2時間半、ここでちょっとしたハプニング。同じツアー夫婦連れの奥さんが何かトラブル、「スーツケースが壊されている」とのことで解決待ち。ホテルへ着いたときは疲れ切っていた。(ヤンゴン泊)

2日目  チャイティーヨーへ

朝、ホテルから見た町の様子に驚く、ここは旧首都の中心街、4~5階建ての建物が建っているが、おそらく数十年も前のイギリス植民地時代(1948年独立)からの建物であろう、古い、相当使い込んでいる。

ホテルにて朝食後陸路チャイティーヨーへ。バスで4時間以上移動、両側の景色はほとんど変わらない、道もまっすぐが続く、一応高速道路。日本の1.8倍の国土と聞いたが、我が国の場合多くの島から成り立っているがこの国は大陸の一部、結構広い、いやかなり広い。

途中車窓からみる平原には、ところどころ田んぼの間に草ぶきの屋根の家があるが電柱がない。電線らしきものもない。山のふもとでトラックバスに乗り換え。ここで100円ショップで買ってきたカッパ着用。トラックバスは大型トラックの荷台に頑丈な手すりを取り付けたもの、25人くらいが乗れる。 

標高1,100m以上もある山のてっぺんへ約1時間もかけて登る、登る。途中大粒の雨、「カッパ用意」の意味を理解。着いたところはかの有名な落ちそうで落ちない「ゴールデンロック」のあるところ。その岩の上に乗っかっているのがチャイティーヨーバゴダ。雨に濡れた石畳をはだしで歩く。靴も靴下もダメ、女性はストーンなどには触れない。頂上は濃霧で視界10メートル程度か。頂上なので天気の良い日の景色の良さが想像できる。巡礼者の寄付によって貼り付けられた金箔に覆われた花崗岩の巨礫の頂上に、高さ7.3mの小さなパゴダが乗っている。

帰り、トラックまでの道、地元の女性が頭の上に煉瓦を載せて運んでいる、かなりの量であるが裸足で滑りもせずせっせと運んでいる。一番年輩であるが好奇心旺盛なHさんが、煉瓦を積んであるところで自分の頭に乗せて重さを確認。

問題はこの山からの「下り」である。トラックはすれ違いもできない狭い急坂を、猛スピードで下るのである。「生きた心地がしない」とはこのためにある言葉、私たちにできることは、手すりにしがみついて振り落とされないようにすることと、ただただ運転ミスがないことを祈るのみである。ギンギラギンの落ちそうで落ちない岩、チャイティヨーバゴダ見学のためだけに、命をかけ往復10時間以上のバス・トラック旅、今日も疲れた。ヤンゴン市内でミャンマー料理(昼も)を食べてホテルへ。(ヤンゴン連泊)










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エンターテイメント
№142
 2015.9月      
 私の読書歴 (41)  
  
「一路」  浅田 次郎 著 中公文庫

参勤行列に後戻りする道はない、とにかく泣ける上巻帯
この御殿様うつけか切れ者か、ひたすら笑える 
下巻帯

そして上巻背表紙に 
 失火により父が不慮の死を遂げたため、江戸から西美濃・田名部郡に帰参した小野寺一路。齢十九にして始めて訪れた故郷では、小野寺家代々の御役目・参勤道中伴頭を仰せつかる。失火は大罪にして、家督相続は仮の沙汰。差配に不手際があれば、ただちに家名断絶と追いつめられる一路だったが、家伝の「行軍録」を唯一の頼りに、いざ江戸見参の道中へ!

いま、BS時代劇で連続放映中であるがドラマは観てない。この小説、上・下を読んでから録画したものを一気に観賞するつもりである。浅田次郎はこのHP「エンターテイメント」4回目の登場である。一番好きな氏の小説「蒼穹の昴」(2005.1)、とそのドラマ(2010.10)を入れたら5回目。

氏は1991年ごろからの作家活動で、1995年、「地下鉄に乗って」で吉川英治文学新人賞。このころからのファン。その後1997年、ぽっぽや(鉄道員)で直木賞、押しも押されもせぬ我が国文壇の大御所的存在となり、今年紫綬褒章まで受賞している。

主人公「一路」は十九の若さで御供頭の大役を仰せつかった。突然の事故により享年四十一で急死した父は家督を一路に譲るのはまだ先と考え、「剣を磨き学問をおさめよ」と指示。お役目のこと、参勤行軍の知識も作法も何一つ伝授してなかった。

途方に暮れた一路は藁にもすがる思いで頼りにしたのは、焼け跡から見つかった一冊の古文書。父祖が書き残した参勤道中心得だった。

御供頭心得
  雖平時戦備長長無怠可相務
  御大将蒔坂左京太夫様
  御乗物御籠 但 必ス御手馬御替馬二匹伴ヒ
  先達交渉権現様恩賜之朱槍二筋 
  郡役定メ御家来衆 五十徒士ヲ不下 
  尚 殿軍ノ騎馬武者一騎   

一路は一所懸命であった。
 文庫本の巻末「解説」は壇ふみ、彼女はこの中で「一所懸命」について書いている。私の「座右の銘」も一生懸命ではなく「一所懸命」。書に造詣が深かった私の現役時代の会社のトップから、色紙に好きな言葉を書いて頂く機会があり、その時揮毫をお願いしたのも「一所懸命」。 

 本書に上記のような御供頭心得が多く出てくる。壇ふみが「あのような古文書よくありましたね」との質問に、「ぜんぶ創作ですよ」。ことほどさようにこの作家の書くものが史実と虚構の見分けがつきにくい。 

 ちなみにこの小説のお殿様、西美濃 田名部郡を領分とする蒔坂左京太夫、大名でなく知行七千五百石の旗本。その実態は大名同然であることから参勤の義務を負った。徳川の直臣石高が足らぬゆえ大名には列せられないが旗本中の別格たる交代寄合という格式に落着、赤穂騒動で有名な吉良上野介殿様も同格。

 権威の象徴たる殿様は神秘でならなくてはならない、家来に余計なことは言わない、言えない。 
「面を上げよ」、「大儀じゃ」、「祝着である」、「よきにはからえ」。

       キップがよくて人間味あふれる(馬までが) 登場人物が胸にぐっとくる。浅田小説の醍醐味がここにもあった。












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エンターテイメント
№141 2015.8月 
映画16   

ターミネーター:新起動/ジェニシス
(2015)

     シュワちゃんはオジサンになっていた

ターミネーター2を観たのは平成3年(‘91)、初めて海外に行ったとき。タイから香港行きファーストクラス(後にも先にもこれ1回きり)の機内だった。わが国内公開前で、大きなスクリーンだったことを記憶している。

 このシリーズはやはりシュワちゃん、彼が演じるT-800もさることながら、このときの『ターミネーター2』から24年を経てシリーズ2度目の登場となるキャラクターT-1000の記憶も鮮明である。液体金属でできているため、何にでも変身でき、撃たれてもつぶされてもどこまでも追いかけてくるあのキャラクターである。今回はかの韓流トップスター イ・ビョンホンが演じている。

今回公開のターミネーター新機動には「ターミネーター3」以来となるアーノルド・シュワルツェネッガーが戻ってきた。将来人類反乱軍を率いることになる男の母親を闇に葬るため、未来から送り込まれた殺戮マシンのターミネーターと、同型の古いターミネーターの直接対決を描く。

2029年、人類とマシーンたちとの熾烈な戦いが繰り広げられている未来。自分を生んだ母サラの命を守るため、人類反乱軍のリーダーは信頼できる同志カイルを過去に送る。一方、機械軍は、抵抗軍のリーダーであり、驚異的な力を持つ予言者ことジョン・コナー(ジェイソン・クラーク)を生んだ母サラ・コナーを亡き者にすべく、1984年にターミネーターを送り込む。(この辺がややこしい)

カイルが守るべきサラはたくましい女性戦士に変身しており、彼女を守っていたターミネーターT800(シュワちゃん)は、彼女から「おじさん」と呼ばれていた。「I‘ll be back」あの有名なセリフも出てくる。

監督はアラン・テイラー(1・2作はェームズ・キャメロン)、およそ12年ぶりに本シリーズに復帰したシュワルツェネッガーの熱演はもとより、新たな展開が見もの。

観終わった後、いつもカミさんと話すのは「この手の映画はやっぱ米国製やなあ、金のかけ方が違う」。










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エンターテイメント
№140   2015.7月 

私の読書歴 (40) 
 「社長!銀行は上手に使いなはれ」
     銀行と付き合うための10章
      松場弘人著 文芸社文庫      

いつもは人が書いた本の読後感を書いていますが、こんなことはめったに無いことなので、私の本の読後感を紹介させていただきます。

その1

こんばんは。藤本です。「社長!銀行は上手に使いなはれ」をネットで購入して、一気に読みました。松場さんの「私の履歴書」本当に素晴らしいと感動をもって拝読しました。銀行業を通して、メーカーを通して小売業の仕事を通して顧客の目線で仕事をされたと強く思い感じました。

経営・営業の極意には奇策はなく「原理・原則・基準・方法」だと改めて強く感じました。そのために経営計画・計画書が最も重要で「夢と希望に日付を打つこと」だと思いました。この著書の最後のあとがきは第1章から第10章の特に強く感じたことをうまくまとめられていました。最後の「本気」はいいですね・・・に加えて本心・本音・本腰・本物でした」。

主に銀行での仕事を通して豊かな人間性で社会・お取引先・会社・社員の方々に大きく貢献されたと思っております。今年(昨年)近畿大阪銀行を退社後、BMネットワークグループを起ち上げられましたが、松場さんは今迄の社会・会社での経験を生かし、持ち前のご才覚を縦横に発揮され、素晴らしいご活躍をされると私は確信をいたしております。思い感じた事をうまく表現・メールできませんが、いい著書を拝読できたと嬉しく思っております。有難うございました。松場さんの益々のご活躍をお祈り申し上げます。藤本 右近。(原文のママ)

その2

こんにちは!昨日、本購入して一読しました。私自身の銀行時代が鮮明によみがえってきました。要領よくまとめられたと感心しています。会社の幹部に読ませます。


その1の藤本さまは、某上場会社に途中入社、時を待たず実力で執行役員となられ、その後は関連会社の常務を経て社長までされた方です。現在は複数のNPO法人役員などをされ、悠々ご自適の生活を送っておられます。

その2 は地銀支店長・国際部長などを歴任、その後取引先だった会社の副社長として迎えられ、現在もご活躍されておられる大西さまです。
本人様のご了解を得て転載させていただきました。

6月中旬大阪駅ルクア1100(イーレと言うらしい)9階梅田蔦屋書店に足を運びました。私の本は1,000坪もある書店のメイン通りにある格好の場所に、平積みかつ一冊立てかけてくれている。この前行ったときは40冊弱あったのがこの日は残り12冊に減っていた。売り場の人に聞くと「先週よく売れたので、追加発注するところ」とのこと。

この度の出版にあたり、メールやレターでの突然で失礼な私の本の紹介にもかかわらず、多くの方々がアマゾンへ、書店へと駆け付けいただき、これほど有難いことはありません。おかげさまで、長年没交渉になっていた方々との再つきあい?や、文書による再会など、思わぬ副産物があったこともうれしい誤算となりました。「本を出すなどばかげたこと」とも感じながら、思い切ってやったことは良かったのではと思うこのごろです。重版まであと少し、応援のほどよろしくお願い申し上げます。

最後に、なんの実績も名もない者が書いた薄い(中身は?)文庫本を、このような日本一の書店のすごい場所に平積みしてもらえることなど普通ならありえません。お世話をかけた友人Tさんにこの場を借りて再度お礼を申し上げたい、本当にありがとうございました。











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エンターテイメント
№139   2015.6月   

私の読書歴 (39)  
 
「海賊と呼ばれた男」 上・下 百田尚樹著 講談社文庫

百田尚樹を初めて読んだのは「永遠のゼロ」(本欄№119(2013.10月号)。その後ちょっと興味があって「やしきたかじん」とともに彼の死病と闘った嫁サクラさんを描いた「殉愛」を読んだ。好きな番組「たかじんのそこまで言って委員会」、この番組でそれまであまり好きではなかった「たかじん」に興味を持つこととなり、出たばかりのハードカバーを手に取った。この本により家鋪家とテレビ関係者対未亡人側の泥仕合が今も続いているようだ。 

百田尚樹はこの「海賊と呼ばれた男」で2013年の第10回「本屋大賞」を受賞している。昨年1月現在で上下巻累計で170万部売れたとある。読み始めた時はこの本のモデルとなった人物を知らなかった。知らずに読んだほうが面白いのではないかとも考え、あえて調べなかったが、読んでいてすぐに分かった。 

1945年(昭和20年)8月15日。世界中を敵に回した、日本の戦争は終わった。東京をはじめとした主要都市は徹底的に爆撃されて瓦礫の山となり、海外資産のすべてを失って莫大な賠償金が課せられようとしていた。これから日本はどうなっていくのだろうかと、全員が途方に暮れて失意に包まれているとき、毅然と店員を集めて話す男がいた。国岡商会の国岡鐡造店主である。 

わずかに残った店員を前に、鐡造は「愚痴をやめよ、愚痴は泣きごとである。亡国の声である」「日本には三千年の歴史がある。戦争に負けたからと言って、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」と訓示を述べた。

一代かけて築いた会社資産のほとんどを失い、借金を背負いつつも店員の一人も馘首せず再起を図る。出勤簿もなく定年もないこの会社は石油を武器に世界との戦いを始めるのである。 

この小説が読者をひきつけて離さないのは、主人公田岡鐵三こと出光興産創業者出光佐三の人物像にある。自らの企業を個人商店という、この店主には「私」というものがない点であろう。

最近TVの番組で松下幸之助氏の実像を語る番組があった。元民主党代表で総理経験者松下政経塾出身の野田氏と上智大学の教授渡部昇一氏が松下幸之助について、「経営者ではこの人と本田宗一郎氏二人だけは他の経営者と違う、それは「私」がないということだ」と。そしてその「私心のない」最たる人は「昭和天皇」であったと。 

終戦の時天皇に「私心」があったら、国民のことを第一に考えることのない人であったら、今の平和と繁栄はなかったかもしれない。

このとき頭に浮かんだのはこの本の主人公。この人にとっては、自社の利益など小さいことで、常に大所高所で「日本国」の国益を念頭に、官僚や、世界のメジャーを敵に回してでも敢えて不利な戦いに挑んでいった。そして常に熱い気持ちで社員一人一人のことを考えていた。社員(店員)たちはこの人のためには、命さえ差し出しても惜しくはない」と思ったことであろう。また実際、店員たちは死をも恐れず仕事に挑んだ。 

国を愛し、国のことを思える人は偉い、この本の作者百田氏も愛国心の強い人なのであろう。

「本を出したいと考えている人は絶対読まないように」というような惹句の、百田氏の本が本屋の店頭に並んでいた。読んではないが、出版不況の中の自費出版ビジネスに乗せられる人を描いたものであろう。「何時かはクラウン」というのがあったが、やはりいつかは「自分の本」というものを出してみたかった。この度、小さい本ではあるが実現したことで「死ぬまでに」というのを一つ達成した喜びを感じています。そして多くの先輩・友人・知人そして経営者の方たちの応援があったことに感謝、感謝であります。

元札幌大学教授で作家の鷲田小弥太氏は
定年後には「読む・書く」が似合う。書くとは「余生」の生き方ではない、新しい人生を生きることだ。
書斎がなくて何の人生だ、名刺代わりに著書がなくては、この世に自分が存在した証を残す、などと書くことを薦めています。
そのための出費が「軽自動車1台以下」というのであれば「安い」と私は思う。




 






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エンターテイメント
№138   2015  .5月   
Trip&Tour (14-4)           

マレーシア縦断6日間の旅 Ⅳ(最終) (2015.1.30~ 
    
マレーシアはトイレ以外は先進国だった
  

5日目  ペナン島
 毎月アップしている間に1月末に行った旅行から3か月経ってしまった。思い出すのに一苦労、昔のことはよく覚えているのに。 

 ホテルにて朝食後、ペナン島のジョージタウン観光
 2008年7月にマラッカとともにユネスコ世界文化遺産として登録されたジョージタウンは、18世紀後 半、当時のケダ州スルタンとイギリス東インド会社との条約により、イギリスの植民地として譲渡され  た。当時のイギリス東インド会社の総督・フランシス・ライトにより「プリンス・オブ・ウェールズ島」と名付 けられ、フランシス・ライトの居住する地区をジョージタウンと名付けられた。ジョージタウンは主にイギ リス植民地時代の建物と、様々な文化が融合した独特の町並みを今なお残していました。 

先ずはコーンウォリス要塞へ、ここはペナン島北東端の海岸部にある英国統治時代の要塞。1786年、英国東インド会社のフランシス・ライト提督が最初にペナンを訪れた際に、上陸した場所に建てられたという。煉瓦造りの壁に囲まれ、海に向かって設置された大砲が要塞を守っていた。 

次に涅槃仏寺院、
  敷地内に一歩入ると。そこはもうタイのようだった。お決まりの仏塔と大きな鬼と金ピカの蛇がいて、  本堂には金箔をまとった全長33mの巨大な寝釈迦仏が横たわっていた。
  ペナン島最大の「カピタン・クリン・モスク」は、インドの伝統的なムガール様式を用いている。裕福  なインド人のイスラム教徒カウダー・モフディーンによって、1801年建てられ、「カピタン・クリン」とい  う名も彼にちなんで付けられたという。 

 観音寺
 ペナンで一番古い中国寺院だそうで、旧正月が近いのかちょうちんがいっぱいぶら下がっ ていました。
  次にバスから降りたのはペナン島水上生活村 、ここは、「姓林橋」(LIM JETTY)という19世紀中  期に中国の福建省から渡ってきた民族の子孫が桟橋を中心に集住しているペナンの中でも古い  村の一つで、高層ビルなど近代化が進む街の風景をバックに、そこにへばりつくように展開してい  る集落でその落差は相当なものだと思った。 

  昼食は日本食、
  マレーシアの他国籍料理に飽き、この旅行の食事は「もひとつやなあ」と思い、日 本の懐かしい  料理が恋しい時。ホテル・シティテルの1階にある「霧島(KIRISHIMA)へ。ほっとした時間でしたが 料理の高かった(特に日本酒)こと。「日本から来る食材です」と聞き、なるほどと納得まあ良かった 。

  PM3:00からはオプショナルツアー
  世界遺産ジョージアタウンをリキシャで一周。ここにはリトア ニア出身のアーティスト、アーネスカ  ・ザカレビッチさんが描いた「小さな子供達と自転車」など壁画 が印象的。一周のあと、海鮮料理  の夕食。店の名前は忘れたが、その店は小さい湖のほとりに  あった。おどろいたのは店の前   の水槽に泳いでいた魚と、シャコなど貝の大きさ。料理もよかった が店員も面白い娘だった。 

6日目 帰国へ
  早朝AM5:00、ホテルを出発し空港へ、帰りもまた香港経由。香港の空港での待ち時間は約5 時間、イスラム教国では、宗教の関係でどうしても飲む機会が少なくなる。香港では十分時間が  あったのでゆっくり飲食できた。
  関空へ着いたのはPM9:00、空港での反省会は無し。いつもならリムジンバスへ乗り込めば  あとはわが住まいのある八木まで一直線なのだが、終バスがでたあと。5回目となるこの会の旅 行では初めてのJR→近鉄で我が家へ。

 









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エンターテイメント
№137   
2015.4月   Trip&Tour (13-3)         

マレーシア縦断6日間の旅 Ⅲ2015.1.30~  
     
マレーシアはトイレ以外は先進国だった 

4日目  キャメロンハイランド観光 

マレーシアを代表する高原リゾート地、ヘリテージホテル・キャメロンハイランドで1泊した私たちは、ホテルでの朝食後まずは朝市散歩。気候は涼しく朝は長袖のシャツだけでは寒く感じるほど。急きょ関空まで着てきたダウンのジャンパーを着ての散歩となった。
 マレーシアではここでしか取れないという苺で作ったジャムや、ひまわりの蜂蜜が所狭しと並べてあり、ここで蜜蝋入りの蜂蜜を1瓶買い、朝市散歩の後紅茶農園へ。

キャメロンハイランドは駐留していたイギリス人将校が避暑地として開拓、そのためか英国式紅茶畑だそうである。 
 ここでは至るところでサボテンが売られているそうですが、私たちが立ち寄った「カクタスポイント」ではビニールハウスの建物の中で、大きなサボテンから小さなものまで多種多様なサボテンが大量に並べられていました。 

ペナン島へ向かう途中クアラカンサーという地で、マレーシアで最も美しいといわれているウブディアモスクへ。写真撮りたがりの私にはもってこいの被写体、いろんな角度から撮りたくなるアラビアンナイトに出てきそうな魔法のモスクではあった。 

きしめんのような麺料理とビュフェの昼食のあと、ブキッメラのオランウータン保護島へ。湖をボートに乗って10分ほどで保護島へ。ここはちょっとした植物園のようになっていて、オランウータン以外にもめずらしい植物などを見ることができた。オランウータンは、ロープを伝って小さな島に行ったり、われわれ室内の観光客をみて威嚇のポーズをとっているのもいた。 

ペナン島で海鮮料理の夕食後いったんホテルへ。荷物を置いてオプショナルツアー、ペナンヒル夜景観光へ。標高829メートルの頂上にはモスクのほか仏教寺院・ヒンズー教寺院などがあるらしいが、我々の目的は夜景観光。かなりの急勾配をケーブルカーで、一気に登った頂上では夜になりかけていた。少しするとペナンで一番美しいとされる夜景を一望でき、一行9人は100万ドルならぬ50万ドル?の夜景?(いや90万ドルぐらいはある)をバックに写真におさまった。ヒルを下りたら予定より遅くなっていたが、有名?なホワイト珈琲を賞味してホテルへ。










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エンターテイメント№136   2015.3月   
 Trip&Tour (13-2)            

マレーシア縦断6日間の旅 Ⅱ

2015.1.30~  マレーシアはトイレ以外は先進国だった

3日目  クアラルンプール市内観光

地元の人々には「KL(ケーエル)」の愛称で親しまれる首都・クアラルンプール。
「泥川の交わるところ」という意味のマレー語を語源に持ち、1800年代に錫鉱山の発見と共に発展しました。旧中央駅を中心に広がる美しいムーア建築とペトロナスツインタワーをはじめとする近代建築と自然が見事に調和された美しい都市です。

 

まずは王宮、Topページの写真のとおり馬に乗った門兵と銃を持った兵が 門の前に立っていました。その人たちと記念撮影ができるが中には入れず、門から中を見ると美しい建物が見えた。門の前でパシャパシャ撮っていると門兵らに動きがあり、王様の外出?と思い、一目見ようと待っていると、逆に外からの「お帰り」だった。

13の州からなるマレーシアには、ペナン、マラッカ、サバ、サラワクの4つの州を除いた9州にそれぞれ王様が居ます。そしてイスラムを国教とするこの国で王はスルタンと呼ばれ、各州のスルタンが5年交代で国王を持ち回りで担当するというおもしろい制度なのです。ちなみにアラブ首長国連邦も同様のシステムだそうです。

 

王宮の後、国家記念碑、国立回教寺院(モスク)独立広場独立記念碑(;マレーシア独立戦争で命を失った兵士たちをたたえて建てられたブロンズ像)などを見学。民芸品店でのショッピングの後、マレー鉄道に乗るため駅へ急ぐ。駅の近くでチキンライスの昼食。チキンライスというのでオムライスの卵に包んでないあのチキンライスを想像していたが、チキンの塊を蒸したようなものと少しのおかず、味はもひとつ。

マレー鉄道でスリムバーまで行くとクアラルンプール駅まで乗ってきた私たちのバスが待っていた。そこからキャメロンハイランドへ、途中、原住民の集落がいくつもありました。道幅が狭い上にクネクネ道で対向車が来ると怖いくらい。道の両側はジャングルでガイドさんの話ではトラがいるという。キャメロンハイランドの紅茶畑が見えてきた。イギリスの植民地の頃、スリランカの紅茶技術を取り入れたそうです。

キャメロンハイランドはクアラルンプールの北約150kmパハン州にある高原リゾート。標高が1500mを超えるため年間を通じて気温が20℃前後だそうである。タイのシルク王ジム・トンプソンが謎の失踪をしたところとしても有名だそうである。高原の別荘地らしいホテルが建つところでバスを下車。レストランへ向かう途中日本人から声をかけられた。われわれと同じような観光客とおもいきや、長期滞在中の人であった。

夕食はマレーシア名物スチームボート、日本でいう「しゃぶしゃぶ」(でもないか)。真ん中に仕切りがある鍋に2種類のスープが入っている、辛い方とやや辛い方。具には日本のさつま揚げの薄いようなものなど、あまり高級素材は入っていないが結構おいしかった。最後の仕上げに中華?麺をいれたところは日本の鍋に似ていた。ホテルはクアランプール連泊のあとここは1泊。                                           つづく











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エンターテイメント
№135   2015. 2月    
Trip&Tour (13-1)              

 マレーシア縦断6日間の旅

2015.1.30~  マレーシアはトイレ以外は先進国だった

 

1日目

このメンバーの旅行、ここ4回連続で東南アジア(昨年インドネシア、その前ベトナム・カンボジア、その前台湾)。低血圧・低体温で寒がりの私にとっては厳寒の時たとえ6日間でも暑い国へ行くのは大歓迎。

関空集合は7:30、前回インドネシアより1人減って9人、わが町から1時間に1本のリムジンバスで、空港へ、15分前に着いたらすでにお二人が。しばらくして全員そろったところで旅行会社の窓口へ。この旅の人気は添乗員顔負けの世話役Yさん、今回もお世話になります。二人で出国手続き、チェックイン、セキュリティチェックが終わるとそこはもう外国気分、飛行機の出発時間9:30まで旅の無事を祈っていつもの通り売店の生ビールで乾杯。 

今回のマレーシア旅行は往復とも香港経由、まず驚いたのはチェクラップコク国際空港(赤鱲角國際機場)とも呼ばれる香港国際空港。香港へは返還前とその後の2回行っているがいずれも悪名高かった啓徳空港。この空港は前に比べて空港の中をタクシー?が走るくらい広く近代的。ここで乗り継ぎ待ち時間3時間10分。香港発16:05空路目的の地クアラルンプールへ3時間50分。 

夕食は機内食、クアラルンプール到着は現地時間21:30。日本との時差1時間、宿泊ホテル「ヒルトン・ペタリンジャヤホテル」到着は予定をかなり過ぎていた。 

2日目

ホテルにてバイキングの朝食後、トラピックスのツアー80人弱は2台のバスに分かれていざ出発、まずはマラッカ市内観光へ。マラッカ海峡を眺めた後、オランダ広場・キリスト教会・聖ポール教会・サンチャゴ砦・聖雲亭・ジョンカーストリート・ポルトガル広場と盛りだくさん。昼食はニョニャ料理を。その後バスはクアラルンプールに戻って夕食は中華料理。 

夜、クアラルンプール市内KLタワー展望台から夜景観賞。夜景のなかにひときわ輝く世界一の高さを誇るツインタワー。展望台を降りてそのツインタワーをバックに9人の記念撮影。ガイドからこのペトロナスツインタワーは日本(のハザマ)と韓国の(サムスン系)建設会社が一棟づつ受注したと聞いた。
 

東南アジアの中心に位置するマレーシアは、マレー半島とボルネオ島の一部・サバサラワク州から成り立っています。国土面積はマレー半島部分とボルネオ島部分を合わせ、33万338平方キロメートル。日本の面積の9割弱の広さの土地に、日本の16%の人口が住んでいることになります。

そして国土の約60%が熱帯雨林で覆われています。人口3000万人弱のマレーシアは、マレー系・中国系・インド系、そして多数の部族に分けられる先住民族で構成される多民族国家である。ASEANの一員











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エンターテイメント
№134   2015.1月      
Trip&Tour (13           

お伊勢さん参拝と三重三大味覚を味わう  2014.11.12
 
 

カミさんとの旅行は2009年の山城温泉以来5年ぶり。今回は長男小学生時のママ友夫婦と4人。

20年に一度行われる壮大で重要なお祭りの式年遷宮は平成25年に行われた。「神宮の建物を新しく建て直すとともに場所を遷し、さらに殿内の宝物もすべて新調するといいます。

遷宮1年後の「今年中にお参りすればご利益が」ということで、この日になった。 


神宮式年遷宮の公式サイトには

 継承し、繰り返されることの永遠。
伊勢神宮には常に新しくありつづける、常若の思想があります。これは、伝統的な信仰や文化、建物などが世代を引き継ぐことで永遠の生命を維持するとともに、新しい社殿に遷っていただくことで、神々から新たなエネルギーをいただきたいという気持ちも込められています。
 その歴史は古く約1300年前、天武天皇がお定めになり、次の持統天皇の4年〔690年〕に、第1回の式年遷宮が行われました。それ以来、戦国時代に中断したことがあったものの、建物の様式や装束の色形、祭典の形式などのすべてが、古式のままに伝えられてきました。
 第62回式年遷宮は、平成17年から平成25年まで、8年の歳月を重ねて執り行われました。
とあります。 

伊勢神宮は、「お伊勢さん」「お伊勢さま」「大神宮さん」などと呼ばれて親しまれていますが、正式な名称は「神宮(じんぐう)」だそうです。古くは伊勢太神宮(いせのおおみかみのみや)ともいいました。

お伊勢さん参拝の順路は、多くの場合まず外宮からというのがならわしだそうで、今回は正式なルールに従ってのお参りとなりました。

外宮参拝の前にまずは腹ごしらえ。創業明治42年、豚の名がついているのに牛肉の「豚捨」で伊勢肉の焼肉。

外宮では「豊受大明神」へ、天照大御神の食事をつかさどり、産業や食事に関する神様だそうです。 

今夜のお泊りは「アルティア鳥羽」、駅にはホテルのバスが迎えに来ていた。鳥羽から乗ったバスは坂道を約10分、山の途中でホテル到着。部屋からは夕刻の鳥羽湾が見えたが、向かいの島はあいにくの裸島、砂利取りか何かで島の多くがえぐられており景観が台無し。

観光ホテルの楽しみはやはり風呂と食事、大浴場は温泉ではなかったが、露天風呂は天然温泉だった。温泉はやはり温まる、汗が引くのに時間がかかった。 


最近和式のホテルでもビュフェ方式が増えているらしい。予約の時カミさんはバイキングをと言っていたが私が反対。かなり広いレストランルームで三重三大味覚と銘打った和食コース。序盤 伊勢海老中心、中盤 鮑中心、終盤 松坂牛中心で全17品。松坂牛にたどり着いたころはお腹一杯、もったいないことに半分ほど残す羽目となった。


 翌朝は昨夜と同じレスランで和の朝食。前の晩結構飲みかつ食ったのにホテルの朝食はなぜか旨くて食べられる。

10時出発のホテルの車で鳥羽へ、ここからJRで五十鈴川駅、駅からタクシーで内宮へ。 

皇大神宮は、内宮(ないくう)とも呼ばれており、御祭神は皇室の御祖神であり、私たち日本民族の大御祖(おおみおや)の神でもある天照大神(あまてらすおおみかみ)です。
 天照大神は、初め歴代天皇のおそば近くでおまつりされていましたが、垂仁天皇26年(約2000年前)、現在の五十鈴川上流に、「大御神の御心に叶った最も美しい永遠の宮処」としてお鎮まりになったそうです。

日頃は無信心な私であるが、久しぶりの参拝でおごそかというか清々しい気分となりました。

内宮参拝の後はおかげ横丁へ、「どこかのお店で昼食を」と話しながら散歩しているうち、赤福本店の赤福餅(お茶付き)や、ひもの塾で焼き魚の試食、歩きながら松阪牛のコロッケ、みたらし団子ななど食べるうち、お腹がいっぱいとなってしまいました。 


毎年大晦日が近づく通勤電車ではお伊勢さんへの初詣のポスターを見かけます。我が家から特急で1時間余りでいける、いつかは初詣にもと思っています。











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エンターテイメント
№133
    2014.11月    
Trip&Tour (12-2)            

ソウルの居酒屋を探索するの旅 vol 2

2日目

  AM 8:00ホテル出発、韓国(トラピックスの?)のツアーは「ホテルで朝食」というのは少なく、朝早く出て街中(なか)の食堂での朝食となることが多い。韓国100選レストラン「神仙ソルロンタン」で朝食、粥など韓国の平均的な朝食であるとのこと。
 

この国では食事処でも飲み屋でも必ずキムチと3種ほどのナムルがつく、食べ放題というのもあり、なんだか得したような気分、朝食後南漢山城へ。

今回の旅、初めての観光地はここだけ。それもそのはず今年7月に世界遺産に登録されたばかり。 

南漢山城(ナムハンサンソン)はウィキペディアによると、京畿道 広州市 河南市 城南市に広がる南漢山にある山城。行政上の住所では広州市中部面山城里である。丙予胡乱の際、仁祖が入城して清と対抗した場所である。1950年代に李承晩大統領によって公園化されたのち、現在、道立公園に指定され、多くの市民の訪ねる場所となった。2014年にはUNESCOの世界遺産リストに登録された とある。 

 地元の人も登山や観光に訪れる有名スポットで、山のてっぺんまで城壁が続く。多くの家族連れやトレッキングの人でにぎわっていた。かなりの坂で結構歩いたつもりでも、まだ相当後がありそう。脚痛で他の人に迷惑をかけてはいけないと思い途中でリタイア。悔しくもあったが4人の中では一番年上なので「無理せんとこ」と引き返し、出発点で待つことにした。 

 その後昼食の石焼ビビンバを食した後、バスは世界遺産水原(スウォン)華城に向かう、ここも3回目につき書くのは割愛。観光後ソウル市内へ。 

 市内観光は例によって明洞散策の後、この繁華街にあるスーパーで買い物、あと免税店へ。夕食は市内のレストランで「プルコギ」を賞味。あと夜の飲み会があるので、1人前だけで追加しなかったが結構量もあり、肉は旨かった。夕食後昨日と同じくホテルへもどり、夜の居酒屋探しに向かった。早朝散歩の際見つけた日本語が通じそうな店に向かったが、(朝と昼では景色が違うのか)見つけることができなかった。仕方なく昨夜の飲み屋街に向かった。かなり混んでいたが最も庶民的な屋外の飲み屋を見つけ、地元の人たちに交じって空いていた席を確保した。 

 ここでも昨夜と同じくまったく言葉が通じないし、メニューなども無い。日本語で注文していると、同席の少し日本語が分かる30代ぐらいの男の人が、おぼつかないながらも我々と会話をし、注文を取り次いでくれた。多くの人が囲んでいる鍋料理を注文したが、「それはあなたたちには辛すぎるよ」と忠告してくれたが、旨そうなので注文。確かに辛かったが美味ではあった。

 2泊3日の短い旅であったが、触れ合った韓国民はみんな親切で対日感情は決して悪くはなかった 











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エンターテイメント
№132    2014.11月   
Trip&Tour (11-1)            

ソウルの居酒屋を探索するの旅 vol 1

毎月第2金曜日、鶴橋の居酒屋に集まる二金会と称する飲み会がある。メンバーは昔支店で一緒に仕事をした人たち40代~50代と、定年後、職場を共にすることになった初老の数人。現在、63歳ぐらいから70歳まで。それぞれ異業種で職務を全うした人たちである。

ご存知のように鶴橋には焼肉はじめ、韓国料理や、韓国飲み屋が多い。いつも集まるところは和風居酒屋であるが、たまに国際商店街のなかにある韓国飲み屋にいったりもする。そんな初老のメンバーで「本場の韓国居酒屋へ行ってみよう」ということになった。たまたまトラピックスの感謝祭セールで2泊3日、食事が8回もついて25000円(サーチャージは別)という超格安な旅行を見つけ、4人で行くことになった。

もともと韓国の文化や食べ物が好きだったので、いままでに4度訪れているが、2012年以来行ってない。日韓関係もすこし雪解けモードになっている今、「韓国国民の反日はどうなのか」を直接感じるためにも。

    第1日目

関空発 9:30、ひと飛びでそこはソウル、 午前中にはインチョン(仁川)空港にいた。海外へ行くときはいつも「現地通貨への両替をどこで」と考えるが、毎年行っている東南アジア旅行などの経験で、大体着いてからバスガイドに依頼するのが正解のようである。

前回のレートは正確に覚えてないが、今回は1万円につき91000ウオン(ガイドがおまけで95000ウオンくれたが)。何年か前には12万ウオンぐらいあったように記憶している。
 

    簡単な機内食も出たが、早速ソウルについて市内のレストランでの昼食は選べるチゲ、4人ともキムチチゲを注文、やはり日本で食べるのよりかなり辛かった。昼食後は世界遺産「昌徳宮」、ここは3回目。そのあと寄った免税店はソウル1のシーラ(新羅)。ここでカミさんから頼まれた化粧品を買うため売場を目指した。

 

店内は前回行った時の落ち着いた雰囲気はまったくなく、人の多さと騒々しさに驚くことになる。目的のものを買うのに相当の時間待たされた。その理由は、もうお気づきかもしれませんが中国人。ここでもブランド物や化粧品を買いあさる中国人が喧しかった。 

あとは民芸品店へ寄って夕食、本場のカルビはおいしかった。帰りのバスでガイドから例によってアカスリなどオプションの薦めがあったが、我々の目的は夜の居酒屋。初めは明洞か南大門の屋台を考えていたが、ホテルのあるインサドン(仁寺洞)にも結構飲み屋があると聞いて、ホテルへ着いてから行くことにした。
 

    インサドン(仁寺洞)は、韓国の首都ソウルの鍾路区にある。仁寺洞のメイン ストリートには書道・骨董品など伝統工芸品や伝統茶屋が集まり、一歩路地に入ると昔ながらの韓屋( ハノッ)を利用した韓定食店やマッコリが飲める居酒屋がひしめいていた。ホテルはその近くにあり、ソウル1の繁華街明洞からもそう遠くはない。
 

   4人は街を歩きながら飲み屋を探したが、比較的きれいな韓定食店らしいところへ入った。ここでは日本語や英語の表示が一切なく言葉も全く通じない、身振り手振りで話しても初めは飲みたい酒さえも注文できなかった。そのうち、メニューを持ってきたので料理は中身がわからないまま注文し、やっとビールやジンロもきた。料理は海鮮鍋をイメージして注文したものの、鍋の中身はいままで口にしたこともないような、豚肉のなんちゅうたらいいのか・・・・。

    

 このあとコンビニ(ホテル前の)に寄って寝るだけ。このホテルイビスアンバサダー仁寺洞はオープンして間がなく、きれいだったし、繁華街の近くにあるので便利で良かった。  











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エンターテイメント
№131    2014.10月                           

ドラマ  TBSドラマ「99年の愛」

キャスト&スタッフ  

出演 ; 草彅剛、 仲間由紀恵、 松山ケンイチ、 寺島咲、 川島海荷、
       中井貴一、 泉ピン子、 イモトアヤコ

       八千草薫、 上條恒彦、 岸恵子、 大泉洋、 小林稔侍、 笹野高史、
       片岡愛之助ほか

  キャスト ; 脚本 橋田壽賀子、 音楽 千住明、 演出 福澤克雄、 
       制作著作 TBS 

 

 仲間由紀恵が結婚、このニュースを巷の年頃の男性にインタビューしているテレビの場面があった。「ショックで・・・」とか、「ボクの由紀恵が!」とか、この女優の人気がうかがえる。われらの世代吉永小百合の結婚の時のショックに似てなくもない。お相手は穏やかな年配の男性であることも共通している

 裕次郎ファンの私には、石原慎太郎の小説をドラマ化した「弟」で、伴侶石原まき子(北原三枝)を演じたことも印象に残っている。二人とも長い髪が魅力的であった。

 

その仲間主演のドラマを観た。相手役は草彅剛。TBS開局60周年特別企画と銘打った大作。脚本は橋田壽賀子。

 今は見なくなって数年経つが、長いものは100話も200話もある韓流に嵌っていたころから、連続ドラマは毎週や放映の都度見るのでなく、DVDなどに録画したものを一気に見る癖がついている。

 

 このドラマは2010年11月に制作、2時間もの五夜連続で放送されたものをDVDに収めていた。

 我が国にもう少しましなドラマが多ければ、韓流ドラマなど見なくてもいいのだが、いまのTV番組は低俗なバラエティばかりで普段見るものがない。その点、久しぶりに見ごたえのあるものを観た。

 

「99年の愛」Webでの紹介文

  99年前一人の男が海を渡った。・・・・アメリカへ渡った日系移民が、働くため、生きる ために人種差別や戦争による逆境・苦悩を乗り越え生き抜く家族の「愛の物語」。脚本家・ 橋田壽賀子が自身の生涯のテーマでもある「戦争と平和」というテーマで描く最後の作品と して、世代を超えて現在に至る彼らの魂、そして99年にわたるその変遷を描く中で日本人の 誇り・勇気・愛を問いかけます。

 

1世紀前、貧しい農家を捨てるというより、他の家族のためにも国を出ていかざるを得なかった日系移民。戦争が彼らの運命を翻弄する。

 

  日系1世、海を渡り、他人の農場に雇われ少し落ち着いた頃、日本からの嫁を待ち受ける草 彅剛の前に美人の写真と似ても似つかぬ田舎の娘 イモトアヤコが現れる。

  顔はともかく性格が良く働き者の彼女と、二人三脚で苦労に苦労を重ねながら少しずつ農 場を広げていく。アメリカの荒れ野に、日本人にしかないと思われる勤勉さで築きあげたフ ァームを、一瞬にして二束三文で米国人に奪われ?一から出直しとなる。
 (年取って役変更)中井貴一と泉ピン子。罪もないのに思想的に疑われた中井は連行され収 容所へ。

 

  日系2世、(〃) 草彅剛(二役)と仲間由紀恵の愛。草彅の弟に松山ケンイチ。

 

  平成の今、みな年老いて仲間由紀恵は八千草薫に、松山ケンイチは上條恒彦に、2世草彅  と松山の妹 川島海荷が岸恵子に・・・・。

  戦争が激しくなる頃、日系であるばかりに周りから迫害され、危険と感じた中井貴一夫婦 は、娘二人を日本の親戚へ預ける。ここにはアメリカよりさらに過酷な生活が待っていた。 辛酸をなめながら成長した岸恵子とその孫たちが何十年ぶりかでアメリカへ。

  八千草、上條、岸恵子らの追想。

 その後ここアメリカでも、(2世の)草彅が家族を守るため、日本兵と銃を交えるかもし れない米軍にあえて志願、そして戦死。ともに日本へ帰った岸恵子の姉は原爆死。悲惨な時 代ではあった。

 

  このドラマは、反日感情にさらされ、戦争に翻弄されながらも、夢を追って海を渡り、命 を懸けて激しい困難に立ち向かい続けた日系移民の「愛と勇気の物語」である。

   仲間ファン・スマップ(草彅は大好演)ファンでなくとも、一見に値するドラマではある。











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エンターテイメント
№130
     2014.9月  映  画 (15)   

男はつらいよ №39 寅次郎物語  
     
2014.7.19 ひろ坊PC・TV・VTR部屋で
 

  【スタッフ】 :  脚本・監督; 山田 洋次

  【キャスト】 ;  渥美 清、倍賞千恵子、秋吉久美子、五月みどり、吉岡秀隆

毎週土曜日、テレビで寅さん映画をやっている、久しぶりにCM入りの「男はつらいよ」を観た。我が家には1969年8月第1作「男はつらいよ」から、1995年12月48作「男はつらいよ、寅次郎紅の花」まで48本のDVDが全部そろっている。好きな寅さんにいつでも会えると思うと放送があっても普段はあまり観ることはない。

この日観たのは「男はつらいよ 39 寅次郎物語」、1987年公開。マドンナは秋吉久美子、ゲストに私の好きだった「五月みどり」も出ている。

私自身にとってこのシリーズほど安心して観ていられる映画は他にない。あの主題歌が流れてきたら寅さん映画の中にいる自分がある。

〈 あらすじ 〉

「とらや」に秀吉という男の子が訪ねて来た。寅さんのテキヤ仲間「般若の政」の子どもだった。政は女・酒・賭博に溺れ、嫁(五月)に蒸発され、秀吉を遺して急死。「俺が死んだら寅を頼れ」という遺言で、福島は郡山から柴又へやって来たのだ。

やがて寅と秀吉、二人の母親捜しの旅が始まる。秀吉の母ふでは新和歌浦のホテルで働いていることをつきとめ、訪ねてみると既に吉野に移ったという。元気のない秀吉を励まし、吉野へ行くがそこにもいなかった。

その晩、秀吉は旅の疲れから、吉野山の旅館で高熱を出す。たまたま隣室にいた若い女(秋吉)の看護で少年は回復する。翌日3人は仲睦まじく近くの観光名所などをめぐった。旅館の主人の勘違いもあって2人はこの数日、「とうさん」「かあさん」と呼び合っていた。

柴又駅に寅を見送りながら、甥の満男(17歳)が「人間は何のために生きてんのかな」というと、寅は「ほらー 生まれてきてよかったなって思うことが
 何べんかあるじゃない
 ねっ、そのために人間生きてんじゃねえのかな」。満男が「ふーん」というと「そのうちお前にもそういう時が来るよ、 うん
 まあ、頑張れ」と言って別れる。

最後おなじみ正月のシーン。テキヤの店を開こうとする寅の前を、秀吉母子と連絡船の船長が仲睦まじく歩いているのをみるが、「俺たちのような人間が声をかけると迷惑なんだ」といって会わないようにする寅さん。

今のテレビ番組で私を笑わせてくれる番組は笑点以外にないし、笑わせてくれる芸人は皆無に近い。

                 










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エンターテイメント
№129      2014.9 
映  画 (14)   

GODZILLA ゴジラ     
アメリカ ワーナーブラザーズ・東宝配給

監督 ; ギャレス・エドワーズ

キャスト ; アーロン・テイラー-ジョンソン、 渡辺謙、 エリザベス・オ ル セン  

ゴジラが誕生したのは昭和29年(1954)今から60年も前のことになる。ビキニ環礁の核実験で起きた第5福竜丸事件をもとに、東宝は水爆怪獣映画として第1作を制作した。身長50メートルの大怪獣ゴジラは、核が生み出した恐怖の対象であった。観客動員数は960万人を超えた。

   1964年公開の第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』ではゴジラが人類の味方として  描かれ、それ以降のゴジラは恐怖の対象としてではなく、次第に娯楽作品へとシフトしていく。そして1972年公開の第12作「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」以降は子供たちのヒーローとして描かれるようになる 。

 映画好きの私自身でも、28作もあるゴジラ映画を映画館で観た記憶はない。こういった映画は特撮が「ちゃちである」と思い込んでいた。初期のゴジラは大体、本多猪四郎がメガホンをとっていた。特撮はかの有名な円谷英二監督、CGなどなかったこのころは、円谷さんの着ぐるみを使用したゴジラの特撮は海外でも評価が高かったらしい。

  〈あらすじ〉 1999年、フィリピンの炭鉱を調査していた科学者・芹沢博士(渡辺 謙)らは、そこで巨大な生物の化石を発見する。その化石には繭のようなものが寄 生するように付着しており、そこから「何か」が誕生して海へと這い出た痕跡があ る。同年、日本のある原子力発電所に勤務するブロディ アメリカ人夫妻は、近づ きつつある謎の振動と電磁波を探知する。

   その振動によって炉心が異常をきたしたため、妻・サンドラは原子炉の調査へと 向かうが、奇怪な鳴き声と共に大きな揺れに襲われる。夫・ジョーは街の住民を守るべく、原子炉の内部にサンドラを残したままやむなく防護壁を閉じ、その原発が倒壊する。

   それから15年、ジョーとサンドラの息子、フォードは軍での任務を終えサンフラ ンシスコで待つ家族のもとに帰ってくるが、日本に暮らす父ジョーが警察に逮捕さ れたという知らせを受け、急遽日本に向かう。ジョーは事故の真相を探るべく、放射能汚染により立入禁止区域となったその原発跡地に侵入したため、逮捕されてし  まったのだった。

放射能を餌に生きながらえた空を飛ぶ奇怪な怪獣ムートーは、凶悪の限り暴れまわる、そこでぴんときた。「正義の味方ゴジラが現れてやっつけてくれるのだ」と。映画の中で芹沢博士も、「ムートーを排除するためゴジラも復活する」と推測した。 

ゴジラ対ムートーの壮絶な戦い、何度かゴジラがやられそうになるが、最大の武器放射熱線をムートーの喉の奥に直接浴びせてやっつける。 

   ちなみに日本で生まれた時のゴジラは、身長50メートル、この映画では108メー トル9万トン。 

ビルの谷間の怪獣の死闘、津波のシーンなどはさすがハリウッド映画、半端じゃ ない。 

恐怖の対象から人間の味方、子供たちのヒーローへ。初期には奇怪な姿に見えたゴジラも、今ではなぜか愛おしく見える。息を吹き返したゴジラが、海の彼方へ引き上げていくのを見てほっとしている自分があった。

映画が終わったとき、カミさんが言った。「ゴジラかっこいい、ファンになりそう」










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エンターテイメント
128 2014年7月 その他 釣り (1) 

明石の釣り

6月13日、久しぶりの海釣り。子供のころから川釣り専門だったがもう15年ほど竿を握っていない。S55年ごろ鶴橋支店時代、取引先の釣キチ経理部長と、同僚Tujiさんらと、よく海へ行った時期があった。主に船から竿を用いず、手釣だったが、ガシラ、チャリコ、ハゲ、グチなどがよく釣れた。寒い冬、カレイを釣りに行ったこともあった。前の日飲み過ぎて船酔いで「釣りなどどうでもよい、早く陸へ」と思ったことも思い出す。

そのTujiさんに海釣り指導のお返しにと、吉野川上流のアユの友釣りへ誘ったことがあった。私の田舎は紀ノ川の上流吉野川のそのまた支流にある。そのころは漁協が毎年大量の稚アユを放流していてよく釣れた。解禁日は村の祭りのようなもので、たいていの人は早朝から釣り場を確保し、日が明けるのを待って釣果を競うのである。

中学生ぐらいのときが一番釣っただろう。竿は大人になってからグラスの長いものを買ったが、当時は自分で作った。竹やぶから細くてできるだけ長いものを切ってきて、火にあぶりながら穂先を創っていく。

Tujiさんは、アユの友釣りはその時初めて、さすが海で鳴らしただけあって何匹か釣ったように記憶している。アユがかかった時の「引き」というかグリグリ感は経験した者でないと分からない、格別の感触がある。

この日の蛸釣りについて書くはずだったのに、寄り道しすぎた。前日釣りバカHamaちゃんとサウナのカプセルに泊まり、もと同僚のTeraさんの車に同乗させてもらい、兵庫県は今津の港に向かった。もともとこの釣りは、先に(2度目の職場を)退職したTeraさんを釣り仲間に誘い込もうとHamaちゃんとOoさんが仕掛けたもので、Hukaさん(Teraさんの前に退職)に計画を委ねたもの。

朝5時半ごろ出発した船には、私たち5人の仲間を含め15人ぐらいの人が乗り合わせていた。船は1時間ほど走り、明石大橋を越えたところで停まった。いよいよ蛸釣り、それも明石の蛸である。

竿も仕掛けもすべて舟屋で借りたもの、蛸のしかけも初めて見た。5人の仲間のうち3人はベテラン、海の釣りではまったくど素人のTeraさんと、30年も昔少しかじった程度の私はそれぞれベテランの間に挟まった。推進40メートルぐらいのところを重い錘を底に沈めると間もなく「引く」というより少し重くなったように感じたところで、リールを巻いてみると小さいが「明石の蛸」が乗っているではないか。

ビギナーズラックというか、この日5人で4匹(?)の蛸釣果のうち私が2匹ゲット。

この後場所を少し移動してキス釣り、ここではやはりベテランに1日の長があり、結構大きいのを釣っていた。私は2尾のトラギス(ベテランは捨てるらしい)と小さいキスが2尾。PM1:00ごろ納竿。

明石大橋の上を走ったことはあったが、下をくぐったのはこのときはじめて。前日まで鬱陶しい天気であったが、釣っている間は良い天気。舟屋で少し休んで車に乗って大阪へ向かう途中大雨が降ってきた。

蛸は我流でさばき(頭は捨てた、後でOoさんに話すと「もったいない」云われた)、1匹は刺身にした。こりこりした歯触りの新鮮この上ない生タコサシだった。後の1匹はイモと煮てもらった。トラギスと小さいキスはから揚げにした。Hamaちゃんからもらった大きめのキスは冷凍にした。

釣は「獲物をちゃんと持って帰って胃に収めるべき」というHukaさんに叱られないで済みそう。

冒頭のウミキチだったTujiさんは、その後アユキチになってしまい、海釣は見向きもしなくなり、全国のアユを追うようになったという。今年もどこかの解禁で胸まである胴長(横文字ではウェーダー)を着て竿を振っていることだろう。










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エンターテイメント
127   2014年6月
 私の読書歴 (38)  
 「終わらざる夏」 上・中・下 浅田次郎著 集英社文庫

浅田次郎もっとも好きな作家のひとりである。デビュー3冊目ぐらいから新作が出るとすぐすべてハードカバーで購入、ほとんど読んでいる。この「終わらざる夏」は、2010年7月上・下巻で出たのは知っていたが、この本ぐらいから文庫本を待つようになった。すぐ出るだろうとかなり待ったが昨年6月やっと出た。

私自身、あの戦争末期8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、ソ連軍が満州に攻め込んできたことを知ったのは社会人になってからだった。学校では中大兄皇子の時代(=天智天皇 645年大化の改新)のことは詳しく習っても、こんな近い歴史を教えてはくれなかった。ましてポツダム宣言受諾後になって新たな戦争を仕掛けてきたことはだいぶあとまで知らなかった。

上・中・下とある文庫本の上巻の背表紙には
1945年、夏。すでに沖縄は陥落し、本土決戦用の大規模な動員計画に、国民は疲弊していた。東京の出版社に勤める翻訳書編集者・片岡直哉は45歳の兵役年限直前に赤紙を受け取る。何もわからぬまま、同じく招集された医師の菊池、歴戦の軍曹・鬼熊と、片岡は北の地へと向かった。—-終戦直後の“知られざる戦い”を舞台に「戦争」の理不尽を描く歴史的大作、待望の文庫化。第64回毎日出版文化賞受賞作。 
とある。

片岡ら補充要因は、行先を知らされぬまま、北辺の地へと向かう。その孤島で見たものは無傷の帝国陸軍最新鋭部隊だった。千島列島の先端に位置する占守島(しゅむしゅとう)にソ連軍が攻め込んできたのは、玉音放送から3日後の昭和20年8月18日未明だった。

「終わってから仕掛けてくる戦争とはいかなる戦争であったか」、精鋭部隊ではあったが、日本はすでに無条件降伏をした敗戦国であり、勝利するまで戦うことは許されなかった。停戦交渉を行った日本軍は8月21日に降伏し、23日にソ連軍によって武装解除、そして生き残った将兵はあの悲劇のシベリアへ送られた。

「たかじんの言って委員会」や「TVタックル」に出演して歯に衣着せぬ言動で人気があった(私に?)評論家 故三宅久之氏もこの小説を激賞していた。

 
 小説の中にもあるようにロシアは国際協定などを一方的に破ることでは折り紙つきの国であり、自分たちの都合だけで約束を反故にしてしまう国です。ウクライナ問題が起きる前の一時期、北方領土返還について一条の光が見えたような錯覚がありました。でもこんな国から四島を取り返すのは至難の業ではないかと思います。

  あんな無法なやり方で取り上げられた島々が、70年経とうとしている今も取り返せないのは何とも残念なことではありますが。











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エンターテイメント
№126
    2014年5月   私の読書歴 (37)  

人間にとって成熟とは何か  曽野綾子著  幻冬舎新書


背表紙に
 人はみな平等に年をとるが、次第に人生がおもしろくなる人と、不平不満だけが募る人がいる。両者の違いは一体何か。「憎む相手からも人は学べる」「諦めることも一つの成熟」「礼を言ってもらいたいくらいなら、何もしてやらない」「他人を理解することはできない」「人間の心は矛盾を持つ」「正しいことだけをして生きることはできない」等々、世知辛い世の中を自分らしく生きぬくコツを提言、まわりに振り回され、自分を見失いがちな人に贈る一冊 とある。

この本のなかで「同感」と思えること、教えられたこと。

「苦しいときの神頼み、人間はよく神と取引をする」。「もし病気が治りましたら」「生きて帰ってくれたら」甘いものを断ちます・・・・。私も娘が1才3か月のとき、高熱で医師から「今夜がヤマです」といわれたとき、神に祈り神と取引をした事があった。

  
「人生は想定外そのもの」。「想定外」、東京電力の関係者だけが自分の責任逃れにそういっているなら不愉快であるが、大震災後いち早くこの「想定外」という言葉を口にしたのはその土地に住む人たちであった。原発事故も想定外だったことは間違いない。

「自分の不運の原因は他人と考える不幸」。この頃、卑怯な日本人が増えたような気がしてならない」、そういう人たちの多くは、健康状態も申し分ない、外見もいい、教養や学歴も充分、親も良識ある家庭の人たちである。それなのにそこに育った若い世代はいつも及び腰で、周囲に文句ばかり言っている。 失敗を恐れ挑戦しない若者が多い

「老人なのに成熟してない人」。 定年後自分のしたいことを見つけていない人。そうならないようにしたい

「絆」という古い言葉が震災後急に思い出されるようになった」 地震後に「改めて絆の大切さがわかった」などという言葉を、いい年をした大人の口から聞くとしらけた気持ちになる。 同感。

「震災後コンサートを開いて被災者を元気づけるという発想も筆者にはわからなかった」という。毎日の暮らしに必要なのは雨の漏らない住処、毎日食べるお米、洗濯に必要な洗剤、そして冬の寒さを防ぐ布団やオーバーなどの衣類。震災を利用する催しも筆者には被災者に失礼と映る。自分の作曲した曲を披露する音楽会に「被災者に捧げる」なども。 そんな芸能人やスポーツ関係者が多く、違和感があった。被災地の必要なものを送るのではなく、自分が要らないものを送った人が多かったという。

「感謝が抜け落ちた言葉」「高齢出産をして、(多くの障害を持って生まれた子に対する)野田聖子氏へのインタビューで、どうしても違和感が残る言葉があった。息子の医療費は医療制度に支えられている、高額医療は国が助けてくれるので、皆さんももしものときは安心してください。国会議員の子供だから特別と云う事では全くないのです。言葉の裏に「大臣や党の幹部は普通の人とは違う」という意識があるんやろなあ。

 国会議員の家族だけに支払われる?そのような発想がおかしいのと、自分の息子が高額医療を国民の負担において受けさせてもらってているという「一抹の申し訳なさ」と、「感謝」が全くない。
生活保護を受けてる人たちのなかにももそういう人が多いと聞く。
日教組的教育は「人権とは要求すること」だと教えた。
聖子さん、この人も日教組教育の影響か。
「破れたジーパンは幼稚な証拠」1.その人が貧乏である。2.(相手が破れたジーパン姿なら)その人は自分に会うことを評価していない。つまり自分を馬鹿にしている。流行する前だったら人に笑われた筈や。

「目立ちたくないは卑怯な姿勢」。霞が関の住人は「できない理由を素早く云う事の出来る秀才。

「芸が達者でなくても存在できる世界」 AKB48は動機が不純、一人の芸では到底観客の期待に応えられないから、数を揃えて見せれば若さという素材だけで金になる。 全く同感、お笑いの中にもゲイのない芸人があまりにも多い。

「日本には中産階級がどんどん減り、貧困階層が増え、格差社会になりつつある」などというが、貧困とは「今夜食べるものがない」ことを言う。「家のローンが払えない、子供を大学にやる費用の捻出が難しい、新車を買えない」などという理由は世界的にみて全く貧困の条件にはならない。 バブル以降、分け合う総量が減ってるさかいや、アベノミクスでパイを増やさなあかんのや

野綾子 1931年生まれ83才、クリスチャン。日本郵政社外取締役、保守論客の一人。











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エンターテイメント
№125
     2014.4.1  Trip&Tour (12-3) 
 
インドネシア 
歴史と伝統のジャワ島・神々の楽園バリ島 5日間 
 vol 3
最終回
  4日目・5日目

ウブド(Ubud)は、バリ州ギャニャール県ウブド郡の村。ウブド郡の中心で、ガムラン音楽、バリ舞踊、バリ絵画など、芸術の村として知られているらしい。地名の由来は薬草(現地語でウバド:Ubad)が訛ったものと言われている。また、少し離れた北には昨日行った棚田で有名なテガラランもあり、それらが観光の中心地となっている。

ウブドでは、まずは木彫りの店へ、店の前には等身大の犬の木彫りを彫る人がいた。雑貨の店にも行った、ここには高額なものから土産用の手ごろな価格の可愛いネコやカエルの置物もあり、バリ土産を物色。

村の中心部のウブド村寺院とその向かいのマーケットの付近を歩いたときのこと、路地の奥でガイドから「ここから奥へは入れなくなった」との話、「日本人ならこんなことはないのだが、実は中国人のマナーが悪すぎるので」とのこと。そういえば日本でも中国人の団体のやかましいこと。

あと、モンキーフォレストへ。ここには猿の自然保護区があり、多くの猿が生息していた。ここの猿はニホンザルよりかなり小さく、グレーがかった色をしていた。ガイドから猿にはバッグを開けるふりなどをしないことを注意されていたので被害はなかったが、青い目の観光客、女の子の背中や肩の上に乗る猿もいた。そのウブド村のモンキーフォレスト内にはダラム・アグン・パダントゥガル寺院というお寺があった。

昼食のあとカップ1杯で100ドル(約8000円)もの高値が付くというインドネシアの世界最高級コーヒー、「ルアックコーヒー」の店見学。その高価なコーヒーは、ジャコウネコが糞(ふん)とともに排泄するコーヒー豆だそうであり、テレビで見た記憶がある。「ルアック」とは現地語でジャコウネコのこと、一袋12,500円だという。これには誰もばかばかしくて手を出さなかった。が2500円のコーヒーはお土産に2袋買った、家で煎れてもらったが、あまり香りもなく美味しくはなかった。 これならネスカフェのインスタントのほうがマシ。

このあといよいよ本日のメインイベントタナロット寺院見学。バリ島にある寺院の中でも、最も多く写真に撮られているのがこのタナロット寺院であり、とりわけ夕景の美しさは格別らしい。この旅行の行程表には「海に浮かぶタナロット寺院にて夕日鑑賞」とあったが、時間的に早めの訪問で夕日は無理。それでも多くの観光客で大変な賑わいとなっていた。

 タナロット寺院(Pura Luhur Tanah Lot)はバリ島中西部の海岸にあり、バリ六大寺院のひとつ。エルニーニョ現象による海面の上昇などが原因で海岸の浸食が進んでいたが、日本のODAによる景観を再生するプロジェクトが行われているという。

バリ島いやインドネシア最後の観光を終えてバスに戻った時、雨が降り出した。この時期インドネシアは雨季で、1年で一番雨の多いときだと聞いていた。ジョグジャカルタ空港でバス出発のとき少し降ったぐらいで4日間雨にはほとんど無縁だった。ガイドによるとこの時期これほど雨が降らない日が続くのはめずらしいらしい。われわれ一行はよほど日頃の行いがいいらしい。空港が近づくにつけ雨は大粒となっていった。

中華レストランでショーを見ながら夕食のあと、空路ジャカルタへ、ここで乗り継ぎ帰国の途に就いた。関空には朝10時ごろの到着、5日間しばし寒さを忘れていたが、空港には雪が舞っていた。









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エンターテイメント
124  2014年2月 
 Trip&Tour (11-2)
インドネシア 
歴史と伝統のジャワ島・神々の楽園バリ島 5日間  vol. 2 

3日目

昨夜 デンパサール空港でちょっとしたハプニング。ガイドはきたにはきたが、ホテルまでのバスが来ない、30分ぐらい遅れてお迎えのバス到着となった、ガイドは言い訳ばかり。

これもあって昨夜も遅い就寝だった。デンパサール クタのホテル メルキュールハーベストに着いたときは日付が変わっていた、そのため就寝前の反省会は今夜も無し。朝食は今朝もホテルのバイキング。眠い目をこすりながらの出発は9:00、今日の目玉はバリ島で有名なキンタマーニ高原へ。

ジョグジャカルタは女性のベテランガイドだったが、バリ島のガイドは日本大好きの30代?男性。我が国の出来事に詳しく、吉本芸人のことや流行語はわれわれよりよく知っているほど。「じぇじぇじぇ」 や「今でしょ」などの流行語や日本語ダジャレの連発。日本びいきと性格の良さで昨日のチョンボは帳消し。

バリ島(Pulau Bali)はインドネシアの首都ジャカルタがあるジャワ島のすぐ東側にあり、周辺の島々とともにバリ州となっている。2010年の人口は389万人、宗教はジャワ島と違い、ヒンドゥーが中心であるが、1990年以降ではイスラム教徒の流入が目立つという。ジャカルタとは時差が1時間(日本とも1時間)ある。

私自身はハワイやグアムのような海辺のリゾート地を想像していた、それもあるがバリには山リゾートや、世界遺産もある。またここは宗教に基づいた神々の島として多くの観光客に愛されており、リピータも多いと聞いた。

予定は「銀細工のチュルク村見学のあとキンタマーニ高原」だったが、変更して日本大好きガイドの案内でバスはウブド郊外の遺跡「ゴア・ガジャ」へ。

  「ゴア・ガジャ」は、ウブドから車で約11分の近郊に位置する遺跡、「ゴア・ガジャとは「象の遺跡」という意味なのだそうですが、バリ島には象は生息しておらず、動物の象を指すだけではなく「大きいもの」も意味することから、「大きな洞窟」と名付けられたとのこと。 、この遺跡は1923年にヨーロッパ人によって発見されたが、11世紀に造られたものだと言われている。仏教的な要素も強く、歴史的な謎も多いのだそうです。

ティルタエンプル寺院(Tirtha Empul)は、ウブドの北、タンパク シリンにある寺院で「聖なる泉が沸く寺院」として、大変よく知られているお寺です。 伝説 によるとこの寺院に沸く泉は962年に発見されたそうです。
この寺院の上の方に緑に囲まれた建物がありました。これは
スカルノ元大統領の別荘だったそうで、デヴィ夫人も訪れたとか。

キンタマーニ高原はバリ島東北部の高原地帯。バスは緩やかな坂を上っていくが、途中から形の良い山が迫ってくる。バトウール山と、バトウール山火口湖のバトウール湖及び外輪山のひとつプヌリ山、それらの外輪山を右にみているうち、尾根伝いにあるキンタマーニ村に到着。

昼食は火口湖バトウール湖を見降ろすレストランで。

世界遺産「テガラランの棚田」にも行った。日本にも有名な棚田がありますが、ここのは写真のとおり周りにヤシの木などがあってやはり南国らしい。

このあと、予定になかったホテルのプライベートビーチへ、人やにわとりやハリネズミが住む民家へ、そして庶民がいくスーパーへ。

夕刻、必見のバリ島名物ケチャックダンス。 ヒンドゥー教の神話と、古代英雄であるコーサラ国のラーマ王子に関する伝説をまとめた「ラーマーヤナ」を基にしたストーリーだとか。ケチャックダンスは、会場入り口で日本語の簡単なストーリーをもらうことができた。独特の発声と旋律はいまも耳の奥に残っている。

会場でハプニング、インドネシアでもイスラム教徒の女性はヒジャブという頭を隠すものをつけている。色とりどりのヒジャブをつけた女学生らしい集団から黄色い歓声が上がった。あまりにも激しいのでその方向を見てみると 「I ♡ BALI」と書いたTシャツなどを着た若い女の子たちに向かっての歓声だと分かった。

ひょっとしたらインドネシアのアイドル?。好奇心旺盛なMYさんがその女性たちに聞きに行ったら、なんと「茨城県かどっかから来た普通の日本の女の子たち」だった。

夕食はレストランで、タイやカンボジアで観たような伝統舞踊を見ながらロブスターなどのシーフード料理。本日のバス走行距離は約170キロ、疲れた。










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エンターテイメント
№123
2014年2月  Trip&Tour (11-1)
インドネシア 
歴史と伝統のジャワ島・神々の楽園バリ島 5日間   vol. 1

 11人で行ったアンコールワット・ハロン湾旅行、あれからちょうど1年、メンバーは1人減って10人。インドネシアに決まるまでタイも候補に挙がっていたが、やめて正解。タイを選んでいたら、命の危険はないにしても、首都バンコクの反政府デモによる主要交差点の封鎖などで困ったことになっていたに違いない。

インドネシア共和国は、東南アジア南部に位置する共和国。首都はジャワ島にあるジャカルタ。5110kmと東西に非常に長く、赤道をまたがる1万3466もの大小の島により構成されるとしているが、正確な島の数はインドネシア政府すら把握していないらしい。人口は2億3,000万人を超え世界第4位、その大多数はイスラム教徒であり、世界最大のイスラム人口をもつ。

島々によって構成されている国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、東ティモールのティモール島、マレーシアのカリマンタン島(ボルネオ島)、パプアニューギニアのニューギニア島の3国だけである。海を隔てて近接している国は、パラオ、インド、(アンダマン・ニコバル諸島))、フィリピン、シンガポール、オーストラリア。 フライト地域を映す機内のモニターの地図でもすぐ南にオーストラリア。

ASEAN(東南アジア諸国連合)の盟主とされ、アセアン本部もインドネシアの首都ジャカルタにある。そのため、2009年以降、アメリカ、中国など50か国あまりのASEAN大使が、本部のあるジャカルタに常駐。日本も、2011年5月26日、ジャカルタに日本政府代表部を開設しASEAN大使を常駐させている。

この旅行メンバーの特徴は平均年齢 約 71歳、上下7~8歳の年齢差があるものの和気藹々、朝・昼・夕食で飲む、寝る前も飲む。関空で通関のあと搭乗口までの途中、売店でまずは生ビールで乾杯。

行程表によるとガルーダ・インドネシア航空で、ジャカルタまでのフライトが5時間半となっていたが、到着時刻は現地時間で表示されており、2時間の時差があるため実際には7時間半。ジャカルタで乗り継いでジョグジャカルタまで1時間15分、関空をでてから大方9時間、結構遠い。

ホテル「シェラトン・ムスティカ.ジョグジャカルタ」に着いたのは現地時間でPM10:30(日本時間12:30)、即インドネシア料理の夕食、また食べる飲む。ほとんど寝る時間のないままうとうとしかけたとき、4時ごろだったかアラーのお祈りらしい声で目が覚めてしまった。 

 ドルには関空で両替、インドネシア通貨は現地でガイドに頼んだところ、10,000円で 1060,000ルピア、小遣いが大幅アップしたような錯覚に。

2日目
 昨夜ホテル着が遅かったので気が付かなかったが、シェラトンの周りが美しい。鮮やかな緑の木々や、真紅の花、遠くには富士山のように形の良い高い火山。ホテルの朝食はバイキング、期待していた果物は種類も少なく大味。

朝9時ごろホテルを出てボロブドゥール遺跡(Borobudur)へ 。
バスを降りて帽子を忘れてきたことに気づき、「1000円、1000」とやかましい売り子から買うことに。500円に値切ったが聞かない。「まいっか」と買ったのが間違いの元、あとで困ったことに。

インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する、大規模な仏教遺跡かつ世界的な石造遺跡。また世界最大級の仏教寺院であり、「ボロブドゥール寺院遺跡群」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。インドから東南アジアに伝播した仏教は一般に部派仏教(上座部仏教)と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは大乗仏教の遺跡である。2010年ムラピ山の灰で被害を受けた。

ボロブドゥール遺跡は、中部ジャワの中心都市ジョグジャカルタの北西約42km、首都ジャカルタからは東南東約400kmに所在し、巨大なムラピ火山などの山々に囲まれた平原の中央に立地する。遺跡総面積はおよそ15万m2。高さはもともと42mあったが、現在は破損して33.5mになっている、 我々は160段の階段をあがって行った。

 午後、ジャワ島にある 手描きバティック(ろうけつ染め)工房見学。 天然染料を併用し、繊細なジャワ更紗を 制作していた。

次に、プランバナン寺院群(Candi Prambanan)

ここでも「1000円1000円」の物売りの攻撃がすごい、ほかの人に行った場合「無視」か「No」であきらめるが、何故か私にはあきらめない、しつこくてうんざりする。「理由は帽子」だったようだ。私のかぶっている帽子は前に行ったボロブドゥール遺跡で買っている。帽子のマークで「私は買う人」と思われたに違いない。マークを他のバッジで隠したところあまり来なくなった。

寺院群のうち中心的存在であるプラバナン寺院は古マタラム王国のバリトゥン王(在位898年~910年)による建立と言われる。古マタラムの王宮もこのあたりにあったと考えられているが、伝染病が流行り10世紀ごろ遷都した。

のちの1549年の地震で遺跡のほとんどが崩壊した。しばらく忘れ去られていたが、1937年から遺産の修復作業が行われている。プランバナン寺院群はヒンドゥー教の遺跡としてはインドネシア最大級で、仏教遺跡のボロブドゥール寺院遺跡群と共にジャワの建築の最高傑作の一つとされる。

インドネシア料理の夕食後ジョグジャカルタ空港から、空路デンパサール(バリ島)へ    以下(3日目)次号  












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エンターテイメント122   Trip&Tour (9-4)’13.12.30 
ピーチで行く 石垣島・竹富島の旅 Ⅱ(11/16~17)
2日目 竹富島

  7:00、日航ホテル八重山をあとにし、日本最南(西)端(Kさんこだわり)のマクドナルドで腹ごしらえ。渡船場の駐車場でレンタカーを捨て、竹富航路高速船で竹富島へ。時速 60Kmものスピードが出る高速艇に乗れば15分ほどで竹富島につく。竹富は石垣島から見える周囲 9.2Kmの平らで小さな島。

  島内観光の方法は二つ、レンタサイクルで島を一周するか、水牛車にゆられながら南国の風を感じるか。私たちはレンタサイクルを選び、波止から島のタクシー?でサイクル店(丸八レンタサイクル)へ。借りる自転車は番号があるだけで鍵もない、「こんな島で誰も盗る者はいない」とのこと。島の地図をもらい、それに従ってレッツゴー。

  チャリンコを転がしてすぐ、開けっ放しの背の低い門(門の間に戸がありません)、右の門には竹富町立竹富小学校、同じく左には竹富中学校。都会の小学校では見られない解放的な、いかにも竹富らしいこの門の前には可愛い花々。このあたりでは門が開けっ放しの家が多く、庭からはハイビスカスなどの花が見られる。

  石垣島でも気になっていた巨大な里芋のような葉っぱが、ここでも多く見られた。昨日 Oさんに聞いたところ「クワズイモと言って芋は不味くて食えない」とのこと。珊瑚礁の土なのに葉っぱがよく育ちすぎて、芋にまで栄養がいかないのだろうか。

  山がない平らな島とはいうものの、やはり少しは上り下りがある。上り坂になると40代、アラ60、アラ70では自ずと差が開いていく。所々で待ってもらいながら海の近くに出た。木々の間から見えるエメラルド色の海、皆治浜(かいじはま)へ到着。この浜は星砂のある場所として知られている。

  砂浜へ立ってみると、細かくて真っ白い粒が星状になっている。この星砂浜には粗末な小屋で少しの土産物が売られており、白い猫もいた。またチャリンコにまたがり次のスポットへ。
  次に行った美しい景色の浜にはトイレなどもあり、海辺の低い石垣の陰で10匹ほどの猫がのんびり昼寝をしていた。

  そこから少し町中の方へ行くと「竹富町竹富島伝統的建物群保存地区」と書いた立派な屋根付き看板。この地区の家々は本当に綺麗で、つたない説明より写真
(ぶらり旅・散歩)でも見ていただいた方がと思います。また少し行くとやはり屋根付きの「スンマシャー(西集落)」の看板、スンマシャーとは生活を守る魔除けの石垣+ガジュマルだそうです。
 
  伝統的建物保存地区のカラフルな家々をカメラに収めていると「なごみの塔」に出くわす。ここは360度パノラマで島全体が見渡せる塔だそうであるが、登るところに「急な階段につき怪我等に責任は持てない、自己責任で」というようなことが書かれていた。それでも「なんやらと煙は高いところ」というが Kさんが挑戦、塔の上から自分のビデオを回し、私の一眼レフにも景色を収めてくれた。

  このあと水牛車に遭遇、今度来るときはまた少し年を重ねているだろうから、多分この車に乗ったほうが楽ちんだと思う。

  サイクルを返却し、渡船場まで歩くうち牛の放牧場があった。石垣島に戻った時がちょうど昼時、適当な食事処を探して入り、運転する Kさんには悪いがハマちゃんと二人地ビールで喉を潤し、八重山そば定食を注文した。ここのそばもかやく飯も味は今ひとつ、昨日のソーキそばの美味しさを思い出した。
  
  商店街で土産物を買って返却のためレンタカーを満タンにしたあと、Kさんの好奇心から郊外?にあるトンネルまで行ってみようということに。大きなシーサーが掘られたトンネル入口でUターン、空港へ戻る途中、かなりの広さのまだまだ未開発の草原があるのを見た。

  石垣新空港で人に頼んで3人の記念写真を、綺麗な空港内をみたあと一休みしているうち、Oさん御夫妻が見送りに来てくれた。Oさんから空港内に生きたオオゴマダラ(喜界島、与論島、沖縄諸島以南 にしかいない日本最大のチョウの一つ)が展示してあるのを聞き、見に行く。先ほどそのケージの前を通ったがなんらの標識も説明もなかったので素通りしていた。

  今回の旅行はなんといっても飛行機とホテルの安さ、Kさんのあくなき好奇心と探究心のおかげです。もうひとつ、良かった理由それは今回単なるツアーと違い、現地に友人がいた事、Oさん御夫妻には大変お世話をおかけしました。おかげで思い出に残る一泊二日になりました。
      
写真は上から 竹富小・中学校、、 猫ものびりの浜、 伝統的家屋?。                        End












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エンターテイメント121   Trip&Tour (9-4)’13.11.23 
ピーチで行く 石垣島・竹富島の旅 Ⅰ(11/16~17)
1日目 石垣島
  社内に「ミスターリーズナブル」と呼びたい男がいる、なんでも割安で買わないと気がすまない。着ているものなど値段を聞いて呆れる、ブランド品を信じられない値段で手に入れる、探してくる飲み屋もかなりの安さである。「いくら安くても海外へは行かない」と彼はいう、なぜか聞くと「いまのところパスポートを割安で手に入れることができないのが癪で」というのが理由である。

  私も歳の割には好奇心が強い方であるが、この人の好奇心は並ではない。毎月と言っていいくらいピーチであちこちへ行く、ピーチ就航1週間後北海道日帰り、長崎日帰り、軍艦島日帰り、東北日帰り等々。「美味しいソースがある」と聞けばかなり遠いところへでも買いに行き、「駅構内に面白い立ち飲み屋がある」と聞けば、そのためだけに電車を乗り継ぐ。もと留置場の写真を撮りに行く、最後のジャンボだと言って小松空港まで車を飛ばす、先週は岐阜基地航空祭2013へブルーインパルスの飛行を見に行っている。。

  40代のKさんは我々定年後世代 7人を仕切るマネージャーのひとりである。「一泊するなら」ということで同僚の浜ちゃんと彼の「ピーチで石垣・竹富1泊2日」の提案に乗った。しかも石垣には大阪から奈良在住を経て、7年も前から住み着いている友人Oさんご夫妻がいる。浜ちゃんはその名のとおり釣りキチで和歌山田辺産アラ還暦の男である。

  16日(土)、早朝 3時前に起き、5時前に来るはずの Kさんの車(浜ちゃん同乗)を待つ。我が家のある橿原市から高田バイパスに乗ると自然南阪奈道路に入り、1時間弱で空港に着く。ピーチの離着陸は初体験の第2ターミナル、第2は第1からかなり離れており、華やかな第1と比べるとこのターミナルはなんと地味なことか、結構賑わっていたが圧倒的にヤングが多い。

  2時間半ほどのフライトで今年 3月に開港したばかりの新石垣空港へ、ピーチは思ったよりは狭くはなく、新しい機体で意外に快適、開港して間もない綺麗な空港では Oさんご夫妻が迎えに来てくれていた。奥様運転の車先導でレンタカーに乗った中高老 3人組の石垣島の旅第一歩が始まった。

  最初に行ったのが玉取崎展望台、ここでカメラのプロらしき人に頼んで 5人の集合写真を撮る。展望台の下方にこの旅行初めてのエメラルド色のリーフを見た。

  次に紳助の経営していたという(過去形?)喫茶店の前を通り、明石にある Oさんお薦めのそば屋さんに入った。13年前那覇で食べたソーキそばの味があまり美味くなかった記憶があったが、この店のそれを食して「ソーキそば観」が一変した。だしもそばも上々だったし、大量に入っている焼豚の食感と味は最高だった。次には石垣の最北端平久保崎へ行き灯台をみた。

  あと Oさん宅でティータイムとなり、5人プラス二匹の愛犬とくつろぎ、庭に咲いている色とりどりの花の写真を撮ったりもした。

  大野邸を辞したあと、この旅最高の美景色「川平湾」を心おきなく写真に収めた。次の訪問地へ急ぐ途中、奥さんがカンムリワシが飛んでいるのを見つけ、慌てて夢中でシャッターを切った。
  川平湾のあとは湿地「名藏アンパル」、ここにはマングローブが生え、潮が引くとたくさんのハゼや貝やたこなどが拾える?と聞いた。

  このあと「エメラルドの海をみる展望台」を経て「八重山ホテル日航」で旅装を解いた。市内のスーパーで土産物など買ってホテルで待っていると、Oさんご夫妻の車でおふたり行きつけの割烹?居酒屋?へ。ここでちょっとしたハプニング、「郷土料理を」と予約してくれていたが、ママさんがすっかり失念。

  我々が着くとママさんはパニック状態、Oさん奥さんの励ましとアシストで、なんとか立ち直ったママさんが美味しい郷土料理をたっぷり作ってくれ、オリオンビールで乾杯のあとはもちろん泡盛。かなり盛り上がっていたその飲み屋を辞してホテルに戻ると、大浴場の入浴締切間近だった。1日の汗を流したあと最上階のラウンジで夜景をみながらビールで乾杯。 
                        写真は川平湾                   2日目竹富島は次号へ










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エンターテイメント120 13.10.26 
昭和の歌謡史(4) 
歌は世につれ 
有楽町で逢いましょう
  
 ♪フランク永井は低音の魅力
 神戸一郎も低音の魅力
 水原ヒロシも低音の魅力
 漫談の牧伸二低脳の魅力
ンあ~あやんなっちゃったンあーンああ驚いた~

   今年亡くなった牧伸二のウクレレ漫談を思い出します。 

  小・中時代、ラジオから流れる三橋美智也や春日八郎の演歌を聞いて育った。演歌といえば股旅ものや、山・川・海、田舎の空を思い出すふるさとのイメージだった。一方、この歌手ほど都会のイメージを醸し出す歌手はこのころまだあまりいなかった、いわゆるロマン演歌がその後の歌謡界の一時期を風靡する。

  低音の魅力と共に、都会派ムード歌謡を代表する歌手として、昭和の歌謡史に一時代を築きあげたフランク永井。柔らかく語りかけるような歌声は、世代を越えて多くの人々を魅了しました。
  フランク永井の曲で知っている歌を並べてみた(ほとんどの曲は吉田正作曲)。私自身、さわりのワンコーラスはほとんど覚えており、スラスラと書けた、最近のことはよく忘れるのに。

昭和32年  東京午前三時 - 
真っ赤なドレスがよく似合う、あの娘想うてむせぶのか♪♪
昭和32年  夜霧の第二国道 - 
つらい恋ならネオンの海へ、捨ててきたのに忘れてきたに♪♪
昭和32年  有楽町で逢いましょう  - あなたを待てば雨が降る、濡れてこぬかと気にかかる。♪♪
昭和33年  羽田発7時50分  - 星も見えない空寂しく眺め、待っていたのに逢えない人よ♪♪
昭和33年  西銀座駅前  - 
ABC XYZ これがおいらの口癖さ、今夜も刺激が欲しくって♪♪
昭和33年  こいさんのラブ・コール - なんで泣きはる泣いてはる、思い出の柳並木も川のカモメも知っている♪♪
昭和33年  ラブ・レター  - ほのかに暗い紫シェード、虚しく夜は更けていく♪♪
昭和33年  俺は淋しいんだ  - 赤い日青い日灯る街角に、あの娘を捨ててひとり旅を行く♪♪
昭和34年  夜霧に消えたチャコ - 
俺の心を知りながら、なんで黙って消えたんだ♪♪
昭和34年  東京ナイト・クラブ – ( 松尾和子とのデュエット曲)。なぜ泣くの、まつげが濡れてる♪♪
昭和34年  冷いキッス - 冷たーいキッス、冷たいキッス、遠い国から吹いてくる♪♪
昭和35年  好き 好き 好き - 
好き好き好き 霧の都東京、うるむネオンの街♪♪
昭和35年
大阪野郎 - 風が盗んだ風が散らした幸せよ、そやけど、そやけど♪♪
昭和35年   東京カチート - 
赤い灯がつく赤坂タウン、甘く流れる夜の色。♪♪
昭和36年  君恋し - (元は二村定一のヒット曲(1928年(昭和3年))。宵闇せまれば悩みは尽きなし、乱るる心にうつるはだ誰が影♪♪
昭和37年  霧子のタンゴ - 
好きだから とても とても とても、好きだから別れてきたんだよ♪♪
昭和38年  逢いたくて  - 淋しくて淋しくて雨も泣くのさ、逢いたくて逢いたくてここへ来たのさ♪♪
昭和39年  冬子という女 - 冬子 冬子 昔を言わない、心の奥を誰にも見せない♪♪
昭和39年  大阪ぐらし - 赤い夕映え通天閣も、染めて燃えてる夕陽丘よ♪♪
昭和40年  東京しぐれ - 東京しぐれか泣かせの雨か、こんなに濡れたとなぜ来ない♪♪
昭和41年  大阪ろまん  - 泣かへんお人が忍び泣く、濡れてやさしいみどりの雨よ♪♪
昭和52年   おまえに - (元は「大阪ろまん」B面曲)そばにいてくれるだけでいい、黙っていてもいいんだ♪♪

  よく見ると
大阪の歌も意外に多い。

  吉野の山奥から出てきた私にとって大阪でさえ都会過ぎ、ふるさとへ帰りたいと思ったころがあった。反面、気持ちの底にはフランク永井や松尾和子の歌にでてrくる東京への憧れも強くあった。そんなとき昭和41年、大阪日本橋の支店から東京支店開店準備委員の転勤辞令をもらうこととなった。
 
  青春時代の4年半を過ごしたここには、渋谷・新宿・池袋や六本木も西銀座も第二国道も羽田空港もあった。赤坂のナイトクラブで踊るという機会も金もなかったが、銀座・日比谷・有楽町でデートをしたことは想い出ではあります。 
  
写真は昭和35年頃の有楽町 左中程の丸い建物はヌードショーのミュージックホールがあった日劇











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エンターテイメント 119 私の読書歴 (36)  ’13.09.29  
永遠の0
(ゼロ)  百田 尚樹 講談社文庫
  文庫本の背表紙に「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。天才だが臆病者、想像と違う人物像に戸惑いつつも、一つの謎が浮かんでくる・・・・。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。とある。

  
0とは太平洋戦争中、日本が世界に誇る名戦闘機としてその名を轟かせた海軍零式戦闘機、零戦。百田尚樹 1956年大阪生まれ。本書「永遠の0」で作家デビュー。2013年「海賊とよばれた男」で第10回本屋大賞を受賞。2009.7.15第1刷発行、私のは38刷。講談社文庫

  大学生の佐伯健太郎と、出版社に勤める姉の慶子は、亡くなった祖母・松乃の四十九日のあと、祖父から実の祖父の存在を知らされる。 「お前たちの母・清子を連れて松乃は太平洋戦争後に私と再婚した。お前たちの実の祖父は、私ではなく松乃の最初の夫で終戦間際に特攻で戦死した海軍航空兵だ」と。

  司法試験に受からず、人生の目標を失いかけていた健太郎は、フリーライターとなった姉から、新聞社が主催する「終戦60周年記念プロジェクト」への協力を頼まれる。慶子に好意を抱くプロジェクトを担当する新聞社の高山は、神風特攻隊のことを「テロリスト」だと語るが、その考えに釈然としない慶子は、特攻隊員だった実の祖父・宮部久蔵のことを調べようとする。姉弟はわずかな情報を元にその足取りを追い始める。

  最初に訪ねたラバウル航空隊で一緒だったという元戦友は、久蔵について「海軍航空隊一の臆病者」「何よりも命を惜しむ男だった」と姉弟に蔑みの言葉をぶつけ、「あいつは戦場から逃げ回っていたんだ」「彼のお命大事は隊でも物笑いの種だった」とまで言った。

  次に訪ねた四国松山の元戦友の話では、祖父のパイロットとしての優秀な技量と勇気と決断力、それに冷静な判断力が勝敗と生死をを分けたことを知り感動する。
  戦争中の久蔵の人物像は語る人それぞれに違っており、戸惑いながらも二人は、国のために命を捧げるのが当然との風潮だった戦時中の人々の真実を知っていく。凄腕のゼロ戦乗りで、卑怯者と罵られても、「娘に会うまでは死なない」と松乃との約束を守り続けていた久蔵は、なぜ特攻に志願したのか?。

  私自身あの太平洋戦争末期の「特攻」ほど非人間的なものはないと思っている。生きる確率はかなり低くても、ゼロでなければ、お国のために勇敢に戦って結果死に至ったとしても戦争だから仕方がない。しかし、人間を武器と同じ次元で使い捨てた特攻、人間爆弾桜花、人間魚雷回天などを命令した軍上層部・司令官・指揮者たちは許せない。当時アメリカでは桜花などをBaka Bomb(バカ爆弾)といったという。
   
  それでも命令に従って死んでいった人たちの気持ちは、誰かが言うようにイスラム圏での「テロ」などと同じものでは決してない、お国のために命を捧げた人たちの崇高な精神には頭が下がるばかりである。












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エンターテイメント118 映  画 (13)     ’13.08.25 
終戦のエンペラー
  アメリカ映画 原題 Emperoar    ’13.08.14 TOHOシネマズ橿原(イオンモール 橿原アルル)

 【スタッフ】 :  監督; ピーター・ウェーバー   【キャスト】 ; ノマシュー・フォックス、 トミー・リー・ジョーンズ、初音映莉子、 西田敏行、 片岡孝太郎、 伊武雅刀、 火野正平、 中村雅俊、 夏八木勲、 桃井かおり ら


  「この国では働くという行為に取りつかれているようだ、しかも疲れることがうれしいようだ」。「このろくでもない、すばらしき世界」・・・・。私の好きな缶コーヒーのCM(缶コーヒーが好きなのではなくCMが好き)。宇宙人ジョーンズのトミー・リー・ジョーンズがマッカーサーを演じている。

 「終戦のエンペラー」製作のきっかけは、この映画の奈良橋陽子プロデューサーだったらしい。彼女は子どもの頃、宮内省の側近として昭和天皇に仕えた祖父、夏八木勲演ずる関屋貞三郎から聞いた話が、いつも頭から離れなかったという。関屋は1945年、日本の運命を決めることになるマッカーサーと昭和天皇の会見実現に向けて尽力した人物のひとりであった。

  私が1歳の誕生日を迎えて3日目の、1945年8月30日、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー(ジョーンズ)が日本に上陸し、アメリカによる本格的な日本統治が始まった。マッカーサーは戦争犯罪人の一斉検挙とその戦争犯罪を裁くため、活動を開始するが、皇室、特に天皇(片岡)に対する戦争犯罪の有無の立証と、天皇が逮捕・処刑された際の、日本国民への影響を考慮していた。

  日本の終戦を内側から描いた映画は数多く見てきたが、占領統治していたアメリカが時代に焦点を当てた初めてのハリウッド映画である。

  マッカーサーの命を受け、知日家のフェラーズ准将(フォックス)は調査を開始するが、彼自身も開戦前、大学時代に知り合ったかつての恋人あや(初音)の安否を気に掛けていた。10日間という短い制約時間の中でフェラーズは、東条英樹(火野)、近衛文麿(中村)、木戸幸一(伊武)、関屋貞三郎(夏八木)ら容疑者、関係者から聴取を行い、開戦に至る隠された真実と終戦における天皇の役割を暴いていくが、天皇が戦争に関与していない証拠を得ることができない。

  なんとか天皇への戦犯容疑を晴らしたいフェラーズだが、具体的証拠の無いまま最終調査報告書をマッカーサーに提出する。
  やがて、調査書を読んだマッカーサーは、天皇の人物像を見定めようと、フェラーズに天皇との面会を設定するよう命じる・・・・。











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エンターテイメント117 13.7.28  
昭和の歌謡史(3)  歌は世につれ

リンゴ村から 
  前回、「昭和の歌謡史(2)’12.12.29」で、もの心ついてはじめて「歌・流行歌」に触れたころのことを書いた。村の青年団の演芸会で聞いた「帰り船」や「憧れのハワイ航路」などの歌だった。

  そのころテレビというものはまだ世に存在しなかったし、家に蓄音機などというものもなかった。音楽を聴く手段はただひとつ、ラジオから流れる歌番組、毎週順位が発表される歌謡ベストテンを聞いていたことが記憶に残っている。三橋美智也、春日八郎、美空ひばり、島倉千代子など演歌一色、なかでも三橋の「おさらば東京」がその番組で何週もトップを続けていたことを覚えている。
  調べてみると昭和32年11月に発売されたこの歌は『ラジオ東京(現:TBS)の「人気東京六つの歌」で50週(約1年)連続で1位を記録した』とあるが、これとは違う番組だったかもしれない。 

  三橋美智也の数あるヒット曲の中で私の知っている歌・歌える歌は次の通り、私たちの年代は、出だしを聞くと歌いたくなる人が多いと思います。なかでも「リンゴ村から」と「おさげと花と地蔵さんと」は大好きな歌です。

昭和30年4月  おんな船頭唄 - 
嬉しがらあせええて、泣かせて消えた♪♪
昭和30年7月  ご機嫌さんよ達者かね -   ご機嫌さんよ達者かね、オラもトトさも変わりなく ♪♪
昭和30年12月 あの娘(こ)が泣いてる波止場 - 
想い出したんだとさ、逢いたくなったんだとさ♪♪
昭和31年5月  リンゴ村から - 覚えているかい故郷の村を、便りも途絶えて幾年過ぎた♪♪
昭和31年6月  哀愁列車 - 惚れえて惚れえてえ、惚れていながら行く俺に♪♪
昭和31年12月 母恋吹雪 - 酔うてくだまくとトトさの声を、逃げて飛びだしゃ吹雪の夜道♪♪
昭和32年1月  俺ら炭鉱夫 - おいらはな、生まれながらの炭鉱夫♪♪
昭和32年3月  東京見物 - 写真で見ただろおっかさん、お濠に映った二重橋♪♪
昭和32年4月  一本刀土俵入り - 相撲名乗りを、やくざに変えて、今じゃ抱き寝の一本刀♪♪
昭和32年9月  おさげと花と地蔵さんと - 
指を丸めてのぞいたら、黙ってみんな泣いていた♪♪
昭和32年11月 おさらば東京 - 
死ぬほーーど辛い、恋に破れたこの心♪♪
昭和33年3月  夕焼けとんび - 
夕焼け空が真っ赤かっか、トンビがくるりと輪を書いた、ほーいのほい♪♪
昭和33年11月 赤い夕陽の故郷 - 
おー、呼んでいる呼んでいる 赤い夕陽のふるさとが♪♪
昭和33年1月  ギター鴎 - 夜の裏町、ネオンが・・・♪♪
昭和33年8月  センチメンタルトーキョー - 面影の町たそがれて♪♪
昭和34年7月  古城 - 松風騒ぐ丘の上、古城よひとり何偲ぶ♪♪
昭和34年12月 北海の終列車 - 深い夜霧に汽笛を鳴らし♪♪
昭和35年10月  達者でナ - 藁にまみれてよー育てた栗毛、今日は買われてヨー町へ行く♪♪
昭和36年1月  石狩川悲歌 - あーーー 君と歩いた石狩の流れの岸の幾曲り♪♪
昭和36年5月  武田節 - 甲斐の山々 君あえて 我出陣に憂いなし♪♪
昭和37年5月  星屑の街 - 両手を回して帰ろう、揺れながら♪♪
昭和37年    新撰組の唄 - 葵の花に吹く時代の嵐♪♪
昭和38年6月  東京五輪音頭 - 
ハアー あの日ローマで眺めた月が、ソレ トトントね、今日は都の空照らす ♪♪ 
          作曲者の古賀政男は、元々三橋美智也を想定して作曲したといわれる。
♪♪

   
また意外な歌として

昭和35年    
(連続テレビ映画「快傑ハリマオ」主題歌) 快傑ハリマオの歌 - 真っ赤な太陽燃えている 果てない南の大空に・・♪♪
昭和39年    (東村山市農協の依頼により制作。後に志村けんが歌って有名になる) 東村山音頭 - 東村山、庭先ヤ多摩湖、ソレヤレソ            レ♪♪
昭和49年    (明治「カール」CMソング) いいもんだな故郷は - すっかり陽気がよくなりまして、ハア俺がのほうにもう出かけて来いや・・・・それにつけてもおやつはカール♪♪

  昭和58年には日本の歌手として史上初めてレコードのプレス枚数が1億枚を突破する記録を打ち立てた。代表曲の一つ「古城」の売上は300万枚に達したといわれている。またNHK紅白歌合戦には昭和31(1956)年に初出場。以後、連続出場を重ね、昭和40(1965)年の第16回紅白をもって連続出場が途切れる。

  その後、昭和49(1974)年の第25回紅白で紅白25回記念の「人気歌手枠」で春日八郎とともに再出場を果たす。以後、52(77)年まで4年連続で出場、通算14回。初出場から10回連続出場までの間では、美空ひばりや島倉千代子、江利チエミといった女性人気歌手と対戦し、トリも4度飾っている。11回目出場以後では、山口百恵や森昌子など、若手人気歌手との対戦もしている。

  かなり昔の人だと思っていましたが、意外に新しい大歌手三橋美智也ではあります。
「リンゴ村から」のころは、何故か美空ひばりはあまり好きではなかった。その後、齢を重ねるにしたがって「ひばり」の素晴らしさを知っていくことになるのですが。











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エンターテイメント  116 私の読書歴 (35)  ’13.06.29  
豊饒の海
ほうじょうのうみ)(後)3・4巻 三島由紀夫 
新潮文庫
    第三巻・暁の寺  時代は昭和16年(1941年)から終戦の昭和20年(1945年)

  47歳になっていた本多は訴訟の仕事でバンコクに行った、かつて清顕と親交のあったシャム(タイ)の王子と、そのいとこの故郷である。そこで日本人の生まれ変わりであると主張する 7歳のジン・ジャンという名の王女 月光姫と出会う。月光姫は本多を見ると懐かしがり、黙って死んでいったお詫びがしたいと言う。

  彼女は勲が逮捕された日にちも、清顕と松枝邸の庭園で門跡に会った日付も正確に答え、明らかに生まれ変わりと思えた。
  その後本多はインドへ旅し、人生観を左右するような体験をする。そして、インドの土産をシャムの月光姫に献上し、「日本へ連れて行って」とすがって泣く姫との別れを惜しみながら日本へ帰国する。

  美しく成長し、日本の大学に留学していたジン・ジャンに本多は魅了され、不相応な気持ちを抱く。本多の別荘に招いたジン・ジャンの部屋を覗き穴から覗くと、彼の友人慶子と裸で抱き合う二人の姿を見てしまう。彼女の脇腹には3つの黒子があった。

  本多は戦後、58歳のとき、土地を巡る裁判の弁護の成功で多額の報酬を受け大金持ちとなっていた。

  シャムの国に帰ったジン・ジャンは、20歳の時に庭でコブラに腿を噛まれ死んだという。

    第四巻・天人五衰  時代は昭和45年(1970年)から昭和50年(1975年)夏

  妻を亡くし76歳となった本多は、67歳の久松慶子と旅行などして暮していた。天人伝説の伝わる三保の松原に行ったとき、立ち寄った清水港の帝国信号通信所で働く聡明な16歳の少年、安永透に出会う。彼の左の脇腹には3つの黒子があった。本多は透を清顕の生まれ変わりだと思い養子にする。

  透に一流のマナーを覚えさせるなど英才教育をし、後継者にふさわしい人物に育てようとする。その後の透を見ると、本物の転生者ではないような気がしてくる。透の人間性は次第に悪くなっていき、美しい婚約者の百子を陥れ、婚約破棄にする。東大に入学してからは年老いた養父・本多にも危害を加えはじめるようになった。

  見かねた友人慶子が本多には内緒で呼び出し、透を養子にした根拠の3つの黒子にまつわる転生の話をし、贋物のあなたには「陰気な相続人になれるだけ」と、透を精神的に追い込む。自尊心を傷つけられた透は、本多から「清顕の夢日記」を借りて読んだ後、服毒自殺を図り未遂に終わるが失明してしまう。

  迫る死期を感じた本多は60年ぶりに、奈良の月修寺の尼僧門跡となっていた聡子を訪ねる。そこでやっと会うことのできた聡子から出た言葉は、「清顕という方は知りません」・・・・。

三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)
 1925年(大正14年)1月14日 – 1970年(昭和45年)11月25日) 
日本の小説家・劇作家・評論家・政治活動家・民族主義者。血液型はA  東京大学法学部卒
  大東亜戦争後の日本文学界を代表する作家の一人である。
代表作は小説に「仮面の告白」、「潮騒」、「金閣寺」、「鏡子の家」、「憂国」、「豊饒の海」四部作など、
戯曲に「鹿鳴館」、「近代能楽集」、「サド侯爵夫人」などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。 
ウィキペディアより


                                             









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エンターテイメント115 私の読書歴 (34)  ’13.05.25
 
豊饒の海(ほうじょうのうみ)(前)1・2巻 三島由紀夫 
新潮文庫
  OBPのツインビル1階広場で時々古本市がある。かなり多くの古書が並ぶが、ほしい本がどこにあるかわからない、回って見ながら、あるものの中から選ぶしかない。まだ新品のような文庫本「豊饒の海」4冊がラップして置かれてあった。三島由紀夫は「金閣寺」と「潮騒」しか読んだ記憶がない。この小説は発刊当時かなり話題となったが、読んでなかった。

  読み始めて何度もやめようかと思った。長いのと、内容が、というより「文章が重い」のである。若いときは高橋和己(憂鬱なる党派)や大江健三郎(万延元年のフットボール)・安倍公房(燃え尽きた地図)など重苦しいものを好んで読んだ。この本は重いというより「表現がしんどい」のである、「この齢になったら楽なものを読んだらいい」と思っており、最近では「しんどい」本は敬遠していた。

  三島由紀夫と言えば昭和45年(1970年)11月25日、市谷陸上自衛隊駐屯地 で演説したあと、楯の会の森田必勝とともに割腹自殺を図って介錯した首が転がったことは43年たった今でも鮮烈に記憶している。この事件が起こったのは長編の最後「第4巻 天人五衰」の入稿日」のことだったらしい。「第2巻奔馬」の最後、この編の主人公勲の割腹シーンは、このときの三島の姿をほうふつとされる。また「3巻 暁の寺」、このお寺は2度行ったタイ旅行でバンコクの市内を流れるチャオプラヤー川から見た記憶がある。

  「豊饒の海」(ほうじょうのうみ)は三島由紀夫の最後の長編、1「春の雪」、2「奔馬」、3「暁の寺」、4「天人五衰」の全四巻からなる。文芸雑誌「新潮」に昭和40年9月号~42年1月号に第1巻、同年2月号~8月号に2巻、同年9月号~45年4月号に3巻、同年7月号から45年1月号に4巻が連載された。 

  第一巻 「春の雪」  時代は明治末から大正3年(1914年)冬

  新華族侯爵の令息・松枝清顕は、貴族の家庭に生まれ何不自由ない生活を送っていた。幼い頃に、本物の華族の優雅さを身につけさせようと、もと公家の家柄である華族 綾倉家に預けられていた。綾倉家の一人娘、聡子は清顕より2歳年上で何をやっても優雅な美人令嬢であった。

  清顕と聡子は愛し合うようになるが、聡子に子供扱いされたと思い、無視したような態度をとるようになる。失望した聡子は洞院宮治典王殿下と婚約し、殿下との婚姻の勅許が発せられる。
  皇族の婚約者となったことで禁断の恋となったことから、余計に恋しさが募り、聡子との逢引をもとめ聡子も受け入れる。
この小説の狂言回し役である親友(全編の主人公=本多繁邦)の協力で密会は続けられ、聡子は妊娠してしまう。

  このようなことが外部に漏れたとなれば死罪・お家断絶は免れない、綾倉家のために聡子は中絶をさせられ、奈良の門跡寺院「月修寺」で自ら髪を下ろし出家する。
  清顕は聡子に一目会おうと春の雪が降る2月に月修寺に行くが門前払いとなり会うことができなかった。雪中で待ち続けたことが原因で肺炎をこじらせ20歳の若さで死ぬ。死ぬ直前に親友・本多に、
「又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で」と言い、転生しての再会を約束する。

  この小説は、生まれ変わりによって筋が運ばれ、20歳で死ぬ若者が、次の巻の主人公に生まれ変わっていくという構成となっている。

  第二巻・奔馬  時代は昭和7年(1932年)6月から昭和8年(1933年)

  清顕が死んで18年経ち、38歳で高等裁判所(現在の)の判事となっていた親友本多は、大神(おおみわ)神社の剣道試合で、鮮烈な印象の若者に目を止める。かつて清顕の書生だった男の息子で飯沼勲18歳。試合後、本多は三輪山の三光の滝で再び勲に会い、彼の脇腹に清顕と同じく3つの黒子を見つける。

  勲は「神風連史話」
(※)の精神で有志らと決死の行動を企てていた。政財界の腐敗を憤り、仲間と共に実力行使によってこの国を浄化しようと考えていた。
 
※神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。敬神党の乱とも言う。

  計画の決行前に事は露見し、勲は逮捕され、裁判では本多の弁護によって無罪となり釈放される。警察へ密告をしたのは父だったと知った勲は愕然とする。酔った勲が、うわ言で「ずつと南だ。……南の国の薔薇の光の中で。……」と言うのを本多は聞く。

  その後、勲は短刀を携えて伊豆山に向かう。政財界の黒幕の別荘で本人を殺害したあと、夜の海を前にした崖で鮮烈な切腹自決を遂げる。20歳。
 
   (後)3・4巻 次号へ       











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エンターテイメント114   Trip&Tour (9-4)’13.04.28 
世界遺産アンコールワットとハロン湾5日間 
(1/16~20)
4・5日目

  ベトナム最初の観光「ハロン湾クルーズ」へ、AM8:00ホテル出発、間もなくバスはハイチャイ港に着く。いよいよ今回の旅行二つ目の目玉「ハロン湾約5時間のクルーズ」が始まる。

  ハロン湾は、いまベトナムで最も人気の高い世界遺産で、波風の浸食を受けて形成された奇岩が海上にそそり立っている。そのダイナミックな風景が、中国の桂林にも似ていることから、「海の桂林」と呼ばれている。

  ハロン湾に突き出た奇岩や独特の形をした島々を縫うように船は進む。「龍が降り立つ」(降りる=ハ、龍=ロン)という意味の地名は古くからベトナムに伝わる伝説に由来する。中国の度重なる侵略に悩まされていた時代、天から龍が降り立って外敵を打ち破ったと言い伝えられているらしい。

  クルーズの途中、ティエン・クン島上陸、洞窟内の鍾乳洞観光。入り口まで100段ほどの急な階段を登り洞窟内に、石灰石が何百年もの月日をかけた鍾乳洞がライトアップされる。

  奇岩群の発生は11万5000年ほど前、の最終氷河期にさかのぼるといわれている。約1500kmの湾内に浮かぶ奇岩の数は2000近くに及ぶという。昼食は船上でシーフード料理、ランチが済むとそのテーブルに手作りの民芸品などが並べられる。

  アジアや東南アジアの旅行では、どこへ行っても「1000円、1000円」と言って物を売りに来る。家に帰るといつもカミさんに「くだらない」といって買い物のセンスのなさを笑われるのがオチであるが、この船で買った美しい刺繍の入ったポシェット?キンチャクは評判が良かった。
  ハロン湾クルーズの後はまた5時間、バスに揺られてハノイの市内観光へ。

  ベトナムの首都ハノイは、歴史的建造物の残る落ち着いたたたずまいが魅力とされており、南のホーチミン市とはまた違った趣があるといわれています。カンボジアへの乗り継ぎで経由したホーチミンに比べると結構涼しかった。市内に入るとわれわれはまずホーチミン主席の遺体が安置されているホーチミン廟へ。

  ベトナムの統一と独立をかけて戦ったホーチミン、ベトナム人民からは「ホーおじさん」の愛称で呼ばれ、この国でもっとも愛されており、廟は兵士によって厳重に警備されていた。このホーチミン廟ができたのは1975年9月2日の建国記念日。総大理石造りの廟は、ハスの花をかたどっていて、内部にはベトナムの民族的英雄、ホーチミン主席の遺体がガラスケースに入れられて安置されているらしい。

  ホーチミン廟の前には、1945年9月2日にホーチミンがベトナム民主共和国の独立宣言を読み上げた場所として有名なバーディン広場があり、広場を挟んで廟の反対側にある建物は国会議事堂。

  ハノイ最後の観光は、伝統芸能「水上人形劇」の鑑賞。写真やビデオを回したい人は追加で2万ドン(日本円にして80円程度 )が必要、これで心置きなくカメラのシャッターを押せました。
  ベトナム料理の夕食後はハノイ空港へ、00:20空路帰国の途へ。

  06:40関空着、朝早いので恒例の「空港での反省会」は行わず、それぞれ家族の待つ我が家へ。

                        End












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エンターテイメント113   Trip&Tour (9-3)’13.03.24 
世界遺産アンコールワットとハロン湾5日間 
(1/16~20)
3日目
  カンボジア最後の観光、午前 トンレサップ湖クルーズに向けて連泊のシェムリアップのホテル出発。

 バスで湖に向かう途中、舗装もされていない道の両側には掘立小屋や高床式の家屋が続く。家々の裏には細い川があるが濁っていて汚く、電気もきていないらしい。そのうち郊外のハス畑などを過ぎてトンレサップの船着き場に着いた。

  トンレサップ(Tonl Sap)は、カンボジアにある東南アジア最大の湖であり、大きさは琵琶湖の18倍、クメール語で巨大な淡水湖 (sap) と川 (tonl) という意味がある。100万人といわれる世界最大規模の水上生活者がくらしており、その多くはベトナム難民といわれている。

  1年のうちほとんどの期間、水深は1m程度で面積は2700平方kmしかない。しかし雨期には湖からプノンペン付近でメコン川に流れ込むトンレサップ川が逆流するため、周囲の土地と森を水浸しにしながら面積は1万6000平方kmまで拡大して深度も9mに達するという。

  この面積拡大によって、淡水魚には陸上植物による有機物が豊富に供給され、大量のプランクトンにより、魚が大量に発生する。体重100kgを上回るメコンオオナマズなど600種類以上の淡水魚が生息するらしい。

  私たち一行は観光用ボートにのって、魚の腐臭が強い濁った川を、湖までさかのぼっていく。途中、川の狭い浅いところで投網漁をしているのを見た。こんなところでも魚が捕れるとはよほど魚が多いのだろう。

  カンボジアはまだまだ貧しい国なので、ボートに同乗してきた子供がクルーズ客の背中に回り勝手にマッサージを始める。あらかじめガイドから聞いていたので「No thank You」というと仕方なしに離れていく。

  また、さらに小さいボートに果物などをのせて小学校にもあがらないような子供が、こちらの舟の窓を無理やり開けて物売りに来る。生きるのに必死なこの国の子供たちに、わが国の子供たちにはないバイタリティを見た

  ガイドさんの話によると、ここの人たちは、「ミネラルウオーターなんて味がなくて旨くない」といって、こんな濁った水でも好んで飲むという。まあわれわれが飲むとどうなるか想像もできない。

  陸へ上がって、昼食はフランス人経営の洒落たレストラン「FUNAX」で創作クメール料理。その後荷物を取りにホテルへ戻る途中、天然ゴム(ラテックス)の商品を扱う日本企業の現地法人KN Unitedという健康寝具店に寄る、夕食は中華料理。

  19:15 夜のシェムリアップを後にし、これまたベトナム航空でハノイへ、フライトは約1時間40分。ハノイからハロン湾へは、がたがた路の高速道路を東へ約5時間、ハロン湾のホテルに着いたときは午前 2時になっていた
(サイゴン ハロンホテル; 山とハロン湾を望む場所に建つホテル) №2 次号へ 












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エンターテイメント112   Trip&Tour (9-2)’13.02.23 
世界遺産アンコールワットとハロン湾5日間 

(1/16~20)
2日目

 
アンコールワット朝日鑑賞のため、早朝起床。「ご希望の方のみ」となっていたが、「これを見なきゃはるばる来た甲斐がない」と思ったのは私一人ではなく、一行11人全員参加。朝まだ暗いうちからホテルを出発。「大きいのが入れない」とのことでバスは18人乗り、ツアー18人の意味が分かった。用意のいい人は懐中電灯持参、確かに足元が暗い。

 遺跡入場者は入り口で顔写真を撮られ、写真つき入場券を作ってもらわなくてはなならない。本日は朝日から夕日が沈むまでアンコールを巡るので、「失わないように」とのこと。

 
ワットの朝日を拝んだあと後ホテルへ帰って朝食、その後アンコール・トムへ南大門、バイヨン寺院、バブーオン、ピニヤナカス宮殿、象のテラス、ライ王のテラス、タ・ケウ、タ・プロ-ムなどを観光。
 Angkor Thom(アンコール・トム)とは「大きな都城」を意味する。12世紀末~13世紀初め、ジャヤヴァルマン7世が城壁と環濠に守られた巨大な宗教都城を建設した。

 アンコール・トムは1辺3km、周囲12km、幅130mの環濠に囲まれている。総面積は東京ドーム60数個の広さで900ha、環濠の内側を高さ8mの頑丈な城壁が囲み、その東西南北の中央に4つの城門と王宮正面まで通じる「勝利の門」があり、なんともスケールが大きい。
 歩いてみるとあまりにも印象的なメインゲート「南大門」、天上の宮殿と呼ばれた王のための寺院「ピミアンサカス」女神レリーフが見ものの「ライ王のテラス」などなど、圧倒されるばかり。

 アンコールワットに次いで人気が高いのがトムの中心寺院バイヨン。この寺院の見ものは回廊のレリーフ。主なモチーフはチャンパ軍とクメール軍の戦闘場面だそうである。

 ジャヤヴァルマン7世が母の菩提を弔うために建立した大乗仏教の僧院 タ・プロームは、巨大なガジュマルの樹の一種が絡み付いた独特で神秘的な光景。長きにわたりジャングルの奥地で放置されていたためだという。

 このあとアンコールクッキー店でのショッピング。タイスキ(旨かった)の昼食後、この旅行のメインエベント Angkor Wat
(アンコールワット)見学に向かう。
 アンコール遺跡群のなかでも最大規模を誇る宗教寺院。1113年即位したスールヤヴァルマン2世が30年かけて創ったもので幅190mの水を湛えた環濠が南北1.3km東西1.4kmにわたって取り囲み、全体の面積は200ha. 中央の5基の高塔祠堂はあまりにも有名。

 西参道からの入り口にはシンハ(獅子)像が左右に鎮座している。ここを歩くのは何とも言えない旅情をそそる風景ではある。環濠を渡りきるとアンコールワット最大の門中央西塔門、門の周りや壁面にはデヴァター(女神)やアプサラスのレリーフが見られる。

 第一回廊の東西南北の壁面全体を覆い尽くすレリーフがアンコールワット最大の見どころだとのこと。十字回廊を経て第二回廊へ。

 夕刻、プレループにて夕日の鑑賞、プレループとはアンコール遺跡の一つ、ヒンドゥー教寺院である。手すりもないかなり急な階段を昇り、そこから夕日が沈むのを拝んだ。

 夕食はレストランにてアプサラダンスを鑑賞しながらのビュッフェ。  
    (ホテル アプサラ アンコール連泊) №2 次号へ














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エンターテイメント111   Trip&Tour (9-1)’13.01.16 
世界遺産アンコールワットとハロン湾5日間
 
(1/16~20)
  昨年4月、男ばかり10人組の「おきがる台湾縦断4日間 4/24~27」と同じメンバーに、1名増えて11人の旅となった。ツアーは全員で18名、旅先のどこでも朝・昼・晩飲んでる男ばかりのメンバーは珍しいらしい。同じツアーの人から「どんな団体ですか?」の質問が多い、「OBの会です」というと、みな羨ましがる。

1日目
  関空の集合時間は8:30。大和八木発 6:50のリムジンバスは関空着8:05。4階出発ロビーにはほとんどの人が集まっていた。空港の出国手続きは面倒であるが、年齢を重ねても、何度行っても出国前のときめく気持ちは格別。通関手続きが済むと、われわれの海外旅行、まずは免税店で道中のウイスキーやブランデーを買うところから始まる。今回はKさんがヘネシー大壜2本を仕込んだ。奥さんに頼まれたシャネルやランコムの化粧品を買う人もいる。

  フライトまでの時間、これが結構長い、まずは売店の生ビールで乾杯。
10:30離陸、厳寒の大阪から常夏のホーチミンへ温度差約25度。約5時間半のフライト、昼は機内食、ホーチミンは経過するだけ。乗り継いでアンコールワットの町 カンボジア、シェムリアップへ約1時間。ちなみにカンボジア入国にはVISAが要る。乗継手続きでちょっとしたハプニングがあり、もう少しで乗り遅れるとこでした。着後ホテルへ、APSARA ANGKOR HOTEl 夕食はこのホテルでクメール料理。

  その後夜のシェムリアップ散策、適当な場所でバスを降りて繁華街を歩くと、道路の両側にはギンギラギンのネオンの中に色とりどりのバーや飲食店が並ぶ。特徴的なのは外国人、中でも西洋人が多い。街歩きのメインイベントは「フィッシュマッサージ」。沢山の魚が泳ぐ水槽へ足を入れると、足の汚れや角質などを食べてくれる。足をツンツンツンとつついて、かすをどんどん食べてくれる、なんともくすぐったい。

  欧米人らしい若いカップルの足には数匹の魚しか取りつかない。それに比べるとSさんや私の足には何十匹もの魚が集まる、なんでやろ。あと水槽の横で若い娘たち(男の子もいた)の足裏マッサージを受けてホテルへ帰還。魚のマッサージ料金は旅行費用に含まれていたので値段は解らないが、足のマッサージは確か15分1米ドル、30分で2ドル、安い。

  我らが宿、カンボジアにしてはまあまあいいホテル。この通りにはここ数年で観光客向けホテルがどんどん建ってきたらしい。
  いよいよ明日はアンコールワット、朝食前希望者は遺跡をバックに朝陽があがるのを見に行くという、楽しみにして寝る
(ホテル アプサラ アンコール;クメール様式とコロニアル様式のホテル、アンコール時代の独特の魅力を醸し出しているホテルである)  №2 次号へ












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エンターテイメント110  12.12.29– 昭和の歌謡史(2
 
歌は世につれ  あこがれのハワイ航路  
  「ひろ坊のほーむぺーじ」を起ち上げて来年3月で満10年になる。エンターテイメントには、昭和の映画史・映画、読書歴、韓流ドラマ、紀行文など書いてきました。私の娯楽の中で大切なものを忘れていました。それは音楽・歌、物心ついたころから音楽とどのように付き合ってきたか書いてみたい。

  私の幼少のころの娯楽と言えば(テレビがなかったので)学校や運送屋さんのガレージで見た映画、ラジオから流れてくるドラマや歌謡曲。この二つが主流だったと思う。歌番組と言えば「NHKのど自慢」
(1946~ 司会:高橋圭三→宮田輝・・・)「三つの歌」(1951~宮田輝・・・)が記憶に残っている。

  
私の時代、小・中学校の通知簿は5段階、ほとんどの科目は5だったが、体育と音楽だけはいつも3、運動神経が鈍く、音痴な子供だった。
  それでも、小・中と学級委員をやっていたし、6年で児童会委員長、中学では生徒会長。小・中合同のこども会でも会長に選ばれた。とはいっても小学校の同級生は10人、中学校でも24人、全校生徒が(小・中とも)80~90人の山村の小さな学校ではありましたが(分校ではありませんよ)。

  その頃のわが故郷では、山林業が活況を帯びていた。山の手入れは行き届いており、里山は山菜やあけび、木イチゴなどの宝庫だった。そのころ山主や山林業者のマネーは吉野ダラーといわれ、株式相場まで動かしたと聞いている。

  私が小学生のころには、村に若者たちが大勢いて、何年かに1回、青年団の演芸会が行われていた。小学校の講堂で行われる若者たちの演劇&歌謡ショーは、本格的なものだった。娯楽の少なかったあのころには、村人の大いなる楽しみな催しだった。今から考えると楽器から衣装までよくあれだけ揃えられたものである。

  歌謡ショーで青年団の兄(あに)さんたちが歌っていた歌は、記憶に違いがなければ「かえり船」(1946田端義夫)や、「初めて来た港」(1954藤島桓夫)であり、「憧れのハワイ航路」(岡晴夫1948)などだったように思う。私が物心ついて聞いた大人の歌はこれら歌謡曲だった、みな海や船乗りの歌で、3人とも芸名の最後に夫がつくのはなんでやろ。

 
 「歌は世につれ世は歌に連れ」: 歌は、その時代の、ありさまや傾向の影響を受けた歌が多くなり、 又、その時代の、ありさまや傾向も、歌の影響を受けやすいということ。











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エンターテイメント109 私の読書歴 (33)   12.11.25  
香港領事(香港マカオ暴動、サイゴン・テト攻勢) 佐々淳行 文芸春秋
  書棚にある古い本を読むことが多くなった。2002年発行のこの文庫本は、あの危機管理で有名な佐々淳行氏が昭和40年(1965年)ごろからの(警察庁出向)香港領事時代のことを書いたものである。最近は年月日を西暦で表示することが多くなっていますが、私の世代ではやはり和暦のほうがピンとくる。1965年と云うより昭和40年のほうが、すぐその頃のことが浮かんでくる。

  「いまなぜこの本のことを書きたくなったか」といえば、2点ある。一つ目、世界中の目が「ヴェトナム戦争」と「文化大革命」にくぎ付けになっていたあの頃、香港周辺でこれほど大変なことが起こっていたのに、知らなかったこと。二つめはいま、政治家や官僚の質が劣化しているからか、昭和40年代にはまだ国のため身をささげる覚悟を持った立派な政治家や官僚や実業家がいたことに今更ながら感動を覚えた。いま国のために命を懸けている人達は、自衛隊や消防や海上保安庁や原発など現場にしかいないように思う。

  当時の日本では東京オリンピックも終わり、高度成長のスタートを切ってしばらく経ったころであり、わが国では安保反対の学生デモなどはあっても、一般市民に身の危険を感じるようなことなどなく、平和な日本ではあった。

  当時海外出張と言えば大変で、大げさな水盃の壮行会が催されたという。
佐々さんも一家眷属あげて羽田見送り、役所の上司先輩、同僚部下、友人知人に見送られての出発だったという。見送りの中には、当時の警視総監原文兵衛氏、その後総監になる警視庁公安部長の秦野さんや土田部長、元横綱吉葉山夫人や料亭の女将、銀座のバーのママ、仲間など百数十人に見送られての鹿島立ちだったと書いている。

  新米領事の最初の大仕事はストーンカッター島の日本海軍将兵の遺骨収集。イギリス領だった香港の英軍には日本兵を恨んでいる古参兵もおり、協力を得るのは大変だったようだ。遺骨発掘現場では「オフィサーの貴官が泥まみれになることはない、士官食堂で冷たいビールをいかがですか」といわれても、自ら汗まみれになって悪戦苦闘する佐々さんを見て、数名の英国兵士たちも自発的に協力し、作業は大きく進捗したという。

  昭和40年、その頃の香港は楽園ならぬ危険の見本市だったようだ。麻薬密輸の情報を収集するため、九龍城に潜入したこと。香港暴動での3000人の邦人救出作戦。集中豪雨による香港島大水害。マカオの惨劇(非武装のデモに対する発砲から端を発した暴動は、ふだんのどかなマカオの町は阿鼻叫喚の修羅の巷と化した)。そしてテト休戦のサイゴンでの死と隣り合わせの恐怖。筆者はそれらの状況の中で着実に任務の成果を積み重ねていた。

  香港暴動で中国から贈られてくる水がストップしたため「断水地獄」での極限状態となった。こんなとき邦人救出の輸送手段交渉のため一時帰国。せっかく安全な日本に帰ったのに、任務が終わると妊娠7か月の夫人も危険な香港へ帰る決断をする。岳父も幼児二人と妊娠中の娘も大変だろうからと、高校1年の弟をエスコートに同伴させると言ってくれた。(胸が熱くなる)お父上も偉い。

  領事が夫人を日本において単身赴任となったら、香港在住の人たちが「やっぱり香港は危ないんだ、人民解放軍の軍事介入があるから妻子を日本に残してきた」と噂になり、パニックにならないとも限らない。

  緊急脱出の輸送手段で、「政治決定さえ下れば海上自衛隊が助けに行く」と天野統幕議長が明言。「佐藤栄作総理は偉い人だ、オレが責任を取るからやれ」と云うたよ。「私のところへは来るな」とは高辻法制局長官、「救出に海自の艦(ふね)を使えるか」と事前に協議があれば、憲法上難しいと言わざるを得ない。もし政府が決断してやってしまえば、やったことは正しいと法的に解釈するというのが私の仕事だよ。

  長くなってしまったが、最後に桜田武の決断。「新界紡に対する出資は引き揚げない、共同経営者の中国人は新界紡績を手放して豪州に逃げるといっているから日清紡が買い取り、現地法人の新界紡社長に経営を任せましょう」と、大きなリスクを伴う決断をこともなげに言ったという。当時の財界にはこんな骨太の大人物もいた。











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エンターテイメント108 私の読書歴 (32)   12.10.28  
心の扉が開くとき 高本恭子著(家の光協会)
  泣けて泣けて困るのでけっして人前では読まないでください」「音楽療法士として活躍する著者がお届けする幸せになるための心の処方箋」と 本の帯にある。

 
 著者は、私のふるさと四郷村(その後3村合併して東吉野村となった)、しかも同じ大字三尾で、私の家から歩いて5分のところにあったよろずやさん?(なんでも売ってたように思う)の娘、その後音楽療法について2冊(「やさしい音色の処方箋」・「音楽からの贈り物」ともに 家の光協会)の著書も出している。

  同じ小・中学校出身ながら7歳下と年も離れているため、つい最近まで面識がなかった。
子供のころ、荒物屋さんの彼女のお店へ、家の使いで何かを買いによく行ったし、彼女のお母さんとはよく会話を交わした記憶がある。その頃会っているはずであるが、(私の)妹と同級生の姉さんがいて、その下に小っちゃい子がいたような気がする。彼女の叔母さんは小2の時の担任「高木先生」だった。

  いまは堺に住む高校の同級生である友人N君から、いまの彼女の存在を知った。昨年の丹生川上神社秋祭
(’11年10月 おもいつくままに №113 ふるさとの祭りのとき、100年前の校舎が変身したふるさと村センター宿泊施設(すぐ横には やはた温泉)の郷土料理を味わえる食堂「いちえ」でその友人から紹介を受けた。

  1951年生まれの主婦・母親・おばあちゃん、そしてキャンペーンガール・音楽療法士など、たくさんの顔を持つ、明るく頑張り屋の女性である。
  30歳の若さで夫を交通事故で亡くし、女手一つで二人の息子と娘を育てあげ、7年間も年老いた舅の介護をし、その間3度の癌を手術する。このすさまじい半生を、ともすれば重苦しいはずの内容が、読みやすい文章で軽快なタッチで描いているため、あっという間に読めてしまう。

  彼女は、「音楽療法」というあまり普段は縁のないジャンルで、音楽療法士の草分け的存在として、病院で、講演で活躍されている。私もある会合で彼女の講演を聞いたことがあるが、語り口も素晴らしく感動を覚えるとともに、音楽療法について大変勉強になった。音楽教室講師として、知的障害児との出会いがこの世界へ入るきっかけとなったという。

  第1章「閉ざされた心の扉を開ける三つのエピソード」で、音楽の持つ不思議な力に驚くとともに共感と心当たりを感じた。私自身子供時代から音楽と言えば学校で習う童謡、盆踊りの音頭取りの歌、歌謡曲へと続き、ポップスや洋楽と言えるものからは縁遠かった。
  「音楽には強い関心を示す(高熱のための脳損傷で)知的障害となってしまった私の娘、好きな曲はピンクレディ・松田聖子の歌う歌。

  60歳を過ぎてモーツアルトに入門(06年2月 おもいつくままに№50 モーツアルト入門した私は、歌謡曲・韓流・ポップス・クラシックまでスマホに何百曲もいれ、毎日聞いて出勤する。気持ちが落ち着くのはやはりモーツアルト。
  そしてストレスがたまってくるとカラオケを歌いまくる、歌うのは石原裕次郎・舟木一夫・森進一など。特に森進一の歌は、彼になりきって熱唱するとすっきりする(08年4月 おもいつくままに№74 おふくろさん

 
 この本の最終章に、「応募資格が18歳以上、(とはいえピチピチギャルを想定(?)したはず)の奥吉野10村のキャンペーンガール「湯の香美人」の募集に、45歳の彼女が大真面目で挑み、見事3人の中に選ばれる」という章があります。
 
  このことこそ彼女の真骨頂、チャレンジ精神を良く現わしています。これだけ多くの難関を突破してこられたのは、もちろん聡明さもさることながら前向きで明るく、いつも「人の役に立ちたい」という気持ちがそうさせているのだろう。故郷を同じくする彼女の活躍はいまや私の自慢です。

  東吉野の秋祭りでは今年も彼女の名司会で大変盛り上がったと、今年も重い太鼓台を担ぎに行った68歳のN君から聞きました。

      













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エンターテイメント107   昭和(後期)の映画史 (14) ’12.09 ・・ 
日活映画100年
  映画の日活が100周年を迎えた。私の中で日活と言えば裕次郎ですが、デビューが1956年、日活の歴史の中では真ん中あたり、あれから半世紀たった。 。

  1912年(明治45年)3月、国産活動写真4社が合併して「日本活動フィルム株式會社」として創立。新劇と提携して当時トップスターの岡田嘉子を時代劇女優に迎え、ほかに数人の女優を加え、溝口健二ら新進監督が活躍し始める。このころの映画、活動弁士が画面に語りを添える無声映画。日本で初めてトーキー作品が現れたのは1931年(昭和6年)、五所平之助監督、田中絹代主演の「マダムと女房」、生まれる前のこととて知るはずもない。

  1926年(大正15年)、「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれた尾上松之助が死去後、(サイレントからトーキーに移行した頃)、独立プロを追われた阪東妻三郎・片岡千恵蔵・嵐寛寿郎・入江たか子らが参入。この時期業績が悪化し、東宝・松竹両社が株主となり、役員を迎えるなどした。1942年(昭和17年)には映画製作から一旦撤退した

  日活は戦後1954年に映画製作を再開、東映・東宝・松竹・大映・新東宝などからスタッフ・俳優を引き抜いた。 私が日活を見始めたころ、(井上梅二監督の妻となった)月丘夢二・森繁久弥・三国連太郎・水島道太郎・三橋達也・北原三枝・南田洋子・芦川いずみなどがいたのは覚えている。

  1956年石原裕次郎が衝撃的に映画界に現れ、低迷していた日活の救世主になったころから、私の青春ともダブってくる。中学生のころ、ラジオから流れる裕次郎の歌「錆びたナイフ」を夢中でメモし、覚えたことを思い出す。

  そのころから日活映画に現れた俳優を思いつくままに挙げてみる。
石原裕次郎・小林旭・赤木圭一郎・和田浩治・二谷英明、宍戸錠(以上ダイヤモンドライン)、他に主演級の男優は、(吉永小百合の相手役として人気を博した)浜田光夫、少し遅れて高橋秀樹・渡哲也が入社してくる。三橋達也・長門裕之(弟の津川雅彦は狂った果実にでたあと松竹へ移った)・葉山良二・岡田真澄、青山恭二・ターボーこと川地民夫、サワタボ澤本忠雄・山内賢・小高雄二・(葉山良治と別れた芦川いずみと結婚した)藤竜也などなど。

  女優陣の大物スターは(裕次郎と結婚するまでの)北原三枝・南田洋子。以降、浅丘ルリ子、芦川いずみ・笹森礼子・吉永小百合・松原千恵子・和泉雅子(パールライン)。
  その他、(後に深作欣司監督と結婚した)中原早苗・白木マリ・筑波久子・香月美奈子・稲垣美穂子・清水まゆみ・浜川智子・歌手の田代みどりもいた。十朱幸代・山本陽子も日活でよく見た記憶があるが、専属ではなかったように思う。

  日活映画の重鎮としていつも配役字幕のラストに出てくるのは 宇野重吉・滝沢修.・清水将夫(以上新劇)、女優で轟由起子(もと宝塚)・渡辺美佐子。裕ちゃんの映画に出てくる落語家桂小金治も得難い味があった。
  一方、悪役大物はのちに東映やくざ映画で活躍する金子信雄・小池朝雄、二本柳寛・内田良平・郷鍈治などは知っている人も多いと思うが、深江章喜・草薙幸二郎・平田大三郎・木浦佑三・近藤宏・野呂圭介・杉山俊夫などの名前は、よほどマニアックな日活ファンでないと覚えていないだろう。

  日活監督、古くは:今村昌平・滝沢英輔・(森繁主演警察日記の)久松静児、裕次郎映画の:井上梅次・舛田利雄・(乳母車の)田坂具隆・(若い人の)西河克己、日活アクション:野口博志・古川卓己・山崎徳次郎・牛原陽一・小杉勇・松尾昭典・斎藤武市・中平康・野村孝、鬼才・異才:市川昆・川島雄三・鈴木清順・蔵原惟繕、(吉永キューポラの)浦山桐郎・、西村昭五郎・(黒部の太陽の)熊井啓。これら映画字幕の最後に出てくる監督の名を懐かしく思い出す。

  高校時代学校のあった大和高田市に映画館が8つもあり、今の近鉄大和高田駅近くの商店街に「高田キネマ」という日活専門の映画館があった。そこの「3本立て50円」をよく見に行ったことはエンターテイメント
№11「昭和(後期)の映画史 (3) 04.07・・ 日活アクションと石原裕次郎」に書いた。

 
あれから50年、みんな年取った、高校生だった私も(前期)高齢者の仲間入りした。裕ちゃんは52歳の若さで逝ってしまったし、赤木は21歳でゴーカート事故で死んだ、和田もいつの間にか亡くなっている。いまも美しい吉永小百合は特別な存在。何年か前、和泉雅子をテレビで見て「あの可愛かった娘が」とびっくり、浅丘ルリ子も当時あれほど愛らしく美しかったのに、化粧がきつく見たくない顔になってしまっている。「無理せず自然に年を取っていけばいいのに」とは、余計なお世話か。











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エンターテイメント06 映  画 (12)     12.08.25 
プロメテウス 
  20世紀フォックス映画  プロメテウス    12.08.13 TOHOシネマズ橿原(イオンモール 橿原アルル)先行上映

 【スタッフ】  脚本: ディモン・リンデロフ  監督: リドリー・スコット
 【キャスト】 ノオミ・ラパス  シャーリーズ・セロン マイケル・ファスベンダー ガイ・ピアース イドリス・エルバ


  2012年8月24日(金)公開  決して触れては ならない謎。それは想像を絶する<人類の起源>の真実だった!巨匠リドリー・スコット が贈る3Dエピック・ミステリー超大作.

  このような 「映画『プロメテウス』オフィシャルサイト」の惹起文句につられ、盆の13日ヨメはんとイオンモール アルルへ出かけ、レンタル料400円の3D眼鏡をかけ、始まるのを待った。

  地球上の古代文明の遺跡から共通のサインを発見した女性科学者が、それを人類創造のルーツにつながる知的生命体の「宇宙からの招待状」と考え、巨大企業が出資した宇宙船「プロメディウス号」に乗りこむ。はるかかなたの惑星を訪問した科学者チームと一人のアンドロイド、彼らがその星で見たものは?

  その惑星へ着くまでは「人類を創り給うたのはやはり神なのか」高尚なテーマで、これは一見に値する映画か?とおもいきや。

  荒涼たる砂漠の大地にそびえたつ遺跡のような建造物、その奥深くに地球とおなじくらい清浄な空気のある洞窟があった。そこで人類と思しきミイラとともに変な生命体に遭遇する、水たまりの中でウナギともコブラともいえないような変な生き物がうごめいた。

  ここからこの高尚なテーマであるはずの物語が一転「エイリアン映画」となってしまう。帰りの車中には「エイリアンと分かっていれば観にいかなかったのに」という二人がいた。まあ、これはこれで最後まで迫力のある画面を楽しむことができましたが・・・・あとで調べたらこの作品、「エイリアン」の監督だった。









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エンターテイメント105   Trip&Tour (8-3)12.07.29 
おきがる台湾縦断4日間 Ⅲ(4/24~27) 
3日目
   台湾旅行から3か月経った。もうずいぶん前のことのように思えるが、記憶をたどりながら原稿を書いています。

  3日目もホテルのバイキングで朝食、7:30にはバスが迎えに来た。午前中、台中日月潭見学。南投県にある台湾最大の湖、日月潭(リーユエタン)は台湾の中で最も美しい湖と言われている。 昨今では中国大陸からの観光客にとって台湾観光で行きたい場所ベスト3に入る人気スポットなのだとか。

  ネットで探したこの湖の紹介文には
「朝夕には霧が立ちこめることもあり、日の出の美しさは格別。ぜひ1泊して日月潭の魅力をたっぷり味わいたいものです」とありますが、この日も湖面には霧が立ち込めていました。到着までのバスの外はあいにくの雨でしたが、日頃の行いの良さか、降りた途端雨があがり、霧の日月潭を望むことができました。

  日本時代には発電所が建設され、濁水溪の上流から日月潭に水が引き込まれた。そのため日月潭の水位が高くなり、今日のような大きな湖となったという。また、その工事のために周辺の道路が整備され、日月潭への交通は一気に便利になったため、観光地としての日月潭が出来上がることとなったらしい。

  その後最後の観光地台北へ。市内茶芸館にてお茶の入れ方講座のあと昼食は四川料理。
 
台北市(タイペイシ 臺北市、(台北市)、英語:Taipei)は、中華民国の首都(直轄市)。
  人口263万人のアジア有数の大都市であり、その経済規模はベトナム1国を上回る巨大経済都市である。陳水扁や李登輝元総統はかつては台北市長であり、今の総統 馬英九氏も、前台北市長だった。台北市の国政に対する影響力が大きいのもうなづける。台北市はまた、一時世界最大の高層ビルだった「台北101」や、中華文明の精華を結集した世界的に有名な故宮博物院、巨大なモニュメントである中正祈念堂など観光資源にも恵まれている。

  故宮博物院は前回カミさんと行ったときは時間の関係で早足の見学だった。今回われわれ一行でも他に2度目以上の人もいたが、みなさん楽しみにしているようでした。院内は前回同様、人・人・人であったが、トラベルイヤホンで約2時間、まあそこそこ見学できたように思います。あと、衛兵交代の儀式を観に忠烈祠、市内の民芸店、免税店などに寄って、かの有名な「鼎大豊」で小龍包を堪能しました。

4日目、
  5:40、ホテル出発空港へ。関空着陸後、解散の前に前回同様がんこ寿司で最後の反省会。
このたびの旅行で最も反省すべきことは、われわれ一行が新幹線の中、「他のお客さんの迷惑になります、静かにしてください」と、かのやかまし過ぎる中国人(とはいっても台湾人ですが)に注意されたことでした。









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エンターテイメント104   Trip&Tour (8-2)12.06.23 
おきがる台湾縦断4日間 Ⅱ(4/24~27)
2日目
  朝食はホテルでバイキング、もちろん酒はない。持ち込みのビールはちょっと飲める雰囲気ではなかったので、前回の三水会韓国旅行以来久しぶりのアルコール抜きの食事となった。ホテルからほど近い桃園駅から台湾新幹線で一路高雄へ。列車へ乗り込む前に駅のコンビニでしっかりビールを仕入れ、乗り場へと向かった。ホームでは新幹線列車の到着の写真を撮ろうとカメラを構えるHさん、聞けば孫に頼まれて台湾新幹線の列車を撮るのだという。

  高雄市内の観光とショッピングに向かう、まずは寿山公園。高雄駅から約3キロ、高雄の名前の由来にもなったサンゴ性の小高い山。山の頂上付近の忠烈祠(台湾には多い)からは市内と港が一望できた。
  そして高雄最大の観光スポット蓮池潭の龍虎塔、09年2月、ヨメはんと行った時にも、龍の入り口から入りトラの出口から出た。美しい橋のかかった高雄孔子廟が向こうに見えていたが、今回は遠くから眺めるだけとなった。

  そのあと、総合民芸店にはいり土産物を物色。定番のチョコレートなどの買い物の後、バスの中でビデオを見せられたり、ガイドの経験談の宣伝に乗せられ、「北投石」なるもののブレスレットを買うこととなった。「北投石」とは、世界で日本の(秋田にある)玉川温泉とここ台湾にしかないパワーストーンで、多くのラジウムを発し、難病にも効くといわれている。買うときガイガーカウンターで測って見せたが、確かにカウンターは大きく振れた。

  ここ高雄は漁港としても有名であり、昼食は海鮮中華。入ったレストランの表には大きなイセエビの看板があがっていた、みなさんイセエビやアワビのでっかいのを期待したようでしたが、出てくる料理のどこにもその姿も味もなかった。

  昼食の後、バスは台南に向かう、人口70数万人を擁し、台湾第四の都市。この町紹介のHPでは「文化財や史跡が街のあちこちに見かけられる古都です」とあったし、この時のスケジュール表には台南の一番古い史蹟は「赤蕨楼」となっていたが、あまり印象に残っていない。

  そのあと台中へとバスも忙しい。台中は台湾中部の中心都市で台湾第三の都市、人口はおよそ260万人、18世紀初めに大量の漢民族が移住し、都市を形成したと言われている。1884年には台湾省府が台中に置かれたようであるが、間もなく台北に移された経緯があるという。そこにあった宝覚寺、この寺を有名にしている「弥勒大仏像」、弥勒仏とは七福神の布袋さんのこと、この大仏は写真でわかるように黄金色で柔和な笑顔をたたえている。高さは約30mもあり、で台湾では2番目の大きさだという。

 観光後台湾料理で乾杯、この夜台中泊、ホテルでも乾杯。










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エンターテイメント103   Trip&Tour (8-1)12.05.26 
おきがる台湾縦断4日間 Ⅰ(4/24~27)
  昨年夏(07/05~08)韓国「びっくり仰天4日間のソウル」を旅行したその時のメンバー6人に4名増えて計10人、今回は台湾へ行くことになった。台湾は3年前、結婚40周年とカミさんの還暦祝いとを兼ねて「台湾で新幹線に乗る」の旅(2009. 2/10~13) をして以来2度目。

  前回は台北と高雄のみ、今回はそれに台南・台中が加わって同じ3泊4日、かなりの強行軍を予想しての出発となった。

1日目
  離陸は13:10、関空集合時間は11:10、便利なもので我が家最寄の駅から約1時間に1本、リムジンバスが出ている。乗ってしまえば約1時間で空港出発ロビーのある階まで連れて行ってくれる。集合時間の5分前に着くバスもあったが、一応幹事補佐のような役割を与えられている立場上1本前に乗った。

  空港1番乗りとなったが、10分もしないうちYさんが現れた。約3時間の待ち時間はちょっと長いかなと思われたが、つぎつぎと集まる人たちであっという間に出発時間となった。

  2時間半のフライトでそこはもう台北桃園空港、すぐバスの人となり台北の北方にある九フンへと向かった。

  海外ツアーは東南アジア中心に今まで10回以上いっているが今回最も多い38人、バスはほぼ満席。約1時間で宮崎アニメ「千と千尋の・・・」舞台のモデルとなった九フンに到着した。土産物屋や飲食屋さんが両側に所狭しと並び、人が横に4~5人も並ぶと一杯になるような狭い坂の上り道をかなり歩いた。両側の食い物の臭いは台湾独特でわれわれ日本人にはちょっとつらい。

  その先に見えてきたのは海の見える急な下りの坂道、そこにあの幻想的な建物はあった。その建物の中にある「お茶の店」に入った。
お茶代は一人300元(約850円)日本の喫茶店に比べると割高に思えたが、お茶は上等のウーロン茶、何杯も入れてくれるし、お茶菓子も何種類か出て、歩き疲れたところでほっとするティータイムとなった。

  その店の外庭で集合写真を撮るためにシャッターを押してくれる人を探していると、シャキツとした老人が親切にシャッターを押してくれた。少し話してみるともちろん日本語がわかるし、この建物のオーナーだったようだ。
    
  この建物向かいのレストランで郷土料理の夕食、日が暮れてくると「海辺の夜景」や、向かいの「千と千尋」の建物がなんとも幻想的で綺麗だった。その後、桃園にあるホテルに直行。軽くシャワーを浴びた後、この旅行の楽しみの一つ「寝る前の反省会」、途中のコンビニで買った「台湾ビールなど」と関空で仕入れたサントリー響?で乾杯。











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エンターテイメント102   12.04.17歌は世につれ - 昭和の歌謡史(1)   舟木一夫 芸能生活50周年記念コンサート 
  去る4月17日、芸能生活50周年記念と銘打って舟木一夫のコンサートが我が町の橿原市文化会館で行われた。1944.12..12生まれ、私と同い年、高校3年生から社会人になった年「高校3年生」が大ヒットした。歌謡ショーなど見に行くのは銀行の組合50周年行事として大阪城ホールで開催された「森山良子」以来。その前と言えば高校生の時、大阪大劇であった「西田佐知子ショー」「五月みどりショー」と今回で4度目。

  カミさんは60を三つも越えようとしているのに、歌謡曲・演歌よりポップス、それも最近はやりのKポップス、東方神起のおっかけをしている。京セラドーム・大阪城ホールならまだしも、東京ドームや埼玉アリーナ、福井県まで追いかけている。カラオケでも最近演歌や歌謡曲は見向きもしない。

  「過去の人」の歌謡ショー、入場料7000円と言えば「行かない」と言うにきまっているので、勝手に2枚買ってきたら「仕方ないから」といってついてきた。たしかに2時間足らずの好きでもない歌手の歌を聴くのに2人で14000円は高いと言えば高い。

  しかし私にとっては「例え2時間でもあの青春時代の気分が味わえたら」ということで躊躇することは無かった。チケットがローソンで買えることは仕事で知り合ったお客さんに教えてもらった。

  高校3年生がヒットした年、昭和38年と言えば、以下のような事件があった。

1月1日: 日本国産連続テレビアニメ第1号『鉄腕アトム』放映開始。
2月10日:小倉・門司・戸畑・若松・八幡の5市が合併して北九州市が誕生。
3月31日:吉展ちゃん誘拐殺人事件が発生。
4月27日:サントリーが「サントリービール」を発売。
7月16日:名神高速道路の栗東 – 尼崎が開通(日本初の高速道路)。
9月5日: 営団銀座線京橋駅で時限爆弾が爆発して10人が負傷(草加次郎事件の起こり)。
9月12日:最高裁で松川事件の被告全員の無罪が確定
11月22日:アメリカのケネディ大統領がダラスで暗殺される(ケネディ大統領暗殺事件)。
12月8日:力道山刺される。12月15日死去。

  
この年、大鵬が6場所中3度優勝、日本シリーズで巨人が西鉄を下し、2年ぶりに日本一奪還。
子供の好きなもの、「巨人・大鵬・卵焼き」と言われたのはこのころか。

  そしてなによりも私が高校3年生から社会人1年生になった年であり、今年は私にとっても会社員生活50周年ともなる。









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エンターテイメント101   韓流ドラマ (28)  12.03.24
張禧嬪(チャン・ヒビン)  全100話 
     
    
キャスト  
  チャン・オクチョン(張禧嬪=チャン・ヒビン)   キム・ヘス
  楽宗(スンジョン)   チョン・グァンリョル
  仁顕(イニョン)王后   パク・ソニョン
  キム淑儀(スギ)   チョ・ヨジョン
  キム・チュンテク 役   ソン・イルグク


    韓国(朝鮮)には「三大悪女」という実在の人物がいる、彼女たちの名前はチョン・ナンジョン、チャン・ノクス、チャン・ヒビン。ドラマや映画で描かれることも多く、揃って朝鮮王朝に生きた女性たちだ。3人に共通するのは、①身分が低い ②宮廷入りする ③とびきりの美人 の3つだそうである。

  このコーナー久しぶりの韓流ドラマの登場です、しかも100話。この時代劇は韓流お決まりの隣国との戦闘シーンやアクションシーンなど殆んどない。宮中の王妃や側室を中心とした官僚たちの党争
(=朝鮮中期・後期の朋党間の対立をいう言葉で、地方別の利害関係、学問の系統による見解の違い、年令・職位の高低による時局観の差などでお互いに立場を共にする人物どうしが集団を形成して、それに反対する集団と対立・反目)を、延々と100話続くのである。途中うんざりしながらも最後まで観てしまった私もようやる。

  このドラマ、時代は朝鮮第19代王 楽宗( スンジョン1661-1720)のころ。
愛欲と権力欲のかたまり 張禧嬪(チャン・ヒビン)、国母にふさわしい婦性を持った仁顕王后(イニョンワンフ)。そして人間的な情理と国王としての役目の間で悩む 王 楽宗(スンジョン)の物語である。

  チャン・ヒビン(張禧嬪)(1662-1701)、「禧嬪(ヒビン)」は身分の称号である、名前は「張禧嬪(チャン・ヒビン)」ではなく名字は「張氏」で名はオクチョン。家門の没落で宮女として王宮へ、王 楽宗(スンジョン)の寵愛を受ける。ずば抜けた美貌と抜け目のなさで王の愛を独り占めして、初めて王の子を (後の景宗)を生んだことで禧嬪(ヒビン)の位を得、絶え間ない策略で心の綺麗な仁顕(イニョン)王后を追い落とし一時は王妃の地位にまで昇る。

  王 楽宗に対する独占欲と昇進への執着の度が過ぎ、息子である王世子(太子)にまで生みの母である自分をあがめることを強要。このような執拗で非情な性格を知られることで王の信頼を失い、5年で中宮殿(王妃の居所)を再び仁顕王后に空け渡し、ヒビンに降格される。

  仁顕王后(イニョンワンフ) 1681年(楽宗7)、15歳の年で楽宗の王妃となる。女としての幸福よりは国母としての役目まっとうしようとし、大王大妃(王の祖母)・大妃(王の母)に誠心誠意仕え、真っ直ぐな気質と温厚さで、王室はもちろん全臣民に愛される。   

  主演のチャン・ヒビンを演ずるキム・ヘスはこのドラマで初めて見たが、主人公に相応しい美しさと妖艶さを持っている。度が過ぎた嫉妬、手段を選ばぬ非情さ、そして王の臣下に対する高慢な態度。最後は王命にさえ刃向かうきつい女を見事に演じている。











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エンターテイメント100   私の読書歴 (31)   12.02.26
宮本輝と「流転の海」(新潮文庫)
  我が家にある小説は宮本 輝の本が司馬遼太郎に次いで多い、10冊足らずのハードカバーとあとは文庫本。赤川次郎ほどではないにしてもかなりの多作、どの作品もそれなりにテーマに重みがあり何を読んでも面白く、映画化された小説も少なくない。それだけにこの人の代表作となると映画になった「泥の河」や「蛍川」。「優駿」などを思い出すが、「これっ」というのは思いつきにくい。

  この人のライフワークと言えば「流転の海」であろう。文庫本で5部まで、6部は最近単行本として出たようだ。第1部「流転の海」は今から28年前の昭和59年に書かれている。私の読んだのは文庫本になった平成2年、それからでも22年経っている。2部が「地の星」として平成8年(文庫本)に出ている、その後この本のことは忘れていた。今年に入り、本屋で3・4・5部が文庫本で出ているのを偶然見つけ買った。これだけ間があくと前のことが思い出しにくい。

  この大河小説は、大阪の焼跡闇市から実業家として再起をはかる松坂熊吾。豪胆にして理不尽な男が、五十歳にして初めて子を授かったところから始まる。

  宮本輝
 1947(昭和22)年、兵庫県神戸市生れ。追手門学院大学文学部卒業。広告代理店勤務等を経て、1977年「泥の河」で太宰治賞を、翌年「螢川」で芥川賞を受賞。その後、結核のため二年ほどの療養生活を送るが、回復後、旺盛な執筆活動をすすめる。『道頓堀川』『錦繍』『青が散る』『流転の海』『優駿』(吉川英治文学賞)『約束の冬』『にぎやかな天地』『骸骨ビルの庭』等著書多数。

  1部「流転の海」
  25才の時に最初の結婚、その後2人の妻を持つ。満州事変から日中戦争に拡大、40才の時徴兵され、重傷を負い、郷里(宇和島)に帰る。料亭に勤めていた房江の清楚な美貌に魅かれ結婚。50才で初めての子、伸仁を授かる。戦争で、自動車部品の商売は破たん。

  2部 「地の星 」流転の海 第二部
  妻子の健康のため、郷里に引きこもった松坂熊吾の雌伏3年。戦後史を背景に「父と子」「母と子」を軸に個性的な人間たちの有為転変を描いている。

  3部 「血脈の火」 流転の海 第三部
  昭和27年、大阪へ戻った熊吾一家は雀荘や中華料理店をはじめ次々と商売を興していく。熊吾は「一人息子が二十歳になるまでは」と事業に奔走する。

  4部「天の夜曲」 流転の海 第四部
  昭和31年春、妻子を富山に置き、松坂熊吾は単身、大阪に向かう。中古車事業発足のために奔走し、踊り子西条あけみに再会した。だが彼女は顔に大火傷を負い、事業は裏切りにより最悪の事態を迎える。還暦を前にして金策の泥沼に沈んだ熊吾は、妻を大阪に戻し、息子伸仁を北陸の地に一人残す覚悟を決めた。商人宿で過す別れの夜、傷ついた一家を、静かな音が包み込む。

  5部「花の回廊 」流転の海 第五部
  昭和32年、松坂熊」吾は大阪で再起を賭け、妻房江とともに電気もつかない空きビルに暮らしていた。10歳になった伸仁は尼崎の集合住宅に住む叔母に預けられた。居住者たちは皆貧しく、朝鮮半島からやってきた人々が世帯の半ばを占め、伸仁は否応なく凄絶な人間模様に巻き込まれていく。また、熊吾は大規模な駐車場運営に乗り出す。

  神戸で生まれ、大阪茨木の大学を卒業しているだけに大阪の描写に詳しく、大阪弁も自然である。終戦直後の大阪福島区界隈、安治川周辺の描写や朝鮮人の多く住む尼崎地区の描写が生々しい。安治川の場面では「泥の河」の舟売春のシーンがよみがえった。また作者も富山に住んだことがあることから、この本に出てくる田舎の不思議な音が聞こえるシーンからは「蛍川」のあの感動的な蛍乱舞のシーンを思い出した。

  第6部はまだ読んでないが、本の宣伝文句に「敗戦の焼け野原から14年。日本と日本人はここまで復興した――」とある。早く読んでみたい気もするが前5部とも文庫本なので出るまで待ってみようか、それにしてもいつまで続く?。











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エンターテイメント99   映  画 (11)    11.01.28 
聯合艦隊司令長官 山本五十六
 東映映画  聯合艦隊司令長官 山本五十六    12.01.05 TOHOシネマズ橿原(イオンモール 橿原アルル)

   【スタッフ】 監修: 半藤一利、 脚本: 長谷川康夫・飯田健三郎、監督: 成島出
   【キャスト】 役所広司、玉木宏、柄本明、阿部寛、瀬戸朝香、柳葉敏郎   
   吉田栄作、椎名桔平、坂東三津五郎、原田美枝子

  
 
 「してみせて、言うこと聞かせて、させてみて、褒めてやれねば人は動かじ」

    山本五十六に関して知っていたことといえば 太平洋戦争の「連合艦隊司令長官」であったこと、「海軍軍人でありながら最後まで日米開戦に反対をしていた」ということ。そして人を使う場合のこの名言。

  阿川弘之原作の「山本五十六」を読んでいる最中にこの映画を見に行った。本のなかで、山本が連合艦隊司令長官に任命される5年ほど前の昭和9年、当時少将の彼がロンドン海軍軍縮会議予備交渉に臨んだ時のことが詳細に書かれている。当時、明治維新以来6~70年で世界第3位の海軍となっており、「米英何するものぞ」という空気があったようだ。
  しかし、大正10~11年のワシントン会議で、主力艦に関する英米日5:5:3の比率が決まっていた。これがための交渉に出向くことになるのである。
 
  映画は、昭和14年夏、日独伊三国軍事同盟をめぐり、締結を強く主張する陸軍だけではなく、国民も同盟を望んでいた。そんな中、海軍次官の山本五十六(役所広司)、海軍大臣の米内光政(柄本明)、軍務局長の井上成美(柳葉敏郎)は、陸軍の圧力や世論にも信念を曲げることなく同盟に反対の立場をとり続けているところから始まる。

  大日本帝国海軍の軍人・山本五十六の実像に迫るドラマ。対米戦回避を願っていた山本が、開戦の火蓋を切らざるを得ないとは何とも皮肉だ。講和に持ち込もうとする山本の信念をしっかり描いている。

   「ニタカヤマノボレ」の暗号電文で真珠湾を奇襲した事から始まったこの戦争、米国への事前通告が伝わっていなかったことが分かったときの怒りを抑えるところが良かった。やはりこの人は長岡藩の流れをくむ武士であった。








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エンターテイメント98   私の読書歴 (30)   11.12.29
豊臣家の人々  司馬遼太郎著(中央公論新社)
  2011年のNHK大河ドラマは「江・姫たちの戦国」だった。「戦国もの」と言えば、司馬遼太郎・遠藤周作はじめ山岡宗八・池宮彰一郎などいろいろな作家の本を読んできた。

  この時代、織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、浅井長政、など戦国の武将らは、近江の地を舞台に戦い続けた。
大河ドラマは、そんな戦国の乱世の中で、数奇な人生を歩んだ姫たちの生涯を描いている。「浅井長政」と信長の妹「市」との間に生まれた浅井三姉妹、その末っ子「江」を主人公に繰り広げられた。

  このドラマでの豊臣秀吉の描きかたには少し異論を挟みたくなるところもある。それは彼の前半生の素晴らしさをあまり描いていないことである。百姓のせがれが天下人にまで上り詰めたその才能はすごいと思うほかない。足軽から関白太政大臣にまで出世を遂げた天才の、平凡な親族達は、その境遇に戸惑い苦しみ、多くの悲・喜劇を生み出していく。

  本書はそれら豊臣家の人々を9篇の短編で描いて面白い。

  第1話 殺生関白
 秀吉の姉の子である秀次は、「秀吉の甥」であるという理由だけで関白まで出世し、その境遇の変化に精神をおかしくさせてしまう。辻斬りや多淫等(ドラマでは描かれていないが)の悪行は世間に知れ渡り、秀吉の命令さえ受け付け無くなる。嫡子秀頼を得た秀吉にとって秀次は、我が子の前途を脅かす邪魔者でしかなくなっていた。

  第2話 金吾中納言
 秀吉の正妻、寧々には子どもがなく、生家杉原家の五男を養子とした。のち小早川家の名を継いだ秀秋は、長ずるにつれ愚鈍な本性を現し、人々から見放されていく。彼がした事は、豊臣家を潰す事に役に立っただけであった。

  第3話 宇喜田秀家
 秀吉の養子は多かったが、彼のみが秀吉の期待に応え、豊臣家のために戦い、そして宇喜田家は地上から消えた。

  第4話 北ノ政所
 秀吉と共に豊臣家を作り上げた彼女は、石田光成ら官僚にいいようにやられる武将達の庇護者であり、秀吉の死後、彼等の相談相手となり、徳川家康の天下とりにも手を貸すことにもなる。

  第5話 大和大納言
 篤実で温和な性格から、多くの人々から慕われた豊臣家の大黒柱、大和郡山を居城とする豊臣秀長、彼が臨終の床で、脳裏に思い浮かべたのは兄が故郷に錦を飾ったあの日の尾張中村の青い空だった。彼の死後、豊臣家の崩壊がはじまる。

  第6話 駿河御前
 旭姫にとって兄秀吉の出世は迷惑なだけだったのかもしれない。ただ兄の都合により、結婚と離婚を繰り返すしかなかった彼女、悲劇としか言いようがない。

  第7話 結城秀康
 優れた資質を持ちながら、彼はそれを生かす事が出来なかった、秀頼と秀忠の兄でありながら、その才能は不要とされ、それがあればあるほど彼の存在は浮いていく。

  第8話 八条宮
 秀吉の縁者・養子達は、安息とは無縁の日々を送らねばならなかった。しかし、一人だけ例外がいた、八条宮智仁親王である。彼だけが常に平静であり、この時代を巧く生きることができた。

  第9話 淀殿・その子
 淀君・秀頼、この本での二人の悲劇は、自分の意志という物が無く、他人に動かされ続けたということらしい。この作品は豊臣家の歴史を綴ったものである。作者の司馬遼太郎氏は彼等豊臣家の人々を歯に衣着せる事無く、個性豊かに描いており、田淵久美子テレビドラマの脚本とは意を異にすることが多いと感じた。

  秀吉とその時代を知りたい人にはお勧めの一冊である。










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エンターテイメント97   私の読書歴 (29)   11.11.26
新・堕落論―我欲と天罰 石原慎太郎著 (新潮新書)  国難の超克は、ここから始まる。日本への「遺書」――。
    石原新党が取りざたされている、ごり押しの亀井さんが動いているようだ。

  未曾有の大震災直後の3月14日、石原都知事は「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。
石原知事の「天罰」発言に対しては、被災地・宮城県の村井嘉浩知事が県内では、「塗炭の苦しみを味わっている被災者がいることを常に考え、おもんぱかった発言をして頂きたい」と不快感を示した、ことは記憶に新しい。

  この発言で国民の顰蹙をかった事を踏まえ。その後。「言葉が足りなかった。撤回し、深くおわびする」と述べ、謝罪した。

  本書の表紙カバーには
列島を揺るがせた未曾有の震災と、終わりの見えない原発事故への不安。今、この国が立ち直れるか否かは、国民一人ひとりが、人間としてまっとうな物の考え方を取り戻せるかどうかにかかっている。アメリカに追従し、あてがい扶持の平和に甘えつづけた戦後六十五年余、今こそ「平和の毒」と「仮想と虚妄」から脱する時である――深い人間洞察を湛えた痛烈なる「遺書」とある。

    慎太郎氏は見た目にはそれほど年寄りには見えないものの、私が(青春時代もっともわくわくした)好きだった昭和のスーパースター裕次郎の2歳上、昭和7年生まれなので来年には傘寿を迎える。
  著者は前々から「亡くなった親の弔いもせずにそれをひた隠し、年金をだまし取っていた家族に始まって、高価なブランド品欲しさにエンコーという名の売春までする若い女の子、先夫との間にできた子供を同棲の男といびり殺してはばからない母親、消費税を含めていかなる増税にも反対してごねる国民。ここまで堕ちた国民に対する悲嘆の言葉を述べている。

  本は第1章「平和の毒」、第2章「仮想と虚妄」となっており、1章の終りに「自死に向かっている若者たちを救い、この国そのものを救うために自らの遺書のつもりでこの本を書いた」と言っています。

  1章の「平和の毒」では藤原正彦著「日本人の誇り」とダブる戦後の歴史観と、平和ボケのため我欲による堕落について書き、2章の「仮想と虚妄」では多分に哲学的観念的な氏の考えを述べている。
敗戦後、氏自身が見た進駐軍の米兵に対する教員たちの卑屈な態度や、黒人兵たちの娼婦の館と化してしまった将校の遺族待合所を見て、(著者が)どうにも我慢がならないと思っていたころ、坂口安吾が「堕落論」を書いたと言っています。

  国益を考え、日本の国を思う真に保守的な政治家がほとんどいなくなってしまった現在、政治家たちの間ではタブーとなっている言葉をちゃんと云え、国民の愚を叱ってくれる人は他には少ない。この本の中でもアメリカあてがいぶちの憲法改正は当然のこととして、原発の必要性だけにとどまらず、核兵器保有について(論議)まで述べている。また楯の会を主宰して自衛隊員を鼓舞した三島由紀夫の予言を記し、いまこの国に「山口 二矢(おとや)」がいないことに慨嘆しているようにまで思える。

  氏の主張は今の世相では少々過激に思えるかもしれませんが、決して右翼ではないと思います、いまの政治家やマスコミがあまりにも左寄りなのです。
 
 
注 山口 二矢(やまぐち おとや)は、日本の右翼活動家。1960年10月12日に日本社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺(浅沼稲次郎暗殺事件)、その後自殺した。








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エンターテイメント96   私の読書歴 (28)   11.10.29
日本人の誇り  藤原 正彦著(文芸春秋社)
  安倍さんが自著「美しい国へ」で、国民に対し「自信と誇りの持てる日本へ」と主張し首相になった。その後「戦後レジーム」ということをたびたび口にしていた。この事はなんとなく理解していたつもりであったが、この本「日本人の誇り」を読むと詳しく分かってくる。
 
   安倍政権・麻生政権が、共にマスコミの猛バッシングと世論操作によって倒されたのは彼らが「戦後レジームからの脱却」を目指したからだと何かで読んだ。この国には何故か国民として当然持つべき「愛国心」や「国益」というものに徹底して反対する勢力があるのは確かだ。
 
   表紙カバーには
 「個より公、金より徳、競争より和、」を重んじる日本国民の精神性は、文明市場、世界に冠たる尊きものだった。しかし戦後日本は、その自信をなぜ失ったのか?幕末の開国から昭和の敗戦に至る歴史を徹底検証し、国難の時代を生きる日本人に誇りと自信を与える。現代人必読の書」とある。 

  
エンターテイメントへ藤原氏の本の感想を書くのは、「日本人の品格」から2冊目。また父の「新田次郎」(№7)、母の藤原てい(№65)の本の事も書いた。

  この本では明治以降の歴史を見直し、太平洋戦争はなぜ起きたのかを問い直している。我が国が戦争に突入していく過程や、戦後に米国がとった対日戦略を克明に描いています。「日本は最後まで戦争を回避する道を模索していた。しかしながら米国は在米資産の凍結や石油の輸出禁止といった策により、戦争に突入する以外に選択肢は無くなっていた」と書いています。

  本の中に「罪意識扶植計画」という耳慣れない言葉が出てきます。それは戦後GHQが日本の学校教育を巧みに操作して「戦時中、大量虐殺を行った」「侵略戦争だったという意識を植え付けた」ということです。結果、日本人は自信を失い、愛国心を持てなくなったということです。

  また著者は我が国が「アジアを食い物にしていた白人勢力に敢然と立ち向かう姿を見て、アジアやアフリカの国々が立ち上がった」とあります。結果、アジアで日本・タイ・ネパールの3国、アフリカではエチオピア・リベリア・南ア連邦の3国しかなかった独立国が、その11年後100カ国を超えるまでになった。当のアジアの指導者たちも当然ながら日本への感謝を表しています。と書いている。

  このように誇りこそ持つべき自分の国で、「愛国」という言葉が何か悪いことと感じるようなマインドコントロールを受けてきた。私たちの子供のころからの「日の丸」や「君が代」に対する考え方なども、教師や大人たちのその罪悪感が影響を与えたに違いありません。

  外交にしても政治家たちは日本の国益とは反対のことばかり行っている。ロシア・中国・韓国・北朝鮮に対して「殴られても蹴られてもごめんなさい」と言っている。記憶に新しい「尖閣諸島沖の衝突事件」で政府がとった「土下座外交」などはまさにそれだと思います。

  藤原さんは、欧米のそれまでの植民地政策のことを棚に上げ、一方的に「侵略戦争」と決め付けた正当性を欠く東京裁判を見直すことによって、日本人が自信を取り戻すことができると言っているのだと思います。









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エンターテイメント95   Trip&Tour (7-3)11.09.25 
びっくり仰天4日間のソウルⅢ(07/05~08)
3日目

  昨日と同じく市内レストランで朝食、本日は韓国式朝定食を摂ったあと、バスは(韓国へは4度目であるが)初めての)江華島(カンファド)へと向かった。

  ソウルから車で約1時間40分の距離にあるこの島は、ソウルの北西約50Km、漢江の西の河口にあり、仁川広域市に属する島。ソウルとは2つの大きな橋でつながっている。北朝鮮の延坪島(ヨンピョンド)攻撃は記憶に新しいが、ここからはかなり近いはず。この国には休戦中の敵国がすぐ近くにある、島国で平和ボケの日本人とは違った危機意識を持っているのはわかるような気がする。

  この島は高麗時代の太祖22年、現在の地名である江華郡になり、外敵が侵入すると朝廷が江華に遷都し、つまり江華は国に大きな変乱が起るとき「第2のソウル」としての役割を果たしてきたという。
島の目玉は支石墓、この遺跡は2000年12月のユネスコ会議で世界遺産に指定されている。似てはいるもののわが明日香の石舞台に比べればチャッチイ。 敷地内にイースター島のモアイ像もあったが何だったのでしょうか。

   昼食は「石焼きビビンバ」。

  昼食の後、この旅行5番目最後の世界遺産「朝鮮王陵(チョソンワンヌン)」「宣陵」の見学となった。1392年から518年間続いた李王朝。その歴代王の墓である。
ソウル近隣地域を中心に40基が点在しており、遺跡としての価値が高い。祭礼が現在でも行われていることや、関連する詳細な記録物などが優れている点で、2009年6月にユネスコ世界文化遺産に登録された。

  宣陵は、朝鮮第9代、成宗と継妃の貞顕王后尹氏(1462~1530)の陵である。成宗は、世祖の孫であり、徳宗(追尊)の第二子、世祖2年(1457)に景福宮で生まれ、睿宗元年(1469)、13才のとき、王位に登った。在位初期には年若く、世祖の王妃である貞熹大妃が7年間、王に代わって国を治めたとある。・・・と「案内板」に書いてあるらしい。


  夕食は「サムギョプサル(豚三段バラ焼肉)」、ソウル最後の夕食で、ツアー仲間35名相互の乾杯で盛り上がった。この日もホテルで二次会。

4日目
  ホテル出発は6:00。バスは韓国食料品店に立ち寄り、最後の土産物仕入れを行った。ここでは「ボッサムキムチ」「くるみ饅頭」「済州の蜜柑のチョコ」などを買った。ボッサムは別名「王様のキムチ」と言われるように、新鮮な白菜の中には、牡蠣やイカ、栗、松の実など海の幸山の幸が漬けられていて、こんなにおいしい漬物は他にはあまり無い。

  5時に起きて朝食も摂ってなかったので、仁川空港でカルグクスとはまた違った韓国うどんを食べ帰国の途に就いた。

  我ら6人は関空の「がんこ寿司」で4日間の「反省会の乾杯」を行い、それぞれ自宅へと向かった。
メンバーの皆さま、とりわけ幹事の労をとっていただいたY様、おかげさまで何のトラブルもなく、楽しい旅行ができ良い思い出となりました、ありがとうございました。
    写真は 上から 江華支石墓、宣陵、蓮に蜂











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エンターテイメント94   Trip&Tour (7-2)11.08.27 
びっくり仰天4日間のソウルⅡ(07/05~08)
  2日目

グランドヒルトンホテル周辺散歩 
  早起きの癖がついて久しい。最近では旅行先でホテルの周辺を早朝散歩するのが習慣となっている。1人でホテルを出ると、別部屋のKさんHさん2人と出会い、3人で周辺を歩くことになった。

  ホテル前の坂を下ると川があり、ソウル市内にしては結構綺麗な水が流れていた。両側には、健康遊具と言うのか、日本ではあまり見ない「足を鍛えたり背中を延ばしたりする器具」が揃えられており、早朝から身体を鍛えている中年男やおばあちゃんもいた。

朝食 「アワビのお粥定食」
  昨年秋に行った旅行もそうであったが、今回のツアーもホテルでゆっくり朝食をとるのではなく、早い時間にバスが迎えに来て、市内のレストランで朝食を摂ることになっている。早くも7:30にバスが来て「アワビのお粥定食」の店へと急いだ。

水原(スゥオン)の華城観光
  朝食の後、今回最初の世界遺産 水原(スウオン)へと急いだ。水原の華城観光は昨秋にも来た(86 Trip&Tour (6-3)10.12.27参照)が、今回は前回見たのとは違う城壁を見ることができたのは幸いだった。本物の万里の長城(見てはいないが)に比べれば、随分チャチなものかも知れないが、それでも城壁は周囲5.3キロあり、我が国では観ることのできない風景ではあった。

昼食は選べるチゲ(キムチチゲor味噌チゲ)

「ロッテワールド」でカジノ体験 
  バスはソウル特別市松坡区にあるテーマパーク「ロッテワールド」へ向かった。室内娯楽施設としては世界最大級。韓流ドラマの好きな人はチェ・ジウ、クォン・サンウ主演の「天国の階段」で見たことがあるはず、ロッテ百貨店、免税店を併設し観光名所として知られている。

  ここでの楽しみは「カジノ」、とはいっても滞在はほんの1時間もない。初めにルーレットなどの遊び方の説明があり、旅行費用に含まれている何百円かぐらいの金券をルーレットに賭けてみた、倍になり4倍までいったがあえなくダウン。
  そのあとスロットで1万数千ウオンが、倍の3万ウオンを超えた時点で、時間がないこともあり現金にチェンジした。ウオンで見ると随分勝ったように思えたが、1000円が2000円になったぐらい。それでも勝ちは勝ち、儲けたことに変わりがない、気分良くカジノを後にした。

世界遺産「宗廟(チョンミョ)」へも昨秋行った(86 Trip&Tour (6-3)10.12.27 参照)ので、ここでは省く。


昌徳宮(チャンドックン) 
  移動がスムースにいったこともあり時間が余り、明日予定の「昌徳宮」を見学することとなった。「昌徳宮」は1405年に景福宮(キョンボックン)の離宮として建立。14世紀後半から20世紀まで続いた朝鮮王朝を現在に伝える古宮。

  韓国の五大古宮の中で唯一世界文化遺産に選定されており、4万3千平方メートルの広さを誇る敷地内は見どころが豊富。
壬辰倭乱(イムジンウェラン:日本では秀吉の文禄・慶長の役)で全て焼失した後、1615年に再建された。約270年間正宮となっており、朝鮮王朝で王が最も長く住んだ宮殿だそう。昌徳宮の自然にあふれる庭は韓国伝統庭園の真髄とも言われている。

「南山コル韓屋村(ナムサンコルハノクマウル)」
  場所はソウルのど真ん中、バックにはソウルタワーがそびえたつ。ここでは昔のまま保存された韓国貴族の邸宅を観覧できる1998年4月、李氏朝鮮時代に詩人や墨客が多く住んでいた南山の北麓"筆洞(ピルトン)エリア"に、ソウルのあちこちに散らばっていた貴族の屋敷や一般市民の伝統的な家屋など5棟を、2400坪の敷地に移築&復元して造られた。

「明洞(ミョンドン)」「南大門(ナンデモン)」「東大門(トンデモン)」
  夕食はミョンドンにある有名な(らしい)店「明洞餃子」にてカルグクス(韓国式うどん)とチンマンドウ(韓国式蒸し餃子)を食する。うどんは韓国式の味付けながら美味くて、Kさんがお代りをした。餃子は野菜たっぷりで丸くて大きく二つもたべれば十分だった。

  明洞(ミョンドン)はソウルに来たら誰もが必ず立ち寄るといわれるほど、ソウルを代表する繁華街。デパートや免税店、ホテル、ファッションビルのほか、メインストリートにはレストランやエステ、マッサージ、ファッション系ショップなどのお店がぎっしり。ショッピング、グルメ、エステなど一ヶ所で楽しめるスポット。別名コスメ通りとも言われている。

  またここでは、安くて速いのでメガネを作る日本人旅行客が多いと聞いていた。先輩のKさんがメガネ屋に入ったので、みんなでついて行った。私もつられて老眼鏡を頼んだが、夜にはホテルに着いていた。

  おみやげの韓国海苔に詳しい I さんの提案で南大門ある店に入った。ここでお勧めの海苔を味見し、商店街を一回りしたが、その店のその海苔が一番であることが分かり、みんなで値切りながら買い物できたのも、男ばかりの旅の面白いところだった。

  南大門市場(ナンデムンシジャン)の西側にあり、市場のシンボルとなってきたのが崇礼門(スンネムン)、2003年カミさんと来た時にはあったが今は無い。ガイドさんの説明では、ソウル市内で最も古い木造建築で、韓国の国宝第一号。2008年2月10日に放火により全焼、いまは復元工事が続いているらしい。

  最後に寄ったところは24時間眠らない街といわれる東大門市場(トンデムンシジャン)。ここはファッション関連のビルが30近く立ち並ぶ一大ショッピングスポット。特に全国各地から仕入れに来る人で賑わう夜中はエネルギッシュで、いま日本にはない活気を感じた。

  夜、ホテルではこの日も一部屋に集まって二日目の乾杯。

  写真は上から グランドヒルトンホテル、水原華城、昌徳宮、韓屋村、明洞                     以下次号  













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エンターテイメント93   Trip&Tour (7-1)11.07.24 
びっくり仰天4日間のソウルⅠ(07/05~08)
 1日目

  今回の韓国旅行はOB飲み会のメンバー5+そのご友人1、男ばかり6名でグランドヒルトンに3連泊してソウル市周辺の5つの世界遺産と、ソウルタワー・南山韓屋村・明洞・南大門・東大門などを巡る旅となりました。題して「びっくり仰天4日間のソウル」、5つの世界遺産とは、水原華城・宗廟・昌徳宮・江華の支石墓群・朝鮮王陵宣陵。

  昨秋、職場の友人と「世界遺産を巡る釜山・慶州・水原・ソウル」を旅したばかり。3月初めカミさんと、5月の香港・マカオツアーを予約していたが、震災で「それどころではない」とキャンセルした。
  その後自粛ムードも薄れ、まずカミさんが、韓流ファン女3人の韓国旅行を6月に行った。偶然今回の旅行と同じ旅行社のツアーで、行程も宿泊ホテルもカミさんと全く同じ旅をすることとなった。

   初日、関空へは早い時間に全員揃った、6人寄れば長い待ち時間も、約2時間のアシアナ航空によるフライトもあっという間、気がつけばそこは 仁川空港(14:50)。今回のトラピックスのツアーは35人と多勢、デラックスバスでのソウル市内車窓観光から始まった。ガイドは年齢不詳(国家機密だそう)大ベテランのアジュンマ(おばさん)。

  バスの中で、アジュンマガイドから、これから行く「免税店の化粧品がいかに素晴らしいものであるかの宣伝」に、早速ノってしまい、モンキーなんとかのBB化粧品とカタツムリのクリーム。仁川空港で替えた2万円分のウオンが一度に消えてしまい、しょっぱなから予定外の買い物となった。バスに戻ってガイドさんに追加の両替を依頼し、空港でのそれよりやや多いウオンを手にした。

  夕食はプルコギ。食事の後、足を運んだのは、いままで3度のソウル訪問ではじめてのソウルタワー。正式にはNソウルタワー、2005年から南山タワーから今の名称となった。超有名観光地でソウルの象徴、ソウル全体を一望できる。高さが236メートル、南山の標高が243mなので、てっぺんは479mということになる(ちなみに生駒山が642m)

  さすがにここは韓国若者最大のデートスポットでもあり、大勢の老若男女でごった返していた。ここで気がついたことは欧米人の多さ、青い眼の若者たちのエネルギーに圧倒される気がした。3.11以降日本に来るはずの海外からの観光客も韓国に流れているのだろう。塔からみた100万ドルの夜景は香港のそれには及ばないかもしれないが、なかなかのものではあった。 

  グランドヒルトンホテル到着は21:00。シャワーを浴びた後、一部屋に集まり、途中コンビニで買ったビールと、I さん寄贈のオールドパーで、ソウル1夜目反省会の乾杯。男ばかりの旅はこれが楽しい。 (以下次号) 
      写真はソールタワーを背景(上)、タワー周辺で











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エンターテイメント92   私の読書歴 (27)  11.06.25  
白夜行
(びゃくやこう)  東野 圭吾著(集英社文庫)
  文庫本1冊で860頁、かなり分厚い、読みごたえを期待して買った。

  「1973年大阪の廃墟ビルで一人の質屋が殺された。容疑者は次々に浮かぶが結局。事件は迷宮入りする。被害者の息子・梶原亮司と、容疑者の娘西本雪穂—–暗い眼をした少年と、並外れて美しい少女・・・中略・・・息詰まる精緻な構成と、叙事詩的スケール。心を失った人間の悲劇を描く、傑作ミステリー長編」と表紙にはある。

  読み始めて、前に読んだこの作家の「天空の空」(原発問題)や、「さまよう刃」(少年犯罪)のような社会的テーマもなく、どこにでもある推理小説に思えた。「(このような長編で)最後まで読者(私)を引っ張っていけるのか」などと思いながら読み進むうち、いつの間にかこの作者の手のうちに「はまってしまっている」自分がいた。

  主人公の二人は、別々の人生を歩んでいくかに見えた。だが、両者の周囲にはその後も不可解な凶悪犯罪が次々と起こっていく、20年にも及ぶ二人の男女の物語。
  女は幼い時に自ら選んだ悪の道から、周囲を欺きながら華やかな世界に躍り出ようとする。男は女の周りへでてくる気配は見えず、二人同時に明るい日が当たる日は無い。彼らの行く手を照している薄暗い光が「白夜」のようでもある。そして最後には・・・・。読み応えのある860ページではありました。

  この小説「白夜行」は、12年も前、1999年8月に刊行され、昨年12月時点で200万部を超える大ヒットなったという。2006年テレビドラマ化され、また2009年に韓国で、2011年に日本でも映画化されている。

  韓流も日本のドラマも映画も見ていないが、綾瀬はるか(ドラマ)、堀北真希(映画)が雪穂をどう演じたか見てみたい気もするが、たぶん脚本で違ったニュアンスのストーリー・キャラクターになっているのやろなあ。ちなみに韓流映画の主演女優はとソン・イェジン、これも見てみたい、TSUTAYAにあったら借りて来ようっと。











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エンターテイメント91   私の読書歴 (26)  11.05.29 
街道を行く2「韓(から)のくに紀行」 司馬遼太郎著 (朝日文芸文庫) 
  昨年職場の友人と釜山・慶州・水原・ソウルの世界遺産を旅する前この本を読んで出かけたことは前にも書いた(84 Trip&Tour (6-1)4つの世界遺産を巡る釜山・慶州・水原・ソウルの旅Ⅰ(10/21~23)  10.10.30)。
 
  この本で司馬遼太郎氏は加羅・新羅・百済の3古都を訪ねている。最初に降り立ったのは釜山空港、記紀に書かれている海中道(うみなかのみち)航路洋上の街道は、博多湾から壱岐島へゆき、対馬を経、朝鮮釜山に至る道だという。朝鮮・韓国・日本とかの国名などなかったころは多くの人々が気軽に行き来していたらしい。

加羅の旅、
  昨年私たちも行った釜山の竜頭山公園には韓国の将軍李舜臣の銅像がある。秀吉朝鮮の役、朝鮮側で言う「壬辰倭乱」で活躍した武臣で、きわだって高雅清潔で民族のために挺身した韓国の英雄である。
 
  韓国の上代史は大雑把に言うと三韓(馬韓・辰韓・弁韓)時代があり、三国(高句麗・百済・新羅)時代となり、やがて新羅が統一する。新羅・百済に挟まれたちっぽけな国があり、それがいまの金海付近にあり「金官国・駕洛国・加羅国・伽耶国・任那国」などと呼ばれ、朝鮮の民間でも「釜山・金海あたりの連中は倭人であって韓人ではない」との伝承があるというのは非常に興味深い。

新羅の旅
  ここも昨年行った。慶州は新羅の古都のあったところである。新羅は高句麗・百済と並立して栄えたが第29代武烈王のとき名宰相金ユ信が唐と連合して百済の討伐を図った。百済が滅んだ時その亡命者が大量に日本に来、以後彼らの力で飛鳥文化が出来上がってきたらしい。

百済の旅
  慶州には新羅遺跡が無数に残っている。「古墳も出土品も仏国寺の石像美術もふんだんに残っているが、この百済の国都扶余には何も残っていない。ソウルも慶州にばかりエコひいきして百済には実に冷たい」と百済出身同行の先生が嘆く。日本には百済文化の影響や地名が多いのに本場には百済という国名も地名もいまは存在してないという。

  司馬氏は10代のおわりごろから韓国に行きたいと思っていたそうである。兵隊の時関東軍へ送られる貨車の小さな窓から禿山をみた記憶があるのだという。また「韓国への想いの丈が深すぎて・・・・」ともいう。「街道をゆく」全43冊のうちの2冊目に韓国を選び、28冊目に「耽羅紀行」として済州島を旅している。東大阪に居を構えていた氏は数多くの韓国人の友人がいたようだし、2回の旅にも著名な韓国人と同行している。この本を読んで、司馬氏は隣国韓国とその民族に対し深い理解と愛情を持っておられたことを強く感じた。 
  写真は昨年10月に行った慶州雁鴨池のライトアップ)











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エンターテイメント90   韓流ドラマ (27)  11.04.24 
エデンの東
  全56話 
    キャスト 
イ・ドンチョル 役 ソン・スンホン
クク・ヨンナン イ・ヨニ
イ・ドンウク ヨン・ジョンフン
ミン・ヘイン イ・ダヘ
ジヒョン ハン・ジヘ
シン・ミョンフン パク・ヘジン
クク・テファ ユ・ドングン

  
「エデンの東」、私たちの世代にはジェームズ・ディーン主演のアメリカ映画(1955年)がその主題歌とともに懐かしい。スタインベック原作の「エデンの東」は旧約聖書のカインとアベルの逸話を基に、人間の善悪をテーマにしたものである。

  今回紹介するエデンの東は、日本でも絶大な人気を誇る韓流スター ソン・スンホンが、兵役を終え5年ぶりの復帰作となった韓流現代ドラマ。製作費は現代劇としては破格の250億ウオン(約20億円)、韓国でも注目を集め、当初50話の予定が放送延長したとか。なかなか見応えのあるドラマとなっている。

  1961年、物語最初の舞台は炭鉱都市黄池(ファンジ)、鉱山経営者の婿養子だったシン・テファン(チョ・ミンギ)の陰謀で死に追いやられた貧しい炭鉱夫の息子、主人公イ・ドンチョル。また、不倫の末、シン・テファンに拉致されておなかのの子供まで殺され、捨てられた看護婦ユ・ミエ。ドラマはこの二人の韓国ドラマに多い復讐の物語でもある。

  父を失い互いに支え合い母を助けながら成長していくドンチョルと弟ドンウクは、またしてもシン・テファンの罠にはめられ母・弟と引き裂かれ少年院に送られる。そして10年後の80年代となり大人となったドンチョル(ソン・スンホン)が登場する。

  このドラマ主演のソン・スンホンは東北大震災に2億ウォンもの義捐金を送ってくれた。気持ちも素晴らしいが、男の私が見てもさわやかな好男子である。また、数名の美人女優がでてくるのもうれしい。クク・ヨンナン役のイ・ヨニ、ミン・ヘイン役のイ・ダヘ、ジヒョン役のハン・ジヘなど、いずれ劣らぬ美女である、なかでもイ・ヨニが好きだ。ドラマのなかで流れる音楽もなかなかなか良く、ときどき通勤時の車中でも聞いている。











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エンターテイメント89   韓  流 (26)  11.03.26
ありがとう、韓流スターたちの義捐金 
全財産(約260億円) ジャッキー・チェン

100億円 孫 正義(ソフトバンク代表取締役社長)+今後の役員報酬全額

10億円 柳井正(ファーストリテーリング〈ユニクロ〉会長兼社長)
10億円 三木谷浩史(楽天会長兼社長)

5億円 AKB48プロジェクト(秋元康ファミリー)
2億円 久米宏(キャスター)
1億円 イチロー(大リーガー)
本年獲得賞金全額+1バーディ10万円 石川 遼(プロゴルファー

100万ドル(約8000万円) サンドラ・ブロッグ(米国女優)
100万ドル(約8000万円) ジグメ・ケサル(プータン国王)
100万ドル(約8000万円) 李嘉誠(香港一大富豪)
100万ドル(約8000万円) レックス・ラミレス(巨人外野手)
100万ドル(約8000万円) 松坂 大輔(大リーガー)
10億ウォン(約7300万円)ペ・ヨンジュン(韓国俳優)
10億ウォン(約7300万円)SMエンターテイメント(東方神起・少女時代など)

5000万円 安室奈美恵(歌手)
5000万円 ダルビッシュ有(日本ハム投手)
5000万円 松井秀喜(大リーガー)
7億ウォン(約5000万円)イ・ビョンホン(韓国俳優)

6億ウォン(約4300万円) JYJ(元東方神起・韓国タレント)
3500万円 浜崎あゆみ(歌手)
2000万円 GLAY(ミュージシャン)

2億ウォン(約1400万円)チェ・ジウ(韓国女優)
2億ウォン(約1400万円)リュ・シウォン(韓国俳優)
2億ウォン(約1400万円)ソン・スンホン(韓国俳優)
2億ウォン(約1400万円)チャン・ドンゴン(韓国俳優)
2億ウォン(約1400万円)ウォンビン(韓国俳優)

1000万円 サンドウィッチマン(お笑い芸人)
1000万円 熊川哲也(バレエダンサー)
1000万円 ドリカム(ミュージシャン)
1000万円 神田うの(タレント)
1000万円 ジョン・ミジョン(女子プロゴルファー)
1000万円 藤川球児(阪神投手)
1000万円 金本知憲(阪神外野手)
1000万円 城島健司(阪神捕手)
1000万円 朴賛浩(オリックス投手)
1000万円 チャン・グンソク(韓国俳優)
1000万円 高橋克彦(作家)
1000万円 flumpool(ミュージシャン)
1000万円 ひろゆき(2ちゃんねる管理人)
1000万円 MISIA(ミュージシャン)
1000万円 前田幸治(アイテック代表取締役社長)

10万ドル(約800万円) チェ・キョンジュ(韓国プロゴルファー)
1億ウォン(約700万円)アン・ジェウク(韓国俳優)
1億ウォン(約700万円)キム・ヒョンジュン(韓国俳優)
1億ウォン(約700万円)パク・チソン(韓国サッカー選手)
1億ウォン(約700万円)ク・ハラ(韓国アイドルユニットKARAのメンバー)


500万円 ビートたけし(世界の北野たけし)
500万円 所ジョージ(タレント)
500万円 三浦大輔(横浜ベイスターズ投手、高田商業高校出身)
500万円 杉内俊哉(ソフトバンク)
500万円 宮本慎也(ヤクルト)
500万円 市川義美(実業家・馬主)

5万ドル(約400万円)川上憲伸(大リーガー)
5万ドル(約400万円)黒田博樹(大リーガー)
5万ドル(約400万円)ジャック・ジョンソン(米国歌手)
350万円 高岡蒼甫(俳優・宮崎あおい夫)
300万円 安藤優也(阪神投手) 
100万台湾ドル(約270万円)ビビアン・スー(台湾歌手)

200万円 桧山進次郎(阪神外野手)
200万円 二岡智宏(日本ハム内野手)
200万円 田中賢介(日本ハム内野手)
200万円 谷繁元信(中日捕手)
200万円 チェン・ウェイン(中日投手)
200万円 藤原紀香(タレント)

100万円 高島彩(フリーアナウンサー)
100万円 岡本夏生(タレント)
100万円 江尻慎太郎(横浜ベイスターズ投手)
100万円 橋本将(横浜ベイスターズ捕手)
100万円 能見篤史(阪神投手)
100万円 江草仁貴(阪神投手)
100万円 中田翔(日本ハム内野手)
100万円 国生さゆり(タレント)
100万円 堀江貴文(ライブドア創業者)
100万円 北村宏司(騎手)
100万円 前田健太(広島投手)
100万円 前田智(広島外野手)
100万円 金賢姫(キムヒョンヒ)(北朝鮮元工作員・大韓航空機爆破犯)

50万円 道端ジェシカ(モデル)
50万円 吉田秀彦(格闘家)
50万円 加藤和樹(タレント)
50万円 把瑠都 凱斗(大相撲)
33万円 蛯原友里(モデル)
30万円 NON STYLE 井上裕介(お笑い芸人)
6万9000円 内田裕也(ロッカー)

100円 道重さゆみ(モーニング娘。)
20円 田中れいな(モーニング娘。)

 ペ・ヨンジュン 10億ウオン、(冬のソナタで共演した)チェ・ジウ 2億ウオン。韓国のトップスター(日本でヒットしたオールインやアイリスの) イ・ビョンホン 7億ウオン、リュ・シオン 2億ウオン、東方神起や少女時代のプロダクションSMエンタープライズ・元東方神起のJYJ,、K-POP SS501のキム・ヒョンジュン 、チャン・グンソク、ソン・スンホン、KARAと韓流スターの寄付が相次いでいるという。

  いくら我が国の韓流ブームのおかげで稼いだとはいえ、ポンと10億ウオンや2億ウオンの義捐金を大震災に送ってくれたのは半端じゃない。(エンターテイメント№64韓流ドラマ (15)太王四神記 24話 (09.03.27)で、「ヨン様」の礼儀正しさや誠実な人柄について感想を書いたが、やはり目に狂いはなかったということか。
  それに安いギャラで話題になった踊りが魅力的なKARAもニューシングルの収益金全額を寄付してくれるという。

  韓国人の反日感情については根強いものがあるという人もいるが、昨今の韓流ブームなどでかなり薄れており、韓国旅行で知り合った人も、鶴橋で飲み交わした韓国人旅行者も人柄が良く、反日感情などはみじんも感じられない。

  日本の芸能界でも支援の輪が広がっているとは言うが、チャリティ・コンサートなどの収益金を寄付するというパターンや、街頭に立って義捐金を集めるという形が多い。ノーギャラでというが、観客などに負担をさせることで自分の懐はあまり痛めていない。しないよりはましだと思うが、自分の人気を利用してファンに寄付をさせるというやり方はある意味おごりともいえる。

  概して日本の芸能人やスポーツ選手の慈善事業は、海外に比べてその意識が低いように思う。

 ユニクロの柳井さんは別格としても、久米宏の2億円には驚いた。いまもっと稼いで朝から偉そうなことほざいているあの人はどうなんでしょうね。銀座でバカ高いドンべりかなんかを毎夜あけているといわれていますが?まあ匿名で寄付をしているのかもしれませんが。

  それでもスポーツ界でイチローが1億円、さすが、ヨンさまに負けるわけにはいかない。ラミレス8000万円、ダルビッシュ5000万円、 松井秀喜5000万円、金本1000万円、城島1000万円、藤川1000万円。この原稿を書いているとき、レッドソックスの松坂100万ドル寄付のニュースが入った。やはり身銭を切ってくれるスーパースターが好きになる。











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エンターテイメント88   私の読書歴 (25) 11.02.26  
街道を行く1 「甲州街道・長州路ほか」 司馬遼太郎著 (朝日文芸文庫) 
  司馬遼太郎の「街道を行く」を読み返している。

  「街道をゆく」は、短編紀行集。1971年(昭和46年)司馬遼太郎47歳の時に「週刊朝日」で連載開始し、1996年(平成8年)2月に作者急逝により、43冊目の「濃尾参州記」で絶筆(未完)となっている。
  単行本・文庫版が出ているが、私の文庫版は1978年(昭和53)第1刷発行、1998年3月30日第27刷となっている。

  海外へも足を延ばす、この長い紀行「街道を行く」は、司馬氏の「近江から始めましょう」というこの一言から始まり、一冊目は「湖西の道」「竹内街道」「甲州街道」「葛城みち」「長州路」の5か所を司馬氏らは行く。

  なかでも興味を引いたのが2番目の「竹内街道」と4番目の「葛城みち」

  「竹内街道」へは、「大和の石上(いそのかみ)神社にゆこうか」と、そのころまだ20代のイギリス生まれの日本語学者に提案して足を運ぶところから始まる。この神社は大和の国中(くんなか)の布留の里の森の中に鎮まっている古社で、古代大和王朝の武器庫であったとされ、日本で最も古い神社のひとつである。司馬氏は「大和盆地は古代にあっては一大湖沼で、いまでも礒野・浮孔・南浦・磯城・などの地名が残っており、石上は礒ノ上に違いないと著者は語っている。

  石上から真南へまっすぐ行けば三輪となる。この道が日本最古の官道である山ノ辺の道である。三輪さんは面積約100万坪、大和盆地におけるもっとも美しい独立丘陵である。神岳ともいわれ、古代人は神南備山と呼び、山そのものを御神体として祀ったことはよく知られている。このあと車は進路を西にとり竹内街道へと向かう。

  「葛城みち」、葛城山麓を一筋の古道が走っており、いまの地図には「大和街道」と書かれているが、司馬氏は「葛城みち」と呼んでいる。奈良の葛城山麓にその後大和盆地で成立する天皇家より古いという古代栄えた王朝があったという。
神武天皇で象徴される大和への侵入部族は、古墳時代に入っていたが、その頃でもなお葛城山には縄文的竪穴住居で暮らしていた人がおり、葛城のひとびとは旧大和人であったろう」と書いている。

  私自身最近初詣といえば橿原神宮となっているが、橿原市に居を移した最初のころは三輪神社へよくお詣りした。自動車のお守りも三輪さんでお札をもらっている。
 また、(2年以上クラブを握っていないが)グロワールゴルフ倶楽部.で何度かプレーする機会があったが、向かう途中」、司馬氏の「葛城みち」のことを考えながら車を走らせたことを思い出す。

  いずれにしても、わが家からほど近いところに、このような日本の起源といえるようなところがあるのは何かうれしいことのようにも思える。












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エンターテイメント87   映  画 (10)    11.01.05  
宇宙戦艦ヤマト 

 
キャスト 
古代進 役 木村 拓哉
森 雪 黒木 メイサ
真田 志郎 柳葉 敏郎
佐渡先生 高島 礼子
沖田 十三 山崎 努

 
 マンガから離れられない大人が多いように思う。大の大人が少年漫画雑誌を、しかも朝の通勤時間に読んでいる姿をよく見かけた。団塊のちょい兄貴世代で現役時代の私にはとっては許されないことではあった。ビジネスマンは日経を読みながら通勤せねばならない。

  それでも最近になって、通勤でマンガを見る大人が少し減っているように思える(代わりにゲーム機をもった大人が多いが)。なんでも原因は「面白い漫画が減ったから」それとも「文化が多様化して、趣味の選択肢がほかに増えたから」、と云うのはわかる。しかし「読解力の低下に伴い、漫画のストーリーが理解できない人も増えてるみたい」という意見もある。なにおか言わんや。

  子供の時代、どのような漫画やアニメを見て育ったのかということはその世代にそれなりの影響を与えているのかも知れない。昭和の20年代小学生だった頃、産経新聞だったか「少年ケニア」の連載があった。漫画というより絵があって文章があった冒険絵物語のようなものだったように思う。漫画界の聖人手塚治虫の鉄腕アトムもわが世代に生まれた。雑誌「少年」で読んだ。(S27~S43)

 息子(s50生まれ)の世代は「宇宙戦士ガンダム」、せがまれていった高田大劇で、親だけ寝てしまった記憶がある。ウルトラマン、ヤッターマンなどもTVで子供と一緒に見た。あしたのジョーや子連れ狼、ゴルゴ13なども一世を風靡した。

  松本零士原作の宇宙戦艦ヤマトも、その時代の人にとっては切ってもきれないものではあろう。
アニメでは映画でもTVでも何度も放映されたものではあるが、「実写」ということで映画館へ足を運んだ。大人の鑑賞に堪えるものであるのを期待して、また かの名優山崎努が出ていることで、そんなチャチなものではないと思ってのこともある。

  物語は、14万8千光年の彼方、大マゼラン星雲のイスカンダル星に向け、地球時間1年以内に帰還しなければ人類滅亡という状況下、宇宙戦艦ヤマトは人類最後の希望を託されて往復29万6千光年の旅に発つ。ヤマトはガミラス帝国と戦い、未知の宇宙空間における障害を乗り越えながら、イスカンダル星を目指して行く。物語のほとんどがヤマトの船内。こういう類の映画はやはりアメリカに1日の長があるように思える。

  理屈を言えばおかしいことは多々あるが、2時間なんとか寝もせず観てしまった、まあこんなもんでしょう。










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エンターテイメント86   Trip&Tour (6-3)10.12.27 
4つの世界遺産を巡る釜山・慶州・水原・ソウルの旅Ⅲ
(10/21~23) 
  この日、ソウルの宿グランドハイアットホテルにバスの迎えがやってきたのも7時過ぎ。市内のレストランで「韓国式朝定食」を食べた後、ソウルの市街から世界遺産水原の華城観光へと急いだ。早く都心を出ないと、時間によっては混んでしまうからとの事。

  スゥオン(水原)は朝鮮王朝の正祖王が無実の罪で処刑された父の御陵を建てるため、風水で最高の地として選んだ土地だという。華城着工は1794年、2年9カ月かけて完成。城郭の築城に石材と煉瓦を併用したことで城壁が美しい。1997年12月4日、イタリアのナポリで開かれたユネスコ世界文化遺産委員会第21回総会で世界文化遺産として登録された。

  キムチ鍋の昼食のあとソウルへ戻り、新羅免税店でカミさん指示の化粧品など買い物をした。そのあと、この旅最後の世界遺産宗廟へ向かった。

  宗廟は朝鮮王朝歴代の王と王妃および、没後に位を贈られた王と王妃の位牌が安置されている、王室の霊廟です。1394年、朝鮮王朝が漢陽(ハニャン、現在のソウル)に都を移した際に着工され、翌年完工。同時代の単一木造建築物としては世界最大規模を誇り、東西に伸びる珍しい建築様式が目を引きました。

  宗廟をあとに韓国食料品店へ立ち寄り、キムチやチョコレートのお土産を買い、もときた金浦空港へ向かった。
 










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エンターテイメント85   Trip&Tour (6-2)10.11.27 
4つの世界遺産を巡る釜山・慶州・水原・ソウルの旅Ⅱ
(10/21~23) 
  慶州の朝まだき5時過ぎ、周辺を散策するために相棒とホテルを出た。G20がこの地で行われている関係で、朝のホテル周辺でも多くの制服・、私服の警官と思われる人たちと行き交った。昨日慶州へ着いた時、あたりは暗かったので気がつかなかったが、慶州では日本より一足早く紅葉がはじまっていた。歩いていると、いかにも名門といったゴルフ場があり、近くにあったバスストップは我が国のそれにくらべて雰囲気があった。

  今回のツアー、2泊3日で釜山からソウルまで4か所の世界遺産を回るということから、忙しい旅にはなった。7時過ぎにはホテルにバスが迎えに来て、市内のレストランへ向かった、朝食は「純豆腐チゲ定食」。

  新羅千年の王都として栄えた町慶州のなかでも528年に創建され、774年には新羅仏教の一大寺院として完成した「プルグッサ(仏国寺)」は、多宝塔はじめ6つの国宝を有し1995年には石窟庵とともに世界文化遺産に登録された。俗世から石橋を渡って極楽に入り、仏の世界を体験する造りになっているという。境内には大勢の小・中・高校生らしき子供たちが行儀よく整列していた。京都のように全国から修学旅行生が集まってくるという。

  「石窟庵石窟」は山の中腹にある石窟内に国宝の本尊が安置されている新羅時代の石窟寺院、この周囲は仏が住む世界を表現している。この遺跡は「日本人が発見した」というようなことを、ガイドさんが言っていた。

  このあとも忙しい旅は続く。神秘的な蒼さが特徴の韓国青磁などで有名な白磁・青磁の窯元のあとアメジスト(紫水晶)店を見学、水晶はパワーストーンと言われ、開運・守護石・お守りとして使われている。焼きもの、水晶ともにほしいと思うものはかなり高価。昼食は石焼ビビンバ、追加で注文したガイド推薦のこの店のチジミは確かにボリュームたっぷりで旨い、いままで食べたもので一番だった。

  食事の後は「ヤンドンマウル」(慶州月城夜洞民族村)へと急いだ。150軒余りの瓦屋と藁ぶきの家が古色蒼然さが漂う村は韓流時代劇に出てくるヤンバン(両班=貴族)と村人の家そのものであった。

  ヤンバンの村を後にして、釜山からここまで乗せてくれたバスを捨て、「テグ(大邱)」駅より高速列車KTX(新幹線)の人となった。ソウル到着後若者ファッションの街「ミョンドン(明洞)」散策、夕食は「海鮮鍋」。

  ソウルの夜は多少時間があるということで、一行はガイドお薦めのオプション観劇ということになった。我々二人はこの旅のもう一つの目的でもあった「屋台など庶民の飲み屋を経験」するため一行から離れ、ソウルでも最も庶民的な町南大門市場周辺でうろつくことにした。

  両側は建物の商店、道路の真ん中に露店やビニール張りの南大門市場の商店を、ひやかしながら歩いている間に尿意を催した。二人でトイレを探していると親切なオッパー(お兄ちゃん)が、建物と建物の間で立ち小便するところへ案内してくれた。親切にこたえるためこの兄さんのオモニが経営するビニールで囲った露店へ入った。店内はソウルの青年たちが楽しそうにジンロなどを煽っていた。この店で飲んだ酒は本場のジンロだったかマッコリだったか、あては串焼きと生蛸のぶつ切り。細めの生蛸は口の中で動くのが面白く美味しかった。 

  観劇帰りのバスが約束の時間に約束の場所へ迎えに来てくれて(正直ほっとした)、バスは今夜の宿グランド・ハイアットソウルへと向かった。そしてこのあとホテルでは予期せぬトラブルが待ち受けていた。

  二日間の強硬日程が終わり、あとは「入浴と睡眠だけ」のつもりで疲れた体でチェックイン、ロビーは一流ホテルにふさわしい雰囲気を醸し出してはいた。心地よい眠りを期待して部屋に入ってみると、なんとベッドがダブルベッドになっているではないか。
  いくら仲の良い二人でも初老の男二人でWベッドで寝るわけにはいかない。ここからのクレームは元ホテルの役員の経験もあるSさんの出番。でもその前に近くのホテルで泊っているはずのガイド嬢に電話、親切な彼女はすぐ飛んできて、ホテルに抗議してくれた。ベッドメイクのやり直しが終わり、ホテルからのお詫びのワインを飲んで、二人が眠りに着いたのは12時を過ぎていた。
       
         











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エンターテイメント84   Trip&Tour (6-1)10.10.30 
4つの世界遺産を巡る釜山・慶州・水原・ソウルの旅Ⅰ
(10/21~23)  
  司馬遼太郎の’街道を行く,全43巻の2冊目は「韓(から)のくに紀行」。初版は1978年、今から32年前司馬氏は釜山(倭館と倭城・李舜信・駕洛国の故地・金海の入江) → 新羅(主露王稜・新羅国・仏国寺・両班の村) → 百済を旅している。

  今回のツアー、百済へは行かなかったものの「釜山から慶州」同じようなコースをたどることになる。韓流ドラマにハマった初老二人の旅(Sさん失礼)。目的は二つ、1.時代劇の舞台、三韓時代の古都の秋を訪れてみたい、2.観光旅行ではあまり味わうことのない「庶民の集う飲み屋」でジンロかマッコリをゆっくり飲んでみたい。それも、韓流現代劇でよく出てくる屋台かビニールで囲んだような飲み屋で。

  いままで韓国へは2度行っている。カミさんとソウル、会社の慰安旅行でJeju(済州)。男同士二人の海外旅行なんてはたしてどうなるのか、お楽しみ。

第1日目、釜山から夜の慶州

  便利なもので、わが家の最寄りの駅から関空直行のリムジンバスが出ている。それでも1時間に1本ぐらいなので、ツアー集合時間AM10:50に間に合うためには10分遅れるか、集合まで50分待つかということになった。若いときであればぎりぎりの10分過ぎを選ぶのであろうが、それでも出発までに1時間50分ある。しかし初老の男は早いのは全然苦にならない。相棒(OのOB Sさん、ちなみに私はK のOB)も1時間以上前に空港へ着いて待っていてくれた。

  団体受付カウンターでチェックしたあと、男二人2時間弱を過ごすのは喫茶店とはいかない。どうせ機内食も出るだろうし、韓国では朝・昼・晩全部食事が付いてくる。「お腹が膨れず飲めるところを物色、たこやきで生ビールが飲める店を見つけた。

  このツアーは「6人で成立」ということであったが、私たちが申し込んだ時点では4人、ふたを開けてみれば16人の団体。夫婦・女同士がほとんどで野郎同志は我々二人だけ。

  釜山着は14:15、関空を12:50に離陸して、機内食を食べ終わったらそこは釜山空港だった。空港には日本の旅行社と契約した現地の旅行業者のガイドさんが迎えに来ていた。一行はバスに乗せられ釜山の観光第一の目的地、韓国の英雄李舜信の銅像がある龍頭山公園へ向かった。あと徒歩で国際市場を通り、もっとも釜山らしいところチャガルチ(魚)市場、そしてあの流行歌にもなった釜山港。

  プルコギ焼肉(とはいってもすき焼きのようなもの)の夕食の後、世界遺産慶州史地域、ライトアップした雁鴨池を観光。旅行直前、7世紀の新羅時代,朝鮮史上初の女王「善徳女王(そんどくじょうおう=61話)」を描いたドラマを観た、都ソラボルの王朝はここにあった。花郎(ファラン=女王を守るエリートの兵)に囲まれ、華やかな衣装を身に付けた7世紀の美しき女王を想う。

  宿は慶州「ホテル現代(ヒュンダイ)」。このときG20の財務相と中央銀行総裁会議がここ慶州で行われていた。このホテルにも世界の要人が泊っているのか、警官は当然としても、自動小銃で武装した兵士?がいたのには驚きました。    
                              










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エンターテイメント83   韓流ドラマ (25)  10.10.30  
善徳(そんどく)女王  全62話 
    キャスト  
トンマン(善徳女王)役 イ・ヨウォン
ミシル役 コ・ヒョンジョン
キム・ユシン役 オム・テウン
チョンミョン役 パク・イェジン
キム・チュンチュ役 ユ・スンホ
ピダム役 キム・ナムギル
   演出:パク・ホンギュン 脚本:キム・ヨンヒョン

 
 韓国慶州へ旅行することが決まった時、新羅の都ソラボルを舞台にしたドラマ善徳女王全62話を観ることにした。善徳女王を演ずる清純派美人女優、主役のイ・ヨウオンはコッチやファッション70で見た。ドラマのなかで男装が長いだけに、女王のきらびやかな衣装を着た時の美しさが目立つ。
  それにして悪役のコ・ヒョンジョンの妖艶さはなかなかのものである。ずば抜けた政治感覚と美貌を武器に歴代王を操って宮廷を我が物にしようとする悪役のミシルを演じる。ミシルのテーマ音楽が流れ、その顔に笑みが浮かんだら怖い、目での演技が見事だ。

  ミシルは、3代の王にセジュとして仕え、王朝を牛耳っていた女傑。ドラマの主人公ドンマン(德曼)が王位に登りつめるまで最大の敵として活躍する、死に際も印象的。そこにオム・テウン演ずるキム・ユシン、新人キム・ナムギルのピダムが絡む。トンマンに対する愛を忠節に変え最後まで仕える実直なユシン、またミシルが捨てた子不良っぽいピダムとトンマンの愛憎の行方。

  王は、王の子が双子の場合、凶となるとの予言から、王妃と子供を隠すことを決心する。侍女のソファが双子の妹を抱いて逃げる。その後幼いトンマンは砂漠のオアシスにある交易の地でソファを母親と思いながら育っていく。

  韓国ドラマで初めて、7世紀の新羅を舞台にし、慶州のポムン団地と京畿道のヨンイン(龍仁)市に約60億ウォンの巨費を投じた野外セットで撮影、また中国のタクラマカン砂漠でもロケを敢行した壮大な映像で魅せる時代劇大作。

     A級  面白度★★★★☆ (☆はの半分











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エンターテイメント82   日中合作ドラマ (1) 10.09.23  
蒼穹の昴
  全25話 
 キャスト
西太后(せいたいごう) 役 田中裕子 Tanaka Yuko
李春雲(りしゅんうん)・春児(チュンル) 役   余少群 Yu Shao qun
梁文秀(りょうぶんしゅう) 役 周一囲 Zhou Yi wei
光緒帝(こうしょてい) 役 張博 Zhang Bo
ミセス・チャン 役 殷桃 Yin tao
  楊海薇(Yang Hai wei)脚本   汪俊(Wang Jun)監督

  好きな作家浅田次郎のこの小説は2度読んだ、講談社からでたハードカバーで1996年、文庫本で2004年 《「エンターテイメント№16私の読書歴 (9) 浅田 次郎と「蒼穹の昴」 (04.12.12)》。「ドラマの出来栄えや如何に」と期待しただけあって、久しぶりに原作に引けを取らない素晴らしいドラマを観ることとなった。

  これまで浅田次郎の原作が次々と映画化された。「鉄道員(ポッポ屋)」「地下鉄(メトロ)に乗って」「壬生義士伝」「憑神」「天国までの100マイル」「パイラン」「オリヲン座からの招待状」「椿山課長の7日間」等々。この名作「蒼穹・・・」だけは映画になってない。「この壮大な長編小説を2時間ではとても描けない」ということだったのだと思う。

  ドラマ「蒼穹の昴」は、台湾出身の人気女性脚本家・楊海薇(Yang Hai wei)がシナリオを執筆。浅田次郎の原作をもとに、近年の歴史研究を踏まえ、これまでの清朝末期の宮廷イメージを打ち破る人間ドラマとして描いている。また演出は中国ドラマ界の気鋭、歌劇や演劇の演出も手掛ける汪俊(Wang Jun)が担当。宮廷の中秋節、科挙の試験風景、京劇に代表される伝統芸術、究極の儀式である親政の大典、清朝末期に花開いた中国文化の描き方は半端ではない。

  敷地総面積が100ヘクタールもある紫禁城の原寸大セットでの豪華な撮影シーンや、世界文化遺産に登録されている頤和園(いわえん)での撮影シーンは、中国王朝の繁栄とそのスケールの大きさを余すところなく映像化している。

  西太后や皇帝のみが着用する龍袍(ろんぱお)や官僚たちが地位によって着用を許される官僚服・蟒袍(まんぱお)や補服(ほふく)、ヘアスタイルや装飾品、家具、小道具の1点1点にいたるまで、正確な時代考証をもとに精緻に組み上げ、宮廷の日常生活をみごとに再現しており、西太后の権勢を象徴するぜいたくな宮廷料理の場面も超豪華。

  時の権力者、シータイホー・ツーシー(西太后=田中裕子)は、手塩にかけて育てた子光緒帝(張博)に実権を譲り渡すべきか迷っていた。若い皇帝が政治を行えば、国の行く末に不安を残すと考えたのである。

  一方、片田舎リャン・ジアチュン(梁家屯=原作)から二人の若者、リャン・ウエンシウ(梁文秀=周一囲)とリー・チュンユン(春児=余少群)が故郷を後にしていた。全く別の世界に生きる皇帝母子と、科挙の試験で最高位合格し「状元」まで上り詰めた青年と、貧しい家族を救うため自ら象徴を切り落とした少年の二人は、紫禁城の中で運命的な出会いを果たす。

  原作と少し違うところもあるが、決して不自然ではなく、ドラマとしてはこの方が座りがいいというところもある。また田中裕子の西太后役はドンピシャ、実際あれだけの中国語を喋っているとは考えにくいが、クチパクにしても全くと言っていいほど違和感はない。さすが海外の映画祭で主演女優賞を取っただけのことはある。またミセス・チャン役中国女優「殷桃」( Yin tao)が魅力的だ。

  BSで放送(字幕)されたものを、近々NHK地上波でも放映が始まるが、吹き替えではこのドラマの良さは半減するのではないか。
ドラマ「蒼穹の昴」での苦悩する主人公たちの姿や豪華絢爛たる宮廷生活の再現は、中国でも高い評価を受けているという。出来得れば「蒼穹・・・」の後日譚といえる「中原の虹」も同じスタッフでドラマ化してもらいたいと思う。












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エンターテイメント81   映  画 (9)  10.08.11   
インセプション
 
   お盆の週に連続休暇を取った。銀行はいま、自由出勤に近い勤務形態で65歳を過ぎた契約社員でも、年に一度は1週間の連続休暇を取れという。
  思い起せば、数字数字に追いまくられ、年次休暇などあってないような現役のあの頃、この1週間の休みをどれほど楽しみにしたことか。御上大蔵省(当時)の指導でもなければ考えられない夢のような休暇ではあった。

  逆に今は消化に戸惑うその一日、カミさんと映画を見ることにした。40年連れ添っても全く趣味の合わない二人には(唯一韓流ドラマだけは共にハマっているが)見たい映画も全く違う。シリアスなものや日本の文芸物などが好きな私に対し、カミさんはハリー・ポッターやバイレーツ・カリビアンなどわけのわからん映画が好きで、変な怪物?などが出てくるシーンに私には耐えられない。
  やっと意見がまとまったのがこの映画、カミさんは一度見ていたがもう一度見たいという、私にとっては何とか許容の範囲に入る映画ということで見に行った。

  ハリウッド映画には莫大な金をかけて単純明快なアメリカらしい映画が多い半面、ときどき、難解というか作者(監督)よがりの作品がでてくる。マトリックスもそうだったがこの作品もクリストファー・ノーラン監督が、オリジナル脚本で描く.。そんなスケールが必要とも思えない題材であるが金だけは思いっきり使っている。

  主人公のコブ(ディカプリオ)は、人の夢(潜在意識)に入り込むことでアイディアを盗み取る特殊な産業スパイ。そんな彼に、大企業のトップ、渡辺謙演じるサイトーが仕事を依頼してきた。依頼内容はライバル会社の解体と、それを社長の息子にさせるようアイディアを植えつける「インセプション」ということだった。

  インセプション成功の為に更に深い階層の夢へと侵入していく。曖昧になる夢と現実の狭間、迫り来るタイムリミット。この辺になると今のシーンは「夢のどの部分なのか」私には理解が困難となる。もう一つ意味がわからないまま、それでも最後までああまり退屈せずに見てしまうのは、惜しみなくお金をかけたSF大アクションシーン連続のためなのだろう。
  
        監督クリストファー・ノーラン レオナルド・ディカプリオ 渡辺 謙 主演 
             10.08.11 TOHOシネマズ橿原 (イオンモール 橿原アルル)











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エンターテイメント80  韓流ドラマ (24)  10.07.26  
宮廷女官 チャングムの誓い
全64話 
  キャスト
  ソ・ジャングム(チャングム) 役   イ・ヨンエ
  ミン・ジョンホ    チ・ジニ
  チェ・グミョン   ホン・リナ
  ハンサングン   ヤン・ミギョン
  チェサングン   キョン・ミリ
  中宗   イム・ホ
             脚本 キム・ヨンフォン    監督 イ・ビョンフン

 
 韓流ドラマを初めて見たのがこのドラマ「宮廷女官・チャングムの誓い」。銀行を辞めて3社目の下着のメーカーにいたころ、その会社では韓流が大流行りだった。「チャングムの誓いが面白い」と、私に勧めたその人は『日本でいえば「おしん」のようなもの』という。なるほどけなげな子供が大変な苦労とともに成長していく姿は共通点はある。韓国の長編ドラマは大抵子供時代から始まる。

  チャングムの幼いころ、父が官憲につかまり、母とともに追っ手から逃げる途中母をも失ってしまう。また両親が死んだあと、子供チャングムが女官見習いとして王宮にあがり、数々の妨害を受けながら女官として成長していく姿は痛々しくもハラハラする。何とも言えない可愛さで演じる子供時代のチャングムはこのドラマの一番の見どころではないかと思う。

  朝鮮王朝(李氏朝鮮)第10代国王・燕山君(ヨンサングン)の生母・尹(ユン)氏毒殺に関与したとして誅殺された軍官(武官と訳されている。以下同じ)・徐天壽(ソ・チョンス)と宮廷内の混乱の中で陰謀を知ってしまったために謀殺された宮女(女官と訳されている。以下同じ)・朴明伊(パク・ミョンイ)との間に生まれた娘・徐長今(ソ・ジャングム)が母の遺志(水剌間(スラッカン))の最高尚宮(チェゴサングン)になり、最高尚宮だけに伝えられる秘伝の書に母の無念をつづること)を叶えるため女官となるが、謀略により宮廷料理人から一度は奴婢の身に落とされる。しかし医女となり宮廷に復帰、母の夢・最高尚宮を経て、ついには王の主治医になり、"大長今"の称号を与えられるまでを描いたサクセスストーリーである。出典:フリー百科事典ウイキペディアによる

 「悲しんではだめ、泣いてもだめ、簡単に諦めてもいけません」との母の教えを一生にわたって守り抜き、母が王宮にいたころの親友ハン尚宮と信頼関係で結ばれ、ライバルのグミョンと対決していく。ミン・ジョンホとの恋愛をからませながら数々の策謀に翻弄されつつも強く生き抜こうとするチャングムの姿を描いており、華麗な李氏朝鮮文化や韓国宮廷料理の数々、当時の朝鮮の医術も紹介されている。

  当初は全50話で、水剌間(スラッカン=王様の料理を作る台所?)時代は17~20話程度までの予定だったが、放送が始まると、連日50%を越える視聴率を獲得した。チャングムの子役の好演、主役イ・ヨンエの美しさ。中でもハン尚宮(ハン・ペギョン)役のヤン・ミギョンに対する視聴者からの人気が予想以上に高くなったために、急遽、水剌間の時代を10話ほど延長したというエピソードがある。そのため全54話に延長されたという。

   A級  面白度★★★★☆ 










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エンターテイメント79  韓流ドラマ (23)    10.06.26  
ホジュン
 全64話 

   キャスト  
ホジュン 役 チョン・グァンニョル
ユウィテ イ・スンジェ
ユドジ キ・ムビョンセ
ダヒ ホン・ジュンミン
イェジン ファン・スジョン


 前回、同じ監督の「チャングム・ホジュン・サンド」のうちの商人の道を描いた「商道(サンド)」を紹介しました。今回はイ・ビョンフン(イ・ビョンホンではありません)監督の作品、医官への道「ホジュン」の感想を書きたい。
 このドラマは東洋医学に大きな影響を与えたといわれる朝鮮医学の集大成「東医宝鑑」25巻を著したホ・ジュンを主人公としたドラマである。その波乱に満ちた人生を描いた本作は、韓国で1999年に放送され、大河ドラマ史上初めて60%の視聴率を記録し、現在でも歴代視聴率4位に君臨する国民ドラマであるという。

 東医宝鑑(とういほうかん、東醫寶鑑、トンイボガム、)は、李氏朝鮮時代の医書。23編25巻。許浚著。1613年に刊行され、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した。初版本は光海君の1613年に発行され、重版が重ねられている。日本においては享保9年(1724年)に日本版が刊行されており、寛政11年(1799年)にも再版本が刊行されている。中国においては乾隆28年(1763年)に乾隆版本が刊行されており、光緒16年(1890年)に日本再版本を元とした復刻本が出ている。『ウィキペディア(Wikipedia)ウィキペディアより

 物語は ’密貿易であぶく銭を稼ぐホジュン、中国商人と漢方薬の売買をするが、条件をめぐって緊迫の駆け引きがつづいた末、相手商人の目の前で品物に火をつける。あわてた商人はホジュンの条件にさらに上乗せして支払い、ホジュンの度胸と駆け引きの腕に感心する。ひと儲けしたホジュンは仲間たちと、酒・女遊び・賭博などのならず者生活を送っている’ ところから始まる。

 ドラマ「ホジュン」は、朝鮮李王朝時代に実在した医師ホジュンの波乱万丈の人生と人間愛にあふれた生きざまを、史実に基づきドラマチックなストーリーで描いた大河ドラマの名作である。主人公ホジュンを演ずるのは「朱蒙」のペーハ(陛下)クムワ王を演じたチョン・グァンリョル。身分の低い家に生まれ、さまざまな困難に直面しながらも、自らの運命を切り開いていく役を好演。

 愛人の子という自らの運命に屈することなく、強靭な意志とたゆみない努力、そして弱者に対する限りないやさしさを持って人生を切り拓いたホジュン。東洋医学の進歩の過程や薬草の知識など、ドラマから学ぶことも多い。

    A級  ★★★★












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エンターテイメント78 韓流ドラマ (22)  10.05.29  
商道(サンド)
 全50話 
   キャスト 
イム・サンオク 役 イ・ジェリオン
パク・タニョン キム・ヒョンジェ
パク・チュミオン イ・スンジェ
チョン・チス チョン・ボソク
ホン・ミグム ホン・ウニ

 
19世紀、李氏朝鮮時代に実在した豪商の林尚沃(イム・サンオク、1779~1855)の生涯を通して、当時の商圏を掌握していた4大グループの開城商人(松商、ソンサン)、漢陽商人(京商、キョンサン)、義州商人(灣商、マンサン)および東莱商人(莱商、ネサン)を対象にシジョン(市廛)とナンジョン(乱廛)、ゲクチュ(客主)とボブサン(褓負商)等の熾烈な商い競争、そして身分上最下層の商人等の位相や哀歓を描き、貨幣と交換価値、人件費等の様々な資料による「実物経済の具体的な事例」をドラマを通じてひとつひとつ紹介。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

 私たち男の韓流ファンが観たいドラマはやはり時代劇、それもチュモンや大王四神記に代表される建国や領土争いを主題とする活劇。こういった時代活劇とは別に、李氏朝鮮時代に実在した宮廷女官・宮廷医官・商人それぞれを同じ監督が描いている。宮廷女官(料理人)を描いて一世を風靡した「チャングムの誓い」、宮廷医官の「ホジュン」、そして商人を主人公とした「サンド」。チャングム・ホジュンは次回以降に譲るとして、今回は豪商とその時代の商業人を描いたドラマサンドを紹介したい。

 主人公サンオクが生きた時代は、朝鮮半島の最後の王朝「李氏朝鮮」が統治していた時代で、朝鮮王朝時代(1392-1910年)後期の正祖から哲宗にかけて(1800年台初めごろ)義州を舞台に活動した。
 李氏朝鮮は李成桂(イ・ソンゲ)による王朝の創設からスタートし、以後518年にわたる。国王は世襲制度により、官僚は唐が滅んだあとの中国から取り入れた科挙制度によって選ばれた。首都を漢陽(現在のソウル)とし、儒教による国家体制を布いた。ちなみにハングルを創案したのは、(まだ観ていないが)やはり長編ドラマとなっている4代目大王世宗(テワンセジョン)。

 朝鮮一の訳官を目指し、幼い頃から父の教えの下で中国語を学び育った主人公イム・サンオクは、義州の渡し場を訪れる清国商人にも十分通じる中国語が話せた。
ある日サンオクは幼なじみに頼まれ、ニセ金を使っての取引とも知らず通訳をする。
そこへ開城の商人集団である松商の女大行首・タニョンが通りかかり、不正な取引を暴かれてしまうところからこの長編は始まる。

 ドラマは商売の道すなわち商道を主題とし、望ましい企業人のあり方を描いており、今のビジネスにも通用することが多い。「危機が好機である」と、情報の収集に力を入れ、市場の変化を読み取ることの重要性や、取引に使われる通貨としての「換」(ハン=小切手・手形?)が出てくる。金融機関・小売業・メーカー(小企業ながら)にも身を置いた私にとって、商売の起源と商業の歴史を変興味深く見ることができた。

 また、サンオクの師匠である義州の商人「湾商」の大房ホン・ドクジュが語る、次の言葉に感じるものがあった。『商売とは金でなく「人を稼ぐ」(残す)ことだ』
    A級  ★★★★








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77 韓流ドラマ (21)  10.05.01  
白 夜
 全20話 
   キャスト
ミン・ギョンビン イ・ビョンホン
アナスターシャ シム・ウナ
クォン・テッヒョン チェ・ミンス
イ・ヨンジュン イ・ジョンジェ
オ・ソンシム チン・ヒギョン
ピョートル・キム シン・ヒョンジュン
ホン・チョンヒン ワン・ヒジ

 1968年といってもピンとこないが、昭和に直すと「銀行のどこの支店でいたか」でその頃のことをすぐ思い出す。昭和43年、24歳の私は東京支店にいた。このドラマはこの年、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と閣僚の暗殺を狙って北朝鮮人民軍特殊部隊31名が、休戦ライン38度線を突破し韓国大統領府に侵入した。当時当然報道はあったに違いないが、今思い返してもこのような生臭い事件が隣国で起こっていたという記憶はない。

 ドラマは、この1968年に発生した青瓦台事件で、共に父親を失った北朝鮮のテッヒョンと韓国のギョンビン。テッヒョンは父親の死をきっかけに家出した母が、実の叔父に殺害されるところを目撃して心に傷を負う。一方、ギョンビンもまた、あの事件の夜、父に無断で同行し、その死を目の当たりにしていた。
 16年経った1984年、青瓦台襲撃事件で、韓国警察の警視だった父が殉死したギョンビンと、人民軍隊長だった父を失ったテツヒョン。やがて成長したギョンビンは韓国空軍パイロットをへて中央情報局の秘密情報部員に抜擢される。

 当時、史実として以下のことがあった。
 朴正煕大統領は事件直後、駐韓アメリカ大使に「北の奴等が私を殺しにきた、北を攻撃しなければならない。2日で平壌まで進める」と、憤りをあらわにした。襲撃未遂事件を北朝鮮が謝罪しない場合は、報復攻撃を行うべきとの書簡をアメリカのリンドン・B・ジョンソン大統領に送った。
ところが、直後の1月23日にプエブロ号事件が発生する。アメリカは報復のために空母を派遣するが、すでにベトナム戦争を戦っている中で新たに朝鮮半島で軍事行動を起こす余力が無く、また北朝鮮と同盟していたソビエト連邦と直接戦争に至る可能性を考慮して、ジョンソンは外交交渉を選んだ。アメリカの援助を受けられないと知った朴大統領は軍の北進を断念した。

 『白夜』は、テレビドラマとしては異例のスケールの大きさで1998年8月31日 ~同年11月13日まで放送され、当時話題となったという作品。半島の南北問題、朴正煕と金日成、背景に米国とソ連2大国の対立があり、アクション場面は迫力がある。2月にエンターテイメントで紹介した「第5共和国」(韓流№18)、4月の「英雄時代」(韓流№20)とともに戦中・戦後の韓国という国の背景を知るためにも最適のドラマである。主演は「オールイン」などでお馴染みのアジアのスーパースター「イ・ビョンホン」。韓国トップスターの演技が光る愛と哀しみのドラマとなっている。

 *プエブロ号事件とは
 1968年にアメリカ合衆国の情報収集艦が朝鮮民主主義人民共和国に拿捕された事件である。北朝鮮が青瓦台襲撃未遂事件によって大韓民国大統領の朴正煕殺害を狙った1968年1月21日から僅か2日後の1月23日に起こった。
    B級  ★★★☆  








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76 韓流ドラマ (20)   10.03.27   
英雄時代
 70話 
     キャスト   
チョン・テサン役 チャ・インピョ
クク・テホ役 チョン・グァンリョル
パク・デチョル役 ユ・ドングン
チャン・インギュ役 ム・ジュンホン
パク・ソソン役 キム・ジス

 パソコンやデジカメ、ケータイなど新しいもの好きの私は3月、携帯を発売したばかりのdocomoのスマートフォンに切り替えた。この機種は携帯電話というより、電話付きの携帯パソコンと言うべきか、よくぞここまでこの小さいものに詰め込んだと思わずにはいられない。この機種の製造元はSamsung Electronics Co.Ltdtoaru.(サムスン電子)。

 この会社の躍進は目を見張るものがある、周知の通り韓国最大手の総合家電・電子部品・電子製品メーカーで、サムスングループの中核企業であり、韓国最大の企業でもある。時価総額は2010年2月現在、111兆ウォン(約8兆5千億円)で、 サムスン電子の韓国株式市場全体に占める割合は約10%となっている。、このときのパナソニックの時価総額3.4兆円、ソニー3.1兆円、東芝1.8兆円にくらべても大したものである。

 自動車業界は、米国ビッグスリーの衰退、世界トップのトヨタを突然襲ったリコール問題。日本からは撤退したことで低迷していると思っていたHyundai Motor Company(現代自動車)は、これらのニュースの陰で着実に業績を伸ばし、いつの間にか生産台数で世界第7位まで躍進している。.

 このドラマはこれらサムスンとヒュンダイ韓国2大財閥をモデルとした長編ドラマ(70話)である。KNTVの宣伝文句には「漢江の奇跡」を起こしたあの時代を豪華キャストで描く超話題作『英雄時代』とある。
 1950~60年代。朝鮮戦争による打撃を受け、世界最貧国に数えられるほど貧しかった韓国は、ベトナム参戦後、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長により急速に発展。その奇跡の原動力となったふたりの男の半生を、ドラマチックに描いている。

 難をいうなら、次の二点がもうひとつ納得できない。主人公テサン(チャ・インピョ)の初恋相手で、パンソリの名手ソソン(クム・ジス)は確かに美しいが、二人の恋愛はこのドラマには何か取ってつけたような感じがする。
 また、ドラマの途中、「少・青年期」からキャストが変わることはしかたないことではあるが、このドラマでは後半、壮年期から老年期にかけて、なぜかすべての配役が変わってしまう、もう一方の主役テホ役を演ずるグアンリョルなど中年の俳優なら、そのまま老け役もできるはず。

 前々回紹介した「第5共和国」と時代は重なる(朴正熙大統領政権)。長期にわたる軍事政権の強圧的な政策(高速道路の建設など)の下、開発途中犠牲になった多くの国民があった。青瓦台やKCIAと妥協(ヒュンダイ)しながら、また一方では抵抗(サムスン)しながら事業を展開していく。

 その時代民主主義は後退したが、経済は奇跡的に発展し、廃墟と化した国を立ち直らせたことは事実である。これらの陰には二人の英雄の強烈な企(起)業家精神があった。過去を経済史という視点でとらえ、英雄たちをクローズアップしたこのドラマはビジネスマンにとって興味深いドラマではある。
    B級  ★★★☆  













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75 韓流ドラマ (19)   10.02.27   
イルジメ 
一枝梅 24話 
     キャスト
ナ・ヨン/イ・ギョム/イルジメ 役 イ・ジュンギ
ピョン・シフ/ナ・チャドル パク・シフ
ピョン・ウンチェ ハン・ヒョジュ
ポンスン イ・ヨンア


 
イルジメとは朝鮮半島に伝わる「義侠的盗賊=義賊」で、日本でいえば鼠小僧、西洋では怪盗ルパンや怪傑ゾロといったところか。犯行の後「梅一枝をその場に残す」ことで「梅一輪=イルジメ」と言われているらしい。韓国ではよほど有名な義賊なのか他のドラマでもイルジメの話はよく出てくる。一枝梅とは、武術と知力で悪道官僚たちを懲らしめ庶民を救った朝鮮時代の稀代の英雄像だという。
  
 主演のイ・ジュンギは「女よりもきれいな男」というキャッチフレーズで、世間から注目を集めた俳優。この愛称は彼が主演俳優として出演した映画『王の男』からついたという。私がみて面白かった「犬とオオカミの時間」(前出=韓流ドラマ12)でも主役を演じている。

 ドラマは、17世紀の朝鮮時代を舞台に、こそ泥の養父のもとで盗みを覚えて育った青年(イ・ジュンギ)は、実父の復讐を誓い士大夫の家に盗みに入るようになり、"一枝梅"として名を広めていく。
 父が逆賊として殺害され、運命の渦の中に巻き込まれる青年を描いたヒット時代劇。

 韓日中三つの国だけににしかないという梅の花、梅は寒さの中で一番先につぼみを膨らませて春を知らせ、希望と待ち遠しさの象徴だった。CGの長所を十分に生かした紅梅・白梅満開の目を見張るような美しい場面や、梅の花が舞い散る幻想的なシーンは一見に値する。
    B級  ★★★☆  














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74 韓流ドラマ (18)   10.01.30   
第5共和国
 41話 
   キャスト
全斗煥役 イ・ドクファ
李順子役 キム・ヨンラン
盧泰愚役 ソ・インソク
朴正熙役 イ・チャンファン
金大中役 イム・ドンジン
金泳三役 キム・ヨンゴン
金載圭役 キム・ヒョンイル


 私が物心ついてはじめて聞いた韓国人の名前は「リショウバン」だったと思う。幼い頃「李承晩ラインで日本の漁船が銃撃されたとか拿捕された」などというニュースを新聞か、ラジオで見た(聞いた)記憶がある。イ・スンハン(=当時はリショウバン)ラインは1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国(韓国)大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づき韓国側が一方的に設定した軍事境界線。韓国では「平和線」と宣言された。

 李承晩大統領在任期間を第1共和国、(約12年)、朴正熙大統領在任期間を第3共和国(約16年)、この両長期政権の間に 尹 善大統領(2年)政権があり、第2共和国と呼ぶ。朴大統領暗殺の後、臨時代行となった崔圭夏(1年未満)の時期が第4共和国、そして全斗煥大統領在任期間7年を第5共和国という。その後第6共和国は 盧泰愚 金泳三 金大中 盧武鉉 そして現在の 李明博大統領へと続く。

 このドラマ「第5共和国」は 1979年、ときの中央情報部長 金戴圭 が朴大統領暗殺、崔大統領就任後、韓国軍戒厳司令部合同捜査本部長の全斗煥将軍が粛軍クーデターで韓国軍を掌握し、盧泰愚を中心とする新軍部勢力と共に実質的な権限を握る。新軍部が政権の掌握をもくろみ、鄭昇和当時の陸軍総長を連行した(12.12)頃から、盧泰愚前民正党代表最高委員が大統領直選制を受容し、宣言発表するまで(1987年6.29)の6年余りの歳月を描く。この間に発生した主要な政変は、当時の証言と史料などをもとに、リアルに描かれている。

 この間、独裁政治に対する強硬な抗議が、大学生や労働組合によって引き起こされた。この抗議活動が、大規模デモによって最高潮に達する。これにより全斗煥は、1980年5月17日に戒厳令を布告して民主化運動の取り締まりにかかり、金大中、金鍾泌といった有力な政治家を拘束した(5・17非常戒厳令拡大措置)。翌日5月18日に発生した光州事件では、学生らの抵抗に対し軍事力を用いた徹底的な弾圧を行なった。

 「事実だけを記録するドキュメンタリーでもなく、作家の想像力だけで作り上げるfiction(虚構)でもない」 というが、ふんだんに入れる実写フイルムや、登場人物のほとんどが本名ということもあり、私にはドキュメンタリーに近いドラマと映った。

 「政治とは、国民の意思でやるべきだ」とは思う。我々の目指すのは民主主義であり、国民主権であると思うからである。 では、なぜ「第5共和国」なのか。 一つの時代を終える出発点に、全斗煥と盧泰愚がいた。
 この国で経済が疲弊し、リストラが横行した2001年頃、韓国の巷では「全斗煥の時代が懐かしい」との声が、タクシー運転手を中心に広まったという。民心の尺度であるともいえるタクシー運転手が、あの「軍部独裁政権の全斗煥の時代が良かった」と言っているのは、皮肉なことと思わずにはいられない。
   B級  ★★★☆     













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73  私の読書歴 (24)  09.12.27 
さまよう刃 東野 圭吾著 (角川文庫) 
 2009年も終わり近くになり、イギリス人留学生殺人の容疑者がつかまりましたが、山陰の島根女子大生残虐殺人事件や、千葉の放火殺人事件の犯人は捕まる(捕まったんかな?)ことなく年が変わってしまいました。これらの事件は未成年が犯したものではないにしろ、若い娘たちが理不尽に殺されるような事件が起こったとき、いつも思うのは彼女らの両親の辛さ・悲しさやその怒りの大きさです。
 
 入院中(11月)、昨年映画化もされた「さまよう刃」を読んだ。

文庫本の裏表紙に、
 「長峰の一人娘・絵摩の死体が荒川から発見された。花火大会の帰りに、未成年グループによって蹂躙された末の遺棄だった。謎の密告電話によって犯人を知った長峰は突き動かされるように娘の復讐に乗り出した。犯人の一人を殺害し、さらに逃亡する父親を、警察とマスコミが追う。正義とは何か。誰が犯人を裁くのか。世論を巻き込み、事件は予想外の結末を迎える。重く哀しいテーマに挑んだ、心を揺さぶる傑作長編」・・・・とある。

 少年法 第一条  この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする。
第二条  この法律で「少年」とは、二十歳に満たない者をいい、「成人」とは、満二十歳以上の者をいう。

 「未成年」、彼らは少年法という法律の守りで、人を殺してもどんなに残虐非道な行いをしてもほんの数年で自由になれる。彼ら悪ガキどもが本当に更生できると本気で信じている人はどれだけいるのだろうか。なのに彼らは大人と同じ刑罰を受けることはなく、法律は加害者を無条件で助けるだけのものとなっており、被害者家族の無念はまったく無視されているのが法の実態ではある。

 この小説で、法律が彼らを裁けないとわかっている主人公は、最愛の娘を蹂躙し、残虐に殺した凶悪な少年たちに復讐をはたそうとする。警察内部の中にも主人公が二人目の復讐を果たす前に、少年を捕まえてしまっては「少年法」の名のもとに凶悪犯人を保護することになるという矛盾に対し、心がゆれる人がいる。読者としてもこの父親に同情し、復讐の前に警察に捕まってほしくない気持ちが、結末をハラハラしながら見守ることになる。

 もし自分にそのようなことが起こり、「警察に任せるか?それとも・・・・」自問したとき、実行するしないはともかくとして、「その相手を殺してやりたい」と思うだろうことは間違いない。












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72 映  画 (9)   09.11.05     
沈まぬ太陽 
      09.11.05 TOHOシネマズ橿原
                 (イオンモール 橿原アルル)
    原作 山崎 豊子   監督 若松 節朗
    主演 渡辺 謙
  鈴木 京香   松雪 泰子  
    
三浦 友和

 
  民主政権発足と相前後してクローズアップされてきたJAL再建問題。この映画の公開と重なったのは単なる偶然なのだろうが不思議な気もする。

 山崎豊子作品は全部で16、この大作家にしては寡作である。それもそうだろう、社会の暗部を取材力であれだけの作品に仕上げるには相当の時間も要するだろう。うち5作読んでいる。「女系家族」、「白い巨塔」、「華麗なる一族」、「大地の子」、そして「沈まぬ太陽」、平成14年1月1日発行の新潮社刊全5冊文庫本で読んだ。

 映画化は難しいといわれていたこの作品を、日本が世界に誇る名優・渡辺謙が何年も前から原作者に「映画化するなら」と訴えていたという。「この作品を仕上げることができて」と試写会のあいさつで感極まって泣くのを見た、彼の役割は単なる主演俳優というより、それ以上のものを感じた。

 世界を舞台に繰り広げられるこの壮大な長編ドラマを映画化したのを観て、「よくぞこの大作」を作り上げたと感心しながら、思ったほど感動がなかったのはなぜなのだろうか。それはいつも原作を読んで後で映画を観たとき感じる。映画を中心に考えるなら「原作が邪魔をしている」と言えなくもない。原作では1・2冊目は「アフリカ篇」、3冊目が「御巣鷹編」、4・5冊目が「会長室篇」となっており、この事故を生んだ背景、国民航空こと日本航空の企業体質を描いている。

 映画ではどうしても「見せ場」が必要、それが「御巣鷹墜落事故」。確かに520名もの命を奪った大惨事、人間ドラマに仕上げるためにもそれが中心になってくるのは仕方がない。
 懲罰人事で、次々と海外のへき地へと追いやられ、約束の期限も破られていくさまは観ていてつらい。これほどまで妻子や母親までもを犠牲にしながら、「なぜ会社と妥協しなかったのか、何故会社を辞めなかったのか」の疑問に『意地とかそういうものではなく「男の矜持」」と答えている。幸い理解してくれる妻はいいとしても、子どもたちは父を恨む気持ちもあっただろう。

 少年から成年へ成長する頃、父親との距離を置いていた長男が、大人になって「父も母も逃げなかった」と父親の生きざまを理解したとき、泣くため用意していたハンカチがやっと役に立った。











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71.  韓流ドラマ (17)  09.09.26    
頑張れクムスン 全164話 
   キャスト
ナ・クムスン  ハン・ヘジン
ク・ジェヒ カン・ジファン
チャン・ウンジュ イ・セウン
ヨンオク ヤン・ミギョン


 
入院中は退屈と思い、ノートパソコンと韓流ドラマのDVDを持ち込んだ。個室なのにインターネットがつながらない。テレビもろくな番組がない。ここではノートPCで韓流ドラマを見ることが最大の退屈しのぎとなった。頑張れクムスン164話、1話30分とはいえ、「これを全編見終わるまで退院」できるように祈りながら。

 韓流にはまるきっかけとなった朱蒙(チュモン)のヒロイン ソソノ役、これ1作でファンとなってしまったハン・ヘジンの現代劇。なんとまあ、すごいヘヤースタイル、白菜頭、わたしのなかのイメージが壊れると思いながらも、いつのまにか、いつのまにかけなげに生きるシングル・ママを応援していた。やっぱりハン・ヘジンはいい。

 明るく元気なナ・クムスン、美容師を目指して目下奮闘中。常に怒られたり励まされたりしながら肉親でただ一人頼れる祖母は両親を早くに亡くした?彼女をここまで育ててくれた。
 大学生のボーイフレンドジョンワンとの妊娠が発覚。彼氏ノ(の)家の母親には散々反対されたが、父親や兄弟のおかげもあり、なんとか結婚することに。直後、彼が事故死して未亡人になってしまったクムスン。最初はノ家の人々にも疎まれていたものの、女手ひとつで子供を育て、夢に向かって働きながら明るく頑張るクムスンを少しずつ家族として認めていくというストーリー。

 長いドラマのエピローグは、難題すべてが解決され、韓流には珍しくすべてがハッピーエンドとなる。
このドラマを観て韓国の儒教の影響が色濃く残る家族制度や結婚、親子・兄弟の関係が我が国のそれと比べて相当の隔たりがあるのを感じた。この国も我が国と同じく戦後アメリカナイズされていくのであるが、朝鮮戦争後も軍事政権が続き民主化が遅れた影響があるのだろう。

 我が国では核家族が進んでかなりの時間がたつ、「大家族の中でも結婚当初は親子同居が原則」、「いくら愛していても親の反対には逆らえない」など、いまの我が国には考えられない。とはいえ、回りすべての人に祝福されての結婚がいいのには間違いないないと思ったりもする。

  B級  ★★★★












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70   韓流ドラマ (16)  09.09.26  
太祖 王建(テソ・ワンゴン)  200話 
    キャスト
太祖 王建 役 チェ・スジョン
クンイェ キム・ヨンチョル
ヨンファ キム・ヘリ
チョン・ガン キム・ガブス

 あなたは1時間ものドラマ200話、観られたことがありますか? 

 韓流ドラマは長い。まとまったものを初めて観たのが「朱蒙(チュモン)81話。相当長いドラマであったが面白いためあっという間に観てしまった。
「太祖王建」200話、1話約1時間であるから全部で200時間。毎日一睡もせず、飯も食わずトイレも行かず見て8日で足りない。平均3話ぐらいのペースで見て67日かかる、見ない日もあったので3ヶ月はかかってしまった。

 この作品は’00年4から’02年2月24日までの間、土曜日・日曜日の週2回、韓国のテレビで放送され、男性層からの圧倒的な支持を受けたという。最高視聴率60.2%、平均視聴率37.3%という高視聴率を上げた。最高視聴率は歴代韓国時代劇で第2位であり(第1位は、ホジュンの63.7%)、歴代韓国ドラマの中でも、第8位に入る。週間視聴率第1位・連続29週という記録も打ち立てている。この記録は、『朱蒙』(連続35週)に次いで、歴代韓国ドラマ第2位の記録であるとか。

 それまでの韓国時代劇は、「チャングムの誓い」など李氏朝鮮時代を描いたドラマが主流であった。このドラマは、初めて高麗時代を本格的に描き、韓国時代劇の新たな扉を開いた。主演のチェ・スジョンはこの作品で韓国時代劇の第一人者となり、海神(ヘシン’04年)。大祚榮(テジョヨン’06年)など大作時代劇の主演はこの人でキマリとなったようだ。

 9世紀末、新羅が三国(高句麗、百済、新羅)を統一して230年の時が流れた。新羅の勢力が衰え、後高句麗(コグリョ)、後百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)による後三国時代の幕開けから、高麗による三国統一までの物語である。新羅国内は、王位争奪戦が繰り返され、豪族や民衆が反乱を起こし、国力は衰退していった。.

 そんな中、高句麗であった地では僧侶のクンイェが、百済の地では軍人のキョンフォンが勢力を強めていた。主人公のワンゴンはクンイェに認められ、持ち前の知性と人徳で、数々の功績を挙げていく。しかし、絶大な権力を握ったクンイェは暴政を振るうようになる。それを見かねたワンゴンは、クンイェと決別し、新国家建国を決意する。

 前述に韓国でも男性層の人気が高かったと書いたが、華やかな人間ドラマというより史実を踏まえ、ヒーローをスーパーマンとして描かず、実在した歴史上の人物を淡々と描いている。たいていの韓流ドラマは鑑賞済みのカミさんも、この傾向の作品は苦手らしくまだ観ようとしていない。

  A級  ★★★★












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69   私の読書歴 (23) 09.08.29   
小説 日本銀行 城山三郎著 (角川文庫) 
 失われた10年のデフレスパイラルからやっと抜け出したと思ったとたん、米国発の未曾有の金融危機により、雇用情勢の悪化が消費を低迷させ、物価が下落し、またしてもデフレの危機が迫っている。このようなとき、通貨の番人「日本銀行」の歴史を描いたこの本を読んでみたくなり、手に取った。

 文庫の解説に文芸評論家の瀬沼茂樹が、「極めて野心的な企図で日本の作家が誰一人今まで手掛けることができなかった冒険である」とし、「城山君は一橋大学で理論経済学をおさめ、教壇に立って景気論を講じた新進有為の学者であったから金融論において「日本銀行論を講じ、あるいは戦後経済を論ずることはさして難しいことではない」と言い、単なる小説家ではないことを示唆している。

 新潮社から城山三郎のこの小説が発刊されたのは昭和38年(1963年)、私が社会人として当時の相互銀行へ入行した年でした。我が家の本棚にあったのは、昭和46年初版、同49年5刷、角川文庫版である。それからでも35年は経っており、中身も茶色く焼けている。
 城山三郎は私の最も好きな作家のひとりであり、前に本欄「落日燃ゆ」(エンターテイメント№8)のところでも書いたとおり、うまくつけられた題名に惹かれ、多くの経済小説・伝記ものを読んできた。

 主人公津上は、東大経済学部を優秀な成績で卒業し、金融マンとしての理想に燃えて日銀に入った。しかし予期していなかった様々な「壁」に突き当たり、ことなかれ保身主義の冷たい殻の中に逃避する先輩同僚、日銀マンとしての使命感を喪失し、挫折を味わっていく。
 中央銀行としての日銀の金融の「中立性、独立性」を護るために、日本経済における主導権を確立しようとする総裁の野心と、「あの男」を中心とする大蔵官僚のそれを許すまいとする強烈な巻き返しと激突が描かれている。

 津上は、インフレの中でバカと言われながら、大学教授であった父の遺産を定期預金とする。厳しいインフレのなか、虎の子の預金があっという間に価値を失う。悪性のインフレと不況のなか、妹は病弱の母を支えるため闇物資の担ぎ屋をして逮捕され、一家は貧乏のどん底に陥る。

 若い時は景気浮上のためには「少々ならインフレのほうが良い」などと単純に思った時期があった。しかしこの本を読んで年金生活者や、過去の蓄積で食べていくしかない私たちにとってインフレほど恐ろしいものはないと思う。

 「通貨の安定」という中央銀行の使命の重さをつくづく感じた本ではありました。












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68 映  画 (8)  09.07.13     
剱岳 点の記 
      09.07.13 TOHOシネマズ橿原 
                (イオンモール 橿原アルル)
    原作 新田 次郎 「剱岳 点の記)  監督 木村 大作
    主演 浅野 忠信  香川照之  中村トオル  
宮崎あおい

 大雪山系トムラウシ山(2141メートル)でツアー客ら8人が凍死した。

 
山奥で育ったのに、登山の経験がほとんどない。それでも、山好きにとってはハイキングコースのようなものかも知れないが、1000メートル以上には4つ登っている。田舎がこの山のふもとだった国見山1418m・同じく薊(あざみ)岳1406m、他には大台ケ原1695m・金剛山1056m。大台は頂上近くまで車で行っているし、金剛山も似たようなもの。登山らしい登山は中学か高校時代登った国見と薊ぐらい。これぐらいの山でも苦労して山上へたどり着いたら、しんどさに見合うだけの喜びがあったし、景色もよかった、そこで食べたおにぎりの味も格別であったことを覚えている。

 その後はそこまで苦しい思いをしてまで登る気はしなかったし、命までかけて険しい山に挑む人たちの気がしれない。このように山男の対極にいるような私でも新田次郎の山岳小説は結構読んでいる。「孤高の人」「栄光の岸壁」短編集「強力伝」、軍隊の雪中訓練を描いた「八甲田山。氏の小説にはたいていモデルがいるようですが、いづれも過酷なまでの登山の様子が描かれている。

 この映画は1907年(明治40年)、浅野忠信演じる地図の測量手柴崎芳太郎が、突然、陸軍参謀本部から呼び出され、「日本地図最後の空白地点、劔岳の頂点を目指せ」との命令を受けるところから始まる。日露戦争後、国防のため日本地図完成が急がれるなか、ほとんどの山は陸地測量部によって初登頂されてきたが、未だに登頂されていないのは劔岳だけだった。柴崎らは山の案内人、宇治長次郎(香川照之)や助手の生田信らと頂への登り口を探す。

 その頃、創立間もない日本山岳会の会員も剱岳の登頂を計画していた。軍からは国の威信をかけ、「山岳会の後塵を拝することなく何としても初登頂をめざせ」との命令が下る。前人未踏の「死の山」といわれてきた北アルプスの名峰・剣岳(2999m)に、挑んだ男たちの物語、原作はやはり新田次郎。
 監督は黒澤明監督から、そのピント合わせのうまさから一目置かれていたという撮影技師の木村大作。50年の映画人生すべてをかけて取り組んだ念願の初監督作品。

 撮影にあたっては、近年の日本映画の常識をはるかに超える時間と労力をかけたという。CGや空撮は一切なし。延べ200日以上、標高3000メートル級の立山連峰にこもり、脚本の流れ通り、明治の測量隊の足跡を順にたどっていった。一つの場面をクリアしない限り、前には進めない。9時間歩いて、撮影したのはたった2カットという日もあったらしい。

 それだけあって、この映画はドキュメンタリーをみているようなリアルさで、画面から「自然の厳しさ、美しさ」が迫ってくる。悪戦苦闘の末、先に頂上に到達するのは柴崎ら測量隊だったが、歓喜のなかで彼らがそこで目撃したものは・・・・。

 中学生の時だったと思いますが、地元の山岳会の引率で薊岳に登ったとき、頂上付近にシャクナゲの群生地があった。今まで見たことのないような石楠花の老大木に見事な花が付いていたことを覚えています。あのように素晴らしいものはやはり相応の苦労をしないとみられないのだろう。













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67 私の読書歴 (22)  09.06.28   
猛き箱舟(上・下)船戸与一(集英社文庫)
  OBPのツインタワーで古本市をやっていた。 いままで古本で小説を買ったことなどあまりなかったが、この本は上下2冊セットできれいにラッピングされていたので、手に取っていた。「推理小説」なのか「ハードボイルド」なのかはたまた「冒険小説」なのか小説の分野などわからぬまま買ってみた。冒険小説?と思ったのは、早大探検部(冒険部?)出身で「オホーツク諜報船」などの著者で大好きな西木正明の後輩と知っていたため。

  初版は ’87、西木の「スネークヘッド」と「ルーズベルトの刺客」の間ぐらいに刊行されている。その頃私は船戸与一を知らなかった。
  物語の第1章は「ある隻腕の死者のおぼろな肖像」と題し、3000メートル級の南アルプスの山々の間にある大井川源流近くで、隻腕の男が内閣警備部内に編成された「特別包括行動部隊」の狙撃手に追い詰められるところから始まる。

  2章では、一瞬短編小説集を買ってしまったかと思ったくらい小説の背景がガラッと変わる。「短編集なら分厚い2冊にするわけないし」とおもい、その疑問はひとまずおいたまま読み始めたら、これが止まらなくなってしまっていた。
  主人公高坂正次は胸に野心を秘め、わざとらしいやり方ではあったがその男に無理やり近づいていく。

  その男とは国外進出企業がトラブルに陥った際に、非合法かつ暴力的な手段で解決する、「海外進出企業の守護神」灰色熊こと隠岐浩蔵。念願かなって灰色熊の配下となった高坂正次は血と暴力の支配する初めての任地マグレブ(西アフリカ)の大地に立っていた。その仕事は、ある企業の依頼で砂漠の鉱山を敵の攻撃から守ることであった。

  舞台となるのは西サハラの灼熱の砂漠、アルジェのカスバ。私の想像力の範囲でいうと、このあたりはあの名画「カサブランカ」や流行歌「カスバの女」で醸し出す異国情緒たっぷりの地。物語はポリサリオ解放戦線との攻防戦以降、荒唐無稽な設定、唐突な展開、これでもかこれでもかのピンチの続出。「なんで?」「うっそー」と思いながら最後まで読んでしまっていた。

  東京に住んでいた「人より少しは喧嘩に強く、そこそこ女にもて、ほんの少しワルなまあ普通の男」が、これほどまでにニヒルで陰惨な人間に変質してしまうのか。この本の全編にはそうなるための、えげつないほどの裏切りと殺戮が用意されている、そして本の最後がプロローグ第1章へと続く。年のせいもあるのか読後はかなり疲労感が残った。このような激しい本を読むのもエネルギーが要る、ああしんど。













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66 私の読書歴 (21)  09.0530  
天空の蜂 東野 圭吾著  講談社文庫
 最近ハードカバーはあまり買わなくなった、小説は文庫本で済ましている。私自身本屋で見つけた作家で、一冊読んで面白くなかった場合その本だけになってしまう場合が多い。逆に気に入ったらとことん全部でも読みたくなる。そんな作家は浅田次郎以来、(亡国のイージス・終戦のローレライの長編2編だけだが)福井晴敏だけである。

 本屋の店頭で文庫の冊数が目立って増えているので、気になっていた作家東野圭吾を初めて手に取った。帯に『今まで書いた作品の中で一番思い入れの強いのはどれか」と訊かれれば、これだと答えるだろう』とあった。

 物語は、錦重工業が防衛庁に納入予定だった掃海ヘリ「ビッグB」が、何者かに奪取される。領収飛行の直前に、遠隔操作によって飛び立ってしまったのだ。しかも爆薬が満載されたそのヘリには、開発にかかわった技術者の息子が乗りこんでいた。少年の存在に気付かなかった犯人は、超大型特殊ヘリコプターを離陸させ、予定どおり敦賀の原子力発電所上空でホバリングさせる事に成功する。

 原子力発電所の真上に超大型ヘリを浮かべ、政府に対し犯人は、「全国の原発をすべて停止しろ」と脅迫する。要求をのまない場合は高速増殖原型炉「新陽」に「ビッグB」を墜落させるというのである。
少年が乗っていることに気づいた犯人は、条件つきではあるが救出することには理解を示す。超プロフェッショナルの集団航空自衛隊救援隊が、不可能のはずの救出を行う。このシーンの描写は手に汗握る。

 午前5時にスタートした犯人によるゲームが、同日の2時30分ごろ終結するまでのわずかの間に、県警の刑事が犯人を洗い出し追いつめ、いろいろな人が奔走し、物語が進んでいく。
この小説は物語のサスペンスの面白さもさることながら、普段は恩恵にだけ預かり、あまり考えることのなかった「原発」について、一瞬ではありますがその存在について考えさせる物語でもありました。

 先日、もっと面白い作家を見つけた、今読んでいる長編「猛き箱舟」の作者船戸与一である。













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65   私の読書歴 (20) 09.4.29   
流れる星は生きている 藤原てい著 (冒険社)
     亡き母に捧ぐ   

  今年も母の日が近づいています。私たち夫婦が結婚式を挙げたのはいまから39年前の5月10日、母の日でした。   
  最近になって、今から62年も前の昭和24年に初刊行されたこの著書を知ることとなり、同51年に文庫本となって発売されていたものを探し出し、一気に読んだ。
作者は気象庁勤務を経て小説家となり、多くの山岳モノや時代小説をものした新田次郎の夫人で、「国家の品格」で一躍有名になった数学者「藤原正彦」の母でもある。

  母が死んだときの年齢を超えた今、親孝行ができなかった自分に対する悔いが、この本を通して母親を想いたくなり、作者に母を重ねて読むこととなった。
藤原母子は満州新京(長春)の官舎から3人の子供を連れ、私たち母子は平安南道(ピョンヤンに近い)の社宅から母子2人という違いはあるものの、共通点は多い。

  北朝鮮から先の引揚げコースもよく似ており、時期もほぼ同じ。藤原の母が大正7年生まれ、しかも3人目を産んでわずか1カ月、私の母は同8年生れで1歳下、藤原正彦が3歳、私が2歳。決して丈夫とは言えなかった私の母が、どのような思いでどのようにして、祖国の土を踏むことができたのか、この小説を通して詳しく知りたかった。

  生前母は「引揚げ」について、あまり多くを語ってくれなかった。それでもときおり、「もうてっきり駄目だと思ったあなたが、親切な朝鮮人妻から大きなおにぎりをもらい生き返った」ことや、引揚げ団が「夜大きな川を渡るとき、つないでいた子供の手を放してしまい、泣きわめいていた人がいた」ことなどを聞くことはあった。

  4年前父も他界し,実家の遺品など整理したときも、父の出征のときのものなど出てきたが、引揚げに関するものは何一つなくて、北朝鮮を出た日時や,母が乗った引揚げ船は、何時どこの港についたのかなど正式なものは何も残っておらず、聞いて記録しておくべきだったと思い悔やんだ。父や母から聞いてわかっていることは、終戦まえ父が現地招集で軍隊に入り、敗戦とともに先に日本へ帰ってしまったこと。残された母と私の消息はようと知れず、引揚げ船が着く港で「岩壁の父」となって待ったことなどである。
 
  藤原一家のたどった道=(s20.8.9) 新京(長春)→奉天(瀋陽)→安藤→(鴨緑江=国境)→宣川(20.8.15終戦 21.7.30出発)→平城→沙里院→開城→(38度線)→京城→大邸→釜山→博多(21.9.12)

  藤原母子は中国との国境を超えたところにある北朝鮮の宣川(中国・朝鮮国境の少し南)の農学校で8月15日を迎えている。ここで夫と再会するのであったが、間もなく藤原の夫たち18歳から45歳の健康な男はシベリアへ引っ張られていった。その後博多上陸(21.9.12)までの1年と1か月、乳飲児と二人の幼児を抱えた母がどのようにして過ごしたかは筆舌に尽くしがたい。

  母からは引揚げ時のお金の苦労や、引揚げ団仲間の葛藤などは一言も聞いたことはなく、少なくとも持っていたお金の多寡で、これほど苦労の度合いが違ってきたなども想像もできなかった。
多少のフィクションもあるだろうが、物乞いまでせざるをえなかったことや、引揚げ団の仲間たちに対し、「良い格好だけでは生きていけなかった」ことなどもよくわかる。

  この本のなかで、あるとき保安隊の腕章をしていた金さんという朝鮮人から、「南方にいたとき部隊の兵隊が作った」という歌を教わる。3小節から成るこの詩に「流れる星は生きている」というフレーズがあり、「私はこの歌を覚えてから無事に国へ帰り着くまで心の中で歌い続けていた」とある。
また、仲間の女性との会話に次の様なくだりがある。「どうせだめに決まってる子を、少しばかり生き延びさせてなんになるの?」「だって」、「藤原さん、二人の子供と一人の子供とどっちが大事なの?、あんたは」、「二人の子も一人の子も大事よ」・・・。

 お互い、母も藤原ていさんどちらも、子に対する母の強い愛がなければ、私自身は山崎豊子の「大地の子」ならぬ「半島の子」になっていたかもしれないし、あの数学者のベストセラー「国家の品格」が生まれることもなかった。













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64   韓流ドラマ (15)  09.03.27   
太王四神記 24話 
  キャスト・監督     
タムドク 役 ペ・ヨンジュン
キハ ムン・ソリ
スジニ イ・ジア
ヨン・ホゲ ユン・テヨン
監督 キム・ジョンハク


 私が韓流ドラマにはまるきっかけとなったのは、時代劇「朱蒙(チュモン)」を観たことによりますが、我が国の韓流ブーム最大の功労者は間違いなくペ・ヨンジュンでしょう。私自身未だ観ていませんが「冬のソナタ」のヒットぶりは大変なものがありました。このころ日本のおばさん方が大いに熱狂しているのをみて、「ヨン様のどこが良くてあんなに」などと思った同輩も多かったのではないかと思います。

 初めてヨン様の主演ドラマを見たのは時代劇の大作「太王四神記」、このドラマの宣伝のため日本へ来て行われた会見などを通じて、彼の人気の秘密がわかったような気がした。インタビューで笑顔を絶やさないペ・ヨンジュンの、そつのない話し方や礼儀正しさから誠実な人柄が伝わってきたように思う。あの笑顔は決して作られたものではないと思うし、あの笑顔をみることで、癒されるおばさん方が多いのはわかるような気がした。

 ドラマは製作費50億円以上といわれる大作で、2007年9~12月韓国のテレビで放送され、それなりの視聴率を稼いだようですが、日本の作曲家久石譲が音楽を担当するなど、明らかにヨン様人気の日本市場を狙った作品だろうことは容易に想像できる。

 物語は、神の国チュシンの王の誕生を告げる星が夜空に輝いた夜、王家に生まれた二人の男の子、タムドクとヨン・ホゲ。高句麗には「朱雀、青龍、白虎、玄武、それぞれの主人と神物がチュシン王の元に集まる時、地上に平和が訪れる」という伝説があり、人々は2000年もの間それを信じていた。

 その頃、青龍、白虎、朱雀、玄武、それぞれが東西南北の方角をつかさどる守護神の意味を持つ四神たちも、人の姿で眠りから目覚める。やさしさと強さを備えたタムドクは、やがて数々の困難を乗り越え、真の王へと成長していく。

 このドラマは韓国の歴史をベースに紀元前からいろいろな時代を行き来し、登場人物が多いことや、「チュシン国」「四神」「黒朱雀」「4つの神器」などわかりにくい用語が出てくることで、最初から理解しにくいドラマとなっている。
それでも回を追ううち、日本人好みの音楽と、ヒーロー ペ・ヨンジュン、ヒロイン イ・スジニの魅力と、(お金をかけただけある)スケールの大きさでだんだん面白くなっていく。

A級  ★★★★












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63   Trip&Tour (5-3) 09.04.29
 「台湾で新幹線に乗る」の旅Ⅲ (2/10~13) 
  3日目の午前中は故宮博物院見学のみ、午後は自由行動となっていたが、時間の関係で昨日行けなかった忠烈祠へは 博物院の前に行くことに予定を変更していた。朝、ガイドの迎えの自動車に乗り込んだところ、中年・老年二人の女性が乗っていた。午後から案内する名古屋からの親子とのことで、朱さんは午前中、忠烈祠と故宮博物院へ二組を同時に案内する予定だという。「衛兵の交代時間に間に合わせないと、ここを訪れる値打ちがない」とのことで、例によって荒っぽい運転で忠烈祠へと急いだ。

  忠烈祠は、辛亥革命や対日抗戦などで戦死した軍人の英霊を祀る祭祀場で、英霊と建物を守る衛兵の交代式は台湾旅行で人気があるだけあって、見ものではあった。微動だにしないはずの片方のの衛兵が、交代寸前でぐらつきだし、必死にカムフラージュしようとしているのが面白かった。

  次に向かったのはルーヴルや大英博物館と並び称され、宋・元・明・清時代の至宝約65万4500点が収蔵されているというこの旅行のメーンエベント故宮博物院。楽しみにしてこともあり興味は尽きなかったが、午後から名古屋の二人を案内するガイドの都合で、短時間で切り上げることになり、途中から端折った説明となり、未練を残す故宮見学となった。

  ここでガイドと別れ、自由行動ということになっていたが、名古屋の親子を昨日われわれも行った小籠包の店へ連れて行くことを聞き、どこで昼飯を食べたらいいのかわからない我々もご一緒することにした。二度目の小籠包の店「鼎泰豊」は相変わらず混雑していたが、昨日のようにコースではなく好きなものだけ単品で注文した。

  昼食後は二人だけの行動となるが、世界でいちばん高い建物台北101まで送ってもらうことなった。いずれドバイで建築中のビルや、上海で建築予定の建物に抜かれる運命にあるものの、ここ台北市信義区にある超高層ビルは、台北国際金融センターと大型モールが併設されており、高さ508メートルもあり、その最上階にある世界一高い展望台に昇ってみた。

  それでも あまった時間は、旅の疲れと肩こりをほぐすためマッサージに行くことにした。台北101からタクシーでいったんホテルに戻り、マッサージ屋からの迎えの車を待つことにした。
台北最後の夜、その昔蒋介石夫人「宋美齢」がオーナーであったというこの高級ホテルのスイートルームを楽しむべく、寝室とは別室で大画面のテレビを見ながら台湾麦酒を飲みながら台北最後の夜を楽しんだ。

  台湾では60歳と70歳の男性ガイドに案内されることになったが、台湾人気質のようなものを感じた。前日ホテルでみたテレビのニュースでは、前総統陳水扁夫人呉淑珍が国務機密費横領事件で、ついに出廷するとのことで、車いすに乗った夫人を何度も画面で見ることとなった。高雄市のガイドとのあいだでこのニュースが話題となったとき、彼は中国本土のことを「大陸」と言い、台湾総統のことを「大統領」と言うのを聞いた。
  また台北のガイド氏は台湾のことを「民国」と言い、西暦でなく民国何年というのも聞いた、偶然ながら大正元年と一致していることも始めて知ることとなった。

  中華民国の建国は1912年(大正元年)1月1日、辛亥革命によって南京に成立したが、同年2月12日にラストエンペラー溥儀が退位するまで、北京にはまだ清朝が存在していた。南京に成立した国家の臨時大総統は孫文であったが、清国の全権袁世凱が大総統となり国民党の主導権を握り、南京占領を果たした。その後紆余曲折あって1946年毛沢東率いる共産党軍と国共内戦となり、蒋介石軍は台湾に追いやられ、1950年台湾国民政府を建国、総統となったのは周知のとおりである。

  台北の朱さんは市内を車で走り、東京駅の丸の内側によく似た建物の前を通りながら、「日本統治の時代は建築物など良いものを残してくれたが、中国になってからは何もない」とこぼしていた。また二人とも中華民国の指導者として称される初代総統を、敬愛をこめて「蒋介石さん」と「さん付け」で呼んでいたのが印象的でありました。

  4日目は迎えの車でタックスフリーの店に寄っただけで、桃園国際空港へ向かった。












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62   Trip&Tour (5-2) 09.03.28 
「台湾で新幹線に乗る」の旅Ⅱ (2/10~13) 
   ホテルのバイキングで朝食をとったあと、AM 9:00、 昨日からのガイドの迎えで台湾観光2日目がスタートした。自動車は圓山大飯店のすぐ近くにある中国・杭州の西湖をモデルにしたといわれる「澄清湖」に向かった。
 この人造湖は湖にジグザグにかかる九曲橋を歩くと、橋の欄干に次から次へとツガイのツバメが留まっては逃げ、また停まるのがなんともいえず可愛かった。台湾のツバメは一回り小さく、色も赤っぽく日本のそれとは少し違っていた。
 また、この湖を一望できるという七重の塔「中興塔」はエレベーターがないとのことでパスした。 このあとガイドの勧めで免税店に入ったが、時間が早かったせいか客は我々二人のみであった。

  昼前、新幹線駅までの途中、ガイドはとある店舗に寄り、車内で食べる弁当を受け取り、駅に向かった。このガイドはここまで、台北市の桃園駅では違うガイドが待っているはずであった。
 左営(高雄)駅構内で発車時間を待つ間日程表を見ると、「左営駅発台北着」となっているのに、昨日空港に着いたとき受け取った新幹線の切符には「桃園着」となっていることに気が付いていたが、あまり疑いもせず新幹線に乗り込んだ。

  席に着いた時は昼を過ぎていたので、早速先ほどの2段重ねの弁当を広げた。かなりのボリュームかつ豪華なものであったが、とても食べきれる量ではなかった。
 食後のほっと一息ついたところで、注文もしないホットコーヒーが出てきたのは気分がよかった。「さすがビジネスクラスに乗っただけのことがある」とカミさんが妙に感心していた。

  桃園駅についたところで、この旅行初のハプニングとなった、改札に迎えに来ているはずのガイドがいなかったのだ。そこで気がついたのは、切符は「桃園着」でも日程表には「台北」となっていたことである、昨日空港に着いたときもらった切符が間違っていたのだ。

 幸いこの表には迎えに来ているはずのガイドの携帯番号が書いてあり、自分の携帯でかけようとしたら、画面は圏外とでた。昨日台北に着いたとき、携帯には時計の時差自動調整とともに、このまま使用できる旨のメールが入っていたのに。

  仕方なく公衆電話に100元を入れると電話がかかり、今日からお世話になるガイドが出た、やはり台北駅で待っているとのこと。今から車で迎えにいくより、新幹線であと2駅乗ってくれるほうがずいぶん時間が短縮できるとのことで、乗ることにしたが、切符の買い方がわからない。

 日本でいう「みどりの窓口」らしき売り場にはかなりの客が並んでいた。「果たしてここで切符が買えるのか」疑問に思いながら待ち、やっと買えたときは発車2~3分前、「乗り遅れたら大変、旅行かばんを引きずりホームを走りに走りやっと乗り込むことができた。

  はたして台北の駅には朱さんという、背が高くて姿勢がよく、堂々とした感じの中・高年の紳士が待ってくれていた。現地旅行会社新幹線切符のミスにより予定より1時間程度遅れており、観光目的のひとつ「忠烈祀」を翌日にずらすなど予定を少し変更し、まずは中正記念堂(民主記念館)へとむかった。

 ガイドは高雄のガイドとは反対に見た目より年がいっており、’39生まれで今年70歳ということであった。いま台湾では高齢の人をガイド兼運転手として雇い(70歳以上のほとんどの人が日本語が話せることもあり)、経費を節約しているのであろう。朱さんはセダンの乗用車を年齢を感じさせない荒っぽい運転で、後部座席はハラハラの連続となった。

  広大な庭園にそびえ建つ台湾最大の中正紀念堂は、いままで写真などで見たものとは比べ物にならないくらいの威容を誇っていた。台湾の人々にとっての「蒋介石の存在」の大きさを改めて知ることとなった。

 次に、台北で最も長い歴史をもつという龍山寺という仏教のお寺に行ったが、ここも昨日行った道教の啓明堂などに勝るとも劣らない絢爛さであった。余談ながら仏教はお「寺」で道教のそれは「廟」というらしい。

  夕食はごく最近、米国が選ぶ(仏のミシュランのような)レストラン格付けで、世界のベストテンに入ったという小籠包の店「鼎泰豊」はかなりの混みようで、アメリカ人らしい報道陣がカメラを回していた。いうだけあって味は文句なし、普段は食の細いカミさんもよく食べた。

 食後は士林夜市の散策となったが、楽しみにしていた「屋台の食べ物」は昼食の小籠包で満腹だったのと、腐り豆腐や蛇・蛙の串刺しなどの匂いが鼻につき「ノーサンキュウ」という感じで、ホテルに帰ってからのビールのアテを少し買っただけで、本日の宿泊場所「台北圓山大飯店」に向かった。

  ホテルは市の中心部から少し離れた小高い丘の上にそびえ立っており、ライトアップされた清王朝風の12階建ての威容に感心した。高雄も圓山(大飯店)であったが6階建てで、ここよりはこじんまりしていた。台北のそれは外形もさることながらホテル内の豪華さも数段上であり、しかも私たちの泊まる部屋は「9階のスイートルーム」になっている」とのことで、一流ホテルのスイート泊はこの歳ではじめての経験となった。
    以下次号  












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61   Trip&Tour (5-1) 09.02.27 
「台湾で新幹線に乗る」の旅Ⅰ(2/10~13) 
  カミさんの還暦祝いと会社の「連続(5営業日)休暇消化」をかねて台湾へ行ってきました。
周知のとおり、台湾は日本の最南端与那国島から西へわずかに111km、南北394km、東西144kmで、面積は九州に匹敵する島である。人口は約2300万人、人口密度はバングラディシュと世界で1、2位を競っているという。

  私自身はじめての台湾であったが、2度目の彼女のため、新幹線を利用して高雄地方へ行き台北へ戻ってくるコースを選んだ。せっかくの機会なので少し奮発して新幹線はビジネスクラス(グリーン車)、ホテルは圓山大飯店(ザ・グランドホテル)を指定した。早朝便で台北まで2時間半、空港では現地のガイドさんが迎えにきており、新幹線の駅「桃園」まで送ってくれたが、(高雄では別のガイドが待っているとのことで)電車へは2人だけで乗り込んだ。

  300キロほど南にある高雄まで約90分、窓外の景色は田や畑の向こうに山が続き、時々中腹にある寺院のような建物が異国を感じる以外、外国を走っているという感じはほとんどしなかった。それでも途中からの田園風景の中に、これから植えるのであろう水が入った田んぼや、植えた後のような青い田が見えた。

 今、田植えということはたぶん二毛作なのであろうか。南下するにつれパイナップル畑やサトウキビ畑などが続き、椰子の木が増えてくることで南へ向かっていることを実感することとなった。それにしても「台湾と言えばバナナ」の、バナナ畑はあまり見かけなかった。

  高雄市は台湾第二の都市で港湾が発達している関係上、国際貿易都市として栄えたとのこと、中心部に近づくにつれ工場地帯となっていき、ときどき日本企業の看板が見え、都心では85階建てはじめ高層ビルが林立していた。高雄(左営)駅には年配男性のガイドが迎えに来てくれており、ライトバンに乗せられ(二人のみ)高雄最初の観光地に向かった。

 ガイドの男性は最初70歳位ぐらいに見えたが、聞くと1949年生まれの60歳で、先祖が160年以上前大陸から渡ってきたらしいという。70歳を過ぎた台湾の人はたいてい日本語が話せると聞いていたが、還暦を迎えたばかりのこの男性は親から教わったという。

  このガイド兼運転手の車が向かった先は、極彩色の塔や廟が湖畔を彩る蓮池といわれる淡水湖、ここには北岸に台湾最大の孔子廟、大成殿,東西廟などが眼前に迫った。また、「龍の口から入り、虎の口から出ると悪行が取り消される」といわれている高雄のシンボル龍虎塔をくぐった。またこの池を少し行くと関羽を祭る春秋閣の本殿、道教の啓明堂があった。この廟の絢爛豪華とういうか金ぴかさには目をみはるものがあった。

 夕食は港町ということもあって市内のレストランで「海鮮料理」のコースであったが、少し早かったのか他に客はひと組しかいなかった。食後、夜景がきれいだといわれる丘の上にある忠烈祠(台湾にはあちこちにある)に登ったが、日が暮れきってないことや天候のせいもあってか いま一つで、100万ドルの夜景といわれる香港のビクトリア港を望む夜景には遠く及ぶべきもなかった。

  その代わりと言ってはおかしいが、街のレストランからの移動のとき、ライトアップされた河とその両側にひと際美しい極彩色の光が輝くのを見つけ、ガイドに聞くと『年に一度旧正月の15日間行われる「ランタン祭」』だとのこと。

  河の両側の通りではランタンを灯した色とりどりの作品が並べられ、小学生・中学生・高校生別に優秀作を競っていた。旧正月は昨日までだったが、片づけるまで3日間ぐらいはそのままにされているとのこと。 ガイドはこの「台湾のセーヌ川」と呼ばれている「愛河(アイフォー)両岸」の美しさに目をみはった我々のため、急きょ予定にはない「ランタン祭散策」の案内をしてくれた。

 このことは今回の旅行で最も感動したしたことの一つとなった。ガイドによると「昨日までの15日間ではあまりにも人出が多く、今日のように満喫することができなかっただろう」という、この点でもラッキーなひとときとなった。

  そのあと最初の宿泊場所「高雄圓山大飯店」に到着、朝暗いうちに家を出て約15時間、やっとこの中華王朝風のホテルに落ち着くこととなった。 
     以下次号












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60   韓流ドラマ (14)  09.02.27   
不良家族 全16話 
   キャスト
オ・ダルゴン 役 キム・ミョンミン
キム・ヤンア ナム・サンミ
チャン・ハング イム・ヒョンシク
オム・ジスク グム・ボラ、
ハ・ブギョン ヒョンニョン


 
兄の結婚式に行く途中、車が転覆し家族を失った小学生のナリム。1人生き残った彼女は事故のショックで記憶をすべて失ってしまう。家族を失いひとりぼっちになったナリム、後見人である叔父の弁護士は記憶を失ったナリムのために偽家族を用意し、ナリムの心の安定を図る。さまざまな事情を持った人々が、やくざ稼業でガラは悪いがヘンに純情なオ・ダルゴンのもと「ナリムの家」に集まり、それぞれの役割を果たしながら実の家族よりも本当の家族らしくなっていくというストーリー。

 チャングムやオールイン、ソドンヨなどでも軽妙な演技をしたイム・ヒョンシク演じるキャバレーの振付師始め、がめつい餃子屋、借金で金貸しに追いかけられてばかりのコーヒー屋、リストラで家族に見捨てられた男、金持ちの息子だが家出した理解不能な若者などのコミカルな演技と、偽りの家族が作り出すストーリーがおもしろい。ヒロインを演じるナム・サンミのさわやかさ、歌手やタレントとしても大活躍の"セクシー美女"ヒョンニョンがいい。ナリムを演じた、天才子役イ・ヨンユもかわいい。

( スケール・金かけ度) 
B級、  (面白かった度) ★★★☆










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59   韓流ドラマ (13)  09.01.31   
ファンタスティックカップル 全16話 
 :: :  キャスト
ナ・サンシル / アンナ・チョ    ハン・イェスル
チャン・チョルス オ・ジホ
ビリー・パク キム・ソンミン


 
 このドラマは途中から見た。サンシルという女性が男の子ばかり3人もいる海辺の村の設備工事屋の家で、慣れない家事などをやらされているシーンから。この女、美人だがやや目がつりあがっていて、服装はダサいが態度がデカく、言葉遣いも生意気で常に「ザマーナイ」などと言い、車を蹴飛ばすなど性格はかなりねじれている感じ。

  韓流ドラマにはまって間もない頃、BSで放送していたのを偶然見た。途中からなのでストーリーなどはよくわからないまま、なぜかこの我儘で高慢そうな女に惹かれるものを感じ、最終回まで見てしまった。その後再放送であらためて最初から見ることになり、ドラマの全容を知ることとなった。

  実はこのアンナ・チョはアメリカのパリス・ヒルトンに匹敵するほどのホテル経営 財閥の跡取り娘。100日間のプロポーズを受け結婚した夫を徹底的に尻に敷き、きりきり舞いをさせている。アンナのスタイルは、世界のセレブも真っ青のド派手なブランド・ファッション。彼女のペットのプリンセスという名の猫ももまた、ネコ界の超大物らしい。

  以前、アンナから請け負った自家用ヨットの修理などでさんざん損失を被った設備屋チャン・チョルスが、記憶喪失で路頭に迷っている彼女を家に連れて帰り、家事などさせ労働搾取により損した金を取り戻そうとする。

  韓流お得意の記憶喪失に題を採ったドラマであるが、異国に住み、以前は高級ワインしか飲まず、上等のフレンチしか口にしなかった超セレブの彼女が、滅多に口にすることのなかった韓国の庶民の味「マッコリ」や「ジャージャー麺」大好きとなる。

  到底つりあわない、出逢うはずもないサンシル(実はアンナ)とチョルス、男女が出逢い、あり得ない状況の中で、ファンタスティックなカップルとなっていく。これもあとでわかったことであるが、チョルスがアンナにつけた名前「サンシル」とは「喪失」という意味だった。

( スケール・金かけ度) B級、  (面白かった度)  ★★★★☆












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58 韓流ドラマ (12)  08.12.23   
犬とオオカミの時間  全16話 
   キャスト
イ・スヒョン 役 イ・ジュンギ
ソ・ジウ ナム・サンミ
カン・ミンギ チョン・ギョンホ


 
  韓流ドラマは「何といっても時代劇」と思っているし、「題名がもうひとつ」ということもあってあまり期待せずに見た。ヒロイン役に「不良家族」の演技が光っていた「ナム・サンミ」。主演に連続ドラマはこれが初めてという「イ・ジュンギ」、映画「王の男」で女より美しいといわれた俳優だという。2007年のドラマ演技大賞で、男優優秀賞・女優の優秀賞にこのドラマのヒーロー・ヒロインがそろって受賞したという。

  期待に反して?このドラマははじめから面白かった。ハマるきっかけとなった「朱蒙」のときと同じく、ドラマの続きが見たくて家に帰るのが楽しみとなった。私の好きな国タイで大掛かりなロケを行っており、日本のファンに対するサービスもあってか浅草も少し出てくる。

  物語は国家情報院のNIS(特殊捜査要員)となったスヒョン(イ・ジュンギ)は、タイにある韓国暴力団組織に、交通事故で死を偽装してまで送り込まれ、ケイというニセの名前を名乗り、バンコクの裏通りを歩き回るようになる…。かつてタイの犯罪組織に母親を無惨に殺害された彼は、小さい頃タイでの出会いのあと、韓国で運命的に再会したジウ(ナム・サンミ)と未来を約束する。

  組織の中でボスの命を何度も救ったことなどから、息子のように信頼されるようになり、幹部にのし上がっていく、実はこのボスこそ・・・。 本当の身分がばれないかとのハラハラが緊張感を呼び、愛する人にさえ本当のことを明かせない辛さがよく伝わってくる。
 
 題名がダサいとおもっていたが、ドラマをみるうち「味のある題名」に思えてきたのも我ながら不思議である
。          

         A級  ★★★★☆ 












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57 韓流ドラマ (11)  08.11.29   
秋の童話  全18話 
    キャスト
ユン・ジュンソ 役 ソン・スンホン
ハン・テソク ウォンビン
チェ(ユン)・ウンソ ソン・ヘギョ


  韓流ドラマが我が国でブームになったのは「冬のソナタ」、主演のヨン様が日本のおばちゃん達のスーパーアイドルになったことはまだ記憶にあたらしい。このドラマはその「冬ソナ」の監督、ユン・ソクホの四季シリーズ第1弾。最高視聴率42%という驚異的なヒットを記録したという。

 2000年頃のドラマ「コッチ」(前出45)に出て、ブレイクしたウォンビンが、主演のソン・スンホンと互角以上の存在感を示している。ヒロインはオールイン(前出49)のソン・ヘギョ。この少女時代を演じるムン・グニョンがなんともかわいい。

 優しい兄ユン・ジュンソとともに裕福な家庭に育った娘ユン・ウンソ、貧しい家庭で育ったチェ・シネ。ふたりは同じ学校のクラスメートだったが、ウンソの交通事故がきっかけで、産院で互いに入れ違ってしまったことがわかってしまう。

 生みの親の元に戻り苦労する少女時代のヒロインが、なんともかわいそうで涙を誘う。
血はつながっていないものの兄弟として育った二人ゆえの、大人になってからの「禁じられた恋」はかなりしつこく「もういい加減にしてほしい」と思うほど。 
  
  B級   ★★★












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56 韓流ドラマ (10)  08.10.26   
魔王  全24話 
   キャスト・監督
カン・オス 役 オム・テウン (職業:警察官(捜査5課所属)
オ・スンハ   チュ・ジフン (職業:弁護士)
ソ・ヘイン シン・ミナ (職業:図書館司書)  
監督 パク・チャンホン

 
それは差出人不明の1枚のタロットカードから始まった。

 
 韓流に嵌っている我が家では、スカパーでライブの韓国の放送を視聴している。そのKBSで放送され、終了した後でさえも、「魔王族」と呼ばれるファンたちが何千人という規模で集会を開いたという、社会現象を起こしたサスペンス。今年7月リメーク版として日本でも嵐のメンバーが主演して話題となった。(日本版は見ていない)

  正義感あふれる刑事のオス(オム・テウン)のもとに、ある日、宅配便で1枚のタロットカードと奇妙なメッセージが届く。その晩、大物弁護士が殺され、現場にはオスに届いたものと同じタロットカードが残されていた。捜査を進めるうち、オスは2人の人物と出会う。1人はタロットの絵を描いたという女性ヘイン(シン・ミナ)、彼女は、触れた人や物にまつわる記憶が見える「サイコメトラー」だった。

  そしてもう1人は謎めいた若き弁護士スンハ(チュ・ジフン)。どんな裁判でも依頼者を有利に持ち込む有能な弁護士、弱者には無償で弁護を引き受け、「天使の弁護士」と呼ばれている。しかしこれは表の顔。彼の真の姿は、11年前、かけがえのない弟を殺した犯人を追い詰めることに、人生のすべてをかけた「冷徹な復讐鬼」だった。
 
  オス、スンハ、ヘイン…事件に関わる3人はやがて12年前のとある殺人事件へと遡っていく。

 B級   ★★★












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55 韓流ドラマ (9)   (08.09.27)  
オールイン 運命の愛  全24話 
    キャスト
キム・イナ 役 イ・ビョンホン
ミン・スヨン   ソン・ヘギョ
チェ・ジョンウオン チョンウオン
ソ・ジニ パク・ソルミ
チョング ホ・ジュノ、
キム・チス イム・ヒョンシク


   昨年4月、韓国は済州島の「ロッテホテルJeju」に泊まった。客室は全部で500、高級感あふれるアンティーク調の家具でまとめられており、開放感のある落ち着いた雰囲気でした。2000年4月にオープンしたこのホテルは、韓国最大のリゾート地「中文観光団地」にあり、世界5大ホテルの1つといわれた南アフリカにある高級リゾートホテルの「The Palace Of TheLost City」 をモデルにとして建設、まさに宮殿のような雰囲気でした。

 このホテルは済州の11ある特1観光ホテルの一つで全てがゴージャス、玄関が8階にあり、そこから見下ろす庭園は見事なものでありました。そこにはプールがあり、火山ショーが行われる設備もあり、周囲に美しい花々が咲き乱れて、海の方向には風車までありました。そしてこのホテルには夢のカジノがあり、生れてはじめて本物のルーレットに挑戦することができました。

 この素晴らしいホテルを舞台にした韓流ドラマ「オールイン」、原作は実在のギャンブラー「チャ・ミンス」をモデルにした小説「ALL IN」。

 両親を知らず賭博師の叔父との旅暮らしの高校生キム・イナは、喧嘩と博打に明け暮れていた。旅からの帰りソウルへ向かう列車の中で、寂しげな少女ミン・スヨンと出会い、何故か彼女の荷物を盗んでしまう。
 一方、優等生で富豪の息子であるチェ・ヂョンウォンは、父親の経営する下町の劇場へ夜中に足を運び、一人で映画を見ていた。付き合わされる映写技師の娘ミン・スヨンは夜中に劇場の掃除をしていた。
 スヨンの母の形見のオルゴールを盗んだイナは、劇場地下の隠れ場所で盗んだオルゴールを眺めているが、スヨンのことが頭から離れない。孤独な魂の持ち主たちは運命に導かれていく。

 このドラマは人気者イ・ビョンホン主演の名作ドラマで、Jejuを舞台に、アメリカラスベガスなどにもロケし、スケールの大きいアクションドラマに仕上がっている。そのうえ、上記のように「ホテル内のカジノ」、「火山ショー」「ライトアップされた風車」など、私自身旅行で経験した雰囲気をもう一度味わえたことも楽しく見ることができた原因かと思います。   
                      
 B級   ★★★☆












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54 映  画 (6)  08.08.15   
崖の上のポニョ 
.宮崎アニメ 「崖の上のポニョ」 08.08.15 シネマアーク橿原                      監督 宮崎 駿 

 
アニメをわざわざ映画館で観ることめったにない。テレビから流れるかわいい子供の歌、美しい画面につられ見に行った。
宮崎駿監督のアニメで最後まで見た映画は、DVDを買ってまで観た「千と千尋の神隠し」と映画館で見たコレのみ。2本を通じて思うことは、作者は映画を通じて何を言いたいのかさっぱりわからななかったこと。単純なストーリー、崖の上の家を舞台に、人間になりたいと願うさかなの子ポニョと5歳の男の子 宗介の物語。

 ポニョの父親どう見ても人間、この人が作っている「命の水」とはなんなのか、ポニョの味方なのか敵なのか、母親は?。嵐の後、海を泳ぐ古代魚は?謎ばかりで説明がない。子供が見るアニメだからストーリーなんてどうだっていいのか。でもコレだけ大ヒットし、海外でも評価されるのだからなにかいいものがあるのだろう。でも私には理解できない。












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53 韓流ドラマ (8)  08.08.02   
ファンジニ  全24話 
    キャスト
ファン・ジニ(チニ)  ハ・ジウオン
ウノ  チャン・グンソク
キム・ジェウオン キム・ジョンハン

 
 韓流4大時代劇の一つといわれているらしいこのドラマは、「朱蒙」や「海神」のような歴史スペクタクルドラマではなく、妓生が主人公で、おもにその教坊(キーセンが修行し生活するところ)を舞台に、キーセンを取り巻く世界を描いたドラマである。

  ヒロイン ファンジニは、16世紀朝鮮王朝時代に実在した妓生。当代を代表する詩人であり、音楽を愛した芸術家として知られる。わが国でいえば和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、などを極めた才色兼備で太夫まで上り詰めた「吉野太夫」を彷彿させる。当時、差別や偏見の多かった時代に反骨精神をもちながら、芸の道を追求し、本音で生きた一人の女性として、描かれている。
 
 儒教の影響もあってか身分の差が決定的に強かった時代、両班(ヤンバン=貴族)の父と、妓生(キーセン)の母の間に生まれた少女チニ。妓生の娘は、芸妓として生きることを運命づけられていた時代に、盲目となった母は娘に自分と同じ道を歩ませたくないと、幼い頃から娘を寺に預けた。ファンジニの少女時代チニが、そのお寺で起居するところから物語は始まる。

  宮中に仕える女楽の行首であるペンムと、ライバルのメヒャンの女の戦いと芸における執念が凄い。女楽の行首の座を狙うペンムは、才能ある童妓が必要だった、そのペンムに見いだされたチニ。厳しい師匠との確執、ライバルの妓生との競い合い、そして、ジニに思いを寄せる男たちとの悲恋。苦しみの中で、チニは、真の芸の道を究めていく。

  このドラマでも不覚にも涙が止まらないシーンが2か所あった。ひとつはチニとともに修業していたキーセンの一人が「髪あげ」(水あげ?)の前夜、自殺してしまい、思いを寄せていた男が遺体を引き取って雨の中を去っていくシーン、そしてもう一つは?

  このドラマのみどころは何といっても豪華絢爛かつ色鮮やかな衣装と音楽。踊りなどのシーンの美しさと、ドラマ音楽の心地よさだけでもこのドラマを観る価値は十分ある。 
        
 A級   ★★★★












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52 韓流ドラマ (7)  08.06.28    
海 神(ヘシン)  全51話 
    キャスト 
チャン・ポゴ 役 チェ・スジョン
ヨムジャン(ヨンムン) ソン・イルグク
ジョンファ スエ
チャミ婦人 チェ・シラ


 
最近の韓流4大時代劇の一つだという。ソン・イルグクの「朱蒙(チュモン)」、ぺ・ヨンジュンの「大王四神記」、ハ・ジゥオンの「ファン・ジニ」とこの「海神(ヘシン)」。
敵役のソン・イルグクがこのドラマでの好演と人気で、「52.67%という驚異的視聴率を生んだ国民ドラマ『朱蒙』」の主役を射止めたとか。
海で、陸で演じられる戦闘スペクタクルシーンなどのスケールはあの朱蒙に勝るとも劣らない。

 ドラマは、朝鮮半島南部の小島「清海」を拠点に、東アジアの海上貿易を牛耳った実在の人物チャン・ボゴを描いている。歴史によると、勇敢な大将ヨムジャン(ヨンムン)によって殺されたとされている。いま旬の韓流俳優ソン・イルグクがこのヨンムンを演じており、悪役ながら叶わぬ愛のために戦う姿は、間違いなく主役を食っており、その壮絶な姿は感動に値する。

 このドラマを面白くしているもう一人の女優は、ヒロインの「スエ」でもなく、もう一人のヒロイン、ソル・ビョンの一人娘(後にチャン・ポゴの妻となる)を演じる「チェ・ジョンア」でもない。飛びぬけた美貌と知略を兼ね備えた悪役チャミ婦人を演じる「チェ・シラ」の存在感は女優陣では圧倒的といえる。冨と権力に飽くことのない欲望を持ち、目的のためなら手段と方法を選ばない非情な女性を演じて見事である。

  A級   ★★★★












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51 韓流ドラマ (6)   08.05.25    
コッチ ・ ファッション’70 
    コッチ  50話  キャスト
ミョンテ  ウオンビン
サンラン パク・チョン
ヒョンテ イ・ジョンウォン

    ファッション’70  28話  キャスト
ハン・ドミ  イ・ヨウオン
キム・ドンヨン チュ・ジンモ 
コ・ジュニ キム・ミンジョン

 
2作とも古い韓流名作ドラマを放映していた、「スカパー衛星劇場のアンコール放送」でみた。

 コッチという題名は9歳の女の子の名前。両親をなくした彼女は、亡くなった母親の実家に引き取られ、祖父母、3人の伯父たちと長兄の嫁の6人家族とともに育ち、子供のいない長男夫婦の養女となる。この少女の目を通して物語りは進行していく。時代は戒厳令の敷かれていたこの国のあの頃であろうか、ドラマの中で夜間「通行禁止」のサイレンがなる・

 韓国のスター「ウオンビン」がコッチの末の叔父を演じている。この喧嘩早くて不良っぽい、何年か遅れの高校生が経験する8歳年上の未婚の母とのならぬ恋は、ぐっとくるところがある。
 次兄は派出所に巡査として勤務しながら司法試験の勉強をしている。小作人?だった父を見て育った彼は、何とか貧乏な今の境遇からのがれようと必死の努力をしているが、家族には一見血も涙もない人間に見える。
 長兄は心の優しい妻をいたわりながら、学校の教師をして家計を支えているが、左翼的な運動に見える彼の活動で当局からにらまれている。

 一方、ファッション’70は、朝鮮戦争によって数奇な運命をたどることになった二人の女性を描いている。ファッションの世界で生きる女性たちを巡る愛と葛藤を描くとともに。戦闘シーンや街のセットなどは、モノクロ画面で見るわが国の戦後焼け跡の風景に似ている。
 金持ち実業家チャンヒの娘ジュニと、米軍基地から盗みをして生計を立てている貧乏なヤンジャの娘ガンヒ。朝鮮戦争が勃発、ジュニは両親と離れ離れになってしまう。一方、ガンヒも先に逃げろと言う母と別れ別れになってしまう。
 
 そして現在、といっても’70ごろ。戦争で立場が入れ替わった二人はファッションの世界で生きている、彼女らの目標はファッション作品の大阪万博への出品。

 2作を見ながら戦争や、戦後わが国と同じようにアメリカナイズされながら、経済発展を続けてきた韓国の時代背景が良くわかってくる。 

    コッチ:B級       ★★★☆  
   ファッション:B級    
★★★☆













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50 韓流ドラマ (5)  08.04.29   
花よりも美しく 
    キャスト ・ 演出 
母  イ・ソンジャ  コ・ドゥシム
長女 キム・ミオク ペ・ジョンオク
妹  キム・ミス ハン・ゴウン
演出 キム・チョルギュ
                

 
 いつまでも純粋さを失わない母 イ・ヨンジャ、無学ゆえに家政婦程度にしか見ていなかった彼女を捨て、若い女と暮らす夫キム・ドウチル。バツイチで子持ちの長女ミオク、その妹 美人で有能なキャピタリスト ミス。そして飲み屋の客引きをしている末弟のジェス、これら5人の家族と彼らを取り巻く人物が織り成す家族愛のドラマ。

  離婚した夫との間にできた幼い女の子を持つミオクは、スーパーの魚屋で働き、母や弟の生活を支えている。
大学を出て投資会社のキャリアウーマンとして優雅に暮らす妹のミスに比べ、家族の犠牲になった自分を嘆いている。そんな彼女に冴えない大学の講師が思いを寄せる。

  妹ミスは奨学金を受けながら大学を卒業し、留学も経験し投資会社のキャピタリストとなる。妻子ある男から強引にさそわれ、最初は避けようとするもののついには深く愛するようになる。
末弟のジェスは酒・女・喧嘩に明け暮れているが、母を恋人のように慕い、友達のように接する。憎み続ける父にも話しかける唯一の息子だ。

  この家族にはミオクの上に実はもう一人長男がいて、仲間との喧嘩の際、打ちどころが悪く死んでしまう。ミスが好きになった妻子ある男、実は?
  そして自分のもとを去り、若い女と子供まで作った夫に憎しみを持ちながら、その女に自分の大事な臓器さえ提供する。家族にとって、「この母親にこのような残酷で辛いこと」が待ち受けていようとは。涙なくして観られないドラマである。      
               
  B級   ★★★★











e049



49 韓流ドラマ (4)  08.03.30  
天国の階段 ・ 悲しき恋歌 
    天国の階段 キャスト
チョンソ  チェ・ジウ
ソンジュ グオン・サンウ

   
 悲しき恋歌  キャスト
ヘイン   キム・ヒソン
ジョンウオン グオン・サンウ


 
韓流ドラマをよく見るようになって半年が過ぎた。ハマったきっかけは職場の先輩から借りた「時代劇チュモン81話だった」というのは前に述べた。その後、現在劇も見るようになって良かったのが「花よりも美しく」、前々回紹介した「ありがとうございます」。この2作のテーマは「家族愛」。涙が止まらなかったのは、その親や子、兄弟を思う家族愛に対してであったと思う。

 最近韓国を代表する女優「チェ・ジウ」、「キム・ヒソン」主演のラブストーリーを続けてみることとなり、恥ずかしながら「悲しい恋」に涙を流すことになった。この2作の相手役はともに人気者のグォン・サンウ。

 ドラマ「天国の階段」、公式ホームページの惹句に「’冬ソナ’を凌ぐ人気を得た珠玉のラブ・ストーリー」 とある。
大の仲良しで、「ソンジュ兄さん」「チョンソ」と呼び合い、少年少女時代をすごした二人が相手の留学によって離れ離れになってしまう。さまざまな障害を乗り越えて再会するのであるが・・・・・。チョンソの父が再婚。ともに暮らすことになった再婚相手の継母と連れ子で義理の妹であるユリから、コレでもかこれでもかという嫌がらせを受けることになる。

 一方「悲しき恋歌」は米軍基地の町で水商売をする母をもつジュンヨンと、盲目の美少女へインの運命の出会いから始まる。母親の手を離れたジュンヨンはソウルの実父に引き取られ、新たな人生を送ることになる。そして、新しい学校で運命の友ゴンウに出会い友情を深めていく。ヘインを忘れられないジュンギュは遂に劇的な再会をし、米軍兵士の義父とアメリカに行くことななったヘインと二人だけの結婚式を挙げる。

 韓流現在劇のキーワード、「一途な恋」「すれ違い」「チング」「子供時代に伏線」「金持ちの御曹司・令嬢」に対し「貧しい少年・少女」そして「記憶喪失」。儒教的国柄かセックス描写がほとんどなく、キスシーンさえそれほど多くない

 私自身、今なぜ韓流ドラマなのか?の原点を考えてみると。「殴り合いから友情」、「純愛」、それは私たちの青春時代の日活映画「裕ちゃんらのアクションドラマ」と「吉永小百合の純愛映画」にあった。

  天国:    B級   ★★★☆ 
   悲しき:   
B級   ★★★☆











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48   韓流ドラマ (3)   08.01.27   
ソドンヨ  全55話 
   キャスト ・ 演出
ソドン 役 チョ・ヒョンジェ
ソンファ イ・ボヨン
ギル リュー・ジン
演出 イ・ビョンフン

  韓流にはまるきっかけとなった朱蒙(チュモン全81話)は高句麗が舞台の時代劇であったのに対し、このドラマは古代朝鮮半島の南西部に存在した国家である百済武王の成長の過程を描いたドラマである。
 薯童謠(ソドンヨ)とは、芋ウリをしていたソドンとソンファ姫の関係を巷ではやしたてた歌だそうで、ちなみにソドンとは芋のことのようだ。

 この百済と半島北部の高句麗、東南部の新羅とあわせて、古代朝鮮の三国時代と呼ばれたことは歴史で学んだこともあり、私でも良く覚えている。また倭国時代のわが国との交流も盛んで、王族・貴族をはじめ百済から多くの渡来人が帰化し、技能を持った民も登用されて朝廷に仕えたとされている。

 戦争や恋を描いた時代物はめずらしくないが、このドラマの見所は、百済時代の豪華な文化と技術を再現しながら、百済の博士(バクサ)制度にスポットライトを当てているところだと思う。主役は賎民の子として育ったソドンと、敵国の姫ソンファであるが、新羅に百済工房を建てたモッラス博士が重要な登場人物となっている。また工房でソドンとともに技術を学ぶギル(実は新羅の王族でスパイとして潜入している)と、ヒーロー・ヒロインとの葛藤が強烈に描かれている。

 ソドンとソンファ姫、子供時代の運命的な出会いから敵国の人と知った後も、この美しくいたずらっ気が多いソンファは、新羅の姫の身分を捨てて、一農民となってでも愛を成就させようとする、ひたむきな姿は見ていてすがすがしい。ロミオとジュリエットのように切ないラブストーリーとなっている。

 A級  ★★★★☆(☆は★半分)












e047



47 韓流ドラマ (2)   0712.30   
ありがとうございます 全16話 
   キャスト ・ 演出
ギソ 役 チャン・ヒョク
ヨンシン コン・ヒョジン
ボム ソ・シネ
演出 イ・ジュドン


(このドラマは人気俳優チャン・ヒョクの除隊第一弾だそうです)

 
数少ない私の知ってる韓国語の一つに「カムサハムニダ」がある。覚えた理由は天童よしみの歌う演歌「珍島物語」の歌詞にあったからです。日本のドラマなどもう何年も見たことがないのに、前回紹介した時代劇「朱蒙」が面白かったので韓国製「現在もの」も観ることになりました。
  このドラマは済州道の小さな島で、チョコパイばかり食べている認知症の祖父と、薬害でHIVキャリアとなってしまった娘ボミをかかえ、みかんを売ったり漁師をしながら暮らすシングルママ「ヨンシン」が主人公。

 ソウルに住むもう一人の主人公ギソは、実業家の母をもち自らも腕のいい外科医。恋人であるすい臓ガンの女医を手術するが、手遅れで余命いくばくもない。彼女は2年前、故意ではないものの女の子を手術ミスでHIV感染させ、自分を責め続ける。ギソは彼女とともに謝罪のためその少女に会いに行く途中、船の中でボミに会う。女医はその娘と知らず熊の縫いぐるみをプレゼントして、ボミの隣で亡くなってしまう。

 ギソは「青い島」に渡り、ボミとその母ヨンシン、ヨンシンの祖父ミスター・リーの3人が暮らす家に行く。恋人が探していた女の子とは知らず、ボミにあの「熊の縫いぐるみを譲って」と願う。泊る所がなくて、3人の家に下宿するギソは知らず知らずのうちに家族と打ち解けていく。認知症の祖父がお漏らしをしてもやさしく取り替えてやり、繰り返す失踪に必死で捜すヨンシンとボミ。このようなけなげなママと、天使のような娘を守ってやりたくなっていくのは自然の成り行きか。

 かつてヨンシンの好きだった男ソッキョンも、うすうす自分の娘ではないかと気づいていく。わが娘らと3人と暮らす決心をし、フィアンセに別れを告げるのだが・・・時すでに遅くヨンシンの心はギソに傾いてしまっていた。
 このドラマの中で、けなげでやさしい心のヨンシンは、自分をいじめた人にも辛く当たった人にも、いつも「カムサハムニダ」(ありがとうございます)といいます。自分と娘を捨てていったその男にも「私にボミをくれてありがとうございます」と心からいうのであった。涙なくして観られないものがたりである。


  B級   ★★★★












e046



46 韓流ドラマ (1)   07.11.23   
朱蒙(チュモン) 全81話  
   キャスト ・ 演出 
チュモン 役 ソン・イルグク
ソソノ ハン・ヘジン
ユーハ オ・ヨンス
演出 イ・ジュファン

 
「一時下火となっていた韓流ブームが再燃している」との新聞記事がありました。前の流行は「冬のソナタ」などメロドラマが女性の支持を得ていたのに対し、今回は大型時代劇などに男性ファンも加わった」とのこと。

 私が韓国の時代劇にハマることになったきっかけは、今年のお盆休みにさかのぼる。会社の人から「休みは何か予定でも?」と聞かれ、「高速道路は混んでるし、旅館などの料金も高いし、どこへも行きません」との答えた。彼は翌日全81話からなる韓流時代劇「チュモン」のDVDをもってきてくれた。
  
 韓国へは2度行ったことがありますが、1度目はカミさんとソウルへ、このときはちょうど「冬ソナ」がブームとなる前の年でした。今年の春には会社の旅行で、ドラマ「チャングムの誓い」の撮影地となったJeju(済州)へいきました。「冬ソナ」が大ヒットし、ヨン様などといわれて騒いでいたときも、我が家ではほとんど興味がなく、ただ「宮廷女官~チャングムの誓い」をBS放送で毎週見ていたぐらいでした。

  そんな夫婦が、ともに韓流にハマッてしまうのに、そうは時間がかからなかった。「朱蒙」をみているうち、次を見るのが楽しみとなり、一晩1話(約1時間)や2話でおさまらず、4時間も5時間も見てしまうハメとなっていました。
 「チュモン」は、昨年韓国で最高視聴率48.9%を記録、今年1月には50%を超え、最終回では52.67%と驚異的な視聴率を記録、韓国で歴代トップとなる35週間視聴率1位を記録し、前出の「チャングム」に並ぶ国民的ヒット作となったそうです。

 日本円にして総制作費約50億円、全南羅州に特設された巨大セットの敷地は4万5000坪、10億円をかけて建てた豪華セット、目もくらむような美術・衣裳に総額7億円という、巨費をかけた映画並みのスケールは確かに迫力はある。
  物語は紀元前108年、朝鮮半島を含む大帝国を領有した古朝鮮国は、隣国「漢」により滅亡。漢はその地に、玄菟(ヒョント)などの四郡を置き支配するが、将軍・ヘモスとその友人で玄菟(ヒョント)郡に属する扶余(プヨ)の太子・クムワは、圧政に苦しむ流民(ルミン)を率いてタムル軍を組織し漢に抵抗する。

 これまでドラマでは描かれたことのないという古代朝鮮を題材とし、高句麗建国神話に登場する伝説の人物「チュモン」を現代的に描いている。
  主役チュモンにソン・イルグク、ヒロイン ソソノにハン・ヘジン、この二人がまたかっこいい。夢中になってしまうのは、主人公たちが絶体絶命に陥ったところで「以下次号」となるところであろう。「どんな方法で難を逃れるのか」と気になって次が待ちきれない。

  日本のタレントにも、洋画の俳優の中にも、今まで好きなスターなどいなかったカミさんが、朱蒙役のソン・イルグクに魅了され、私もハン・ヘジンのファンと相成ってしまいました。
  このことで、連続ドラマというのは毎週ごとに見るより、続けて一気にみたほうが面白いことが判った。そこでスカパーの韓流専門チャンネルを購入、最後にまとめてみるつもりで次から次へと録画しており、何百枚ものDVD代がバカにならないこのごろです
。   
       
 (スケール・金かけ度) 超A級、  (面白度) ★★★★★












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エンターテイメント45 私の読書歴 (19)  07.09.29  
中華人民共和国演義 張涛之著 海江田万里監修(冒険社)
  最近小学校の歴史教科書から石器・縄文時代の記述がなくなったと聞きますが、私たちの時代はなぜか大昔のことは結構詳しく学んだようにおもいますが、近代史についてはあまり記憶がありません。私自身卑弥呼の時代から戦国時代の頃までの知識は多少あっても明治、大正のことはほとんど知らなかった。恥ずかしい話、太平洋戦争終結間際にソ連が宣戦布告してきたことを知ったのも社会人になってからでした。

 また世界の歴史において、唐や隋のころの中国についての何らかの知識はあっても、清朝の終焉から毛沢東が出てくる頃の中国の歴史がよくわからない。
 10年前、会社の海外研修で中国へ行くことになり、少しは現代中国建国の頃を勉強しておいたほうがいいと考え「中華人民共和国演義 」を買ってにわか勉強をした記憶があります。当時どこまで読んだのか、毛沢東や周恩来がどのようにして共産党中国を作ったのか、もう少し知りたくなり今一度手にとってみました。

 本書は、清朝を倒し帝政に終止符を打った1911年の辛亥革命から、趙紫陽が登場し改革開放を一段と押し進める1987年までを対象に全6巻に及ぶ長編となっています。読んでいて面白いのは孫文から始まった革命の歴史が良くわかってくることであります。
 また興味深いのは今の中国経済成長の発端となった 「黒猫でも白猫でも鼠を捉れる猫はいい猫だ、資本主義でも社会主義でもなんでもいい」といった登小平がこの本の初めから登場することである。

 歴史に「たら」はないのでしょうが、何度も失脚しては復活した登小平があの頃まで生きていなかったり、復権していなかったら、驚異的に経済発展を続けるいまの中国はなかったのではないか。毛沢東や周恩来とともに革命の最初から参加した登小平を、天はこのためにこの日まで生かしておいたのかと思ってしまいます。











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エンターテイメント44 私の読書歴 (18)  07.08.25  
「タカハシカズミ」って知っていますか 
   「タカハシカズミ」って知っていますか?という質問に、私より10歳ほど上や下の世代で、少しばかりでも本を読んだことのある人は、「邪宗門」や「憂鬱なる党派」などの作家というより、京大教授で中国文学者でもあった「高橋和巳」を思い浮かべるでしょう。本などに興味のない人は「ああ、そういえばそんな名前のピッチャーが巨人にいたな」などと答えてくれます。

 初めての転勤で東京へ行って間もない昭和40年代の初め、60年安保から数年を経ていましたが、まだ学生運動が続いていました。火炎瓶の投げあいがあった翌日、まだ片付けが終わってない日比谷を歩いたことがあります。

その後廃刊となりましたが、当時「ゼンガクレン」など左翼系学生によく読まれていた週刊「朝日ジャーナル」を購読していました。この週刊誌に、大本教の教主「出口王仁三郎」をモデルにした高橋和己の「邪宗門」が掲載され、この小説読みたさに週刊誌の購読を続け、独身寮の押入れに何十冊も積んでいた事を思い出します。

 これを機に、高橋和巳の書いた本は片っ端から夢中になって読むようになりました。
作品は前出の「邪宗門」「憂鬱なる党派」はじめ「「悲の器」「わが心は石にあらず」「捨子物語」「散華」「日本の悪霊」などでしたが、どれを読んでも感動で胸が震え、とりわけ「憂鬱なる党派」などは読み終えたあと数時間ぐらいは動くことができなかったのを覚えています。

  戦後文学"を真っ向から継承する高橋文学は、日本の文学史の中でどの程度の位置を占めたのか良くわかりませんが、読む人の心に大きな感動を与えたことは事実だったと思います。 昭和46年、39歳の若さで直腸がんのため亡くなりました。この人の書くものはまだまだ読みたいと思っていた私には、もう読めなくなったことでかなりショックを感じました。

  好きだった人の面影を似た人にに追い求めるように、高橋和巳懐かしさで、その後文壇にデビューした氏の夫人高橋たか子の「空の果てまで」を買ったのが記憶にありますが内容まで覚えていません。

 還暦を過ぎ、藤原正彦の書いた「国家の品格」に感動し、安倍さんの「美しい国」を読み、戦後レジームからの脱却に期待し、石原慎太郎の過激な発言に拍手を送っている今の私から、あの頃、多分に左翼的な高橋文学から、なぜにあれほど感動を覚えたのか不思議な気がしてなりません。











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エンターテイメント43 昭和(後期)の映画史 (15) 07.07・・
嵐を呼ぶ男昭和の歌姫 
  石原裕次郎デビュー当時の映画「狂った果実」「太陽の季節」「俺は待ってるぜ」「勝利者」「嵐を呼ぶ男」などが7月の終わりごろからBSテレビで放送されます。

 毎年夏がくるとひばりの歌声とともに、足の長いカッコイイ裕ちゃんの姿が映し出されます、二人の命日はそれぞれ6月24日と7月17日でした。

 美空ひばりの若い頃、歌がうまいのはわかるもののあの一卵性親子といわれたステージママの存在もさることながら、当時のひばりは、私にはなぜか傲慢な大歌手に見え、あまり好きにはなれなかった。
 「悲しい酒」などひばりの歌が、今頃になって何故にこれほど胸を打つのだろうか。晩年の彼女の歌う姿から、生まれついての天才歌手である故、若き日から不本意な生き方(家族のことや興業にかかわることなどで)を余儀なくされた彼女の悲しさが伝わってくるような気がします。

 その点裕次郎は当時としてはアンモラルな不良っぽいイメージでスクリーンに姿を現したものの、生まれの良さか、何か上品で暖かなものを感じ、すっかり彼の魅力のとりことなってしまいました。
 裕次郎の衝撃的な映画界へのデビュー、スーパースターの日々、その生き様については兄慎太郎の小説「弟」の中で余すことなく描かれています。裕次郎は私よりちょうど10年前、昭和の一桁最後の9年に生まれていますが、常にスターであったと同時に数々の病気との闘いの一生でもありました。そんな彼の救いは、当時日活の大女優でもあったひとつ違いの姉さん女房まき子夫人が、女優の座を捨て裕次郎の妻に徹し、献身的に尽くしてくれたことだと思います。

 この不世出の昭和の二大スーパースター裕次郎とひばりは’87と’89ともに52歳の若さであの世の人となってしまいました。二人とも多くの映画に出演し、その映像がありますが、なんといってもそれぞれの歌声が心に残っています。二人の最晩年の歌は「川の流れのように」であり、「わが人生に悔いなし」ですが、題名どおり辞世の曲になってしまいました。

 私の一番好きなひばりの歌は「みだれ髪」、そして裕ちゃんの歌は「北の旅人」です。











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エンターテイメント42   私の読書歴 (17)  07.06.24   
生き残りのディーリング 矢口 新 (パンローリング)
  株をやるようになって、「主婦がこうして3000万円儲けた」とか、「100万円を1億円にするには」といった株式入門本や、ネット投資などの本を10冊以上は読みました。相場におけるまったくの素人向けの本であったり、逆にチャートやテクニカルなど専門的に過ぎる本であったりと、読んで面白い本には当たりませんでした。

  「生き残りのディーリング」は昨年12月第7刷発行されたもので、初版は01年。二十数年前、私が銀行の市場営業課というセクションにいた頃はまだ発刊されていませんでしたが、その後現役ディーラーの座右の書として多くのディーリングルームに置かれていると書かれています。この本は「相場とは、一体何なのだろう。価格変動のメカニズムとは、相場のプロとはどういう人たちなのか」こういった素朴な疑問にうまく答えてくれています。

  この本の中の「マーケットメイキング」という項のなかで、投機筋の存在意義について書かれています。為替、債券、株式、商品や不動産にいたるまで投機にとって流動性の確保ほど重要なものはありません。株式相場において、売り一色のときでも買いがあり、買い一色のときでもウリがあるから相場が機能している。ここに投機筋の必要性があるのだと理解することができます。

  また、多少でも売り買いを経験したものには「損切り」がうまくできなかったことや、「難平(なんぴん)買い」で失敗した経験があると思います。この本ではこの二点についても詳しく述べています。今まで読んだものの中には勝率にこだわったものが多かったように思いますが、ここでは3勝7敗でいいから損を浅く益を深くとることの重要性が書かれています。また難平買いの危険性については何度も指摘してくれています。

  資金証券部の商品勘定において国債などを売買していた頃、銀行本来業務の経験があまりない一番若いディーラーが、毎日の売買で結構勝率が良かったような記憶があります。いつの間にか自転車に乗ることができるように、ディーリングにも一種のコツがあるように思います。古い銀行員は「ウリ」から入ることが苦手であったが、若いディーラーは下げ相場のときにもそこそこのパフォーマンスを残していた記憶があります。

  確かにベア相場のときも勝てる」ことができたら言うことがありません、そのうち会社辞めたら本格的なディーリングをと楽しみにしているこのごろです。












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エンターテイメント41 私の読書歴 (16)  07.05.27   
悟りとは決心すること 高田 好胤  (講談社)
   前々回(№33)は東大寺の元管長清水公照師の本についての感想でしたが、今回は薬師寺の第127代管主高田好胤師著「悟りとは決心すること」。

  この本の冒頭に、仏法とは寂静(しずか)なる心の教え、仏法は円い心の教え、仏法とは明るい心の教え、仏法は清らかなる心の教え、仏法とはおかげさまの心の教え、仏法は無我なる心の教え、仏法は大慈悲なる心の教え、仏法は安らかなる心の教え、とあります。
 
  最愛の娘が1歳3ヶ月のとき高熱と痙攣による脳損傷で、覚えたての言葉もすっかり消え、知的発達が遅々として進まなくなっていました。彼女が幼稚園のころでしたか、末期ガンはじめあらゆる難病に効くという「『奇跡の水』を処方する病院が県内にある」事を教えてくれた人があり、私たち3人は早速その薬を求め病院へと向かったことがありました。

  病院の待合室では録音テープが回っており、この薬(薬事法では認められていないが)によって治る見込みのない病気が治ったこと、医者が見離した難病が奇跡的に治癒したことなど数々の例が語られていました。診察のあと、そのまま、とある宗教の「別席」というところへ連れて行かれ、「子供の病気を治したければ親の信心が肝心」と入信を勧められました。突然のことでもあり「入信については少し考える時間が欲しい」とその日は薬だけ貰って帰宅してしまいました。

  そんなころ、彼女の2つ下の弟と家族4人で薬師寺へ行く機会がありました。若き僧侶時代は修学旅行に訪れる生徒たちにユーモアを交えた説教で寺をガイドした好胤師は、管長になられていましたが、そのときも大勢の観光客などを前にお寺の案内をされておられました。説明を聞いている私たちの前に来られ、なぜか娘の頭をやさしく撫でてくださいました。

  「彼女のためだったらなんでもする」と思っていたつもりが、「なぜあの時帰ってしまったのか、私達の信仰心の無さが彼女の回復を妨げているのかもしれない」などと自分を責めたこともありました。夫婦とも無神論者というわけでもありませんが、その後もどこの宗教にも属する機会はありませんでした。

  娘はいま、ある施設に入り、スタッフの献身的な努力のおかげもあり、併設する作業所で簡単な作業などができるようになり、毎週末には元気に帰ってきます。30年間以上ずっとつききりだった母親も週日は友だちと旅行したり、カラオケなど楽しめるようになり、土日は家族だんらんの時間が持てるようになっています。この間、いろんな人にお世話になりましたが、「おかげさまで」という感謝の気持が私たちの宗教なんだと思うこのごろです。











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エンターテイメント40 Trip&Tour (4) 07.04.22  
Jeju(済州)2泊3日  
  天引きの旅行積立金が貯まってきたこともあり、「社員旅行」でチェジュに行ってきました。私の韓国行きは4年前の家内と行ったソウルに続き2度目、当然ながら首都とは違って人口密度が少なく自然がいっぱいという感じがしました。
 関空でちょっとしたトラブルはありましたが、2時間弱のフライトで全員無事Jejuの空港に到着しました。

  済州は総面積1847キロ平方メートルの島で、8つの有人島と55の無人島からなり、韓国の行政区域として一番小さな「道」だそうである。大阪府と同じぐらいの面積の中に人口たった55万人、手づかずの自然が残っており、観光やレジャーにはもってこいの島という気がしました。
寒さが厳しい韓国の中で寒暖の差があまりない温暖な島だそうでもある。

  昼前到着した一行は石焼ビビンバの昼食をとり、ショッピングのあと、ホテルで旅装(というほどのこともないが)を解くことになりました。われわれが泊まったのは11ある特1観光ホテルの一つ「ロッテホテルチェジュ」で、玄関が8階にあり、そこから見下ろす庭園は見事なものでありました。庭にはプールがあり、周囲に美しい花々が咲き乱れて、海の方向には風車までありました。ソウルでもロッテに泊まりましたが、地価の違いもあって当然のことですが、問題にならないくらい立派な観光ホテルではありました。

  済州には夢のカジノがあると聞いており、行く前からひそかに楽しみにしていました。還暦過ぎて賭け事をあまりやらなくなった私ですが、一度はラスベガスで一勝負と思っていました。予算は10万円と決めていたこともあり、初日は財布の外にあった約2万円と、両替したばかりの7万ウォンのほかに3万円を出して、財布は金庫にしまってこのホテルにあるカジノへ出かけました。

  「済州には立派なゴルフ場がたくさんある」とは聞いていましたが、親睦が目的の会社の旅行で、重いバッグを下げ、海外にまで行ってゴルフをする人たちの気持が全く理解できません。
2日目われわれ観光組は、ゴルフ組が出かけた後ホテルのバイキングでゆっくり朝食を楽しみ、専用バスで島内の観光に出かけました。まず、渓谷にかかるいままであまり見たことのないような橋を渡り、天帝淵瀑布を見ました。

  続いてハンリンの亜熱帯植物園と洞窟を見学し、ちょっと沖縄琉球村の雰囲気に似た民族村を訪れました。
  とりわけ楽しかったのは、馬に乗ってあの日活無国籍映画小林旭の「ギター(持ってませんが)を持った渡り鳥」気分になったり、迷彩のつなぎ服を着てバギーででこぼこ道を走ったことである。久々に童心に返り、特に女性陣の喜びように私も嬉しくなった1日ではありました。

  初日のギャンブルは様子見ということと、一向につかないこともありルーレットに3万円突っ込んであっさり部屋に帰りました。2日目も財布から3万円抜いていったもののこの日もルーレット出目の波にのれず、ウォンまではたいて5万円の負けとなりました。3日目は残りの2万円でスロットに挑戦しましたが、あえなく敗退。キッチリ予算を使い果たしてしまいました。

  チェジュの2泊3日は、ホテルの豪華さと、晴天に恵まれた2日目の観光がとても印象に残る旅となりました











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エンターテイメント39 映  画 (5)   07.04.21   
東京タワー オカンとボクと、時々、オトン 
.  07.04.21 シネマアーク橿原
 監督 松岡 錠司  主演 オダギリジョー、
樹木 希林

 
 恥ずかしながら、映画を見るまで原作者のリリー・フランキーを知りませんでした。昭和38年生まれの作者と2年前に還暦を迎えた私とでは大方20年の年齢差があります。彼が生まれたころ私は、社会に一歩足を踏み出していましたので、「当時の小倉の町はまだあんなだったのか」とか、「この頃まだ「炭坑節」なんか踊っていたのか」などと、つい昭和を懐かしむことに関心がいってしまいました。

  父は94歳まで長生きしましたが、ちょうど今の私の年齢で逝ってしまった母のことが重なり、つい涙がこぼれた場面もありました。戦前とはいえ昭和生まれの映画のオカンは結構現代的なところのあるオカンでもあり、辛いことばかりではなく結構楽しいことも多かった人のように思います。
それに引き換え、終戦を異国の地で迎え、2歳の私を背にピョンヤンに近いその炭鉱の町から引き揚げて帰った大正生まれの母の苦労を思います。でも、何時の時代も子を思う親の気持に変わりはないのでしょうが。

  この映画の樹木希林の迫真の演技や、オトン小林薫の芸達者は見るものに安心感を与えるし、オカンの若いときを演じる内田也哉子が、悠木千帆だった若いときの希林にあまりにも似ているのに感心したりもしました。

  東京には 私も4年ほど暮らしたことがあり、カミさんと知り合ったのもここですが、東京タワーにデートで登ったこともありませんし、存在を意識した事も余りありませんでした。
それでも東京タワーは建設された昭和33年ごろから、私たちのいた頃を含む経済の高度成長期や、その後のバブルの崩壊などを見続けてきたのでしょうね。











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エンターテイメント38 私の読書歴 (15)   07.03.18  
ありのまんまでええやないの 清水 公照 PHP研究所 
   最近我が家の本棚から昔の本を引っ張り出して通勤の行き帰りに読むことが多くなりました。華厳宗東大寺第207、208世管長清水公照長老(当時)が書かれた「ありのまんまでええやないの」。と薬師寺の第127代管主高田好胤師が書かれた「悟りとは決心すること」、奈良の有名寺院の管長が著した二冊を続けて読むことになりました。

  銀行の奈良支店に居た頃ですが、取引先で自動車修理業を営む若手経営者のお母さんからプレゼントされた一冊の本が清水公照さんの「ありのまんまでええやないの」でした。
 当時その銀行では東大寺や東大寺学園と取引があり、就任したばかりの北河原公典管長就任の晋山式 (しんざんしき)があった頃で、行員がこの式の受付などをする関係で担当者とたびたび東大寺に出入りしたことが懐かしい想い出となっています。

  清水師はこの北河原師の2代前の管長で、当時は東大寺長老として板画や執筆活動をされていた頃だと思います。
この本には公照師得意の板画(版画ではない)がカラーで表紙に、各表題もご自身の書と板画で、「話し言葉」を法話ならぬ放語として集められています。昭和59年の刊とありますので約20年振りに読んだことになります。

  板画の絵はどことなく文化勲章の棟方志功に似ていますが、それもそのはず志功先生の影響を受けておられることが本の中に出てきます。
  播州生まれのはずの師ですが、本に出てくる「大和ことば」は、今はもう使わなくなって久しい言葉もあり、吉野の山奥で育った私にとってはなんとも懐かしい言の葉の数々です。

  表紙をめくったところに公照師ご自身による毛筆のサインと落款があります。帯には東大寺長老が語る「こころ言葉の数々」「"そやそや"と、にこにこしているとすんなりいくもんでっせ。じたばやするなや そのまま そのまま そのまーんま」とあります。
私の本棚にある大事な一冊です。













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エンターテイメント37 私の読書歴 (14)  07.02.25  
 
藤沢 周平 
   銀行マンの時代は本屋に行くと、まず好きな小説を買いましたが、同時に同じ冊数の仕事に関する本を買うのを自分に義務化していた時期がありました。

 好きな小説というのは、好きな作家の新刊であり、仕事に関する本というのは、経営や経済、実務書やノウハウ本。殊に堺屋太一、大前研一、船井幸雄、ビル・エモットなどの著作を好んで買い求めました。

 宗教・哲学など教養のための本は、面白くなくても理解できなくてもある意味仕事だと思って読むことが多かったようにも思います。年間100冊などと目標を掲げたこともありました。

  最近は、仕事のためという脅迫的観念から本を買う事が少なくなり、好きな作家の最新作や書下ろしなどのハードカバーを買うことも少なくなりました。通勤で読むのに都合の良い文庫本にすることがほとんどで、本に対する出費も大幅に減少しています。

  不思議なことに今まであまり縁がなかった作家に「藤沢周平」がいます。最近、文庫本を連続で2冊読んで遅まきながらこの人の小説の魅力に取り付かれそうになっています。

  おりしもあの「男はつらいよ」の山田洋次が監督した周平3部作の一つ「隠し剣、鬼の爪」をTV初公開で見ることができました。「たそがれ清兵衛」はもう少し前にTVでやったのを録画していますのでそのうちみようと思っていますが、もうひとつの「武士の一分」は観たいと思っていながら今回見逃してしまったのは残念です。

  映画「武士の一分」の原作となった「盲目剣谺返し」は文庫本短編集「隠し剣 秋風抄」(’04年文春文庫)の、8篇のなかの最終に収録されている四十数ページのごく短かい小説でした。

 もう一冊、「蝉しぐれ」(’91文春文庫)は、幕末のころの山形県庄内地方にある海坂藩を舞台に、政変に巻きこまれて父を失い、家禄を没収された少年牧文四郎の成長を描いている。二人の親友とともに藩の學塾と剣の道場で修行する少年が、質素で平凡な生活の中から突如として運命にもてあそばされる。この小説
のクライマックスは、昔見たチャンバラ映画の世界を彷彿としました。












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エンターテイメント36 私の読書歴 (13)  07.01.27  
 
「中原の虹」一・二 浅田 次郎(講談社) 
   浅田次郎の小説は、「読み終えるのがもったいない」ほど面白い。「蒼穹の昴」で彼の魅力の虜となってしまった私は、その後出る氏の著書はほとんど読んできた。この人の小説の魅力は史実と虚構の組み合わせのうまさであろう。フィクションとわかりながらもそうと思わせないでその世界へどんどん引っ張り込んでいく力量はたいしたものである。
  「蒼穹・・・」や「珍妃の井戸」の背景となっている清朝の最期の時代は、歴史とはいってもほんの少し前の出来事である。ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の弟、溥傑などはつい最近(’94)までわが国で生きていた。

  「蒼穹の昴」から10年、貧しい少年が宦官となって大総監太管まで出世した人間性あふれる春児(ちゅんる)や、その妹にまた会える事ができた。彼らとふるさとを共にし、科挙の試験で進士となり、参預新政にまで上りつめ、政変で日本へ亡命する梁文秀にもまた会えた。彼とともに日本で過ごす女性は?
  
 浅田作品の最大の魅力は彼の描く「人物像」であろう。この本では、「張作霖」が主人公の一人である。関東軍に爆殺されたといわれる軍閥「張作霖」、息子の「張学良」とともに私でも良く知っている。まさに英雄(ヒーロー)というにふさわしい魅力ある満州馬賊の頭領として描かれている。その張作霖に1千万元という破格の値段でスカウトされる馬賊の戦士は?

 もう一人重要な人物が登場する、「袁世凱」 この人も名前は良く知られている、科挙の試験を2度落ちた後、軍人の道を選び、日清戦争の敗北によってプレジデント・リーこと李鴻章亡き後、北洋軍を引き継ぎ、その再建と近代化につとめた。

 そして何より西太后(シータイホー・ツーシー)。彼女の約50年間、それは、清という王朝の最後のあがきの時代と重なります。西太后は亡国の鬼女、超悪女としての印象が強いのですが、浅田次郎が描く彼女はなんと魅力のある女性であろうか。国を思うゆえに、列強からの侵略から国を守りたいが故の行動だったのだと。

中原の虹 三、四の刊行が待ち遠しい。











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エンターテイメント35   映  画 (4)  06.10.29   
日本映画 「涙そうそう」    東宝シネマ橿原
 監督 土井 裕泰 主演 妻夫木聡、
長澤まさみ、
(c)2006 映画「涙そうそう」製作委員会

    古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた
   いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ 
   晴れ渡る日も雨の日も 浮かぶあの笑顔
   思い出遠くあせても 
   面影さがして蘇える日は 涙そうそう
 
  
カラオケ大好きの私ですが、もう10年以上も新しい歌を覚えていません。根っからの演歌好きですが、いま覚えたい歌がないのだから仕方がありません。そんなとき映画のPRで耳に入ってきたのが、沖縄出身のビギンが作曲して森山良子が詩をつけたという「涙そうそう」。録画してあった予告編を何回も再生して覚えていくうち、無性に映画も見てみたくなりました。

 今をときめく妻夫木聡と旬の女優長澤まさみの共演ということで、若者向きの映画にちょっぴり恥ずかしい思いをしながら映画館に足を運びましたが、中には結構中年もいました。
上記の二人は幼くして親を亡くした兄と血の繋がらない妹を演じている。病床の母が「一人ぼっちの妹を守ってあげて」といいながら死んでいく。(この母を私の好きなKyon2が演じている)

 いつか自分の店を出したいとの夢を抱いて、那覇の市場や居酒屋で朝から晩まで元気いっぱい働く兄、信じる人にだまされ、愛する人と切ない別れを経験しながらも妹を大学まで行かせる。「にいにい(兄のこと)も少しは自分のこと考えたら」と妹、「なんくるないさ」と兄。このひたむきに妹を思う兄の姿とラストシーンには恥ずかしながらやっぱり、涙が出ました。









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エンターテイメント34   私の読書歴 (12)  06.9.24 
 
「背教者ユリアヌス」 辻邦生(中央公論社) 
  4世紀の半ばローマ時代、コンスタンティノポリス遷都の祝いでごった返している頃、時の皇帝コンスタンティヌスの弟ユリウスの後妻となったパシリナが生む第四子の運命は?。彼女が子供の頃、老婆から「お前は太陽を生むようになる女だ」といわれたことを思い出す。

 ながい迫害に耐え、投獄や拷問や火刑や磔刑におびやかされながら布教を続けてきたキリスト教に寛容令がでて、公に信仰が認めたれて20年を経過していた。時の官僚たちは宮廷を完全に協会の勢力のモトに置くべく陰謀をめぐらせていた。

 キリスト教徒たちの策略により、皇帝の弟(ユリアヌスの父)一族は皆殺しにされたが、兄ガルスとともにユリアヌスは奇跡的に生き残った。その兄も副帝に任じられた後、皇帝に反逆した疑いで殺されることになる。
 ギリシャの神々を信じるユリアヌスは、皇妃をプラトニックに愛する点を除いては、なんら野心はなく、ただホメロスやプラトンなどの書物さえあれば満足の人であった。
 運命のいたずらか、皇帝の急死により自らが皇帝となってしまい、そこには理想と現実の狭間であくまでも哲学者としての政治を行おうと悩むユリアヌスの姿があった。

 いまなんで34年も前に刊行された「背教者ユリアヌス」なのか?ということですが、我が家の本棚の特別席に、古びてきてはいますが立派に装てんされた箱入りのその本が目立っていました。どんな内容だったのかほとんど記憶が無く、あの時あのように感動を覚えたのはなんだったのか無性に再読してみたくなり重い本をかばんに入れ、この長い物語を通勤で読んでいます。

 数年前に読んだ宮部みゆきの「黄金を抱いて飛べ」のなかに出てきたのを記憶していますが、われわれよりずっと下の年代にもこの本の信奉者のような人がいることに驚きました。辻 邦生の小説はその後「眞昼の海への旅」、「西行花伝」などを読みましたが、なぜかいずれも箱入りの立派な本でした。












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エンターテイメント33   Trip&Tour(3-3) 06.06.25 
15年ぶりのタイⅢ 
  アユタヤからバンコクへ戻る高速道路で滞在中はじめてのスコールが車の窓を激しくたたきました。ガイドさんの言うとおり日本のより雨粒(?)が大きく感じたのは確かでした。

  この日の夜は、夕食後迎えの車でバンコク市内のマッサージ屋さんに向かいました。私の古式マッサージは約1時間30分、カミさんのアロマは一番短いのが2時間、他に多くのコースがありましたが、私が待つ時間は30分が限度と思い、カミさんのコースは2時間のものにしました。この間にまたあの激しいスコールがあり、瞬く間に玄関前の水位が30センチほどになったのには驚きでした。

  三日目(最終日)朝、15年前にも行った黄金の尖塔がきらめくバンコクの王宮はホテルから程近いところにありました。王宮内には敬虔な(?)仏教国らしく数々の寺院が立ち並び、改めてクメール、インド、中国、ジャワなどの影響をうけた王朝文化の絢爛さに感動することになりました。

  なかでも王宮に隣接する「エメラルド寺院」はタイで最高の地位と格式を誇る王室の仏教寺院で、国王みずから管理することになっていて、またタイで唯一僧侶がいない寺院だそうです。

  「エメラルド寺院」の名前のとおり、金の衣をまとったエメラルド色の仏像が本尊として、本堂の高い位置に祀ってあり、高さは66cmあるそうです。 エメラルドといっていますが、これは実はヒスイだそうで、このエメラルド仏の黄金の衣は、国家の重要な儀式として、年3回国王が自ら取り替えられることになっているそうです。

  アユタヤの離宮でもそうでしたが、女性の服装でタンクトップや、ミニスカートなどの場合は入れない寺院があり、カミさんのGパンも上からはくためスカートを借りて入ったところもありました。

  また王宮の中にはクメール文化を象徴するアンコール・ワットのデプリカがありました。アンコール・ワットはタイにあるとばかり思っていましたが、15年前にこの国に来たとき、カンボジアにあることがわかり恥ずかしく思ったものですが、ガイドさんの話を聞くうちもともとはタイにあったものと解り、私の思いこみもまんざら間違っていなかったことに気がつき安心しました。

  午後から少し時間があったので、普通の観光客などはめったに足を運ぶことのない国立病院を見に行きました。病院には博物館があり、この国の風土病の歴史やシャム双生児のホルマリン漬けなどの標本を見ることになりました。

 またあの悪夢のようなプーケットを襲ったTHUNAMIは「津波」と日本語で書いた説明がありました。
 途中チャオプラヤ川を船で対岸に渡り、観光客があまり通らない庶民の町を歩いたことは強く印象に残っています。
  これまた観光客はあまり行かないバンコク市内随一のスーパーへも行きました。わが国でも経済が右肩上がりで成長する中、われわれの世代が子供づれで近くにできたジャスコやサティなどで食事をしたり買い物をしましたが、あの頃のわが国のよりは断然立派で、商品があふれるように並んでいました。宗教との関係上酒類などは午後5時を過ぎないとレジを通れないとの事で、時間に合わせて買い物をしました。

  この日の夕食はバンコク一高い84階建てのバイヨークスカイホテルの展望レストランで取る事になっていました。この建物の77階で360度パノラマのバンコク市内を展望しましたが、明るいうちに見た高速道路のインターチェンジ、暗くなるのを待ってみた市内の夜景は人口800万人(実際は倍の1600万人は居るという)のアジアの大都市バンコクの存在感を感じずにはいられませんでした。

  食事の予約の時間まで少し時間があったので、ホテル周辺の衣料品の問屋さんなどが密集する商店街を見て歩きました。他のアジアの国々と同様タイ経済も今は停滞しているようですが、この国の人々を見ていると、日本にはない活気を感じました。

 展望レストランでの食事はバイキング方式でしたが、日本食でいえば寿司やてんぷら、焼き魚やおでんにいたるまで、あらゆる国の豪華な食事がよりどりみどりであったのには驚きでした。

  仏教国らしく胸の前で手を合わすあの「ワイ」という挨拶は非常に印象に残っています。また「トムヤンクン」は香料の味が口に合わず、この世界的に有名なスープを存分味わうことができなかったのは残念ですが、どこのレストランの食事も美味しく、好き嫌いの激しいカミさんも「美味しい、美味しい」といって食べていました。南国らしく食後のフルーツも種類が多く、初めて味わう果物もありました。

  この日の夜、機中泊の日航機でバンコクを後にしましたが、たった三日間でしたが思い出多い旅となりました。
「旅行中、朝食以外の食事では毎回飲んだ旨いビール「SINGHA」を味わいに、機会があれば近いうち「微笑みの国タイ」へ行ってみたいと思っています。












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エンターテイメント32   Trip&Tour (3-2) 06.06.25 
15年ぶりのタイⅡ 
  幸いなことに二人だけのツアーは、ガイドさんも移動の車もわれわれ夫婦専属のようなものとなりました。ホテルへむかう途中、旅程などの説明があり、ガイドさんイチオシのオプションは、1日目「ミスターレディーのショー」。

 2日目夕刻:アユタヤから戻った後、私には「タイ古式マッサージ」、カミさんには「アロマテラピー」で、オカマのショーも「怪しいものではない」との説明にカミさんも納得し、最初の夜、海鮮料理で夕食をとった後バンコク市内にある劇場へと向かいました。

  ショーは日本のタカラヅカほどのスケールはありませんが、出演者は全員「おとこ」で本物の女性には出せない妖艶さがあり、欧米・中国・台湾・韓国・などの観光客を意識し、世界の世相を皮肉ったコントや、日本人観光客には美空ひばりの「川のながれのように」など演歌を取り入れたショー、アメリカ人向けにはモンローやマイケル・ジャクソン、韓国人向けには「アリラン踊り」など各国の観光客に受けるよう演出されており、あっという間の2時間ではありました。

  2日目は朝から高速道路などをひた走り、アユタヤ地方に向かいました。途中道路の両側にはバナナ畑などが広がり、むらさきに近いピンク色のブーゲンビリアや、花の名前は忘れましたが、日本のねむの木のような大きな木に鮮やかなどぎついほどのオレンジ色の花が咲き乱れているのが目を引きました。一般道に差し掛かると村落が出現し、高床式の家が建っていました。

  約1時間ほどでアユタヤ地方につくと、まず王離宮ガーデン(BANG PA-IN PALACE)を歩くことにしました(ぶらり旅・散歩17-2)。園内は広いこともあって年配の観光者などのためにゴルフ用のカートもありましたが、徒歩で回ることにしました。

 庭内は美しく手入れされた菩提樹・沙羅双樹などの緑と、色とりどりの花々が鮮やかでした。池の中に浮かぶ美しい宮殿(ぶらり17-4)や、その昔中国から送られたという絢爛豪華な建物(ぶらり17-4)が目を引きました。

  次に訪れたのは、御朱印船や山田長政で有名なシャム国の時代の日本人街跡(ぶらり17-2)。跡地にはそれを記す石碑などと売店があるだけで裏手には大きな河が流れていました。売店の中年の人があまりにも流暢な日本語を話すので聞いてみたら、そのはず日本人で以前は奈良市に住んでいたという事でした。

  昼食のあとは今回の旅行のメイン世界遺産「アユタヤ遺跡」(ぶらり17-2)を歩きました。「アユタヤ王朝の首都国際都市として発展したが1767年、ビルマ・コンバウン王朝によって崩壊。市内は廃墟となり、後にタイで覇権を握ったタークシン王はアユタヤを放棄し、トンブリーに王都を築いたことで、アユタヤは歴史の表舞台から姿を消すことになった」とのガイドさんの説明を聞きながら、風化の激しいもののその遺跡の圧倒的な迫力に感動しました。

  このあとカミさんが楽しみにしていた象乗り(ぶらり17-4)を経験し、バンコクのホテルに戻りました。「象の背中」は想像より地上から高く、二人横に乗るのでバランスが取れにくくおっかなびっくりの30分間ではありました。      タイ旅行最終篇 次号



 







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エンターテイメント31   Trip&Tour (3-1) 06.06.25 
15年ぶりのタイⅠ   
   ラーマ9世プミポン国王即位60年で、祝賀ムードに包まれているタイを15年ぶりに訪ねました。平成3年に取引先の工場視察をかねて行った時はバンコク市内だけの滞在でした。6月から会社勤めを再開したら当分海外へなどへは行く機会がないと思い、カミさんが見つけてきた安いツアー3泊4日(機中1泊)を申し込むことにしました。これにはアユタヤ遺跡、離宮ガーデン、日本人街跡などがあるアユタヤ地方への行程があったのが魅力でした。

  このツアーを申し込んだのはわれわれ夫婦だけだったようですが、募集要項には2名以上でツアー成立と書いてあったとおり中止となることはありませんでした。
便利なもので私の住む町の最寄の駅にさえ行けばリムジンバスで空港へ直行、「はるか」にも「ラピート」にも乗らず、自家用車で行けばとられる空港での高い駐車料金も不要で、7時間強(フライトは6時間弱)でバンコク空港へ降り立つことができました。
 
  最近の原油価格高騰のあおりで、関空でとられた航空会社の燃料費追加料金(サーチャージ)は旅行費用の3割程度に達したのには驚きでした。
バンコク到着の1時間ほど前(正確ではないが)窓外を見ると大海原の上空でしたが、海の色が突然変わり、珊瑚礁らしきものの上に区画されたようなものがあるのが見えましたが、あれはなんだったのでしょうか。(だれか教えてください)
 
  それから2~30分、飛行機は密林の上空にさしかかりましたが、ふと目を凝らすと褐色の水をたたえた大河が見えました。これがカンボジアとラオスの国境を流れる「メコン河」だろうと思い、思春期の頃、外国地図を見ながら、横に書かれたラオスのオの字のちょうど下に、縦にメコン河と書かれているのを続けて読んでドキッとしたことを思い出してしまいました。

  「二人だけのツアーなので、もし空港に誰も迎えにきてくれてなかったら?」という不安が頭をよぎりましたが、まったくの取り越し苦労で空港には日本語堪能で親切なガイドさんが待ってくれていました。ホテルに向かう途中車窓からみるバンコク市街は、中古と見られるトラックやバイクが異様に多かった15年前とは違い、道路にはトヨタ・ニッサン・ホンダ・マツダなどの日本製乗用車があふれていました。(ぶらり旅・散歩 17-1)

  ガイドさんの説明によると、これでも日本車のウエイトが以前の95%から20%程度は落ちており、そのシェアの大部分は韓国製が奪っているのだという話でした。
  タクシーも名物のトゥクトゥク(オート3輪)などはかなり少なくなっており、カローラやサニーの新車が多く、乗用車はカムリが多かったように思います。15年前に乗ったときは料金メーターがついておらず、運転手と交渉したことが記憶に残っていますが、その頃は外国人旅行者とタクシー料金のトラブルが絶えなかったようです。今はどのタクシーも屋根には「TAXIMETAR」と大きな看板をつけて走っていました。

  前回のバンコク訪問の記憶で最も印象的だったのが市内の名物「おかまショー」。旅行前カミさんに「見に行かないか」と誘ってみたが、卑猥なものと思ったのかパスということになっていました。 







 

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エンターテイメント30   
昭和(後期)の映画史 (14 06.05・・ 
スクリーンののなかの女優遍歴 

昭和後期の映画で、我が胸をときめかした美しかった女優たちを思い出してみる。

 私が映画が好きになるころには、伝説の女優「原節子」は(映画界には)もういなかった。その頃の大物女優といえば(二十四の瞳)など木下恵介監督の映画によく起用された演技派「高峰秀子」、(長谷川一夫)の相手役「淡島千景」、(君の名は)の「岸恵子」、(東映のお姫様)「丘さとみ」「桜町弘子」、ミス日本から大映のトップ女優となった「山本富士子」、他に大スターといえば「京マチコ」「司葉子」、「岡田茉莉子」「有馬稲子」「香川京子」「北原三枝」らがいた。

  映画のヒロインに始めて胸をときめかしたのは大映若尾文子、あまりにも美しかった年上の女性(ひと)。
美人女優といえばデビューしたころの佐久間良子、東映のもう一人の(よしこ)三田佳子は30台の半ばごろか急に魅力的になったように思う、この二人は少し上のお姉さん。

  高校生の頃は日活映画をよく見ていたが、北原三枝引退後の裕次郎や、渡り鳥シリーズなどで小林旭の相手役をしていた浅丘ルリ子の可愛かったこと、美しかったこと、本人は「この頃の自分があまり好きではない」といっているのを聞いたことがあるが、私にとってはルリ子の旬のとき。

  吉永小百合の実質的なデビュー作は赤木圭一郎主演の「無敵が俺を呼んでいる」だったと思うが、これを見たときからファンになってしまった。その後さまざまの女優を好きになったが、いわば吉永小百合が「本妻」で、他の女優は浮気であったように思う。彼女を一度だけ「生」で見たことがある。家電量販の会社にいた頃、シャープ主催で小百合主演映画の試写会の招待を受けたが、その舞台挨拶に来ていた。彼女はS20年の早生まれで私と同級、還暦を過ぎているが、なぜかかなり下の年代にまでサユリストがいる。

  当時では珍しく奔放な行動で話題を呼び、小悪魔を地でいく加賀まりこ。彼女にはフランス映画の(ブリジッド・バルドー)のような若い性的魅力を感じた。日活で小百合の青春映画全盛の頃、他社の若手女優では若大将加山雄三の相手役星由里子、同じく酒井和歌子、内藤洋子らがいて関根恵子(いまの高橋恵子)がデビューした。
  その後「映画女優」と呼べるような人はほとんどいなくなってしまった、あえて云えば宮沢りえ、沢口靖子ぐらいだろうか。今、映画に出ているのは女優ではなくタレントである。

  昭和の終わりごろの大女優はだいたい’60前後にデビューしている。緋牡丹のお竜で一世を風靡した藤純子、松竹の岩下志麻は、当時ヌーベルバーグ旗頭の一人「篠田正浩」監督の「乾いた湖」でデビュー。同じ松竹の下町女優倍賞千恵子は’61デビューしたが、その後歌も「下町の太陽」が大ヒットした。
  後に銀行の新規開店で、窓口担当の私の真横に座った彼女と二言三言会話を交わしたことは、良い思い出となっているが、このときの倍賞さんは22~23歳で最も美しいころだったと思う。

  あなたにとっての女優は誰でしたか?








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エンターテイメント29   
私の読書歴 (11) 06.4.28   
亡国のイージス 福井晴敏(講談社文庫)

 最近本屋に行く回数がめっきり減ってしまったためか、ハードカバーの長編を買うことが少なくなり、我が家の本棚には文庫本のみが増加している。  そのためか、今まで読んだことのない作家との出会いも少なくなってしまい、最近購入の数少ない中に「福井晴敏」があり、昨年来彼の長編を2作続けて読むことになった。

  最初に読んだのは映画になって話題となった「亡国のイージス(上、下)」そして「終戦のローレライ(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ)」

  いま沖縄の基地移転問題が話題となってるいるが、この本を読んで改めてわが国の防衛について考えさせられた。
  「亡国のイージス」は沖縄辺野古にある在日米軍基地で発生した大惨事からはじまり、わが国最新のイージス艦が暴走し、東京湾から首都圏に向けて「新型爆弾の砲」を向ける物語であるが、フィクションとわかりながらもいつの間にか映画を見ているかのごとく小説の中に入ってしまっている私があった。

  この小説には「ダイス」(防衛庁情報局)なる架空の秘密組織が出てきますが、そのDAISに暗殺されることとなってしまった防大生であるイージス艦の艦長の息子が書いた、論文の中に次のような文章が出てくる。

 
「自衛隊は従来の在日米軍とのリンクがあって初めて能力を発揮するというあり方をやめ、削るべきは削り、増やすべきは増やして、日本の地勢と国力に合わせて完結した戦力を整備していくのが正しいやり方ではないのか」

  「日米安保はあくまで国連貢献の一環であることを明示して、片務ではない、両国の相互利益に基づいて運営されていることを互いに自覚しあうこと。
  それには何よりもまず日本が自らの所信を表明し、一つの国家として一貫した主張とカラーを打ち出していかなければならない。今までそれを怠ってきた結果が未だに大日本帝国の復活を恐れるアジアの愚にもつかない誤解と誹謗を招き、誰からも、自分自身からも信用されないし、尊敬もされない体質を作り続けてきたのではないだろうか」

  「重要なのは国民一人一人が自分で考え、行動し、その結果について責任を持つこと、それを「潔い」とする価値観を、社会全体に敷衍させ、集団のカラーとして打ち出していったとき、日本人は初めて世界に示し得るのではないだろうか」

 
 著者は「誰も責任を取らない平和論や、理想論では現在の閉塞を打ち破ることはできない」ということを言いたかったのだろう。











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エンターテイメント
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私の読書歴 (10)   06.3.25  
国家の品格 藤原正彦(新潮新書)

われわれの世代は、「愛国心」「君が代」「日の丸」などの言葉になぜか一種の「抵抗感」のようなものを感じます。敗戦後の教育やマスコミが、これらが即軍国主義に結びつく「悪いこと」のような風潮を創ってきたのだと思います。
  一時代前であれば、すぐ「保守・反動」といわれた改憲論争やこのようなことが、いま抵抗なく語れるようになってきたのは、やっと当たり前の国になりつつあるということでしょうか。

 この本は第1章から第7章からなっていますが、各章の表題を見ただけで著者の言いたいことがよくわかります。

 
第1章 近代的合理精神の限界

  第2章 「論理」だけでは世界が破綻する

  第3章 自由・平等・民主主義を疑う

  第4章 「情緒」と「形」の国日本、

  第5章 「武士道精神」の復活を

  第6章 なぜ「情緒と形」が大事なのか

  第7章 国家の品格

 
なかでも特に感銘を受け、共感すべきことは、

 ・ 「株主主権をやたらに言い出すのは「武士道精神」から下品で卑怯。
 ・ 国際的に通用する人間になるには、英語教育よりきちんと国語を勉強するこ と、とりわけ本を読むことが   不可欠。
 ・ 教育において論理より「駄目だから駄目」、重要なことは押し付けよ。「卑怯」を教えよ。
 ・ 情緒力がなくて論理的人間は最悪。
 ・ 自由、平等、民主主義を疑う、「マスコミ」が第一権力になり政治を決定すること  になってしまう。平等で  なく「惻隠」を。
 ・ 真のエリートが必要。その条件とは 1.文学、哲学、歴史、芸術、科学といった何の役にも立たないような   教養をたっぷり身につけている事、2.「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があるこ    と。
 ・ 「情緒」と「形」を重んじよ。自然に対する感受性、茶道・華道・書道、もののあわれ、サクラの花に何を見    るか、四季 等々。
 ・ 愛国心でなく祖国愛を
 ・ 武士道精神の美意識、

   ライブドアショックになどにより、今この国が目指している弱肉強食のいわゆるグローバルスタンダードとい う名のアメリカ型株主資本主義が、「日本という国」にとって本当に良いのか議論が分かれるところです。 
  私自身いままで「努力や実力によって差が出てくるのは仕方がない」と競争社会を肯定する気持があったの は否定できません。やってもやらなくても大して変わらない世の中であれば国の活力が失われていく」と思う 半面、「経済至上主義が果たして人を幸せにするのか」との疑問もありました。

    しかしながらこの本を読んで、「目からうろこ」の思いがしたのは私だけでしょうか。









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エンターテイメント27   映  画 (3) 06.01.02   

日本映画 
「男たちの大和」    東宝シネマ橿原
 監督 佐藤 純弥 主演 反町隆士、中村獅童 松山ケンイチ

  
一昨年2月の「ザ・ラストサムライ」以来2年ぶりに映画館に足を運んだ。60歳を過ぎたことにより免許書を見せると1000円で見ることができたが、得をしたような思いと少し寂しい思いが交錯し、複雑な心境ではありました。
  戦艦大和のセットだけで6億円、邦画史上空前の制作費25億円という宣伝文句に恥じず、観客動員でも新記録続出らしい。長淵の主題歌に惹かれ観にくるのかこの手の映画にしては若者の姿も結構多いのに気づいた。不覚にも歳を経るにつけ弱くなる涙腺が早々から全開となってしまった。

  物語はある漁村で一人の女性(鈴木京香)が「大和の沈んだ場所へ連れて行ってほしい」と老漁師神尾(仲代達矢)に懇願するところから始まる。この漁師こそ太平洋戦争で日本軍の敗戦が色濃くなっていた頃、特別少年兵として多くの若者たちとともに、戦艦大和に乗船した少年であった。その少年たちを厳しく指導訓練し、ともに戦った上官が、孤児であったこの女性の育ての親内田二兵曹であった。

  東シナ海の大和が沈んだ海へ向かう漁船で老船長とともに操船を手伝う幼さの残るイマの少年。あの頃否応なく戦地へと送り出され国のため大和とともに死んでいった少年たちと同世代。

  世界最大最強の戦艦と謳われながらも、さしたる活躍の場を与えられず3000名を超える命とともに東シナ海に散った戦艦大和
空前のスケールのセットでの爆撃シーンなどは迫力満点で娯楽映画として大いに見ごたえがあるが、愚かな争いの象徴でもある「大和」の史実の映画化で、敗戦後60年たった今、「あの戦争はナンだったのだろうか」と考えさせる映画でもある。








 



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エンターテイメント
26   
昭和(後期)の映画史 (13 05.12・・ 
男はつらいよ

2006年の新しい年が明けました。
  初詣の参道などを歩いていていつも思うのですが、ふとその辺の露店から
「四谷(よつや)赤坂(あかさか)麹町(こうじまち)、チャラチャラ流れるお茶の水、粋(いき)な姐(ねえ)ちゃん立ち小便」 「白く咲いたはユリの花、四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水くさい」「見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」などと、テキヤの寅さんの口上が聞こえてくるような気がします。

  はじめて「男はつらいよ」が製作されたのは’69年、それから’95年最後の「寅次郎紅の花」まで26年間で実に48作品が上映されました。その間、第1作の光本幸子から最終編にも出演した浅丘ルリ子まで、マドンナ役にもずいぶん多くの人が出演しました。寅さんすなわち渥美清が’96年68歳で亡くなって10年になりますが、妹サクラ役の賠賞千恵子も最初は20代だったはずですが、その間ずいぶん年もとりました。

  山田監督自身の特に好きな作品は、浅丘ルリ子が踊り子リリーを演じた「寅次郎ハイビスカスの花」(’80)だそうですが、私の一番好きな寅サンは「純情編」です。マドンナが昔あこがれた若尾文子が演じているからだけではありません、結婚に失敗した宮本信子演じる絹代が、父親で千造役の森繁久弥が住む田舎へ出戻ってきたときの、親子の対話シーンが忘れられないからです。

 この映画は ビデオで何度見てもなぜか涙がでて止まらなくなります。 絹代がどこかの島で危ういところを寅さんに助けられるシーンがあります。彼女には、礼をするべき何も持ち合わせがなく、身体で返そうとする場面がありますが、寅サンは「妹サクラが、そのような目に会い、男がつけいって求めたりしたら、オレはその男を殺すだろう」といって去る場面も忘れられない。

  これほどの国民的映画ともなれば、テレビの水戸黄門のように「主役が死ねば他の俳優で」、ということになるのでしょうが、寅さんばかりはそうはいきません。西村晃が演じても里見浩太郎が演じても黄門サンは黄門さんですが、寅さんの場合、他の人が演じればそれは「フーテンの寅さん」ではなくなってしまうからでしょう。この正月もあの懐かしいテーマ曲とともに聞こえてくる名台詞を映画館で聴くことが出来ないのはさびしい限りです。

 
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」









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エンターテイメント25   
昭和(後期)の映画史 (12) 05.11・・ 
日本映画のスーパースターたち

 日経新聞「私の履歴書」の11月には「仲代 達矢」が登場した。

 
昭和後期の日本映画界を支えた男優スーパースターを私の独断と偏見で5人挙げるとすれば、次の俳優たちとなる。
 まず東宝で多くの黒沢作品の主演を努めた「三船敏郎」。(前出 12)
東映では片岡・市川御大のあと、時代劇の看板スターとなった「中村 錦之助」(後に萬屋と改姓)、一心太助や森の石松に扮した威勢のいい姿が目に浮かぶ。同じ東映の現代劇では網走番外地シリーズややくざ映画でならした「高倉 健」、やくざ映画以外にも数々の名作に主演した。
大映は悪名や座頭市シリーズの「勝 新太郎」。
そして演技以前に存在そのものが絵になり、日活の救世主となったスーパースターのなかのスーパースター「石原 裕次郎」。この5人は映画会社別にすらっと出てきます。

 新聞を読みながら当時の5大スターに匹敵する人を一人忘れていたのを思いだした。映画会社別に記憶をたどっていくと出てこなかったのは無理もなく、ここでも書いていたように五社協定がありながら、どこの会社にも属せずこれほど数々の大作の主演を努めた俳優は「仲代 達矢」をおいてほかにいないだろう。

 今までに私の見た邦画で感激した映画を、これも5本挙げるとすれば五味川 純平の長編小説を映画化した「人間の条件」(1・2部、3・4部ともに’59、完結篇 ’61)と「切腹」(’62)の2本がまず頭に浮かぶ。この名作はいずれも小林 正樹監督 仲代 達矢主演であった。

 「梶は鉄条網を抜け出した。やがて、雪が降りだした。「美千子、僕は君のところへ帰るよ」とつぶやきながら梶は倒れた。その上に雪が降りしきった。」(人間の条件)

 「窮迫した浪人者が切腹すると称してなにがしかの金品を得て帰ることが流行していた時代、嫌がらせで切腹の場をつくってやると「一両日待ってくれ」と狼狽したばかりか、刀は竹光を差しているていたらくで舌かみ切って無惨な最後をとげた」(切腹)

 これらのシーンは40年以上たった今も鮮明に記憶に残っている。









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エンターテイメント24   
昭和(後期)の映画史 (11) 05.08・・ 
印象に残る洋画 

小・中学時代、学校の映画会でも運送屋の車庫での興業にもほとんど上映されることが無かった為あまり洋画には縁が無かった。50年代にみた数少ない洋画の中ではじめて映画館で見たのはアンソニー・パーキンス主演の「ロンリーマン」(’57米)だったと記憶している。
その後高校時代に名作映画のリヴァイバル上映などで、チャールトン・ヘストン主演の「十戒」(’57)「ベン・ハー」(’59)などを見てアメリカ映画のスケールと迫力に感心したものです。

  はじめてみた外国ミュージカルは「南太平洋」(’58)、この頃には珍しいカラー映画で、珊瑚礁の海がすごく綺麗だったのが印象に残っているものの、台詞が歌でできているため「ナニ・コレ」と云う感じであったことを覚えている。
  60年代になって洋画を見る機会も少しは増えてきたが、断崖のロッククライミング シーンが迫力の「ナバロンの要塞」(’61)、何回見たかを競い合ったミュージカルの名作「ウエストサイド物語」(’61)は高校時代。

  1963年は私が社会に出た年で、他にあまり娯楽もないその頃のデートはイコール映画であり、なぜか洋画であった。映画の題名でそのとき付合っていた相手を思い出す、以下がその頃見た洋画。新人子役パトロシア・ゴッジ好演の「シベールの日曜日」(’62)。大女優エリザベス・テイラーの超大作「クレオパトラ」(’63)。バックに流れる音楽がすてきだった、クラウディナ・カルディナーレ、ジョージ・チャキリスの「ブーベの恋人」(’63)。最後のどんでん返しが強く印象に残っているジャン・ギャバン、アラン・ドロンのフランス映画「地下室のメロディ」(’63)。

  見ていて涙が止まらなくなった、ジャック・レモンの「酒とバラの日々」(’63 )。大ヒットした、ジュリー・アンドリュースの「サウンドオブミュージック」(’65)。スティーブ・マクイーン・岩松マコの感動の名画「砲艦サンパブロ」(’66)。そして圧巻だったのは、’39の製作ながら’65ごろリバイバルで大ヒットした、ヴィヴィアン・リー、クラーク・ケーブル主演、永遠の名画「風と共に去りぬ」。










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エンターテイメント23   
昭和(後期)の映画史 (10) 05.07・・ 
勝新の大映、ロマンポルノの日活 

大映で、2枚目俳優としてスタートした勝新太郎は、最初はもうひとつパッとしなかったが、「不知火検校」(’60)で悪徳検校に扮し、一躍個性が開いた。翌年「悪名」、翌々年「座頭市物語」の第1作が製作され、両シリーズは彼の大ヒット作となり、大映のドル箱となった。悪名、続悪名、新悪名、続新悪名と続くが、新悪名で死んだと思っていた八尾の「朝吉」が帰って来たが、田宮二郎扮する人気者の「モートルの貞」は死んでいた。シリーズにするには、ぜひとも田宮演ずるキャラクターは必要であり、次の作品からは弟の「清二」として登場する。こうして「朝吉」と「清二」はきっても切れない名コンビとなる。
  銀行時代支店勤務の最後は八尾支店だったが、「朝吉」のモデルとなった人の会社が市内にあった。また原作者の今東光が住職となったお寺の話も聞いた。朝吉を生んだ中河内の八尾は言葉こそ柄は悪いが人情豊かな町であり私の好きな土地となった。

  座頭市は悪名以上に勝新の当り役となり、後年勝新自身が監督することにもなった。2枚目俳優ではもうひとつパッとしなかった勝新は、こうしてスーパースターへの階段を上っていく。

  この頃からテレビにおされ、日本映画の凋落が始まった。そのうち「やくざ映画」しか客が入らないようになり、高倉健や鶴田浩二の任侠路線が軌道に乗ると、大映までもが江波杏子の女賭博士シリーズを製作し、日活は同じように高橋、渡のやくざ映画を量産する。

  同じ頃、藤田敏八 鈴木清順などユニークな監督も出るには出たが、しまいには恥も外聞も捨て、なりふり構わずロマンポルノへと移っていった。そのうち日活は業績不振に陥り、大映は破綻へと向かっていった。あれほど日活映画が好きだった私も、ロマンポルノを見に映画館へ足を運ぶ事は一度もなかった。  









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エンターテイメント22  
 昭和(後期)の映画史 (9) 05.04・・ 
健さんやくざと緋牡丹お竜 

高倉健の任侠映画は’64「日本侠客伝」、’65「網走番外地」、同じく’65「昭和残侠伝」それぞれ第1作目が製作され、シリーズ化された。当時の社会情勢がどう影響したのかよくわかりませんが、こういう映画を上映している映画館は一種異様な雰囲気が漂い、その雰囲気を味わうため映画館へ足を運んだ人も多かった。ストーリーは大体決まっていて、悪一家に散々やられて辛抱に辛抱を重ね、ついに我慢の限界で最後の最後に一人で相手先へ乗り込んでいく。

  殴りこみの日はたいてい雪が降っていて、途中鶴田浩二か池部良が傘を差し出し、ともに悪やくざ一家へむかうことになります。深夜興行などの映画館で「いよっー健さん!」と声がかかるのを聞いた事があります。「出入り」が済むと警官が待っていて、またムショの人となる。’

  69ごろから「緋牡丹博徒」のお竜さん参上となりました。当時の東映プロデューサーの娘、藤純子が女賭博師に扮し、これがまたなんとも美しく絵になった。やくざ映画の良さはこの任侠道の形式美にあって、こののち深作欣二監督の「仁義なき戦い」など実録ものといわれるものが大ヒットするが、私の場合どちらかというと健さんの唐獅子牡丹などのほうがすきでした。









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エンターテイメント21   昭和(後期)の映画史 (8)  05.03・・ 
東宝の若大将と尤敏(ユーミン) 

裕次郎の出現は映画界にとって衝撃的でもあり、ファンにとっては今までになかったタイプのスター誕生であった。太陽の季節でデビューした彼の魅力は不良っぽいところにあったが、60年代にはいってすぐ、みるからに健康的なスポーツマンで、育ちが良く、なんとも爽やかな青年が東宝に現れた、二枚目俳優上原謙と女優小桜葉子を両親に持つ加山雄三である。彼が主演の若大将シリーズはその後東宝のドル箱となる。相手役は星由里子、青大将役の田中邦衛は、いやな役をやって本当にいやな奴に見えたが、その後存在感のある役者へと成長していった。 

  私はサユリストであったが、同級生に熱烈な星由里子ファンがいました。
この頃香港や台湾の女優が相次いで日本映画で活躍した。一人は「香港の夜」(’61東宝)で宝田明の相手役をした尤敏(ユーミン)。もう一人は裕次郎主演「金門島にかける橋」(’62日活)のヒロインとなった華欣(ファーシン)。私にとってのユーミンは松任谷由美でなく、尤敏であり、なんとも美しくチャーミングな女優ではあった。前述の「香港の夜」で注目された彼女はその後「香港の星」(’62)に出演し、森繁の社長シリーズ「社長洋行記」「続社長洋行記」(ともに’62)に出、最後に「ホノルル・東京・香港」(’62)に出演した。もちろん5作とも全部見ています。

  私の周りの同級生もみなこの香港女優に魅了され、サユリストも星由里子ファンも一時休憩となった。その後香港で実業家と結婚し、芸能界から引退したと聞いている。香港へは二度行く機会があったが、そのときふと思い出し、「この街のどこかにいるのだろうなあ」などと思った。そのうち東映でやくざ映画が大当たりし、日活でも高橋・渡の任侠ものの製作が増えていき、なんとなく青春映画は日活から東宝へと移っていったような感があった。東宝青春映画では若大将コンビのほか、黒澤年男、浜美枝、酒井和歌子、内藤洋子らが活躍した。
 
20   Trip&Tour (2) 05.03.21 世界遺産 吉野山  

昨年、紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に指定されました。霊場は主として修験道の拠点である「吉野・大峯」、熊野信仰の中心地である「熊野三山」、真言密教の中心地である「高野山」の3ヶ所からなり、これらの3つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」は太古の昔より大勢の信仰者を惹きつけ、日本人の精神・文化面に、重要な影響を与えてきました。
  選ばれた最大の要素は、自然の霊場性などにあるのでしょうが、吉野郡で育った私にとっては、身近なところでの世界遺産と言う事でなにか誇らしい気持ちでもあります。

  大峯山については、私の田舎にはその習慣はありませんでしたが、男子が一定の年齢に達すると親戚か近所の人とかで登山し、命綱は付けているものの、千尋の谷へ落とす振りをされ、「親に孝行するか?」などと問われた経験を、知り合いから聞いたことがあります。

  カミさんの父は謹厳実直な人で、趣味といえば休みの日、近くの川で一日中釣糸を垂れるか、詩吟教室で鍛えたのどで「鞭声粛々」などをうなることぐらいで、酒も飲まず賭け事も何一つしない人でありました。義父の最大の楽しみは一人娘のカミさんや孫の為、小遣いを貯めては年に2~3回義母とともに遠い関東からやって来る事でした。

  我が家からそう遠くないところに名所旧跡が結構多いこともあって、来るたび奈良や京都、吉野や明日香、伊勢や伊賀など日帰りでいけるところにはほとんど行きました。年の割にはシャイなところのある義父は、どこへ行っても何を食べても素直に「良かった」とか「旨かった」とは言わない人でしたが、最後に行った高野山だけは「いいところへ連れて行ってくれた」と珍しく喜んでくれましたが、それを最後に交通事故のため67才の若さで亡くなりました。
 
  私にはよくわかりませんが、高野山には何か義父の心をひきつけるものがあったのでしょ
うか。そういえば38年間お世話になった銀行の先輩方が祀られているのも高野山でした。










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エンターテイメント20   Trip&Tour (2) 05.03.21 
世界遺産 吉野山  
   昨年、紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に指定されました。霊場は主として修験道の拠点である「吉野・大峯」、熊野信仰の中心地である「熊野三山」、真言密教の中心地である「高野山」の3ヶ所からなり、これらの3つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」は太古の昔より大勢の信仰者を惹きつけ、日本人の精神・文化面に、重要な影響を与えてきました。
  選ばれた最大の要素は、自然の霊場性などにあるのでしょうが、吉野郡で育った私にとっては、身近なところでの世界遺産と言う事でなにか誇らしい気持ちでもあります。

  大峯山については、私の田舎にはその習慣はありませんでしたが、男子が一定の年齢に達すると親戚か近所の人とかで登山し、命綱は付けているものの、千尋の谷へ落とす振りをされ、「親に孝行するか?」などと問われた経験を、知り合いから聞いたことがあります。

  カミさんの父は謹厳実直な人で、趣味といえば休みの日、近くの川で一日中釣糸を垂れるか、詩吟教室で鍛えたのどで「鞭声粛々」などをうなることぐらいで、酒も飲まず賭け事も何一つしない人でありました。義父の最大の楽しみは一人娘のカミさんや孫の為、小遣いを貯めては年に2~3回義母とともに遠い関東からやって来る事でした。

  我が家からそう遠くないところに名所旧跡が結構多いこともあって、来るたび奈良や京都、吉野や明日香、伊勢や伊賀など日帰りでいけるところにはほとんど行きました。年の割にはシャイなところのある義父は、どこへ行っても何を食べても素直に「良かった」とか「旨かった」とは言わない人でしたが、最後に行った高野山だけは「いいところへ連れて行ってくれた」と珍しく喜んでくれましたが、それを最後に交通事故のため67才の若さで亡くなりました。
 
  私にはよくわかりませんが、高野山には何か義父の心をひきつけるものがあったのでしょうか。そういえば38年間お世話になった銀行の先輩方が祀られているのも高野山でした。










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エンターテイメント
19   05.02・・  
昭和(後期)の映画史 (7)  
 日活青春映画と吉永小百合

スポーツの国際試合ならともかく、テレビドラマの開始時間に合わせ帰宅した事などかつて無かったと思います。1月でしたか石原慎太郎原作の「弟」が、テレビドラマ化され、5日連続で放送され、裕次郎ファンとしては大変楽しく見させて貰いました。’60代初め日活ではその戦後最大のスター石原裕次郎を軸とする「ダイアモンドライン」と称する男優陣のアクション映画と並行して、吉永小百合を中心とする青春モノも多く作られています。

 私がはじめて彼女をスクリーンで見たのは、若くしてこの世を去った和製「ジェームス・ディーン」といわれた赤木圭一郎主演の「霧笛が俺を呼んでいる」(’60)でだったと思いますが、そのときの可憐さは今でもはっきり記憶に残っています。

 その後、浦山桐郎の力作「キューポラのある街」(’62)に主演し、かわいさだけでなく演技力もあるところが証明され、一躍日活の看板女優となりました。
それからは男性アクション映画の相手役としてではなく、川端康成「伊豆の踊り子」(’63)三島由紀夫「潮騒」(’64)大仏次郎「帰郷」(’64)太宰治「真白き富士の嶺」(’63)(「葉桜と魔笛」を改題)など文学小説を映画化したものや、石坂洋次郎原作の「草を刈る娘」(’62)「青い山脈」(’63)「光る海」(’63)など多くの青春モノに主演しました。

 「キューポラ・・・」のあと、中平康が監督した上流家庭外交官の娘とチンピラの純愛物語、「泥だらけの純情」(’63)が印象に残っています。
 また当時若い娘が顔面の腫瘍に冒され、その恋人に励まされながら死んでいく実話が出版され、これを映画化したマコとミコの「愛と死をみつめて」(’64斉藤武市監督)は若者の注目を集め大ヒットしました。
 ’60代に裕次郎と共演した2作品、裕ちゃん骨折からの再起第1作「あいつと私」と(’61中平康監督)、「若い人」(’62西川克巳監督)はともに好きな映画である。

 上記「泥だらけ・・・」「愛と死・・・」両作品はじめ、小百合映画の相手役の多くは浜田光夫でしたが、他に今はテレビの時代劇などでおなじみの高橋英樹(「激流に生きる男」「雨の中に消えて」「帰郷」「伊豆の踊り子」「こんにちは20歳」)、や渡哲也(白鳥’66、だれの椅子?’68)との共演もあり、坂本九(上を向いて歩こう)や橋幸夫(いつでも夢を)とも共演した。浜田は演技力もあり、好感が持てる役者であったが、目に大怪我をしたあと、なかず飛ばずとなってしまったのは残念である。

 吉永小百合は今年還暦を迎えるはずですが、4年程前、シャープ主催の「長崎ぶらぶら節」の試写会の舞台挨拶ではじめて「生」を見ました。最近ではその家電メーカーの宣伝などで見る最近の彼女も結構美しい、出来得るならまだきれいなうちに引退してほしいと思うのは、サユリストの一人である私だけの思いなのであろうか。










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エンターテイメント18   05.01・・ 
昭和(後期)の映画史 (6)  
二枚看板 

映画が娯楽の王様だったころ、「五社協定」(前出13)のなかで述べた5社以外にも「新東宝」があり、東映は「第二東映」を作ったため、7配給系統となり、邦画だけで7つの封切館で新作を上映していました。この頃は2本立が普通でしたから毎月(毎週だったかもしれない)14本もの新作を量産していたことになります。まさに日本映画全盛でした。

  当時どこの映画会社も二枚看板がいたことを、昨年小林旭ショーの中で本人が言っていたと、このショーを見た人から聞きました。そういえば、日活では裕次郎と小林旭、東映では錦之助と橋蔵、大映では勝と雷蔵、東宝は三船と鶴田浩二?だったでしょうか、松竹では佐田啓二や田村高広ではちょっと古いし、渥美清はもう少しあとに「寅さん」で一枚看板になりますが、この当時は津川雅彦ぐらいか、ちょっと思い浮かびません、新東宝には高島忠夫、菅原文太がいました。

  これも小林旭がショーの中で語っていたそうですが、「裕ちゃんとは世間で言われるほど仲が悪かったわけではなく、裕次郎派と旭派が何かと反目していただけだ」と。「裕次郎を人気の点で抜いた時期があったが、巨人の長島と王選手のように、ギャラではとうとう抜くことが出来なかった」ことも。

  当時日活の2大スターは「錆びたナイフ」で共演していますが、この映画の主題歌がラジオから流れるのを必死で覚えたのを思い出しています。
  残念ながら、その後真に映画スターと呼べるような人は出ていないし、映画女優もいなくなって久しい。いまの映画はスターでなくテレビタレントが出ているだけですが、あの当時は裕ちゃんにしてもアキラにしても相手役の北原三枝にしても浅丘ルリ子にしても輝いていま
した。
 









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エンターテイメント
17   私の読書歴 (9)  04.12.12   
浅田 次郎と「蒼穹の昴」

 
「蒼穹の昴」が文庫本になった。

  かつて同じ部にいた友人から、2冊の単行本が送られてきた事があった。そのときはお互い営業店へ出ていたが、読書家の彼にはかねがね「いい小説に出会ったら教えて欲しい」と頼んであった。私には、「自分が読んだ本は必ず自分の書棚に置いておきたい」というこだわりがあり、好きな本で貸したものが返ってこなかったときなど、わざわざ買いに行ったこともあった。それでもせっかく送られてきて手元にあるので、それを読ませてもらうことにした。「蒼穹の昴」上下、浅田次郎との出会いでした。

  読み終えたあと私はすぐ本屋で彼の作品を探し、文庫になっていた「地下鉄に乗って」を買った。この2作で浅田次郎とは只者でないと思った私は、売れっ子となって、つぎつぎとハードカバーが書店に並ぶのをいまや遅しと買っては帰りほとんど読んでいる。

  「蒼穹の昴」副産物の「珍妃の井戸」はじめ「日輪の遺産」「天切り松闇語り」「活動写真の女」「シェーラザード」「霞町物語」「姫椿」「待つ女」「壬生義士伝」「薔薇盗人」「天国への100マイル」「血まみれのマリア」「歩兵の本領」「王妃の館」「椿山課長の7日間」「沙高楼綺譚」等々の長・中篇も良いが、この人の本領は短編でしょう。「月のしずく」「見知らぬ妻へ」そして、あの「鉄道員(ぽっぽや)」も「鉄道員」という短編集の中にあった。他に「プリズンホテル」「きんぴか」シリーズも面白い。

  「蒼穹・・」は前に読んで8年経っていますが、上に書いた理由で私の書棚にはない、文庫になったら買ってもう一度読もうと決めていたが4巻となってやっと出た。このたび再読して、またしても浅田作品の魅力を再認識することになった。

  この物語は清朝の時代、燃料用の牛馬の糞拾いを生活の糧とする貧しいが、利発な少年「春児(チュンル)」が自ら男の大事なところをちょん切り、ついには紫禁城で西太后直々に仕える宦官の頂上に。
 同じ簗家屯地方の名主の次男「簗文秀(リャンウエンシウ)」が科挙の難関を次々と突破して、挙士となり、「月日も動かす」進士に、しかも状元という最優秀の成績で登第されていくという二人の出世物語である。 ところどころに出てくる狂言回し役、「白太太」老婆の「予言」がこの小説の面白さの味付けとなっている。

  日本との戦争(日清戦争)に負け、列強に領土を侵食されつつあった断末魔の清朝末期、宮中、政界では西太后(シータイホー)系旧守 派と皇上系変法派に別れ、紛糾していた。そのころ変法派の「文秀」は宰相に近い位置にまで上り詰めており、宦官の最高位には「大総管太監」に出世した「春児」がいた。

 陳舜臣が巻末の解説で『この「蒼穹の昴」は破天荒な小説である』とし、「日本は中国から多くのものを吸収したが、科挙と宦官の制度だけはついに採用しなかった」と書いている。この小説はまさにその科挙と宦官の物語でもある。「破天荒」とか「圧巻」という言葉は科挙用語であるという。

  イギリスとの香港割譲の交渉ではあくまでも「租借」とし、返還の時期を中国では永遠の意味をもつ99年後とした話はあまりにも有名であります。小説によるとこのときの交渉はプレジゼント・リー(李鴻章)であったということですが、この返還はつい最近の現実の出来事であり「なるほど」とうならせる、
 この人の場合、フィクションと思っていたところがノンフィクションであったり、逆もあったりで読者をだますのが上手で心憎いほど小説が巧い。
 










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エンターテイメント
16   私の読書歴 (8)  04.11.14    
遠藤 周作と「深い河 」 

遠藤周作といえば、機知に富んだエッセイやユーモア小説を生み、またテレビで女優さんとの対談などで見せたおとぼけの素顔を思い出します。氏はそのような人柄からは想像も出来ない、シリアスな作品を残しており、このギャップが魅力でもありました。

  前者には「オバカさん」、「大変だァ」、「孤狸庵閑話」等があり楽しく読んだ記憶がありますが、作者自身がクリスチャンということもあり「海と毒薬」、「沈黙」や晩年の作品「深い河」など、キリスト教の「原罪」をテーマにしたものなどが、氏の本質であろうと思います。

  「時代小説もかなり書いていますが、ハードカバーの分厚い本で信長の妹「お市」から秀吉の子秀頼の妻となった「千姫」までの、戦国武将たちの政略の犠牲となりながらも、歴史を裏から支えた女性たちを描いた「女」という長編も読み応えがありました。

 「深い河」は、氏の小説の中でも最も好きな作品であり、映画にもなりました。 私の大変親しくさせていただいている銀行の先輩Kさんの長男は大手建設会社に入社し、仕事でインドに行っています。約 8億という中国に次ぐ膨大な人口をもった国、釈迦が生まれ、仏教が発祥した地、カースト制という世にも不条理な制度を持ちつづける国。

  この小説は、このような国インドへ向かうことになる日本人たちの姿を描いたものです。一人の男は、いまわの際に「生まれ変わった私を探して欲しい」といった妻の転生の奇跡を見出すために、ある者は戦友の法要のために、またあるものは動物への恩返しのために、そして一人の女は、彼女の誘惑に負け、それまで信仰していた神を捨てた落ちこぼれの神学者の愛とは何なのかを知るために。

  ヒンズー教徒の彼らは人間の形をしながら、人間らしい時間のひとかけらも無かった人生で、ガンジス河で死ぬことだけを最後の望みとして町にたどり着く。彼女は、かつてからかうためもてあそんだ、あまりに真面目で不器用な彼が、ガンジス河のほとりで行き倒れた人たちを運びつづける姿を見つける。

 火葬された死人の灰がまかれ、死体を流すその横で、沐浴する人たちで溢れるガンジス河、そして悠久のときを、絶えることなく流れつづけてきたガンジス河は、これからも善も悪
も、清も濁も、あらゆる不条理をも流しつづけていくのでしょう。












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エンターテイメント
15   私の読書歴 (7)  04.11.07  
吉川 「武蔵 」  

書棚の奥に眠っていた「宮本武蔵」全8巻を読み返していると、小学3年のとき国語の時間がすごく楽しみだったことがよみがえってきます。
 当時全校生徒が100人にも満たない山間部の小学校でしたが、そこへ新しい先生が赴任してこられました。その先生の授業では「宮本武蔵」の朗読が毎回連続で行われることが大きな魅力でした。教室中響き渡る声で語ってくれる「一乗寺下がり松の決闘」の場面などはへたな講談師よりよほど迫力があったのを覚えています。

 「武蔵」と言えば吉川英治ですが、昭和10年8月23日~昭和12年5月20日、昭和13年1月1日~昭和14年7月11日の2回にわたり東西朝日新聞夕刊に連載されたといいます、挿絵は岩田専太郎でした。

 私の文庫本は「昭和50年7月一刷、53年7月第十刷講談社文庫本」で、それからでも25年以上も経っております。当時吉川武蔵を読んで、「剣の道を極めるためひたすら武者修行に明け暮れ、「剣聖」とまで呼ばれるようになった武蔵の、剣豪としての一面だけが強く印象に残っていました。

 今回読み返してみて別の一面を強く感じています。小説では、本阿弥光悦との出会いがあり、交流を深めるシーンがありますが、分野は違っても一芸に秀でた者同士には何かあい惹かれるものがあるのでしょう。また光悦に誘われ灰屋紹由とともに、絢爛たる郭に遊ぶシーンがあります。

 教養、識見など当時一流の人物であったといわれた「吉野太夫」が、追われる武蔵を匿い、琵琶の「張り詰めた弦」をたとえに、遊びがない(武蔵が)ことを諭す場面がありますが、太夫を絡ませて描かれていた事など記憶になかったことです。ヒロインお通との恋も今読んでみてプラトニックゆえに胸をうつものがあります。

 「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。能能吟味有るべきもの也」・・・私は読んでませんが、宮本武蔵の「五輪書」の一節だそうです。

 司馬遼太郎の「真説宮本武蔵」によれば、吉岡道場との経緯など史実とはかなり違うようですし実在の武蔵は気位とともに実に計算高い人で、吉岡道場以降は自分より強いと思える者は相手にしなかったようですし、それが武蔵の兵法ともいえるようです。引き立て役本位田又八やヒロインお通なども創作の人物ですし、吉川武蔵は養子となった伊織が後に誇張して書いたものにかなり近いようです。

  武蔵は晩年を熊本で過ごしています。肥後藩主細川忠利に招かれ、現在の熊本市千葉城町に居を構え、忠利の相談役を務めました。忠利没後は失意のもと霊巌洞にこもり、自己の武道の集大成ともいえる「五輪書」を書き上げま
した。したした。











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エンターテイメント
14   
Trip&Tour (1)  04.10.10   
上海はいま 

上海が懐かしい。会社の海外研修で上海、蘇州、東莞(トンガン)、香港などへ行ったのは平成9年11月、来月で丸7年となりますが、上海の街はこの間にまた大きく変貌していることでしょう。

  空港に降り立って駅への道を歩いていると、小銭をねだる子供達がしがみついてきたり、上海駅ではベンチというベンチに土色をした大人達が微動もせず座り続けていたり、庶民の市場では蛇や亀などが店先に並んでいるという光景が目に焼き付いています。

 一方では高速道路の工事や、高層ビルの建設ラッシュがあちこちで見られ、日本から進出したデパート「ヤオハン」などには、高級車初め、当時大人気のナイキのシューズなどものがあふれていました。あのとき感じた上海は、いまの東京と、敗戦直後のそれが同時にある国という感じでした。

  蘇州へ向かう列車の中では中国らしい情景に出くわしました。私達が座るはずの座席に先客がいて、指定席券を見せても席をゆずろうとしない。現地の中国人ガイドに頼んで車掌に話してもらったところ、「座っているのは(車掌の)友人だから指定席券を持っている人より優先する」というようなことを言ったらしい。彼女の抗議でやっとわれわれ一行全員座れたものの、さすが中国は聞きしに勝る「人治国家」だと、妙なところで感心しました。

  蘇州で1泊(2泊だったか?)した後上海へ戻りここで2泊した後、空路香港へ飛び、九龍半島をワゴンカーで再度中国に入った。そのとき香港は復帰前であったため、当然のことながら国境を越えるとき、「税関」を通過せねばならなかった。当時香港支店の行員らは、国境を越えて深センの近くまでゴルフをしに行くといっていた、このとき「免税店でまとめ買いするマイルドセブンの減税分が馬鹿にならない」とも云っていた。

  国境を越えたとたん、左側通行の車(香港は復帰前日本と同じ左側通行)が、右側通行に変わるのが印象に残っています。深センを通り取引先企業のある東莞へと向かった。このあたりはあの「食は広州にあり」の広州なのだろうが、招待を受けた豪華な中国料理の昼食も、私達の口には合いませんでした。

   上海ではもちろん、蘇州でも例の「経済特区」とやらがあり、研修旅行であったため、毎日のように特区の責任者や日本からの進出企業の人たちに会った。このときは通り過ぎただけであった深センは、数年前まで畑ばかりで人口数万人の農村だったというが、そのころ数百万人の大都市となっていました。

  ジェトロの上海事務所にいた人がそのままこの地に残り、日本からの進出企業の支援などする会社を作っていた。その人から「経済発展で貧富の差が大きくなりすぎ、いつ暴動が起こっても不思議でない」という話を聞いたが、今のところ杞憂に終わっています。

  中国はその後も驚異的な経済発展を続けており、ずいぶん豊かになっていると聞きますが、低所得の人たちも少しは底上げされているのでしょうか。空港前のストリートチルドレンや、上海駅の座りっぱなしの土色をした大人たち、中国料理屋の地下にあったあの怪しげなカラオケスナックの若い女性達、日本人と見るとなんでも「センエン、センエン」といって追いかけてきた物売り、等々は今も変わっていないのだろうか。

 そして「豫園」の近くでなぜか私を追いかけて来ようとした、子供連れの薄汚れたあの中年女性はいったい何だったのでしょうか。蘇州で見た、人々が湧いて出てくるような朝のすさまじい自転車通勤の風景は今もあのままなのでしょうか。

  ところでこの時のメンバーの皆さん、途絶えている「中国料理を食べる会」やりましょうよ、
幹事役のFさんまたお世話願えませんか。











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エンターテイメント
13  06.10・・
昭和(後期)の映画史 (5)  五社協定  (’60代)
 
映画全盛のころ、東映、東宝、松竹、日活、大映の間に「五社協定」というものがありました。このため、専属契約を結ぶと独立プロを作ることや、他社の作品に出演することができなかった。そうしたなかで日ごろから「俳優は男子一生の仕事にあらず」といっていた裕次郎が独立プロを作ろうと動いたが、協定の壁が厚くなかなか進まなかった。

  結局日活が興業権をもったまま、いわば企業内独立プロのような形でできたのが石原プロモーションで、第1回作品は市川昆監督の「太平洋ひとりぼっち」(’63)だったと思います。

  この映画でヨットがアメリカの港へへ着いたとき「みんな英語や」という東京なまりの大阪弁はちょっといただけなかった記憶がありますが、市川作品らしい良い映画になりました。

  石原プロで、裕次郎には数少ない時代劇「城取り」(’65)などを製作しました。その後’70「ある兵士の賭け」’71「蘇える大地」などが興業的にはあまりぱっとせず、天下の裕次郎も借金がかさみ、窮地に立たされた事がありました。余談ですが、そのとき渡哲也が自分の貯めたお金を「使ってください」と持っていった話は有名であり、その後男と男の絆はより強固なものとなりました。

  4人ともすべて故人となってしまいましたが、当時日活には石原裕次郎、東宝に三船敏郎、大映に勝新太郎、東映には中村(萬谷)錦之助がそれぞれトップスターとして君臨していました。映画ファンとしては「スーパースター達の共演映画」を見たい気持ちはありましたが、この五社協定なるものの為実現が難しかった。

  のちに ’68「黒部の太陽」で裕次郎と三船、’69「人斬り」で勝新と裕次郎、’69「風林火山」で三船・錦之助・裕次郎が共演し、ついに、’70には4大スター共演の「待ち伏せ」という映画が製作された。

  これらの映画のなかで、私にとってはやはり石原プロ、三船プロ共同製作で熊井啓が監督した「黒部の太陽」
が見ごたえがあり一番印象に残っています。










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エンターテイメント
№12  04.10・・
 
昭和(後期)の映画史
(4)

世界の巨匠 黒澤 明 
(’50~’90代)


黒澤監督が’98年、88歳で亡くなって早や6年になります。名作「羅生門」(’50大映)「生きる」(’52 以下全作品東宝)「七人の侍」(’54)「どん底」(’57)は後にテレビなどでみましたが、映画館で観た最初の黒澤作品は「隠し砦の三悪人」(’58)であったと思います。上原美佐という新人女優を起用したことが当時話題となり、脇役の千秋実、藤原鎌足がいい味をだしていたのを記憶しています。

  「用心棒」(’61)「椿三十郎」(’62)も三船敏郎主演で大ヒット、用心棒ではジェリー藤尾が片腕を切り落とされるシーン、椿三十郎の最後のシーンで仲代達矢の心臓から血が吹き出るシーンなどは、モノクロでありながら黒澤監督ならではの迫力ではありました。

  のちにアメリカ映画でユル・ブリンナー、スティーブ・マクイーン、チャ―ルス・ブロンソンらの豪華キャストで大ヒットした「荒野の七人」’60米)は日本映画「七人の侍」のリメーク版であるのはあまりにも有名ですが、このように、黒澤時代劇は海外でも大いに評価されました。一方現代劇では、社会の悪に挑んだ作品、当時流行語になった「悪い奴ほどよく眠る」(’60)や、身代金誘拐事件で犯人役の山崎努が印象に残っている、「天国と地獄」(’63)なども手に汗して見たものです。
 
  また山本周五郎の原作を映画化した「赤ひげ」(’65)は黒澤活劇とはまた違った、人間味あふれる映画ではあり、監督の他の一面であったと思います。その後はますます寡作となり、「どですかでん」(’70)「影武者」(’80)「乱」(’85)「夢」(’90)「8月の狂詩曲」(’91松竹)などを撮り、「まあだだよ」(’93)が最後の作品となりました。

  どれをとっても大作かつ完成度の高いものばかりであったこの大監督作品のなかで、代表作を一作だけ私が選ぶとすれば、質量ともに最大作であった「影武者」になるのではない
かと思います。









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エンターテイメント11  
04.07・・ 
昭和(後期)の映画史 (3) 

日活アクションと石原裕次郎 高校のあった小さな市に、在学当時映画館が8館もありました。学校の帰りにはよく三本立50円の映画館へ行ったものです。
  そのころの日活はアクション映画全盛で、男優陣にはダイヤモンド・ラインというのがあって、タフ・ガイ裕次郎を頂点として、マイト・ガイ小林旭、第三の男赤木圭一郎、和田浩治らで構成、赤木圭一郎急死のあと、エースのジョーこと宍戸錠、ダンプ・ガイ二谷英明などもダイヤモンドライン加わり、主演に回った。

  当時人気があったのが、国会議員を長くやっていた原健三郎原作で、小林旭主演の「ギターを持った渡り鳥」(’59)を初めとする渡り鳥シリーズなどの無国籍映画であった。時代考証やストーリーなどどうでもよく、敵役のジョーや無国籍人に扮する藤村有広などが面白く楽しい映画ではあった。日活には直後に高橋英樹、少し遅れて渡哲也が入ってくる。

  石原裕次郎が衝撃的に映画界へ現れたのは私の高校生時代より少し前であったが、デビュー作「太陽の季節」、「狂った果実」(’56)(いずれも石原慎太郎原作)、続いて田坂具隆監督「乳母車」(’56)蔵原惟繕監督「俺は待ってるぜ」(’57)、などを経て。「勝利者」「嵐を呼ぶ男」(ともに’57井上梅次監督)などで人気を不動のものとし、まさにスーパースターへ階段を昇っていった。

  裕ちゃんはタフ・ガイといわれ、アクションものが多かったが、源氏鶏太の「喧嘩太郎」、石坂洋次郎の「若い人」など文芸モノも結構良かった。全盛のころは、裕次郎主演映画だけで年間10本以上も製作され、どれもが映画館をいっぱいにし、立って観たことなど今では信じられないことである。

  一方女優陣はパールラインといい、(裕次郎と結婚するため女優トップスターの北原三枝が引退したのち、)浅丘ルリ子、芦川いずみ、笹森礼子、吉永小百合、松原千恵子
、和泉雅子などが人気を集めた。
 
  カミさんと観た唯一の裕次郎映画は、新宿日活での「栄光への5000キロ」
(’69蔵原惟繕監督)。











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10  04.07・・ 
 
昭和(後期)の映画史 (2) 

‘50年代の大スターと見た映画 50年代は、私自身にとって見たい映画を選ぶ事は出来ない時期ではありました。山深い村に映画館があるわけがなく、学校や倉庫でたまに上映されるものを唯一の例外(学校で禁止された溝口監督作品「赤線地帯」)を除いて全部見た。いわば’あてがいぶち’を見るだけで、それ以外映画に触れる機会はほとんど無かった。
 
  この頃、映画の中で次のような大スターにめぐり合っている。
  東映は片岡千恵蔵、市川右太衛門両大御所(他に月形龍之介、近衛十四郎、大友柳太郎らがいた、悪役に進藤英太郎、山形勲、加賀邦男などがいた。相手役女優は千原しのぶ 丘さとみ、高千穂ひずる などであった)。
  日活では裕次郎の作品などで重厚な演技をした宇野重吉・轟由起子がいて、高品格という特異な俳優もいた。
 
  大映の主演スターは長谷川一夫、大分遅れて川崎敬三、相手役は淡島千景他に京マチ子、山本富士子など。
松竹で高田浩吉、相手役は嵯峨美智子、草笛光子など。  他の大物女優に有馬稲子、岡田茉莉子、小山明子もいた)。
  東宝では黒沢映画によく出た 三船敏郎、鞍馬天狗の嵐寛寿郎(その後新東宝で前出の天皇映画などに出演)。
  
  年に1~2度オールスターキャストと銘打って東映が製作する、「忠臣蔵」ものか「清水港の次郎長」ものをよく見た。その名の通り片岡・市川両御大はじめ主演級俳優総出演は壮観であった。
  大映では長谷川一夫主演映画のひとつ、怪談’お菊と播磨’の「番町皿屋敷」(’54)は、見たあとしばらく一人でトイレにいけなかった。他に「残菊物語」(’56)もみた。長谷川伸原作ご存知’鯉名の銀平’「雪の渡り鳥」(’57)、駒形茂兵衛「1本刀土俵入り」(’60)の2本は三波春夫の主題歌とともに思い出す。

  その他印象に残っているものは三船 志村(喬)の「男ありて」(’55)、久松静児監督森繁久弥の「警察日記」(’55子役の二木てるみは今どうしているのか)、加東大介主演「大番」(’58)、伴淳・アチャコの「二等兵物語」(’58)等々。最近亡くなった三橋達也はその後東宝で活躍するが、この当時は日活にでていた。

  フリーの女優で大きな人を失念していた、溝口監督・黒澤監督作品にもよく出ていた香川京子












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 04.06・・ 
昭和(後期)の映画史 (1)

 ふるさとの学校や倉庫で見た映画
 私が少年のころは映画が最大の娯楽でした。映画館などあるわけがない山村で見ることができたものは、学校などが主催する「映画会」か、運送屋さんの倉庫で筵を敷いての「興業」か、のどちらかであった。
 小学校の講堂で見た映画、木下恵介監督「二十四の瞳」(’54松竹)、子供たちが、童謡を歌いながら暮れゆく小豆島の山道や海岸通を歩くシーンを思い出す。大石先生に扮した高峰秀子の好演もこの頃なりによく理解できた。  

  「ビルマの土は赤い、そして岩(石だったか?)も又赤い」という字が画面いっぱいに出てきた。中学の体育館で上映された市川 崑監督の「ビルマの竪琴」(’57日活)の1シーン。その後も同監督で再映画化されたが、安井昌二が主演した最初の作品はその頃なりに感動を覚えた映画であった。

  講堂やガレージではどこかと掛け持ちで映写しているのか、フィルムの到着が遅れたこと、そのフィルムが途中で切れてしまい、いらいらして復旧を待ったこと、晴天のシーンでも画面に雨が降っていたこと、クライマックスになると館内で拍手が起こったりしたことなどを思い出す。 
 
  時折興業のあった倉庫で、溝口健二監督、若尾文子主演の名作「赤線地帯」(’56大映)を上映する事になったが、事前に学校から「禁止令」が出、見に行くことができなかった。この映画は私が所有している映画のビデオ約500本の中にもなく、いままで見る機会がなかった。

  当時経営基盤が脆弱だった新東宝が、社運をかけて製作した大作「明治天皇と日露大戦争」(’57)、「天皇・皇后と日清戦争」(’58)が大ヒットした。天皇役の嵐寛寿郎は適役だった
し、高倉みゆきは皇后女優とまで言われた。










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8   私の読書暦 (6)  04.05・・   
城山 三郎と「落日燃ゆ」

城山三郎も私の好きな作家の一人である。初めて読んだ氏の小説は社会人になりたてのころ百貨店の白木屋乗っ取り事件を描いた「乗っ取り」であった。
 
  我が家の本棚には、大正時代の商社・鈴木商店の盛衰を描いた、「」、後で述べる「落日燃ゆ」、倉敷紡績を育て、クラレを興し、大原美術館を創った大原孫三郎の「わしの眼は十年先が見える」、「毎日が日曜日」、「ビジネスマンの父より息子への手紙」、財界総理と言われた石坂泰三の世界「もう君にはたのまない」、元国鉄総裁の石田礼助の生涯「粗にして野だが卑ではない」、などがならんでいる。

  気骨のある経済界の人物を描いた伝記ものが多く、高度成長期のビジネスマンにとって格好の読み物であった。また城山小説は題名に惹かれるものが多く、たいてい書き下ろしのハードカバー本を買っている。

  数多い作品のなかでも「落日燃ゆ」はもっとも好きな小説の一冊である。東京裁判の判決を受け、7人のA級戦犯が処刑された。広田弘毅はその処刑者の中のただ一人の文官である。戦前、戦中を通し、軍部の暴走を何とかして止めようとした主人公は、戦後、そのこと
に何ら言い訳をせず、死んでいったのだ。 












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7   私の読書歴 (5)
  04.05.・・   
新田 次郎 

売れてる作家 太郎・次郎・三郎のうち、前回は司馬遼太郎について書いた、今回は新田次郎
気象庁の職員であったときから小説を書き始め、実際に富士山の山頂に測候所を設置した経験をもとに「芙蓉の人」を書き、後に石原プロが裕次郎主演で「富士山頂」と言う題名で映画化した。

  「孤高の人」「栄光の岩壁」「銀嶺の人」「強力伝」(第34回直木賞受賞)「八甲田山死の彷徨」など山岳小説が多いが、サンゴ漁という珍しい分野で、一攫千金を狙う波乱万丈のサンゴ漁師を描いた「珊瑚」も手に汗して読んだ記憶がある。

  「八甲田山・・・」も高倉 健の主演で「八甲田山」と題して映画化された。死の行軍で多くの兵隊が命を失っているが。一方無事だった部隊があり、その違いが明らかにされている。映画の中でも、冬山の寒さの厳しさをよく描いており、発狂したり、凍死する姿が印象に残っ
ている。










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6   私の読書歴 (4)  04.05.・・   
司馬 遼太郎
 

よく売れている作家 3人を「太郎、次郎、三郎(司馬遼太郎、新田次郎、城山三郎)」などと言った時期がありました。
  司馬遼太郎との出会いは、「竜馬はゆく」全5巻(S39初版、49文芸春秋刊)であった。その後、順不同で「梟の城」「燃えよ剣」「新撰組血風録」「国盗り物語」「関が原」「義経」「幕末」「韃靼疾風録」「花神」「坂の上の雲」「翔ぶがごとく」など夢中で読んでいった。小説以外に紀行文「街道をいく」シリーズや随筆「この国のかたち」など膨大な著作を残している。

  氏の作品に「十六の話」(H5年中央公論社)という単行本がある。その名のとおり随筆16篇が収められているが、その本の「華厳をめぐる話」のなかに「東大寺と井上博道氏のこと」という一編がある。私が富雄支店時代親しくさせていただいた写真家で大阪美大の教授でもあられた井上氏のことが書かれている。当時よく店頭に来られていた教授の奥様のことも出てくる。店頭で見かけた奥様にお願いして、その本に博道氏のサインをもらうことができ私の大切な本となっている。

  「竜馬がゆく」は、学生時代あまり小説を読まなかった息子に何とか活字に親しませようとして薦め、やっと小説の面白さをわからせることができた本でもあり、私にとっては司馬遼の
原点でもある。










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エンターテイメント
5 私の読書歴 (3)
  04.05.・・    
カッパの本と松本清張 

カッパの本(光文社)が全盛だった時期がある。文庫本より少し縦に大きめで、カラーの表紙に書かれた題名に惹かれてよく買ったものです。「松本清張」「高木彬光」の推理小説のほか、「ノストラダムスの大予言」のようなセンセーショナルなものが多かったように思う。
 
  清張の著作は推理ものといっても、今本屋でところ狭しと並んでいるミステリー物などとは格が違うように思えてならない。我が家にある清張の推理小説の題名を挙げてみると。「ゼロの焦点」(S34初版・S49版)、「点と線」(S35初版・S49版)、「黒い画集」(同)「眼の壁」(同)「黄色い風土」(S37初版・S49版)、「蒼い描点」(S35初版・S50版)、「告訴せず」(S49初版)、「生けるパスカル」(S45初版・S49版)、「Dの複合」(S43初版・S50版)などで、映画化されたものも少なくはない。

  そして清張でもう一冊、昭和24年に起こったいわゆる「下山事件」や、昭和27年の「白鳥事件」などを描いた問題作「日本の夜と霧」がある。「文芸春秋新社刊S35初版、同年3刷」となっているのだが、この頃はまだ高校生(16歳)、当時この本を買う機会はなかったと
思われるので、後に古本屋ででも探したのであろうか、よく覚えていない。











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エンターテイメント4 私の読書歴 (2)  04.05.03    
初めての単行本

  読書暦についてもう少しさかのぼってみると、小・中学校時代小説などは、田舎の学校の図書室の数少ない蔵書のなかから選ぶ以外、読む機会はほとんどなかった。教科書や家に配達される新聞以外でかろうじて接した活字は10キロ以上はなれた本屋で買ってもらう少年雑誌。正月号などは漫画の付録が何冊もついていた記憶がある。雑誌の名前は「少年」か「少年倶楽部」だったように思う。この頃図書室から借りてきて読んだ「家なき子」と「岩窟王」が記憶に残っている。

  生まれて初めて自分のものとして手にした単行本は、著作が誰であったか記憶にないが、母方の祖母(大阪のおばあちゃん)に買ってもらった「偉人の少年時代」というものであった。
  この本は数人の歴史上の人物が出てくるものだったが、「毛沢東」と「リンカーン」だけは覚えている。その毛沢東に「マオ・ツオ・トン」と振り仮名があったのを、なぜか鮮明に覚えている。

  小学時代に読んだ日本の小説としては、山本有三の「路傍の石」下村湖人の「次郎物語」
が印象に残っている。










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エンターテイメント
3 私の読書暦 (1)  04.04.・・   
日本文学全集と世界文学全集  

このHP自己紹介のところで好きな作家、いま「浅田次郎」、むかし「高橋和巳」などと書きましたが、私の小説遍歴は、ほぼ昭和39年発行の新潮社版「日本文學全集」で始まります。

  赤い箱に入ったB5番の半分くらいの小さい本で全72巻ありました。カミさんに何度か捨てられそうになりましたが2~3冊欠落しているものの、ほとんどが残っています。 
  3~4年前、なかにし礼が書いた「長崎ぶらぶら物語」が、吉永小百合主演で映画化された。その作品をシャープの試写会で見る機会がありましたが、映画の中にこの全集が出てくるシーンがあって妙に懐かしく思いました。

  日本文学全集は第1巻「二葉亭四迷」で始まり、68巻目に「三島由紀夫」がやっと間に合ったぐらいで、あと「慎太郎」の太陽の季節はじめ、その後日本の文壇で活躍する「大江健三郎」「清張」「福永武彦」「庄野潤三」「遠藤周作」など当時の新進作家の作品は72巻目の「昭和篇・下」に各1篇掲載されているのみ。
 1巻から67巻までの間に昭和30年代までの文豪と呼ばれた「露伴」「鴎外」「藤村」「漱石」「谷崎」「志賀直哉」「芥川」「川端康成」「太宰」「井上靖」日本の著名な小説家はほとんど網羅されている。

  外国の小説はS43年発行の河出書房「世界文学全集」全42巻。これは東京勤務時代に会社の何人かで予約注文し、配本の都度勤め先へ配達してもらっていたのを思い出す。かなり分厚いもので字も細かく、「ホメロス」から始まり、「シェイクスピア」「ゲーテ」「ドストエーフスキー」「トルストイ」「ヘミングウェイ」などがあり、38巻目に「カフカ」と「サルトル」が収められています。

  このころは学生運動の華やかかりしころで、左翼学生がよく読んでいた週刊誌「朝日ジャーナル」に高橋和巳の「邪宗門」が連載されました。この小説は、戦前弾圧をうけた「大本教」教主出口王仁三郎をモデルにしたもので、これを読んで、感銘を受けた私は「悲の器」「憂鬱なる党派」「わが心石にあらず」「捨子物語」など氏の小説をむさぼるように読み、感動を覚えたものです。  京大の文学部教授でもあった氏は39歳の若さで亡くなってしまい、当時相当ショックだったことが思い出されます。











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エンターテイメント
2 映  画 (2)  04.02.18   
ザ・ラストサムライ 
 
米映画  ムービックス橿原
 監督 エドワード・ズウィック 主演 トム・クルーズ、 渡辺 謙 

  評判通り質量ともに見ごたえのある作品であった。今までの日本を描いた外国映画はたいてい、われわれ日本人が見て何かヘンなところがあって、気になったものです。この映画は珍しくそういった違和感なくみることができました。

  官軍の総司令官の名が「大村」であったので、つい司馬遼太郎原作「花神」の主人公「村田蔵六」のちの「大村益次郎」を連想してしまいました。司馬作品とは時代も少しズレており、渡辺謙が演じた日本のサムライ勝元も前出の大村も歴史上の特定の人物をモデルにしたものではなく、まったくのオリジナルな役柄だったようです。

  この映画が(われわれ日本人にとって)カッコいいのは「サムライの精神」に帰するところと思われますが、ザ・ラストサムライを創った国アメリカでも武士道の精神が理解されたでしょうか。














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エンターテイメント
 04.02.04 映  画 (1)      
 
半落ち

東映映画  ムービックス橿原
  監督 佐々部 清  主演 寺尾 聡  原作 横山 秀夫
 
  映画館(といってもシネコンですからそれほど大画面ではありませんが)で映画を見るのは何年ぶりだったでしょうか。まして家内と一緒ということになると、前に見たのがいつだったか思い出せないほどです。

 この映画は原作もベストセラーになっていますが、映画も面白い。「半落ち」とは警察用語で容疑者の自白で「半分落ちた」ということだそうです。落ちなかった半分「空白の2日間」に何があったのか・・・・・・これ以上はいいません。

 「原作を超える映画はめったにない」といわれていますが、この作品はどうでしょうか?「おとなの男」を泣かせる映画ではあります。見たあと原作を買いにいき、今読んでるところです。

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