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エンターテイメント№194 2020.6
もう一度 東南アジア
今年の5月10日は私たち夫婦の結婚50周年でした。昨年末来、記念の金婚旅行を予定し、トラピックスで予約していたが、正月早々入院することになってしまいました。
当初 5月までには治癒して、「行けるかも」と思っていたが、その後旅行予定日までに全快は無理と見て、病院からキャンセルの電話をした。その後は予期せぬコロナ禍でキャンセルするまでもなくこの時期の海外ツアーはすべて中止となっていきました。
猛威のコロナ感染も少しは落ち着き、国内では出口戦略を言われるようになり、緊急事態宣言も解除されるようになってきた今、「もう一度海外へ行ける日が来るかもしれない」と思いと「生きている間は無理か?」との思いが交錯している。
もし行けるとなればやはり「東南アジアのどこか」と思う。なぜ?と問われると近くて(フライト時間が長すぎない)安いというのもあるが、「タイや台湾、ベトナムやカンボジア、ミャンマーやインドネシアやマレーシア、そしてインド」の道路。
3人も4人も載せたものすごい数のバイクの群れや、トウクトウクなどが横断歩道で、信号青でも停まってくれない。これを渡るときの気分が、なぜか懐かしい。韓国や中国・香港・マカオも行ったが、上記の国々のような喧噪さはなかった。
20回以上の海外で、うち約半数の10回が、三水会という会社のOB会 10人前後で行った旅行。OBの飲み会だけならどこにでもあるだろうが、そのメンバーで寝食を共にして異国を彷徨う団体はめったにないらしい。
旅行会社のツアーは大体20から30人ぐらいであるが、食事時、10人も集まるテーブルは私たちだけ。いつも聞かれるのが「なんの団体さん?」。「銀行のOB」、と答えると、みんな不思議に思えるらしい。ある時、聞いてきた元メガBKの男性が「信じられない」、現役時代足の引っ張り合いをしていたOBが飲み会だけならともかく、数日間も寝食を共にすることはありえない」と。
前にも書いたと思いますが、この旅行長く続いている第1の理由は気の合うメンバーの人柄。しかしそれだけなら思い付きで1回か2回。何といってもツアーのコンダクタ-を務めてくれているYさんがいてくれるからこそ。
企画から申し込み、旅客機の中での出入国票記入から動画の撮影まで。晩年になってこれらの飲み会のメンバーでいられることは本当に幸せなことだと思っています。もう一度海外へ行けることを楽しみに。しっかり養生をして長時間歩ける身体にしたいと思うこの頃ではあります。
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エンターテイメント№193 2020.5
1 8 1 18歳と81歳
同市内に住む友人inaba氏(長男ママ友のご主人)からの提供
プラスの力 9+9=18歳 | 最期にかける力 9×9=81歳 |
高速道路を暴走するのが18歳 |
高速道路を逆走するのが81歳 |
恋に溺れるのが18歳 | 風呂で溺れるのが81歳 |
ドキドキが止まらないのが18歳 | 動悸が止まらないのが81歳 |
世界を駆け巡り自分探しの旅をしているのが18歳 | 出掛けたままわからなくなって皆が探しているのが81歳 |
これからの18歳に・・・拍手 | これまでの81歳に合掌 |
人生につまずくのが18歳 | 小石につまずくのが81歳 |
自動車の免許書取れるのが18歳 | 自動車の免許書返却するのが81歳 |
メイドに声かけられるのが18歳 | 冥土からお呼びがかかるのが81歳 |
片思いの18歳 | 肩重い81歳 |
友達が増えるのが18歳 | 友達が減るのが81歳 |
階段をスキップして上がるのが18歳 | 階段でストップして立ち止まるのが81歳 |
恋で胸を詰まらせるのが18歳 | 餅で喉を詰まらせるのが81歳 |
バイクで走り出すのが18歳 | 俳句をひねり出すのが81歳 |
「君の名は」の主人公はと聞いて立花瀧・宮本二葉と答えるのが18歳 | 「君の名は」の主人公はと聞いて後宮春樹・氏家真知子と答えるのが81歳 |
若葉マークが18歳 | 枯葉(もみじ)マークが81歳 |
歯を食いしばり歯向かう18歳 | 歯に衣着せぬもの言う歯のない81歳 |
おしゃれがしたくなるのが18歳 | 駄洒落が言いたくなる81歳 |
大喰らいでどんどん太るのが18歳 | 小食でどんどん痩せるのが81歳 |
頂点を目指すのが18歳 | 終点を目指すのが81歳 |
もうすぐ大人だと思う18歳 | もう大人しくなる81歳 |
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エンターテイメント№192 2020.4月
サクラこそエンターテイメント
いま 新型コロナウイルスの感染拡大で、我が国も重大な局面を迎えています。ホームページ更新のUPを進めているとき、国民的コメディアン「志村けん」死亡の報に接した。もう「大丈夫ダア」の声を聞くことができなくなりました。心よりご冥福をお祈りします。
このホームページへ最初に「エンターテイメント」をUPしたのは2004年2月。その時は意味も深く考えずに、「娯楽・楽しみ」ぐらいの意味で、雑文集「おもいつくままに」とともに、HPの2大コンテンツとしました。
「entertainment」の意味を調べてみると、歓待・もてなし・宴会・パーティー・娯楽・慰み・催し物・余興・演芸などが上がってくる(Weblioによる)
私自身、年齢が後期高齢の75才。病気の関係で50kを割る激やせ、体力が無い。ステロイド薬を飲んでいるため免疫がゼロに近く、糖尿病の血糖値がかなりの高値。いま私にウイルスが襲い掛かったらひとたまりもない。
家の中だけでは気が滅入るし、歩かないことには筋肉・体力を取り戻すことができない。が、感染が怖くてどこへも行けない。それでも橿原市民しか行かないであろうデパートの地下食品売り場か、地元のスーパー・ホームセンターぐらいへはマスクをつけて恐々歩いて行く。
何とか「体力を」と、高たんぱく高カロリーの食事をとれば血糖値が下がらない。カロリーや糖質を抑えた食事では体力が戻らない。
そこで毎日桜の開花を待ちながら日課となってしまった飛鳥川堤防散歩での「サクラ」の情報を。
3月11日 飛鳥川のサクラ情報。散歩コースのサクラ(蕾が膨らんできた)、植物にはウイルス関係ない!
↓
3月20日 飛鳥川のサクラ、本日初開花見つけた。2輪と他の木で1輪計3輪。ほかの樹々は赤い蕾が膨らんで開花秒読み。 ↓
3月22日 まだ一分咲きまではいかない ↓
3.23 一分咲きの木、二分咲きの木、三分の木。他の樹々はチラホラ。 ↓
3.26 七分咲きか ↓
3.30 満開 ↓
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エンターテイメント№191 2020.1
同じ市内の住人で、(長男 小・中学のママ友)夫婦ともども親しくさせ ていただいている友人から入手、
あまり面白いので了解を得て 転載させていただきました。一度目は (おもいつくままに)2017.8 №181
№2 提供 橿原市 INABA氏
第18回(H30年) | |||
ディサービス 「お迎えです」はやめてくれ |
ベンツから 乗り換えたのは車椅子 |
朝起きて 調子いいから医者に行く |
百年も生きりゃ 貯金に先立たれ |
第18回(H30年) | |||
仲いいね いえ夫は杖代わり |
「インスタバエ」新種の蠅かと孫に問い |
うまかった 何を食べたか忘れたが |
Siriだけは 何度 聞いても怒らない |
第18回(H30年) | |||
靴下を 立って履くのはE難度 | 「ご主人は?」「お盆に帰る」と詐欺に言い | 「もう止めた」検査ばかりで病気増え | お揃いの茶碗にされる 俺と猫 |
第18回(H30年) | |||
納得をするまで計る 血圧計 | 家事ヘルパー 来られる前に掃除する | 歩幅減り 歩数が増えた万歩計 | 私だけが 伴侶いると妻嘆く |
第18回(H30年) | |||
古希を過ぎ 鏡の中に母を見る | 無宗教 今は全てが神頼み | 君たちも どう生きるかと子に聞かれ | 懐メロが 新しすぎて歌えない |
2019.9 | |||
第19回(R1年) | |||
四元号 生き抜き迎える 白寿かな |
みずあそび じじとおそろい手しわしわ | グレーヘア したいがすでにハゲ頭 | 既読スルー いいえ只今格闘中 |
第19回(R1年) | |||
初孫で 娘の家まで定期券 |
メルカリで 誰も買わないワシの服 | 女房から 生前退位せまられる (Noです) |
失言は 家庭内でも命 取り |
第19回(R1年) | |||
オレオレの 相手をしたい ほどの暇 |
婚活の 殺し文句は 「看取ります」 |
居ないとき 妻の枕を尻に敷く | 挑んでも 店員を呼ぶセルフレジ |
第19回(R1年) | |||
ボーっとして テレビの中から叱られる | 高齢者 疑心暗鬼の キャッシュレス | 問診に オレより妻が答えてくれる |
爺ちゃんに スマホ教える孫5才 |
第19回(R1年) | |||
自分でも 事実か分らぬ 武勇伝 |
若作り しても話題はみな昭和 |
筋肉は 裏切らないと老いて知る | 徘徊の ルート AIにも読めず |
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エンターテイメント№190 2019.12月
ドラマ BS時代劇 「薄桜記(はくおうき)」 全11回
キャスト
丹下典膳(山本耕史) 長尾千春(柴本 幸) 中山安兵衛(高橋和也)
丹下ぬひ(檀 ふみ) 長尾権兵衛(辰巳琢郎) お菊(かとうかず子)
長尾龍之進(忍成修吾) 千坂兵部(草刈正雄) 吉良上野介(長塚京三)
富子(萬田久子)堀部弥兵衛(津川雅彦) 紀伊国屋文左衛門(江守 徹)
白竿屋長兵衛(高嶋政伸) お三(ともさかりえ)
薄桜記』(はくおうき)は、五味康祐の時代小説。『産経新聞』夕刊に1958年7月から1959年4月にかけて連載され、新潮社から1959年に刊行、新潮文庫より1965年に文庫化された。2007年9月に改版、現在まで刊行されている。高田馬場の決闘や赤穂浪士による吉良邸討ち入りを背景に、2人の剣士・丹下典膳と堀部安兵衛の友情や、上杉家江戸家老の名代・長尾竜之進の妹・千春をめぐる悲恋が描かれる。 また、それを原作とした映画、舞台劇、テレビドラマ。– Wikipedia
初回放送は2012年7月13日(金)からだったらしいが、今年7~8月NHK BSTVで再放送、録画したものを一気に見た。
「あらすじ」
主人公・丹下典膳(山本耕史)は、旗本にして、卓越した一刀流の剣豪。しかし、妻の名誉を守るために片腕を失い、そしてお家も断絶してしまう。浪人となった典膳を助けたのが、のちに赤穂藩の家臣となる堀部安兵衛。一方、武士としての筋を守る典膳は、吉良上野介(きらこうずけのすけ)の用心棒となり、片腕の剣豪として、赤穂浪士たちと向かい合う立場となる・・・。そしてこのドラマを貫くのは、武士社会の掟(おきて)により、愛しながらも別れざるをえなかった、典膳と妻との、美しくも切ないラブストーリー。
あまりにも有名な「赤穂浪士討ち入り、忠臣蔵」は映画やドラマで嫌というほど観てきた。ほとんどがこれにより英雄となった大石 内蔵助他赤穂浪士の側から描いたもので、討ち入りの相手吉良側から描いたものは少ない。このドラマの主人公丹下典膳は由緒ある旗本の武士であったが、片腕を失い家も断絶してしまい、吉良家の用心棒となっていた。討ち入りの噂を聞き、それに備える吉良方を描いている。
江戸時代、不義密通に対する罰則は、武士以外でも死罪だった。本来間夫(まぶ)を殺害しても罪に問われなかった。が、両者を殺害しなければならなかった。できるだけ不義密通が表沙汰(おもてざた)にならないよう、早めに妻を離縁したりしたが、妻だけを生かすと「武士の未練」とされたらしい。
典膳の妻千春を演じた柴本幸という女優、所作が素晴らしく、凛とした武士の妻を好演。いままでこの女優を知らなかったが、真野 響子・柴俊夫の娘と知り、なるほどと思った。
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エンターテイメント№189 2019.11月
ドラマ ノーサイドゲームキャスト
君嶋隼人:大泉洋 君嶋真希(妻):松たか子、 柴門琢磨(監督):大谷亮平、
風間有也:中村芝翫、 滝川桂一郎;上川隆也、 浜畑譲:廣瀬俊朗(元プロラグビー選手)、岸和田徹(キャプテン):高橋光臣、 社長;西郷輝彦、 佐倉多英(マネージャー);笹本玲奈、 原作;池井戸潤
連続ドラマ「ノーサイド・ゲーム」は今年9月15日が最終回だった。新しく始まるドラマはほとんど録画しているが、駄作も多いのでHDDにあるものを初回か2回目ぐらいを観て、面白くないものは消し、観たいと思うものだけCMを削除してブルーレイに撮り貯めている。
今年はラグビーというスポーツを初めてテレビ観戦し、興味を持ったこともあり、このスポーツを主題にしたドラマを観ることにした、大手自動車メーカーが所有するラグビーチームの活躍をバックに、池井戸潤原作らしく、企業間の競争や企業内経営陣の熾烈な出世競争を描いている。
「ノーサイド・ゲーム」は、大泉演じる大手自動車メーカー・トキワ自動車の中堅サラリーマン・君嶋が、経営戦略室から府中工場へと異動させられ、さらには同社の企業スポーツであるラグビー部のGM(ゼネラルマネージャー)にも任命、14億もの赤字を抱えるラグビー部「アストロズ」の再起に奔走する物語だ。
「アストロズ」優勝へ部員一同と駆け抜ける一方で、トキワ自動車本社では滝川常務(上川隆也)を中心とした不正なカザマ商事買収があるも、君嶋の働きで阻止。滝川は失脚する。しかしそれは経営戦略室長のかつての上司・脇坂(石川禅)の戦略であり、君嶋は脇坂に利用されていたうえ、「アストロズ廃部」を公言されてしまい、見事な手のひら返しにあう。
私自身少なからず感心したのは、この原作本、今年6月に発行されたもの(書き始めたのはかなり前?)なのに、ラグビーワールドカップで日本チームの活躍を予言するかのようなドラマになっていること。また白熱した試合の臨場感と、ラグビーというチームスポーツを軸にしたシーン展開が素晴らしく、屈強な男たちをかっこよく見せている。『半沢直樹』以来、観応えのあるドラマである。
エンターテイメント№188 2019.10月 映画18
アルキメデスの大戦
· 大里清:笑福亭鶴瓶 永野修身;國村隼 嶋田繁太郎:橋爪功
平山忠道:田中泯 山本五十六:舘ひろし 監督 山崎貴
映画館で観るのは約2年ぶり、17年10月の「関ケ原」以来。7/26 公開の「アルキメデスの大戦」、題名に惹かれてカミさんとイオンモールのTOHOシネマへ。
戦艦「大和」を阻止せよ!!! 日本の未来を1人の数学の天才が変える!? 、時は1933年。日本海軍の中枢・海軍省の会議室で、次世代の旗艦を決める新型戦艦建造計画会議が開かれ、2つの陣営が設計採用を争う事に。これからの海戦を見据え、高速の小型戦艦を打ち出す”航空主兵主義”派に対し、海軍内で権力を握る”大艦巨砲主義”派の計画は、世界でも類を見ない超巨大戦艦の建造だった――!! Yahoo 作品情報より
最近の我が国の映画、大作の原作が「漫画」というのが結構多い。これも漫画を原作とした実写映画。「数学」で戦争を止めようとした男の物語。
1933年(昭和8年)、海軍では新造艦をめぐる会議が行われており、永野修身中将と山本五十六少将は、来る航空戦に備え航空母艦の必要性を説く(航空主兵主義)
日本と海軍に幻滅する数学者櫂は、「戦争を阻止する」という山本の説得を頑なに断り、米国の大学へ留学しようとするが、最終的には「国民に幻想を与える戦艦案廃止に応じる。
「これからの戦争は航空機が主体になり、巨大戦艦は不要になるであろう」と考えている山本五十六海軍少将。対し、いかなる手段を講じても「大和」を建造する、平山忠道造船中将。平山が計画している無駄に大きい巨大戦艦の建造計画案とは。
そして、1945年(昭和20年)4月7日大日本帝国海軍の巨大戦艦大和は、米軍の魚雷と爆撃による猛攻を受け沈没していった。
エンターテイメント№187 2019.9月 私の読書歴 50
「新聞という病」その2 対安倍政権 門田隆将 著 産経セレクト刊
安倍晋三氏の第1次政権は1年で終わりました。その後首相に返り咲き、現在は第4次政権で通算の在職は2703日(2019年5月20日時点)となっています。戦前を含め最長は明治から大正時代の桂太郎(通算2886日)です。2位は沖縄返還を実現した佐藤栄作(同2798日)、3位は初代首相の伊藤博文(同2720日)。安倍首相はいま4位で、11月19日にトップの桂太郎と並びます。NIKKEI STILE
安倍政権が長続きしており、支持率も安定している。その世論調査でいつも思うのだが「支持しない」の理由が「人柄が信用できないから」の率が結構高いこと。直近 8/2 NHKでも35%と一時よりは低くなっているものの、私には「何故?」という疑問がわく。
思うに朝日・毎日など大新聞は安倍政権誕生時から異常なまでに敵対心を持ってきた、何故?。
本書を読んで感じたこと、前月号では「日本の新聞なのに何故韓国や中國寄りなのか?」の疑問に対する門田氏の考えをまとめてみました。
今回は「日本の新聞は、何故これほどまでに安倍さんが嫌いなのか?」を読み解くことにした。
① 2017.3 北朝鮮の移動式発射台から同時に4発弾道ミサイル発射、4月には米中首脳会談を前に新たなミサイル。この国家の危機のとき新聞は、かの「森友」問題に紙面を使い続けた。首相の直接関与で追及が無理と分かった時点で「忖度」なる言葉まで捻りだして、推測に推測を重ねた不毛な議論を報じた。国民の命に係わる核ミサイル問題に本気に取り組んだのは産経だった。
② 横田めぐみさんに言及したトランプ大統領の演説の翌日、安倍首相が国連総会で行った演説に刮目(門田氏が)、東京が第3の被爆都市にならないため、決死の覚悟の演説だったから。しかしこの演説の全文を紹介したのは、産経一紙だけ。
③ 2019.2からのハノイでの米朝会談。翌日は台湾の228事件記念日、習近平主席の「一国二制度を受け入れよ」に対する蔡英文氏のインタビューに成功した産経は、「安倍首相に決断を促す蔡氏の言葉を引き出した。
④ 戦後70年の安倍首相の談話。朝日は「政治家が未来に向けてビジョンを語るのは大切なことだ。だが、植民地支配や侵略の被害にあったり、過剰な負担を押し付けられたりしている側の人々に寄り添う姿勢が無ければ説得力は生まれない」と中国・韓国を後押し。毎日は「同盟を強化する動機が、台頭する中国をけん制することに偏りすぎてはいけない。と中国側に立つ主張。
⑤ 2018.12 日韓議員連盟と韓日議員連盟との合同総会がソウルで。今回初めて安倍首相が祝辞も出さず、文氏への親書も託さなかった。しかし、安倍首相を批判する新聞はあっても肝心の議員連盟の行動を非難したのはまたしても産経一紙。
⑥ 安保法制問題は日本の「安全保障」という極めて重要な課題に対して、新聞は「戦争に踏み出す日本」「これは徴兵制につながる」という趣旨の論評。
⑦ 甘利さんの経済再生担当大臣が辞任に追い込まれて時、朝日は週刊誌の記事に丸乗りして、安倍首相の責任を追及。しかし政権への打撃を企図したこれらの記事は、記者たちにとってむなしい結果となった。
⑧ 森友問題から加計問題に至る不毛の5か月間。ありもしない関係を吹聴して商売に利用した経営者(森友氏)の証人喚問にまで発展したが、安倍首相の関与というファクトはついに出てこなかった。
⑨ 加計問題 アベノミクスの「成長戦略」の柱の一つ岩盤規制に穴をあけようとした。だが新聞は何が「総理のご意向」かの検証もせず、ただ政権に打撃を与えることを目的に「印象操作」のための日々、紙面を費やした。
安倍政権打倒のため野党とマスコミがタッグを組んで政権打倒キャンペーン。よい例が財務省の福田前次官の(胸さわっていい?)のセクハラ騒動。テレビ朝日の女性記者が隠し撮りをした音声を週刊新潮に持ち込んだ事件。なぜテレ朝自身が報じなかったかという疑問。
安倍首相が好きか・嫌いか。安倍内閣を倒すか、倒さないか。その目的を実現するためにはファクト(事実)など「関係ない」という露骨な姿勢。新聞は「政治運動体」の機関誌、すなわち倒閣運動のビラに成り下がっている。
冒頭の私の疑問、こんなにも安定している政権のトップが世論調査で「人柄が信用できない」は、これら大新聞らマスメディアに「刷り込まれた」人たちの意見なのであろう。
エンターテイメント№186 2019.8月 私の読書歴 49
「新聞という病」その1 対 韓国関連
門田隆将 著 産経セレクト刊
我が家の購読紙は「日本経済新聞」、25歳の頃から半世紀にもわたってこの新聞を読んでいます。現役時代、銀行の「資金証券部という特殊な部署にいたころは、勉強のためもあって4紙もとっていたことがあります。「読売」「日経」「日経金融新聞」「ニッキン(日本金融新聞 週1)」。
それまでしばらく朝日新聞を取っていたこともある、社会人として幼かったそのころの私にとって「良識派は、朝日を読むものだ」と思っていました。 しかしいま、私の知り合いの中でも、識見とまともな政治感覚とを持っている人は「産経新聞」を取っています。
ジャーナリストで保守の論客門田隆将氏は、新潮社で「週刊新潮」の記者などを務めていた人で、私の好きな番組「そこまで言って委員会」のレギュラーパネラーとして出演、毎週欠かさず観ております。
氏がこの本で言いたいのは、今のマスメディアはあまりにも左に寄りすぎているということ。中でも長く日本のジャーナリズムに君臨してきた「新聞」というメディアは「衰退の一途をたどっている」と警告している。なぜなら、メディアの多様化で新聞離れが進んでいることや、朝日・毎日などの新聞はなぜか「愛国」や「祖国愛」といったものを毛嫌いして「反日」を唱え続けて日本を貶めているからだと。
この本、今年5月初版であるから、もう少し前から門田氏は、「韓国への制裁を発動せよ」と強く訴えている。今ようやく官邸や世耕経産大臣らによってそれが実行されようとしている。確かに我が国にも経済的な不利益は大きいだろう、しかし、もう我慢の限界にきている。我々国民にもマイナス面があるにしても、これ以上舐められるわけにはいかない。このような環境の中で河野外相の一歩も引かない毅然たる態度に感動さえ覚えています。
新聞が「反日」という論拠をこの本から抜粋してみます。
・ 「日本には何をやってもいい」と思い込んでいる韓国、約束を守らない韓国は日本に対してその節度と敬意を払ってこなかった。人の好い日本人は忍耐で付き合いを続けてきたが「限界にきた」と、今ようやく日本人全体が認識。
どんなことがあっても日本を悪者にしたい「反日日本人」、親韓派の媚韓政治家、そして媚韓メディアは「悪いのは日本側」と言い続けてきた。このように常に日本側が譲歩してきたため、際限なく増長してしまったのがいまの韓国。
・ 2018.12 韓国側のレーダー照射の暴挙が明確であっても、逆に日本に謝罪を求めてくる、嘘も100回言えば本当になる。これに対して新聞は中途半端な報道しかしない。
・ 17.11 朝日の社説で吉村大阪市長を糾弾! 民間団体が建てた慰安婦像がサンフランシスコ市の公共物となり、60年続いてきた大阪市との友好も断たれることになった。慰安婦は性奴隷ではなく、兵隊の数十倍の給与で募集されたもので、貧しかった韓国人も応募しただけなのに。
・ 朝日、のちに取り消したが「私は慰安婦狩りをした」という吉田清治なる人物の虚偽証言を長期間にわたって記事にし、元慰安婦が「女子挺身隊の名で戦場に連行されたと記した。(1991.8)
・ 日本人でありながら事実など関係なく、国家間の約束や条約をひっくり返す韓国を支持するのは一体どんな背景を持つ人なのだろうか。朝日新聞というのは不思議な新聞である。ここまで日本と日本人を貶め、不利な立場に追い込んできたメディアはほかに例を見ない、とも。
以下次号 その2 対安倍政権
エンターテイメント№185 2019.7月 私の読書歴 48
続「今こそ韓国に謝ろう」 そして「さらば」と言おう」 百田尚樹 著 飛鳥新書文庫版
鳩山元首相(これほどひどい人が我が国の元首相という事実は歴史から消すことができないのが悔しい)が2015年、日本統治時代に独立運動家などが収容されたソウル市内の西大門刑務所の跡地で“土下座”をし、日本の朝鮮半島統治に対して謝罪した。
「日本は(いわゆる『元徴用工』に関する)確定判決文に従って賠償に応じるべきだ」 「相手国が『これ以上やらなくてもいい』というときまで、心から繰り返し謝罪しなければならない」と、こう発言しているのも鳩山由紀夫元首相。
いかに反日教育に力を入れようが、韓国にとって元日本のトップが「ひざまずいて謝罪した」との報道に勝る反日の材料はないだろう。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は「頭の中は北朝鮮だけ」。「北の首席スポークスマン」と揶揄(やゆ)されて、今や世界の笑いものになろうとしているが、鳩山氏の頭の中は「韓益」だけ」。
皮肉なもので、鳩山宇宙人は百田尚樹が自著の題名にした「今こそ韓国に謝ろう」を、違う意味で韓国で謝罪している。
2018年の来日外国人は3100万人、うち韓国人は中国に次ぎ2番目に多く、750万人も。難波周辺を歩いていても中国人とそれほど変わらない多くの韓国人に出会う。『あれほどの反日教育が行われても、なぜこれほどの人たちが「嫌いなはずの日本へ」』?、その答えは、表記百田尚樹の、「今こそ韓国に謝ろう」の本のなかにあった。
百田氏によると、韓国は、閣僚の靖国神社参拝に反対したり、日本の集団的自衛権にまで口をだしてくる。なぜこれほどわが国の内政を干渉してくるのか?。その答えは「韓国人は自国を日本の一部だと思っている」からで、彼らは他国の政治や文化にまで口を出しているつもりはないのではないかと。 そして、「自分たちは日本人」である」と思っているからだと。
これらは日韓併合30年間に刷り込まれた「思い込み」であるのではないかと。たしかに来日韓国人の多さ、や他国である我が国の何にでも口を出してくるのは、私にもそう思う以外に考えにくいような気がしています。
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エンターテイメント№184 2019.6月 私の読書歴 47
「今こそ韓国に謝ろう」 そして「さらば」と言おう」 百田尚樹 著 飛鳥新書文庫版
アジア・東南アジアの国と地域には13か国、延べ20回ほど行きました、一番多かったのは「近くて安い」ということもあって韓国。ハングルの看板などが無ければ、日本の市街とほとんど変わらなくて、13か国の中でもっとも異国を感じない国でした。韓国文化にも親しみやすかったし、食いものはアジアの中で日本の次に美味しいと思いました。
李明博大統領の竹島上陸前までは第一次韓流ブームで、両国が一番近く感じる時期でした。その後反日がエスカレートしていった朴槿恵政権のとき、敢えて日本語が通じない地域へも行ったが、韓国人はみな日本人歓迎だったし、親切でした。
しかし最近の韓国、特に文在寅になって、慰安婦問題、徴用工問題など条約を守らず論理のすり替えなど嫌がらせの数々。なぜこれほど反日なのだろう、そして日本を憎むのだろうか。
百田尚樹 著「今こそ、韓国に謝ろう」の、題名だけ見た(?)人がネットで「あれだけのことをされて「なんで謝らなあかんね」とツイートしていたのを見て苦笑しました。その本には、日本が韓国に対して良かれとして行った半島復興のための投資と政策の数々を「余計なおせっかいを」と強烈な皮肉を込めた題名でした。
併合時代の35年間におびただしいお金と労力をつぎ込んで世界の最貧国だった朝鮮半島を豊かな国土に変えた。はたしてそれは良いことだったのか?と。
※「漢江の奇跡」朝鮮戦争で壊滅的打撃をうけた大韓民国(韓国)が、1960年代後半以降、外債などによって急速に復興し、経済成長と民主化を達成した1960年代前半まで世界の最貧困国だった韓国は、国内総生産
(GDP) が北朝鮮を下回っていた。しかし、韓国は日韓基本条約の日韓請求権協定で個別に国民に支給すると日本側に説明して請求権資金として支払われた3億ドルの無償提供資金を、韓国経済発展のための国内投資資金に回したことで半世紀で世界10位圏の経済大国に発展し、その恩恵を受けた韓国企業は巨大な財閥に成長した。
併合時代韓国総統府が行った朝鮮の改革の数々(百田氏は「破壊」と皮肉っているが)
* 国民皆教育 半島に40校しかなかった小学校を→ 4271校に(1943年までに)、 文盲率90%→40%以下に(ハングルで) 帝国大学創立 「京城帝国大学」は 東大 京大に次ぐ6番目。
* 山々の破壊 全土がはげ山(植林という考えなし)で常に洪水に → 緑化運動でかなりのところで緑を取り戻した。(最近、カラマツ林50万本 日本産という理由で伐採)。
* 河川の破壊 護岸工事やダム建設 鴨緑江の水豊ダム(当時世界最大級)70万kw時 世界2位(黒部ダムの2倍。)
* 橋 ほとんどなかった、漢江に1100mの橋。韓国が作った橋は14年で崩壊。(そういえばマレーシアのツインビルも、韓国と日本で1棟づつ建てたが韓国側のほうが傾いてきている(マレーシアのガイドに聞いた)
* 海岸の破壊(実は護岸)
* 電気事業 両班など(ロウソク・石油ランプ)、庶民(エゴマ油 松脂)→地方の民家まで電気。
* 農業を歪めた 荒地ばかりだった水田や畑に 耕地面積は倍に。食料増産により人口爆発 1300万人→2550万人(1942年) 平均寿命24歳→42歳(30年間で)。
* 農業国→工業国へ 農林水産80%→ 43% 工業生産18→41 日本企業の投資で170の大工場、100万人以上の雇用。
* 併合前の朝鮮 世界最貧国 不潔の極り 漢城(今のソウル)市街でも牛や馬、人糞まで落ちていて悪臭で鼻が曲がるほどだった。また小便で顔洗う人もいた。
* 貨幣が通用しない 物々交換。
* 身分制度の破壊 (支配階級)王族 貴族 両班(ヤンパン)、(被支配階級) 中人(チュンイン)、 常民(さんみん)=常奴 賤民 (妓生など)。 白丁(ペクチョン)=姓なし 常民と結婚できない 日当たる場所に住めない 文字 敬語以外で話せない 公共の場 棺桶使えない 墓ダメ 他 → 奴婢(奴隷) 戸籍制度導入 奴隷制廃止、いまの韓国人のほとんどが自分のルーツは両班だというらしいが。両班 働かない 特権だらけ。
* 刑罰の破壊 「凌遅刑」の廃止 生きている人間の肉を少しづつ削っていく、むち打ち刑は残ったが。
* シバジの禁止 代理出産 種受け業。 乳出しチョゴリの禁止(長男を生んだ女性の誇り)
* 嘗糞の禁止 人間の便を舐めて 体調を診断。
* 韓国が言う総統府が行った「七奪」とは? ①主権 奪ったのではなく逆に主権を与えた ②国王 純宗を李王として皇族に準ずる身分に。 ③国語 (これも与えた)総督府は文字を持たなかった民衆にハングルを教育。 ④人命?(割愛)、⑤姓名 戸籍を作り姓を与えた。「創氏改名」は誤解、(戸籍で結婚したら日本と同じく同性にしただけ)。 ⑥土地 総督府は朝鮮人民に土地を与えた。 ⑦資源 山々に植林 鉄道敷設 道路整備 ダム 港 橋 ビル・工場 学校を与えた。
* 歴史にifはないが 朝鮮併合してなければ ロシアの植民地に
* 強制連行 日本の学生は無償労働、朝鮮人には正規の給料。日本国内の在日61万人、うち戦時徴用245人0.05%
* 慰安婦問題 従軍慰安婦の朝鮮人は2割で志願、韓国が騒ぐ慰安婦問題、すべての根源は朝日新聞の記事。 ※「妓生(キーセン)」外国人向けの娼婦。
* 最近、日本の良い文化などを、韓国人が「自国の文化」だと言い出した。
例えば 茶道 華道 歌舞伎 折り紙 神社 祇園祭 ねぶた 扇子 錦鯉 演歌 花札 寿司 刺身 しゃぶしゃぶ うどん 味噌汁 納豆 醤油 たくあん 海苔 日本庭園 日本刀 日本酒 和牛 ソメイヨシノ(日本人が盗んだ) 柔道 相撲 空手 流鏑馬 居合道 合気道 サムライ 武士道 忍者 切腹 空いた口が 塞がらない
もう「さらば」と言うしかない
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エンターテイメント№183 2019.05 私の読書歴 46
「ひろ坊」が選んだ作家と小説2選 Ⅳ
さだまさし ; 「さだまさしの小説なんて」と正直そう思っていました。何年か前、映画にもなった「眉山」や「解夏」、「精霊流し」などは読んだことがあったが、「誰でも2冊や3冊の本は書けるんや」ぐらいに思っていました。カミさんが大のさだまさしファン、家の中にCDだけでは飽き足らず、小説が増えてきた。今読む本がないので、まあ、読んでみよかと、最近手に取ってみたのが「茨の木」と「はかぼんさん」。
「茨の木」で、ただの歌手の道楽ではないことが分かり、「はかぼんさん」では読み始めて「小説でなく本当の話」だと思い込んでしまった。それほど作り話の巧さを感じる、直木賞とっても不思議ではないほどの「書き手」だと思います。
津本陽 ; 「下天は夢か」、「おおわらんじの男 八代将軍徳川吉宗」
池宮彰一郎 ; 「天下騒乱 鍵屋の辻」、 「高杉晋作」
宮本 輝 ; 家の本棚に文庫本だけで30冊は下らない。 「流転の海8部作(シリーズ)」、=ライフワークとなる大長編、9部が出たようだ、買いに行こう。あと1冊、多すぎて!選ぶのがむつかしいがあえていうなら「錦繍」か。
船戸与一 ; 早稲田大学探検部出身だけあって 「黄色い蜃気楼」・「猛き箱舟」ともに舞台が壮絶で、全編緊張の連続。手に汗して読んだ。
宮尾登美子 ; 「鬼龍院花子の生涯」=「なめたらいかんぜよ」は、映画の中でも夏目雅子のセリフが話題となった。[蔵]
高村薫 ; 「マークスの山」 「レディ・ジョーカー」
渡辺淳一、 「失楽園」=日経新聞連載中、通勤電車の中で「前が膨らんでないか」と周りを気にしながら読んだもんです。 「化身」
福井晴敏 ; 「亡国のイージス」=日本の防衛は今のままでよいのか?と。 「終戦のローレライ」
池井戸潤 ; 「半沢直樹シリーズ」=一応私も元銀行員、MOF(大蔵省)検査・国税検査など面白過ぎ。「ロスジェネの逆襲」
東野圭吾 ; この作家も多すぎて選ぶのが大変! 「さまよう刃」、=愛する娘をもてあそばれ殺された父親の気持ち、は分かる、「死刑になってほしい」なんて生易しいもんではない、自分で殺すしかない。「白夜行」
百田尚樹 ; 「日本国記」=素晴らしい日本通史を読んで百田氏の力量を再認識。小説は間違いなくこの二作=「海賊と呼ばれた男」、「永遠のゼロ」
門田泰明 ; 「存亡」、「夜光虫」
高田郁 ; 「あい」、「出世花」、同市内に住む友人からの勧めで最近知ることになった作家。まだ作品が少ないが、心洗われる小説を書く人。
エンターテイメント№182 2019.04 私の読書歴45
「ひろ坊」が選んだ作家と小説2選 Ⅲ
現役時代自分自身に、月最低10冊の読書をノルマを課していた時期がありました。小説が好きなので本屋へ行くと、ついそちらの方に目がいってしまうので、購入する本の半分は「仕事に役立つ」教養書などと決めていました。
小説以外でよく買ったのが堺屋太一や大前研一などの経済未来予測書。それに世界で売れている経営書や松下幸之助など日本の経営者が書いたもの。
堺屋太一の小説では通産官僚の時書いた「油断」が印象に残っている。「峠の群像」 は赤穂藩断絶を現代の企業倒産になぞらえ現代的に描いた小説、大河ドラマにもなった。
遠藤周作 ; 「深い河」 この本を読んでインドへ行きたくなった。23年を経てようやく一昨年インド旅行が実現したが、残念ながらこの小説にまつわるガンジス川へは行けなかった。もう一冊は「沈黙」。
大江健三郎; (1994年ノーベル賞) : 「万延元年のフットボール」「飼育」、暗すぎるのであまり好きではない。
藤沢周平 ; 映画にもなった「たそがれ清兵衛」、他にも結構読んだが短編が多かったので題名はあまり記憶にない。
北杜夫 ; 「楡家の人々」、 随筆集「どくとるマンボウ」 シリーズもよく読んだ。
石坂洋治郎 ; 「若い人」「日の当たる坂道」、ともに石原裕次郎主演で映画になった。
辻邦夫 ; 「背教者ユリアヌス」「西行花伝」どちらも大作・力作、本の装填も立派で私の本棚では目立った存在となっている。
西木 正明 ; ドキュメンタリーと思ってしまうほどリアリティな「オホーツク諜報船」、「ルーズベルトの刺客」もよかった、ほかにも夢中になる本をよく読んだ。
小松左京 ; 「復活の日」「日本沈没」、「首都消失」というのもあった。
城山三郎 ; 東京裁判の結果、文官でただひとり絞首刑となった広田弘毅を描いた 「落日燃ゆ」。昭和20年代の高度成長期に実際に起こった白木屋百貨店乗っ取り事件をモデルにして創作された「乗っ取り」
新田次郎 ; 数学者で「国家の品格」などの著作でも著名な藤原正彦の父、作家藤原ていの夫でもある。「孤高の人」「珊瑚」
佐木隆三 ; 「復讐するはわれにあり」、一冊しか思い浮かばない。
松本清張 ; 多すぎて選ぶのがむつかしいが、「点と線」「ゼロの焦点」。
高木彬光 ; 「白昼の死角」「成吉思汗の秘密」、清張に次ぐ推理小説作家。
森村誠一 ; 「悪魔の飽食」「人間の証明」
Trip&Tour (21-4)
2つのシェラトンに泊まる!名店「成隆行蟹王府」で上海蟹を食す! 上海・無錫・蘇州4日間 最終日
4日目(好天)
朝目覚めて16階の窓からみた風景、目の前の高層ビルの間にそこだけ(昔の)低層住宅街が残っていたのが印象的。ホテル「シェトラン虹口三至来登酒店」レストランで朝食、帰国の荷物をまとめたあと、同室のM氏と、バスがくるまでこの古い街を散策。これだけ大きなホテルだと帰り路に迷う心配がないので安心。
上海市内観光
まずは、多倫路エリア散策 多倫路は、2011年初夏にリニューアル工事を終えたレトロストリート。
魯迅と内山完造が文学を語らい、詩人金子光晴が気ままに歩いた戦前の日本人街、住宅街四川北路とエル字型に繋がる道で、両側に共同租界時代の建物を残し、また当時から文化人や工芸美術家が多く住んでいたところから書籍、美術、工芸の店を集め、作り手が直接お客に触れ合える場所にしたのが多倫路文化街らしい。
だらだらと歩くだけでもレトロでモダンな上海の雰囲気を満喫できた。途中中日友好会館があり、入っていくと、壁にはいまどきわが国でもあまり見ることのない昭和天皇・皇后と毛沢東・周恩来の写真(上は天皇皇后と鄧 小平夫妻)等の額があり、中国と日本の歴史を感じました。
さらに歩くうち、どこかで見た女優のポスター、ほかでもない清朝末期の大スター日本人歌手で女優の李香蘭。その町で同じツアーメンバーの一人が日本から持ってきた古紙幣?を骨董店で換金。
魯迅公園散策
公園に行く途中、ガイドがロージン(老人)公園と言った「魯迅公園」は、一周のんびり歩いて1時間ほどの大きな公園でした。園内は老若男女、大勢の人たちで賑わっていたが、なかでもガイドの言うとおり、それぞれの方法で楽しむ老人の多さが目立った。
工芸品展でショッピングのあと、
ワイタン(外灘)散策、 市内中央部を流れる黄浦江西岸(中山東一路)に面する「外灘」、2日目の夜のクルージングで夜景を楽しんだが、本日は昼のワイタン、空は晴れていて爽快。
昼食は「北京ダック」+北京料理
田子坊(でんしぼう=たこぼう)
狭く迷路のような路地に様々なアートショップや外国料理店、ブティックや小物店などが例えようのないほど密集している。外国人観光客も多く、レストランは中国料理以外の各国料理店も多い。店のオーナーも外国人が多く、日本人が経営する店も存在するらしい。現在は豫園や新天地に次ぐ上海の観光ショッピングエリア。ほかの国にはあんまりない、ごちゃまぜな雰囲気。
猥雑な田子坊ではぐれないようにと思うあまり疲れてしまった私たちに、ガイドが薦めたのは表にスターバックスがあるビル地下街の喫茶店、ここで休憩することに。
一行はマンゴ-ジュースを頼んだものの支払いは円ダメ、カードダメ、人民元もダメ。ここで使えるのはスマホでバーコードのいわゆるQRコード決済。ガイドに払ってもらい、円でお返し。ことキャッシュレスについては日本の遅れを痛感。
19:05、 20分ほど遅れて空路関空へ離陸。10時を過ぎるであろう関空から橿原市へのリムジンバスは到底無理、電車でも難波までが精いっぱい?。どうするか迷っていたとき、ツアーで知り合った大和高田市のご夫婦が、「娘が関空まで車で迎えに来てくれるので同乗して行っては」とのありがたいお言葉。大和高田から近いこともあって先に深夜のわが家の真ん前まで、本当に助かった。
この旅行、フライト時間が短いのでANAのエコノミーでも楽々。ホテル一流、8回の食事も有名店ばかりなのにかなり安価で費用対効果抜群。関空からは自宅前まで送ってもらえて、これまたラッキーな旅となりました。
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エンターテイメント180 2019.2
Trip&Tour (21-3)
2つのシェラトンに泊まる!名店「成隆行蟹王府」で上海蟹を食す! Ⅲ
上海・無錫・蘇州4日間 3日目 (曇りときどき雨)
3日目の観光は「上海市内」。観光のルートは日程表通りとはならないことが多く、後になると順番などは忘れている。しかし私が撮った写真が順番を覚えてくれている。海外へ行ったときは最低500枚、多いときは1000枚も撮ることがあります。
日程表では朝一番に「豫園商城散策」となっていたが、写真の順番でまずは「上海博物館」。
「上海博物館」 1952年にオープンした上海博物館は、上海で最大の博物館。円形の4階建ての館内には、11のテーマ別の展示室があり、総展示物数は13万点以上ともいわれています。
紀元前18世紀以前の貴重な青銅器や、唐代から清代までの書・絵画、3000年前の貨幣など、希少価値の高い収蔵品の数々が。
「老外散策と双塔」 老外とはラオワイ、「外国人」という意味らしい。国際色豊かなグルメストリートで美食街でした。虹梅路と虹許路を繋ぐ長さ500mほどの通りで、中華料理店はもちろん、日本料理、タイ料理、メキシコ料理、ベルギー料理、ビアレストラン、バーなど、さまざまなお店が集まる賑やかな通りでした。
「双塔」 南翔老街の中にある仏塔で、建立はそんなに古くはないようで、老街のシンボルとして中心部にありました。通りは老街らしい感じの良さで、修学旅行生らしい子供たちを多く見かけました。ここは小龍包発祥の地でもあります。
昼食は「小龍包」などの南翔料理。
途中ラテックス寝具店とシルク店にてショッピング。この寝具店はベトナムや香港・マカオ旅行にも組み込まれており興味はなかったが、シルク店には目を見張るような芸術品ともいえる一見に値する凄い作品(商品)が多く並んでいました。
夕刻になっていよいよ本日観光のメインの一つ「豫園」へ
「豫園観光」 私の薄れていく記憶の中でも、22年前のChinaで一番印象に残っていたのがこの「豫園」周辺。
上海の中心地に位置する「豫園(よえん)」は、「外灘(わいたん)」と並ぶ上海で人気の観光地の一つです。400年以上の歴史がある明代の伝統庭園とそれに隣接する商業エリア「豫園商城」は、当時にタイムスリップしたかのような歴史を感じさせました。
前回の旅行時にも感じましたが、世界中の観光客でこれほど人の多い観光地はあまりないと思います。暮れていくこの豫園周辺の建物には、しばし酔ってしまうような「雰囲気」がありました。
【OP】上海雑技 夜のオプショナルは、一度は観てみたかった上海雑技団の演技。動物などを使ったサーカスとは違い、この雑技は人間の能力を再確認できる超人的な技が見どころとか。劇場には目の青い欧米人の多さが目立ちました。
「夕食は名店「成隆行蟹王府」にて上海蟹料理」 今回のツアーは期待以上のものが多かったが、上海蟹料理だけはガッカリ。上海随一の名店らしいが、蟹とは言っても上海のは、小さすぎて食べるところがほとんどない。脚などに至っては箸も通らないほどで、やっと取り出した身は爪楊枝くらい、口に入れても蟹の味がしない。
ここで蟹を食することにより、わが日本には「ズワイガニ(松場?ガニ)という素晴らしいものがある事」を強く感じる機会となりました。 以下(最終4日目は)次号へ
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エンターテイメント179
Trip&Tour (21-2)
2つのシェラトンに泊まる! 名店「成隆行蟹王府」で上海蟹を食す!上海・無錫・蘇州4日間 22日目(曇りときどき晴)
6:30 シェラトン無錫浜湖ホテルで バイキングの朝食
無錫市 ; 中国南部に位置し、上海から130km離れた街。現地ガイドの話によると、かつて錫鉱石の採掘量が多い土地だったが、漢代初期のころまでに掘り尽くしてしまい、そこから「錫の無い街」無錫と呼ばれるようになったとのこと。
無錫市は、上海市と南京市のほぼ中間に位置し、常住人口約643万人(戸籍人口約468万人)、面積4,788平方キロメートルの都市。南に中国五大湖のひとつである太湖を臨む、長江流域「江南」の美しい古都で、古くから「魚米の里」(物産豊かな所)として知られています。
また、総合工業都市としてめざましい発展を遂げており、日系企業など多くの外資系企業が進出し、経済中心都市の一つとなっています。
太湖の面積は、琵琶湖の3倍以上もあり(水深は約2mと浅いらしい)、湖中の48島の小島が、湖に面した山や半島とともに、72峰とよばれ、美しい景色を形づくっています。また、太湖に突き出た黿頭渚公園の園内には、日本から贈られた桜の木が多数植えられ、春にはたくさんの花見客で賑わっているとのこと。
≪無錫市内観光≫
「太湖畔と淡水真珠工場」
無錫という市、緑が多く、町が美しく、「ここがほんまに中国?」と同行の皆が驚くほど。太湖へのバスの途中で若くて(初めはそう見えた)かっこいい美人女性ガイドがに乗り込んできた。彼女の案内でまずは太湖畔を散策、その後バスの中でこれから行く 淡水真珠工場の案内や無錫のPR。
真珠工場に着くと、造っているのは真珠ばかりと思いきや、場内一室で「クリーム(真珠)」の実演販売。工場を後にした直後気になる女性ガイドがバスから降車、「真珠工場の回し者だったのか」とその時気が付く。
「南禅寺商城」へ
無錫市の市中心部には古い歴史をもつ南禅寺(なんぜんじ)という寺院があり、多くの観光客が訪れていた。南禅寺の周辺は商業街(買い物スポット)になっており、無錫市旅遊街とよばれ市の観光名所に指定されている。
南禅寺にマッチするような外観の商業街になっているため、雰囲気はいい。上海の豫園(よえん)、蘇州の観前街のように、観光スポットと商業街が一緒になったパターンらしい。中国ではよく見かける観光地モデルのひとつとか。
バスにて蘇州へ
蘇州市 ; (そしゅうし、中国語: 蘇州市/苏州市、)は、中華人民共和国江蘇省東南部に位置する地級市。 古くから絹織物で発展し、上海市に隣接する地の利もあり、現在も省の経済的中心である。
人口1046万人(‘17.10)、中国340中9番目の大都市である。
≪蘇州観光≫
「寒山寺」 ; 江蘇省蘇州市楓橋鎮に所在する臨済宗の仏教寺院。蘇州駅南南西3kmにあり、寒山拾得の故事で名高い寺院でもあります。
1940年の日本映画『支那の夜』の挿入歌『蘇州夜曲』でも、登場する寺院です。 歌の三番の最後のフレーズが「涙ぐむよなおぼろの月に 鐘が鳴ります寒山寺」とあります。 22年前の研修旅行の際にも訪れたはずですが、文化大革命の後遺症か閑散としたモノクロの印象しかありませんでした。が、今回の訪問でお寺周囲も含めカラフルで絢爛たるお寺となっていました。
「世界遺産 耦(ぐう)園」 ; 世界遺産の蘇州園林のなかの一つで、1876年に造られた。持ち主は清代の蔵書家・沈秉成。最愛の妻とともに過ごす私邸として造られたため、数ある蘇州の庭園のなかでももっともロマンチックなデザインといわれる。建築物や、屋内に飾られた書画など専門家の評価も高いらしい。
「世界遺産 京杭大運河」 ; 北京と杭州を繋いでいる「京杭大運河」は中国の歴史を大きく動かした「大運河」です。隋の時代となって、暴君のイメージが強い皇帝煬帝が行ったもっとも有名な事業です。運河の開削によって、それまで陸路でしか往来できなかった北部の黄河流域と南部の長江流域が結ばれ、中国統一の基盤が整備されました。
お昼は「松鼠桂魚」や「おこげ料理」の蘇州料理
新幹線にて蘇州から上海へ、途中車内の案内表示装置に最高297kmの表示が。
夕食「巴国布衣」にて四川料理と変面ショー
黄浦江ナイトクルーズ 上海は浦東(プードン)地区の夜景を見ながらのクルーズ。船上より両側の対照的なライトアップの夜景を楽しむことができた。
驚いたのは船から見るその風景、22年前には対岸にボディの途中が丸いテレビ塔しかなかった。それがどうだろう。前月号の「おもいつくままに」にも書いたように、「その周辺に632mの超高層ビルShanghai
Tower、や森ビルなど近未来的なビル群。これらが発する光と色彩に感嘆するほかなかった。ここはまさに香港の100万ドルをしのぎ、「200万ドルの夜景」と銘打つだけのことはあった。
今夜からの2連泊のホテル「シェトラン虹口三至来登酒店」へ。
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エンターテイメント178 2018.12
Trip&Tour (21-1)
1日目 11/14 (曇りときどき晴)
この旅行会もSさんの名コンダクターのおかげで回を重ね、ついに10回目、続いていた東南アジアをちょっと離れて今回は中国へ。
9:15 関空発 ANA 11:15 上海浦東(プードン)国際空港着、朝食は機内食。上海新場古鎮
上海浦東(プードン)空港着後、「バスにて無錫へ」の途中、近代的な幹線道路から少し入ったところにこんなこんな町が。1128年ごろに形成された街で、当時は海に近いため塩を作る街として知られていた。路地や運河沿いには明〜清代に建てられた民家や橋が並び、レストランや工芸品店も多い。映画『ラスト、コーション』のロケ地としても有名だとか。
一路無錫へ 車に戻り、高速道路を蘇州経由で。車から見る人口2400万人の上海、高層ビルが立ち並ぶ風景は(行ったことはないが)マンハッタンにも似た大都会の風景。
蘇州夜曲で知られる観光地蘇州も経済発展し、高層ビル・高層住宅が林立し。今では人口1200万人の大都市に。
バスの窓外に目をやると、中低層の住宅や店舗などを地域丸ごと取り壊し、その周辺に入居者もいない高層ビルや多くの高層住宅を建てている現場を何か所も目にした。 無錫到着後南禅寺商城散策。、
夕食は 「スペアリブ」がついた無錫料理。
無錫夜の古運河遊覧(夜のオプション) 運河の遊覧船に乗って夜景を楽しむことができた。無錫は観光に力を入れていて、運河沿いの岸辺の家々などイルミネーションでライトアップされて町並みがとても綺麗でした。また船内には「無錫旅情」の曲が流れており、旅情に浸ることに。
その後 無錫蜜群遺址博物館見学してホテルへ
宿泊1日目は シェラトン無錫浜湖ホテル
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エンターテイメント№177 2018.11 私の読書歴44
「ひろ坊」が選んだ作家と小説 2作品 Ⅱ
司馬遼太郎 ; 私の読書歴で読んだ本が最大の量と思えるのはやはり司馬遼太郎。小説以外でも「街道をゆく」43巻、「この国のかたち」も6巻ほかエッセイも多い。どれも素晴らしい膨大な作品群のなかで2冊というのはいかにも厳しい。それでもあえて挙げるなら①「龍馬がゆく」もう1冊は②「坂の上の雲」か。
石原慎太郎 ; 政治家である反面、もとはといえば、1955年「太陽の季節」で華々しくデビューした芥川賞作家。私の選ぶ1冊目 ①「わが人生の時の時」、 次点は②「弟」。 「弟」は私の青春時代から熱烈ファンだった弟裕次郎を描いた作品だから。田中角栄を描いた晩年(まだ亡くなられてはいないが)の作品「天才」も面白く読ませてもらった。
三島由紀夫 ; 自衛隊市ヶ谷駐屯地でのあの事件は私の脳裏に強烈に焼き付いている。1冊目①「豊饒の海」そして②「金閣寺」。吉永小百合や山口百恵で映画化された「潮騒」もこの人の作品。
川端康成 ; ノーベル文学賞作家、その後自死。 ①「伊豆の踊子」、②「雪国」、〈国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなつた〉私の中に入り込んでいる。
安倍公房 ; ①「燃え尽きた地図」、次に②「他人の顔」
埴谷 雄高; ①「死霊」だけは読んだが。
五木寛之 ; 「蒼ざめた馬を見よ」「さらばモスクワ愚連隊」は20代のころ読んだ。①青春の門 「第1部 筑豊篇」「第2部 自立篇」「第3部 放浪篇」「第4部 堕落篇」「第5部 望郷篇」第6部 再起篇」「第7部 挑戦篇」「第8部 風雲篇と超長編。 ②「戒厳令の夜」
井上靖 ; ①「孔子」分厚い立派な装填を買った、②「氷壁」
大江健三郎 ; ノーベル賞受賞、暗くてネガティブ作品が多く、あまり好きな作家ではない。 それでも4~5作品は読んだ。①「万延元年のフットボール」。大島渚監督で映画化された②「飼育」
幸田文 幸田露伴の娘、思春期の時読んだ①「おとうと」、②「流れる」
山崎豊子 ; 好きな作家10人に入る。社会派といわれるだけに徹底した取材でどれも長編で素晴らしい、2作品だけといわれると迷う。①「大地の子」=何故なら2歳の時、北朝鮮から引き揚げ、母が命がけで連れて帰ってくれなかったら私も大地の子ならぬ「半島の子」となっていたかもしれない。②「華麗なる一族」=私も一応銀行員として契約社員含めて45年間勤務。他に「沈まぬ太陽」「白い巨塔」「女系家族」「不毛地帯」「運命の人」など、どれも夢中で読んだ。
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エンターテイメント176 2018.10
海外旅行総集編 その2
2007.4 韓国済州島(会社慰安旅行)
ロッテホテルJeju このホテルに泊まるだけでもお値打ち。夜はホテル周辺のビーチにオランダの水車ライトアップ、ガーデン内の火山爆発などのショー、そして一番楽しみなギャンブラー気分に。
ホテル内で私初めてのカジノ経験、思い出してみるにのちに行ったマカオと比べて、入場はパスポートが必要であり、一度中へ入るとカクテルなど洋酒が無料、格段に高級感というかVIP気分を。
翌日は島内観光、馬に乗り小林旭気分に(渡り鳥シリーズ)、なったり、バギーで疾走も。島は5月でホテル内のサツキ満開、ハンリン公園などもチューリップなど花爛漫。
2009.2 台湾(カミさんと)新幹線に乗る高雄・台北4日間」
少し贅沢な旅行だったので、高雄・台北とも圓山大飯店(台北はスイートR)。新幹線はビジネスクラス。乗る前受け取った豪華弁当を車内で食べ終わったころに、何も言わないのにホットコーヒーが来たことにちょっぴり感動。
日本語上手な年配のガイドさんの好意で、連れて行ってもらった「予定になかった愛河(アイフォー)のランタン祭り」にも感動。
2010.10 韓国 (友人と二人旅)「④つの世界遺産を巡る~釜山・慶州・水原・ソウル3日間」
慶州 ①世界遺産慶州歴史地域(雁鴨池ライトアップ観光) 慶州月城良洞民俗村
〃②世界遺産石窟庵 仏国寺 高速列車KTXにてソウルへ 明洞散策 ソウル
水原 ③世界遺産水原の華城
ソウル④世界遺産宗廟
2011.7 韓国(三水会6名) ソウル国会議事堂 ソウルタワー ①世界遺産水原の華城
②世界遺産宗廟 → 南山韓屋村→ ロッテワールド →③世界遺産江華の支石墓群→伝灯寺 ④世界遺産朝鮮王陵〈宣陵〉 ⑤世界遺産昌徳宮
2012.4 台湾(三水会10名) 「おきがる台湾縦断4日間」 台北九分 →台湾新幹線
→高雄 寿山公園蓮池潭(竜虎塔) 史跡赤崁楼(台南市) 宝覚寺(巨大な弥勒菩薩)
日月潭 文武廟 故宮博物館 忠烈祠(衛兵交代式) 鼎泰豐(小龍包)饒河街夜市 101展望台
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エンターテイメント 175 2018.09
海外旅行総集編 その1
行った順に 「タイ・香港」 「中国・香港」 「韓国」 「タイ」 「台湾」 「韓国(済州)」 「韓国」 「韓国」 「台湾」 「カンボジア・ベトナム(ハノイ)」 「インドネシア」 「韓国」 「マレーシア」 「ミャンマー」 「ベトナム(ダナンなど中部)」 「香港・マカオ」 「インド」 「ベトナム(ホーチミン)」 (赤字は三水会 )
三水会での次の旅行が決まりました。みんな歳をとってきているので「長いフライトはつらい」「乗継の時間待ちが長すぎる」などの意見が多く、近場へ行くことに。済州も候補でしたが最終的に11月中旬「上海・蘇州・無錫へ8人」でということになりました。
「三水会」とは会社でともに仕事をしたOB仲間で、毎月第3水曜日に集まる飲み会です。この会での旅行、次で世話人のYさんと私が参加してからちょうど10回目、私の海外は、米・欧など西の方へは一度も行ったことがありません。
いままでの海外を思い出してみるに、上記の通り徹底してアジア・東南アジアであります。最初から7回は旅行明細などとってなかったので詳しくは思い出せませんが、その後はパンフなど整理して残しています。今月号は2009年までの旅行を思いだしてみます。
1991.5 タイ・香港(取引先と2人) タイのガラス工場見学 近畿銀行香港支店訪問
取引先の「バンコク郊外の工場見学」、私にとっては初めての海外。関空の開港は1994年なのでこのときは伊丹からバンコクへ。バンコク→香港間は (キャセイパシフィック)ファーストクラスを利用。このころの香港空港は着陸が世界一危険といわれた啓徳空港。100万ドルの夜景ビクトリアピークは写真に残っていない分、目に焼き付いています。
1997.9 中国・香港 (支店長研修10名)上海→蘇州(経済特区) 香港→深圳→東莞(船井電機工場見学)
今でこそ世界の工場どころか、最先端の技術を持つ世界第2の経済大国。このころの中国 鄧小平の政策「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である=白猫黒猫論」で「改革・開放」政策を進めて間もないころ。このときからたった20年しかたってない。
「上海」へは、関空から2時間足らずで。研修旅行ということもあって主に「上海」や「蘇州」の経済特区を見学。数日後上海から飛行機で香港まで飛び、香港から九龍半島をマイクロバスで陸路目指した。返還(直)前だったので、九龍から中国本土へ向かう途中の道路上の「税関」を経由した。
2003.1 韓国(カミさんと) ソウル 明洞 東大門 南大門
このころは韓流ブームの少し前、「李明博の竹島」はかなりあとで慰安婦問題もないころ。極寒時のソウルの「寒さ」を実感することに。ホテルはロッテホテル、焼ける前の南大門も写真に残っている。個人旅行だったので二人に一人のガイド付がつき、有名店での鋏で切るカルビは美味しかった。
2006.5 タイ(カミさんと) バンコク→アユタヤ
この旅行も個人旅行だったので私たち二人に一人のガイド付き。日本留学経験もある現地ガイドと親密に、バンコクでは普通の観光客には案内しないところも。その後も数年間このガイドが私のホームページを見てくれていて、メールのやり取りをした。アユタヤの遺跡には圧倒されたが、バンパイア宮殿の美しさに感動しました。
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エンターテイメント№174 2018.8
私の読書歴 43
「ひろ坊」が選んだ作家と小説 1
若いころは「国木田独歩」で始まる「昭和39年新潮社刊日本文学全集72巻」や、「同43年発刊の河出書房世界文学全集42巻」はほとんど読んだ。
この日本文学全集では、68巻目にやっと「三島由紀夫」が収まったたぐらいで、あと「石原慎太郎」の太陽の季節はじめ、その後日本の文壇で活躍する「大江健三郎」「松本清張」「福永武彦」「庄野潤三」「遠藤周作」などは「新人」として、最後の2~3冊に一人1冊ではなく何人かまとめて出てきたと記憶している。
河出書房「世界文学全集」全42巻。これは東京勤務時代に会社の何人かで予約注文し、配本の都度勤め先へ配達してもらっていた。かなり分厚いもので字も細かく詰まっていて、「ホメロス」から始まり、「シェイクスピア」「ゲーテ」「ドストエーフスキー」「トルストイ」「ヘミングウェイ」など長編が多く収められていた。38巻目にかなり哲学的な小説家「カフカ」と「サルトル」が収められていた。
20代前半ごろから好きな作家のハードカバー描き下ろし出版を待って買うのが好きだった。本屋で初版本を手に入れて、その本が版を重ねると悦に入っていた。
前述の日本文学全集「新人」として掲載された各作家の小説、つまり昭和30年代から現在まで読んだ本の中から「面白かった本」を選んでみることにした。一作家一冊だけとなると少ししんどいので次点としてもう一冊を選んでみた。
浅田次郎; 60年あまりの読書人生の中で「一番面白かった小説を一つだけ挙げよ」と言われたら何を選ぶか。文学的な価値とか難しいことではなく、「面白かったという基準だけで選んだとしたら」である。それでも大変迷うことになるはずであるが、私の場合、あっさり浅田次郎の①「蒼穹の昴」を挙げる。
もともと清朝の末期、西太后の時代に興味があった。映画も「ラストエンペラー」が大好き。この物語は清朝の時代、燃料用の牛馬の糞拾いを生活の糧とする貧しいが、利発な少年「春児(チュンル)」が自ら男の大事なところをちょん切り、ついには紫禁城で西太后直々に仕える宦官の頂上に、同じ簗家屯地方の名主の次男「簗文秀(リャンウエンシウ)」が科挙の難関を次々と突破して、挙士となり、「月日も動かす」進士に、しかも状元という最優秀の成績で登第されていくという二人の出世物語である。
主人公は上記の宦官と科挙であるが、「中国三大悪女」と言われた「西大后」を、巷間言われているような人とは少し違った血も涙もある「女性」として描いている。かなりの長編であったが一気に読んだ。この蒼穹の昴の副産物というか「蒼穹」発売のあとすぐ「珍妃の井戸」という描き下ろしも出た。
面白くて夢中になって読んだ長編は、読み終わってしまうとロス感がある。終わってしまったはずの「蒼穹」のあと、しばらくして、「中原の虹」というスケールの大きい続編が出た。「あの宦官や科挙の青年たちはどうなったか?」と、喜んで買ってきたものである。
浅田の②は 「終わらざる夏」。
高橋和己;20代前半、東京にいたころ学生たちがよく読んでいたかなり左翼な週刊誌「朝日ジャーナル」を購読していた(そのころは「安保反対だったし今のように保守反動ではなかった)。その中に連載していた(大本教・出口王仁三郎をモデルとした)小説②「邪宗門」で出会った高橋和己。若くして亡くなった(39歳)ので20冊ぐらいしか出ていないが、その後出版されたこの人の本はすべて読んだ。
①「わが心は石に非ず」。
私が読んだ本の中で、頁数がおそらく最大と思える司馬遼太郎以下については次の機会に。
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エンターテイメント№173 2018.7
歴史上の人物など小説のテレビ化、映画化で気になるのはその人物の心象。演ずる役者によって、(私の中で)イメージが「固定してしまう」というのがよくある。たとえば幕末モノなどで薩・長・土勤王藩士や新撰組隊士の役。勤王の志士たちの魅力もさることながら、私は何故か新撰組の面々に興味がある。
なかでも、函館五稜郭まで行って最後の戦いに挑んだ土方歳三。「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者となり、明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。
この新撰組について言えば、なぜか私のなかでは土方歳三は渡哲也、近藤勇隊長はハナ肇、と決まっている。他の俳優が彼らの役をやってもピンとこないし、観ていても慣れるまで時間がかかる。いつか観た映画かドラマでイメージがぴったりはまり、それ以降は私の中でこびりついてしまっているからであろう。
13代将軍徳川家定の御台所(正室)となった篤姫は大河ドラマ「篤姫」は宮崎あおい、そして「西郷どん」の北川景子。先に観て私の中にストンと落ちている宮崎ではあるが、北川篤姫も悪くない。二人とも写真で見る天璋院篤姫よりはかなり美人で、やはりドラマのヒロインはきれいな方がいい。
幕末のころの人物には結構写真が残っているのでそのイメージで見てしまうが、坂本龍馬はあの写真のイメージより、司馬遼太郎の小説「龍馬が行く」を読んで作ってしまったイメージの方が大きい。颯爽とした男前、いつかの大河「龍馬伝」の福山雅治は私のイメージに近い。
信長も(前述の土方もそうであるが)渡哲也、家康は津川雅彦のタヌキおやじぶり。そして秀吉、本当にいろんな人が演じたのを観たが竹中直人が一番印象に残っている。
そういうことでいけば今の大河西郷どんの鈴木亮平、若いときの鈴木西郷はいまのところあまり違和感はない、これからどうなるか。いつか見た東映の大作映画では里見 浩太朗が演じていたが、あの上野のお山の銅像に似たメイクだった。
西郷隆盛、東京・上野の銅像の除幕式のとき臨席していた西郷の未亡人・糸が、幕が外された銅像の顔を見るなり「ちご、ちご!うちの旦那さんは、こげな人じゃなか」とつぶやいたそうである。
ことほど左様に、実際と伝わっていくイメージは変わっていくのだろう
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エンターテイメント№172 2018.6
2018年2月21日大杉漣 、4月27日 朝丘 雪路、5月16日 西城秀樹、 星由里子
最近になって立て続けに大物芸能人の訃報に接した、特に後の3人はほとんど同時だった。
大杉漣は平成になって活躍が目立ったが、他の3人はどちらかといえば昭和のスター。
大杉漣 現役活躍中の突然の死は耳を疑った。旅行番組のレポーター?、平凡な父親役、恐いヤクザなどどんな役もこなせる名優。映画「泣いたらアカンで通天閣」、TVドラマ池井戸潤の「花咲舞は黙っていない」の父親役を思い出す。
朝丘 雪路 イレブンPMのホステス役が懐かしい。この人の印象は芸能人にしてはあまりにも「いいとこ」の御嬢さん、そのセレブぶりの逸話は枚挙にいとまがない。お嬢ちゃんが誘拐されたときはママよりパパの津川雅彦の動静が注目された。
星由里子 最近まで舞台などで活躍していたようだが、私にとってはデビューしたころ、加山雄三の若大将シリーズのマドンナ役がまぶしかった。1961年から10年にわたって17本ものシリーズ(うちシリーズ後半は酒井和歌子)に出演。若大将の恋人役、今のテレビタレントではない本当の意味での銀幕のスター女優。
ちょうど私の高校1年からかけだしの社会人時代と重なる。吉永小百合より1学年上のはずであるが芸能界デビューは小百合のほうが先。そのころサユリストだった私にとっては、「もっときれいな人が現れた」と思い、胸をわくわくしながら映画館へ足を運んだのを覚えている。
加山雄三が東宝からデビューしたころの私は日活一辺倒、寝ても覚めても裕次郎の私にとって当時の加山にはそれほど魅力は感じなかった。それでもシリーズを見に行ったのは星由里子目当て。裕次郎がどこか不良っぽく、出演作どれも裕さんが出ているだけでよかった。
その日活の救世主的な裕次郎に対して東宝では対抗できるスターが必要だった。その後は黒澤監督作品に出るなど俳優として成長、音楽の方ではある意味シンガーソングの元祖的な存在になっていったが。
若大将シリーズで澄ちゃん役のめちゃきれいだった「星由里子が突然結婚」の報道に心が揺れた、相手はあまり評判のよくない実業家の御曹司で別れるのも早かった。この結婚で私の心は吉永小百合に戻った。
西城秀樹 新御三家。私の世代は断然初代のご三家、カラオケで歌うのは舟木一夫、橋幸夫で、西城や郷ひろみの歌は歌ったことがないし歌えない。そうは言っても「秀樹 感激!」のころのファンの熱狂ぶりはすさまじいものがあった。TVドラマ「寺内貫太郎一家」での親父との喧嘩ぶりはよくも観ていた。63歳、私より10歳も若い。
ご冥福をお祈りします。
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エンターテイメント№171 Trip &Tour (20-3) 2018.4
4日目
本日のOP(オプショナルツアー)はクチトンネル観光と、夜は民族舞踊鑑賞とベトナム料理の夕食。
「クチトンネル観光」についてはあまり知識もなく、行く前は「ベトナム戦争と関連あるトンネル」?。そんなものが「観光資源」になるんかなあ」ぐらいにしか考えていなかった。
このトンネルは、ホーチミン市の西北70kmほどの距離にあり、南ベトナム民族解放戦線(いわゆるべトコン)の有力な拠点だった。
バスはホーチミン郊外の道、途中いくつかの田舎の村を通り過ぎていった。途中ゴムの木の林や、市内へ出荷する花などを作る農家もあった。
バスが着いたところは私の田舎の山村にある林のようなところ。そこに大きなトンネル分布地図の看板がなければどうということのないところ。まずは看板の前で全員の集合写真。あとすぐに地下をくぐって林の中へ、そこで観たものとは!。
そのトンネルは、一見何の変哲もない雑木林の下に掘られていた。それはまるで、蟻の巣のようにはりめぐらされ、全長は実に200キロメートルにも及ぶという。
見学用として実際に入ることができるトンネル(というより穴)、15分コーストと30分コースどちらかを選択できたが全員一致で15分コースへ。中は大人が身をかがめて、這うようにしてやっと進めるくらい。私は中腰で歩いたが、前を行く背の高いSさんは途中から這って進んでいた。ベトナム人は比較的背は低いが、完全武装の大柄な米兵ではとても入れないはず。それでも見学用に元より少し広げたとのこと。
トンネルの周りには、多くの落とし穴が設けてあった。また兵士一人がやっと入れる隠れ穴もあり、我々一行のなかのKさんが入ってマンホールのふたのようなものをかぶせ、その上に落ち葉などをひいた。まさかそこに人が隠れているなんてことは考えられないだろう。
しかも村民たちは、このトンネルの中に潜みながら、生活を続けていたという。そこには子供たちの勉強する場所(学校)などもあったようだ。もちろん食料も自足自給で村一丸となって、生活しながら戦っていたことがうかがえた。生活するとなると食事を作る煙も発生する、それも少し離れた穴から出るように工夫されていた。
このトンネルを見学して初めて、南ベトナム民族解放戦線の実態が分かったような気がした。粗末な手製の武器や古風な落とし穴戦術などで突然侵入してきた外国軍に対し、平和な暮らしを取り戻すべく立ち上がった民衆のエネルギーが感じられました。
ここでベトナム戦争について、少しおさらいしてみることにしたい。
ベトナム戦争が本格化したのは1965年頃。
この戦争は、インドシナ戦争でホーチミンらがフランスの植民地支配を打ち破ったことにはじまる。ホーチミンらがベトナム全土を支配することを嫌ったアメリカは、ベトナム南部に傀儡国家=「ベトナム共和国」を樹立した。
ホーチミンらがベトナム全土を共産主義化し、さらにドミノ倒しのように他の東南アジア諸国も共産主義化することを恐れたからのようです(「ドミノ理論」)。これに対し、北ベトナムの支援の元に解放戦線が戦ったのがベトナム戦争。
そしてそのエネルギーが、いままで一度も戦争で負けたことのない大国、近代兵器に身を固めた巨象を打ち負かすことができたのに違いない。
クチトンネルを後にし、高級ベトナム料理を味わいながら民族舞踊鑑賞のためレックスホテルへ。
5つ星のラグジュアリーホテル「レックス・ホテル・サイゴン」の5階フロアに営業しているホアマイ・レストランは、一流シェフが料理に腕を振るうベトナム料理および中華料理レストラン。5つ星と銘打つホテルのレストランといえば、敷居が高いイメージがあるが、このレストランは上品ながらも気軽に入れるカジュアルさもあるとのこと。
ショーが終わって舞踊団にチップを渡し、記念撮影を。4連泊したホテルに帰るバスの中、なにか名残惜しいホーチミンの夜、ライトアップされたホーチミン市人民委員会などを写真におさめた。
5日目
その後ホテルへ戻り、早朝(というより深夜)帰国のため荷物を整理しつつ迎えのバスを待つ。ガイドから弁当?を受け取り、現地時間深夜1時半ごろホーチミン空港へ。弁当の中身は焼いてない食パンとヨーグルトのようなもの、そしてベトナムのちょっと解らない缶詰。そのまま捨てるわけにもいかず、空港で少し食べて港内へ。
ホーチミンから香港3時間ほどのフライト、乗って間もなく機内食。香港空港内レストランでビールを飲みながら4時間ほど時間をつぶし、香港航空に乗り込んだらまたしても機内食・・・・。
美味しくない機内食を摂りながらいつもの「けつねうろん食べたい」気持ちに。関空着は17:30、例によって空港内がんこ寿司できつねうどんと握りずしを食べながら、空港バスなど帰りの交通機関時間に合わせ三々五々流れ解散へ。お疲れ様。
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エンターテイメント№170 Trip &Tour (20-2)
わくわく♪ホーチミン5日間 Vol Ⅱ
今回のトラピックスツアーは基本料金を低く抑えて、3日目 4日目は基本自由行動でオプショナルツアー(OP)を用意。3日目のOPは、「ミトーメコン川クルーズ」。夜は夕食のついた「水上人形劇鑑賞」、以前ハノイでこの人形劇は観ているので、パスしてホテル周辺のどこかいい店で飲み会をということになった。
メコンの名はタイ語に由来するらしい、東南アジア最長の川で、中国・ミャンマー・ラオス・タイ・カンボジア・ベトナムを流れる。全長約 4350km。流域面積約 81万km2。中国青海省南部,チベット高原の東部にあたるタンラ 山脈に源を発し、ランツアン江と呼ばれて雲南省を南流したのち、ミャンマー・ラオス国境、次いでラオス・タイ国境をなしながら南へ流れる。
さらにラオス北部の山岳地帯を貫流、再びラオス・タイ国境となって東へ南へと流れ、カンボジア平野に流入。ここを南流して横切り、プノンペン付近で右岸にバサック川を分流したのち、ベトナムに入り、広大なデルタをつくりながらホーチミン市の南方で南シナ海に注ぐ。
朝、何時ものバスに乗り、ホーチーミン市内からミトー(Mỹ Tho)まで、途中高速道路に乗り 1時間30分ぐらい。例により車窓から走っている車の観察、相変わらずバイクが多い。バスはほとんどがヒュンダイ(現代)、私たちの乗るバスも。タクシーや乗用車はトヨタが多いが、ヒュンダイやキヤがそれに次ぐ、あとはホンダ・三菱など。
港から30人ぐらいは乗れそうなエンジン付きボートでメコン川沿いをクルージング。さほど広いとは思えない川に見えたが、向こう岸は中洲の島らしい。たくさんの実をつけたココナツ椰子や、大きな実をつけた木々が茂る島へ、島全体が果樹園になっている。
上陸?して、まずははちみつ園へ、可愛いスタイルの良い娘さんが蜂蜜の巣を抱えて観光客に見せていた、園主のお嬢さんらしい。蜂蜜に栄養価の高いお茶を混ぜ、キンカンの汁を絞ったものを試飲、甘く体が熱くなるような気がした。ここで大きなニシキヘビ?を首に巻いて、はい・ポーズ。
あと、ココナッツキャンディ工場も見学、また別のところではハスの実やバナナのドライフードも試食。
島の密林を歩いていると下のほうに小さな川が!、よく見ると現地の人が手漕ぎする小さなボートが。私たちもこれに4人づつに分かれて乗り、マングローブの林をボートで進むデルタクルーズ。ここではベトナムらしい南国気分を味わうことができた。そしてこの小さな舟が大メコンへ、ここ川中でエンジン付きの船に乗り換え元来た港へ。
ミトー料理の昼食は生春巻きとフォー(ベトナムのうどん)。鯛のような(怪魚のような)焼き魚を垂直に立て、この身を野菜などと生地に巻いて食する(店員が巻いてくれる)、ビールはサイゴンビール。食事の後バスはホーチミンのホテルへ。
夕食は地元のどこか美味しいところをと、ガイドに教えてもらい、おすすめの中華料理店をめざし夜のホーチミンをぶらり。徒歩15分ぐらいということだったが、途中日本料理店や居酒屋が立ち並ぶところで胸もあらわな十代と思えるマッサージ嬢が強烈な客引き。捕まって連れて行かれそうになった人も。
ベトナムへきて初めてベトナム料理以外を味わうことに。当地ではかなりの高級店なのだろう、中華なので変な香草などもなく味はまあまあ。他ではあまり食べられなかった分、ここではお腹がいっぱいに。
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エンターテイメント№169 Trip &Tour (20-1) 2018.2
わくわく♪ホーチミン5日間 Vol Ⅰ 2018.1.30~2.3
1日目 (1/30)
このメンバーでの海外旅行は9回目、今回はその旅行会3度目のベトナム。初回は2013年4月、「アンコールワットとハロン湾」の組み合わせでベトナムはハノイだけ。2回目は2016年4月、南北に長いこの国のど真ん中でこの国3番目の大都市ダナン。周辺にリゾート地やホイアン・フエなどの古都。そして今回はベトナム最大の都市ホーチミンだけに滞在する。
メンバーは昨年1月のインド旅行から2人減って8人。
安いツアーは直行便を使わず、売れにくい時間帯の他空港経由が多い、この旅行も香港経由。関空で出国手続きを済ませ、いつもの出発式乾杯の後 16:50発で乗り継ぎの地 香港(着20:15)へ、航空会社は香港航空。香港もかなり寒く7度前後とか。空港3時間弱の滞在後、23:05発でホーチミンへ。機は到着予定の00:50からかなり遅れて真夜中のホーチミン空港へ。
ここで海外旅行経験初めてのハプニング、乗り継ぎの場合荷物は直接目的の地へくるはず。コンベアの荷物がいくら待っても誰のものも回ってこない。かなりの時間が経ってから「荷物はこれで終わり」との係員のジェスチャー。私たちの荷物は何処へ?、問い合わせに行くと「荷物はまだある」との説明。
やっとのことでキャリーバッグを手にして現地ガイドが待つ空港の外へ。そのガイド、居たにはいたが、なかなかホテル行きのバスに案内しない、理由はツアーメンバー19人のうち二人が居ないのでバスを出せないとのこと。
その2人は「ガイドを見つけることができず直接ホテルへ行ったらしい」とのことで、予定より1時間以上遅れてAM3:00(日本時間5:00)を過ぎてホテル到着。
2日目(1/31)
空港から20分ほどで4日間連泊するアジアンホテルへ。このホテル市内観光する拠点としては、立地は良く便利。コンビニ、お土産屋も近くにあり、隣のビルにはデパートも。ホテルは古いがフロントスタッフの皆さんがにこやかでフレンドリー。ほとんど寝る時間もなく8:30朝食、部屋で出発の12:00を待つ。
昼間バスで行くホーチミン市内観光予定は、統一会堂・サイゴン大教会・中央郵便局・天后宮(ティエンハウ寺)・ドンコイ通り海福寺・地元スーパーマーケット・総合民芸品店など。このうち統一会堂・サイゴン大教会・中央郵便局はホテルから歩いてもいける場所。
統一会堂 ; 旧南ベトナム大統領官邸でベトナム戦争終結のシンボル。政情が不安定だった時代に建物の呼び名もたびたび変遷し、 1873年から1955年の呼称は「ノロドン宮殿」、1955年 から1975年の間は「独立宮殿」、そして現在の統一会堂。
サイゴン大教会 ; カトリックの大司教座大聖堂、聖マリア大聖堂とも。サイゴンがフランスの植民地だった1863年から1880年にかけて建設された。
中央郵便局 ; 通常の郵便・通信業務を行っており、コロニアルスタイルの観光名所としても著名で、パリのオルセー美術館(当時駅舎)をモデルにしたといわれる。建物中心ホールの中央部および建物両翼は観光客相手のみやげ物売り場となっている。
天后宮 ; チョロン(中華街)にある道教寺院。 1760年に福建省出身の 華僑によって建てられたこのお寺には、 航海安全の守り神・天后聖母祀られています。海難事故から多くの人々を救った伝説を持つ天后聖母は、 はるばる海を渡ってベトナムにやって来た華僑たちから強い信仰を集めていたよう。
ドンコイ通り海福寺 ; 海福寺〔時宗〕. 本堂. 概要 元応年中(1319〜1321) 遊行二祖上人の弟子、但阿弥陀仏の開基といわれている。 本堂の左手に「三つ首様 」と呼ばれる珍しい墓があり、首から上の病を治すといわれ、お参りをする人が絶えないという。
ベトナム華人の代表的な同郷会館、穂城会館前では何とも鮮やかな金色の衣装をまとった人たちが、観光客相手に龍の舞・・・・。
ドンコイ通りトンボ ; 雑貨ショップが軒を連ねるドンコイ通り、その真ん中にあるトンボはバッグや財布など服飾雑貨が充実しているショップ。ベトナム人と日本人夫妻が経営するとあって、日本のトレンドをおさえた 洒落たアイテムが揃っている。ベトナム人経営よりかは品質もしっかりとのこと、店舗も広く、日本語が 上手いベトナム人スタッフもいた。
夜はサイゴン川ディナークルーズ ; 食事はツアーごとにテーブルが分かれており、一品ずつテーブルに運んでくれる。サイゴンビールとベトナム料理とをいただきながらベトナムの夜景を楽しむことが出来た。日本人観光客がいることを知ってか、伝統的なベトナム音楽とともに、日本の歌も4~5曲、酔うほどにいい気分に。
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エンターテイメント№168 2017.12月
2017亡くなった有名人へ ; ひろ坊のコメント
1/3 神山繁 87歳 俳優 肺炎 ; ずいぶんいろんな映画に出ていたなあ、大物悪者も
1/21 松方弘樹 74歳 俳優 映画監督 映画プロデューサー 脳リンパ腫 ; 日本映画界最後の本物俳優、今の人たちはタレント
1/25 藤村俊二 82歳 俳優 声優 タレント 振付師 心不全 ; 昭和9年会 石原裕次郎と同年
2/7中山美保 78歳 吉本新喜劇 肺血腫による呼吸困難 ; 吉本のミボリン
2/8土屋嘉男 89歳 俳優 肺がん ; 黒澤映画7人の侍にも出ていた
2/13 鈴木清順 93歳 映画監督、俳優 慢性閉塞性肺疾患 ; 日活異色の監督「ツゴイネルワイゼン」
2/16 船村徹 84歳 作曲家・歌手 心不全 ; 大ヒット曲多すぎて、なかでもひばりの「みだれ髪」は私の19番
3/1 ムッシュかまやつ かまやつひろし 78歳 ミュージシャン 俳優 膵癌 ; ザ・スパイダース、それにしてもそのころ「3人ひろし」活躍した守屋浩、井上ひろし 古いなあ
3/14 渡瀬恒彦 72歳 俳優 多臓器不全 ; 淡路島出身 私の好きな渡哲也の弟
3/20 デイヴィッド・ロックフェラー 101歳 心不全 ; 銀行家・実業家・財団
4/6 京唄子 89歳 女優 漫才師 肺炎 ; 大口やけど大型美人
4/12 ペギー葉山 83歳 歌手 肺炎 :南国土佐を後にして、一度東京で会ったことがある、労音の打合せで。
4/17 渡部昇一 86歳 評論家、英語学者、上智大学名誉教授 心不全 ; 亡くなる少し前、石原慎太郎・堺屋太一とテレビで見た
4/23 三遊亭円歌 85(88)歳 落語家 結腸ガンによる腸閉塞 ; 山のあなあな、若い人は知らんやろなあ
4/25 井上雅博 60歳 前ヤフー代表取締役社長 交通事故のため ; 若すぎる死
4/2727 佐田の山晋松 79歳 第50代横綱 肺炎 ; 渋い横綱だった
5/3 月丘夢路 94歳 女優 肺炎 ; 日活井上梅次監督の妻、松竹小津作品にも出ていた
6/13 野際陽子 81歳 女優 肺腺がん ; 思い出すのは千葉進一とキーハンターやなあ
7/11 上田利治 80歳 元プロ野球選手、監督 肺炎 ; 3年連続で日本一になるなど4年連続を含む5回のリーグ優勝
7/18 日野原重明 105歳 聖路加国際病院名誉医師 呼吸不全 ; 100歳を超えても「死ぬのは怖い」と言っておられた
7/21 平尾昌晃 79歳 歌手 作曲家 肺炎 ; 「みよちゃん」のころはあれほどの大作曲家になるとは思えなかったが
6/22 小林麻央 34歳 フリーアナウンサー 乳がん ; 今年一番胸を痛めた「死」だった
8/28 羽田孜 82歳 元総理 老衰 ; 新進党
10/5 三条正人 75歳 東京ロマンチカ メインボーカル 悪性リンパ腫 ; 香山美子
10/26 篠沢秀夫 84歳 学習院大学名誉教授 ALSと診断 ; クイズ・ダービー
11/6 中村鋭一 87歳 元アナウンサー タレント 政治家 肺炎 ; 虎キチだけでなく政治家も務めた
12/2 はしだのりひこ 72歳 フォーク歌手、元フォーク・クルセダーズ メンバー 死因書いてなかった ; 「おらは死んじまっただぁ」
12/6 海老一染之助 83歳 伝統演芸・曲芸師 肺炎 ; 最近は一人で出ていた、正月この人たちが出てこないとさびしい
12/8 野村沙知代 85歳 野村克也氏の妻、タレント 虚血性心不全 ; 怖いおばはんというイメージ、一人になったノムさん寂しいやろなあ
12/18 まつば ゴン太 ペット 老衰 つい呼んでしまう 合掌
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エンターテイメント№167 2017.11月
倍賞千恵子コンサート
10月4日、カミさんと「倍賞千恵子with小六禮次郎コンサート」へ 。何で今、倍賞千恵子かって?、私が唯一言葉を交わしたことのあるスター女優・歌手が大阪へ。また千恵子・美津子姉妹の自宅へも何度も行った、そのことは「おもいつくままに」2004.6.6「忘れ得ぬ6月8日」、2004.8.「もう一度、倍賞千恵子さん姉妹のこと」へ2度UPしている。
コンサート会場は大阪上本町新歌舞伎座、この劇場の前はよく通るが入ったのは初めて。席は3階の2列目真ん中、舞台はかなり下に見える。歌は55年前の彼女のヒット曲、1962年発売の「下町の太陽」から始まった。この歌がヒットし、翌年彼女の主演で松竹映画となったが、東京に行く前、大阪日本橋支店にいたころこの映画を観た記憶がある。
1967(S41)年東京支店開店の日、彼女は窓口担当の私の横に座ったが、ほとんど立ったままお客さに(サインなどで)応対してくれた。当時銀行のイメージガールだったが、23才ぐらいだったか、彼女の一番綺麗な時期だったと思う。その時二言三言 言葉をかわしたが、彼女の家に行ったのは、振り込まれた映画のギャラを定期預金にしてもらいに。ご自宅ではいつもお母さんが相手をして下さった。
失礼ながら今はあのお歳(76歳)だから声の方は大丈夫かと、それは杞憂で、あの透き通った声は健在。高音も無理なく出ていて、うたう歌はいい曲ばかり、素晴らしいコンサートだった。アンコールは「さよならはダンスの後で」。
倍賞 千恵子(ばいしょう ちえこ、1941年〈昭和16年〉6月29日 – )は、日本の女優、歌手、声優。愛称は「チコちゃん」。 実妹は女優の倍賞美津子。弟は猪木事務所社長の倍賞鉄夫、日産自動車硬式野球部元監督の倍賞明。夫は作曲家の小六禮次郎氏。
彼女はこのコンサートで語っていたが、SKD(松竹歌劇団)に入る前の少女時代は童謡歌手だった、当時安田章子といったその後の由紀さおりはライバルだったらしい。映画俳優としては「男はつらいよ」のサクラ役はあまりにもポピュラーですが、高倉健と倍賞千恵子、名優・名女優が共演した「幸せの黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」「駅 STATION」は映画史に残る感動の名作である。
歌の合間にスクリーンが下りてきてあの映画「男はつらいよ」の一場面。「子供に飴玉の一つでも買ってやんな」と出された寅さんの財布には500円札1枚、妹のサクラはその財布に自分の財布から1万円札を」。このシリーズ全部で48作、すべてに妹サクラ役で。葛飾柴又にはフーテンの寅さんの銅像が建っているが、しばらくしてサクラの銅像もできているらしい。
トークの中で「私の大事な旦那さんは「前田吟」さんではありません」、と6歳下の夫小六禮次郎さんを紹介。
童謡歌手だっただけにうたう歌も童謡・小学唱歌など心に残る名作ばかり、作曲家でピアニストの小六禮次郎氏のピアノ伴奏で。
♪愛の讃歌 ♪さくら貝の唄 ♪叱られて ♪波浮の港 ♪月の沙漠 ♪港が見える丘♪さくらのバラード ♪オホーツクの舟唄 ♪花はおくらないで下さい ♪忘れな草をあなたに ♪しあわせについて ♪シャボン玉 ♪里の秋 ♪歌を忘れたカナリア(ネットと記憶で少し曖昧)
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エンターテイメント№166 2017.10月 映画17
関ヶ原 2017.9.1 TOHOシネマズ 橿原
監督・脚本 原田眞人 原作 司馬遼太郎
石田三成 岡田准一 徳川家康 役所広司 初芽 有村架純 島左近 平岳大 小早川秀秋 東出昌大
『関ヶ原』は、2017年制作の日本映画。石田三成と徳川家康を主人公に、豊臣秀吉の死から天下分け目の関ヶ原の戦いに至るまでの過程を描いた司馬遼太郎原作の歴史小説『関ヶ原』の映画化作品。司馬遼太郎の小説の映画化は、1999年公開の『梟の城』以来18年振りとなる。ウィキぺディアより
司馬遼太郎の本はかなり読んでいる。昔は「竜馬が行く」「坂の上の雲」など描き下ろし初版をハードカバーで買い本棚に並べるのが好きだった。年を重ねるにつれ「文庫本」を買うことが多くなっている。「街道を行く48作」などはほとんどそろっているし、他にも本棚の多くを司馬遼の文庫本が占めている。同氏の「豊臣家の人々」や、他の作家のこの時代のものもよく読んでいたので、「関ヶ原」も見たつもりが本棚になかった。
この映画の見所は主役(岡田)・準主役(役所)の演技力とテンポの良さ、それに合戦シーンの迫力。いつも自宅の46インチで見ているのとの違いは明らか。
光成は武将というより怜悧な官僚というイメージが強いが、この映画での岡田准一、義理堅い人情味のある人物を好演している。
タヌキおやじ家康の役所広司、まあこの俳優、昔は役所勤めだったらしいが、くそ憎たらしく演じて圧巻である。いま時代劇で北大路・津川・高橋も年老い、重鎮の役をこなせる俳優は少ない。
そしていま女優として成長中の有村架純、大型時代劇のヒロイン、大丈夫だろうかと観ていたがまあ合格点。
今回映画館へ一緒に足を運んだのは同市内の友達夫妻と、わが夫婦4人で。長男のママ友どうしでもある同夫妻とは飲んだりカラオケをしたり、時には政治論を交わす。政治・ビジネス信条などは似通ったところがあり、飲みながら話すと時間がいくらあっても足りない。今回も映画を観たあとの感想を4人で飲みながら語るのも楽しみ。
司馬遼太郎の名作小説を、岡田准一、役所広司、有村架純ら豪華キャスト共演で映画化。 (略) 原田眞人監督がメガホンをとり、石田三成の義を貫いた生き様を軸に、関ヶ原の戦いを真っ向から描き出す。幼くして豊臣秀吉に才能を認められ、取りたてられた石田三成は、秀吉に忠誠を誓いながらも、正義ではなく利害で天下を治める秀吉の姿勢に疑問も抱いていた。そんな三成の下には、猛将として名高い島左近や伊賀の忍びの初芽らが仕えるようになるが、秀吉の体調が思わしくないなか、天下取りの野望を抱く徳川家康は、言葉巧みに武将たちを自陣に引き込んでいった。そして1598年8月、秀吉が逝去。1600年9月15日、毛利輝元を総大将に立てた三成の西軍と、家康率いる東軍が関ヶ原で天下分け目の決戦に挑むこととなる。主演の岡田が不器用で人間味あふれる新たな三成像に挑み、役所が天下取りの野望に燃える家康役を演じる。さらに三成を命がけで守りながら彼に密かに恋心を抱く忍び・初芽役で、有村が本格時代劇に初挑戦した。映画.comより
観た後その友人と同じ感想を語ったのはラストシーンのこと。あると思っていたがなかった次の逸話。この時代侍としては相手の軍門に降るより、切腹が妥当。光成の人生観からはこの選択肢はなかった。引き立てられて刑場へ向かう途中、喉の渇きを訴えるが、農民(警護の者?)が「柿」を手渡そうとしたもののその時下痢気味だったか光成は「柿は痰の毒」と言って食べなかったという。
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エンターテイメント№165 2017.9月
白亜のタージマハルと絶景の階段井戸チャンドバオリド いいとこどり周遊6日間(クラブツーリズムの旅行名) Ⅴ
5日目
朝起きてみると、かなり熱っぽい。ホテルのレストランで「体温計」を頼んだが無いらしい。38度ぐらいはあったかも知れない。「このホテルでもう一泊」だったら寝ていてみんなが帰るのを待ったかもしれないが、今夜から帰国の途につくのにこんなところに置いて行かれるわけにはいかない。
シェラトン連泊2日目、バイキングの朝食後いつものバスで5時間かけてデリーへ。
昼食はタンドリー料理。インドのレストランの従業員の多い事ときたら、客の数と変わらないくらい。レストランのスタッフ省力化が進み、ますます少なくなっていく日本のそれと比べてそのギャップを思う。
インド門、 私たちは大通りを歩いて、このインドの重要な記念碑を訪れた。
インド門は、 高さ 42 mのアーチ型の慰霊碑で、第一次世界大戦でイギリス兵として戦って亡くなった、何万人ものインド人兵士を追悼するために造られ、1919
年のアフガン戦争で亡くなった 13000人を超える兵士の名前も刻まれているらしい。この印象的なデザインの建造物をじっくりと眺めた。ここでは軍事パレードやマーチング
バンドを見学したりするほか、緑の芝生の上でピクニックやゲームを楽しむことができるらしい。
最初の訪問地デリーで行く予定だったクトゥブ・ミナールは、デリーにある世界最高のミナレット(塔)。1200年ごろに奴隷王朝の建国者であるクトウブディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられた。ヒンドゥー様式とイスラム様式が混在した様式となっている。
クトゥブ・ミナールで、角度によって」高い塔を指で押さえているような写真を撮ってくれる人がいた。「ここの施設の守衛親切や」と思いきや、撮ったあと「チップ・チップ」とうるさい。この施設守衛のアルバイトだったことに気が付く。
ミナレット見学のあとはショッピングモールへ。前にも書いたようにインドのクルマはほとんどがスズキと思っていたが、日本で言うとイオンモールにあたるその施設に入っていく自動車を見て驚いた。ベンツやBMWやレクサスのような高級車ばかり。それもそのはず、セキュリティチェックのための探知機をくぐって入ったその施設はインドにしてはかなりの高級品が並べられていた。
東南アジアの地元のスーパーなどで「安い買い物」をするのが好きな私は、皆がスターバックスでコーヒーしている間に売り場に行ってみた。棚の商品は日本で売っているものとあまり変わりなく、ものによっては日本より高い、ちなみに皆が飲んだコーヒーは日本円で500円以上。日当が1000円のこの国で。
途中 紅茶店・民芸品店を訪れ、夕食後デリー空港へ。ANAにて空路成田へ、8時間弱と往きよりはかなり早い。機中泊。
6日目最終日と後日譚
成田からの飛行機は窓際、上空からの日本列島を楽しんでいるうち1時間20分で 伊丹着18:20。
Hさん、ガイドからバースディ に贈られたTシャツの後日談。インド製ということも珍しく、Hさんすっかり気に入って翌日はドヤ顔でこれを着ての観光。帰って奥様が旅行の他の洗濯物等とともに洗濯機にかけたところ、他の洗濯物もすべて真っ青に。
またタージ・マハルで持ち込み禁止の ライターを預かったのも同じHさん、逮捕でもされたら日本へ帰れない?、巧く隠して警備員のボディタッチを逃れたとのこと、この人の度胸に感心。
お腹に自信ない人もいて、(Sさんが)日本から持って行った紙パンツをはいた人が3人。10人のうち7人がなんらかで体調崩した。旅行中ずっと風邪気味であった私は紙パンツは履かず、5・6日目はトイレ(大)にも行かず我慢したが、家に着いた途端、強烈な下痢に見舞われ。夜熱も出て翌日は一日中寝ている羽目に。
食事は行くとこ行くとこカレー、中身は鶏肉ばかりで美味くはなく、食欲は落ちるばかり。そんなこともあろうかと(添乗員の薦めもあって)持って行ったレトルトの梅粥は電子レンジでチンすることも袋ごと湯につけることもできず、湯を入れてみたが失敗。旅行中美味いと思ったのはカップヌードルだけ。他の人もSさんが紙パンツとともに、たくさん持って行ってくれた どん兵衛などインスタント食品が救いとなった。
インドへ行った人は「もう一生行かない」か、「もう一度行ってみたい」に分かれるという。5か月経って「行ってみたい」に傾いてはいる、行くなら今度は「ガンジス川で沐浴」へも。
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エンターテイメント№164 2017.8月
白亜のタージマハルと絶景の階段井戸チャンドバオリド いいとこどり周遊6日間(クラブツーリズムの旅行名) Ⅳ
4日目(4/2)
訪れた三つ目の都市アグラ( Agra アーグラ)はインドのウッタル・プラデーシュ州に属する都市。同州最大の都市で、2011年現在の人口は約157万人。アーグラー、アグラとも表記する。世界遺産に登録されているタージ・マハル廟、アーグラ城塞があることで知られる。
アグラ市内観光、このツアー メインイベントの「タージ・マハル」へ。この名前を聞いた事がないという方はいないと思うくらい 有名で美しく白亜の巨大なお墓。インドを旅行する人でタージマハルに行った事がない、 という人に出会うのが難しいくらいの場所だという。この旅行会社ツアーの中でも「インドは8回目、ここへはほとんど来ている」という人がいた。
いよいよ「世界遺産白亜の霊廟タージ・マハル」へ、といっても、これがまた入るのが大変。ガイドから「途中荷物検査あるので、大きなバッグはダメ、たばこ・ライターほか持って入れないモノは全てバスのなかへ」とのこと。持って行けるのは貴重品の入った小さいバッグと水ぐらい、砂漠と同じで水はいのち。
馬車なども走る道を、ゴルフ場のカートのような乗り物にて苑内へ、ここでハプニング。持って入れないはずのタバコのライターを持って入ってしまった I さん。バスに戻ることもできない、「わしに任しとき」と言って持ち物検査の前にライターを預かった最年長のHさん、この後のボディタッチで果たしてHさんの運命やいかに?。
タージ・マハルは1653年竣工とされる。
謀反を起こした臣下の討伐に付き従っていたムムターズ・マハルは、遠征先のブルハーンプルで産後の肥立ちが悪く1631に死亡した。彼女の遺言のひとつに、「後世に残る墓を」所望した。彼女はブルハーンプルのザイナアーバードの庭園に葬られ、毎週金曜日にはシャー・ジャハーンが訪れていた。
タージ・マハル前の絶好の撮影ポイント、ここでまたかなりインパクトのあるハプニング。それは10人ほどの美しい衣装の美女たちが華やかなポーズで写真におさまっていた。3人いるHさんのなかで一番若いHさん(ハッピバスディのHさんではない)が、彼女たちに何をか得意の英語で話しかけていた。
その話の内容について、旅行後にHさんからメールが届いた。以下は彼からのメールママ内容。
私は「しまったスコットランドの歌手だったか?」と思い沈黙。多分ケルテイックウーマンと確信しました。
変な空気の理由は、「何だ?私達をケルテイックウーマンと知らないで写真を撮ったの?」 なのか。 「お忍びだから黙っていよう。」だったのか不明。
日本でも映画プリンセス豊臣の主題歌やパナソニックの3年ほど前、テレビのコマーシャルでは「amaging grace]が流れていたし。 荒川静香がスケート音楽で「you raise me up]を使って有名になりました。
モデルにしては美女軍団で無かったので不思議だったのが解決。
彼女らの歌声はまさに天使のようで、前から好きな歌手です。 ちなみに、アイルランドでは若返りに入れ替わりをしているそうで、4人~6人です。
私は知らなかったが、ケルティック・ウーマン(Celtic Woman)は、アイルランド出身の女性で構成される4人組の音楽グループ(過去には5人組、6人組の時代もあり)。結成後、ツアーやスケジュール等によりメンバーが変遷している。私たち10人も彼女たちと同じ写真に収まった。本物であればこの写真、貴重なものに。
このとき女性グループは10人ほどいたが、歌手のほかはスタッフなどではないか?とHさん。
タージ・マハルの後は世界遺産アグラ城へ。 デリーからアグラへの遷都に伴い、皇帝アクバルが1565年に着工して1573年に完成した。その後ジャハーンギール、シャージャハーンまで3代の居城となった。アウラング・ゼーブが兄弟間の後継者争いに勝つと、父であるシャー・ジャハーンをタージ・マハルの見える城塞内の「囚われの塔」(ムサンマン・ブルジ)に幽閉してデリーに移ったという。
外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されている。ムサンマン・ブルジの内壁や床は幾何学的な装飾が施された白大理石でできている。1983年にユネスコの世界遺産に登録された。
そのあと大理石店見学、大理石でできた美術品はかなり精巧にできていて結構なお値段。次にタージマハルを望めるカフェへ、アフタヌーンティでしばしの休憩。
フォーポイントバイ・シェラトン連泊の2日目夜、添乗員の薦めたオプショナルは「観劇」か、ホテル内での「オイルマッサージ」。観劇4人、マッサージ6人と別れた。私は体調のこともあってよく寝られるようにとマッサージ組へ。観劇の内容は、タージマハルの建設にまつわるムガール皇帝と妃の悲話を踊りと歌を交えながら演じる劇だったとのこと。
ホテルでのオイルマッサージ。マッサージは好きでスーパー銭湯などでよくやってもらうが、体中、頭髪までオイルを塗られたのは初めて。ここのホテル、シェラトンと言うことで一流なのにバスタブがなくシャワーだけ。部屋がキンキンに冷えているので「熱い湯で」と思ったがぬるい湯しか出ず、風邪気味なのでブルっと来た、その後観劇から帰ったメンバーとホテルで夕食。
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エンターテイメント
№163
2017.7月
白亜のタージマハルと絶景の階段井戸チャンドバオリド いいとこどり周遊6日間(クラブツーリズムの旅行名) Ⅲ
3日目(4/1)
ジャイプルは面積:112 km²、人口:305万人 (2011年)。デリーの南西約260kmに位置し、ラージャスターン州の州都であり、インド第11位の都市。約10kmの赤い城壁に囲まれ、別名「ピンク・シティー」と呼ばれる。
朝食前、今朝も同部屋トリオでホテル周辺散策。大量の生ごみが撒かれた道路に牛たちが。この光景は東南アジアのどの途上国でも見たことがない。インド人は牛を食べないらしい、街の中で悠々と歩いている牛をよく見かけた。ガイドの話によると、その理由はそれほど宗教的なものではなく、赤ちゃんが牛のミルクで育つことが多く、昔から恩人?(牛)なので慣習的に食べないとのこと。それにしてもここらの道路は汚い、大きな家の前サルたちも見た。
今日の観光は世界遺産アンペール城 、5~6人乗りのジープに分乗して山上の城塞に向かっていく。ここはジャイプル郊外の北東11kmの城郭都市アンベールにある宮殿。後ろの山上にジャイガル城塞がある。
種々の民族が行き交う要衝であったため、丘陵地帯に強固な城砦を築き異民族の侵入に備えたとのこと。その時代に築かれたチッタウルガル、クンバルガー、ランタンボール、ガグロン、アンバー(アンベール)、ジャイサルメールの6つの城砦が2013年、「ラジャスタンの丘陵城砦群」として世界文化遺産に登録された。アンペール宮殿と山上のジャイガル城砦から観る遠景は素晴らしいものがあった。
次にはハワー・マハルへ、ジャイプル、ピンク・シティと呼ばれる街区の一角にある宮殿史蹟。隣接する世界文化遺産である天文台史蹟「ジャンタル・マンタル」とともに、ジャイプル市内での観光地となっている。
そしてその世界遺産ジャンタル・マンタル天文台へ、ジャイプルの街を造ったサワーイ・ジャイ・シン2世は天文学に深い造詣があり、ここジャイプル以外にも天体観測施設を造ったそうである。中でもこのジャイプールのジャンタル・マンタルが一番大きく広い敷地内には約20もの天体観測器が設置されている。太陽や月の運行を計測する観測器が並んでいたが、非常に精密かつ巨大!当時の最先端の天文技術と建築技術を駆使して造られたものなのでしょうか。
ジャイプルの旧市街の中心に、シティ・パレスという宮殿がありました。ラジャスターンの州都であるジャイプルは、18世紀にマハーラージャと呼ばれる藩王によって造られた街。ちなみにマハーラージャとは「偉大な王」と言う意味。シティ・パレスは1726年に当時のマハーラージャのサワーイー・ジャイ・スィン2世によって建てられたそうです。シティ・パレスには今でもそのマハーラージャの子孫が住んでいるらしいが、敷地の一部は宮殿博物館として一般に公開されていた。
インドを代表する繊維更紗の店工場見学の後、タージマハルのあるアグラヘ(約6時間)。
途中バネリー村にて 幾何学模様 が美しい絶景?(旅行会社のうたい文句)の階段井戸チャンドバオリを見学。ジャイブル近郊のアブハネリ村にある巨大な階段井戸、かなり下のほうで藻?でグリーンになった井戸水らしいものが見えた。この井戸はインドで最も深く大きな階段井戸の一つであり、9世紀に建造され、階段の総数は3500、階数は13階でその深さは約30メートルに達するという。
この場所はいくつかの映画の撮影にも使われており、「落下の王国」などの映画の中で見ることができるらしい。
ここで尿意を催した私はトイレへ、ホテル以外のインドのトイレは大抵有料、二人で10ルピーが相場だったか。トイレから出ると外で器に入れた水を手にかけてくれる。この水で洗ったら手が余計に汚くなるような気がしたが、かけてもらって10ルピーを。
アグラ着 フォーポイント・バイ・シェラトンにて連泊へ。
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エンターテイメント№162 2017.6月
白亜のタージマハルと絶景の階段井戸チャンドバオリド いいとこどり周遊6日間(クラブツーリズムの旅行名) Ⅱ
2日目(3・31)
今回のインド旅行、行ったところは広いこの国のなかでも北部にあるデリー、ジャイプル、アグラの3都市のみ、デリーが三角点の頂点で西南にジャイプル、南東にアグラ。3都市は車で5~6時間の距離にある。
インドとインドの首都;ニューデリーについて調べてみた。インドは、南アジアに位置し、インド亜大陸を領有する連邦共和制国家で、インド共和国とも呼ばれる。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持ち、29 の州(states)と、7つの連邦直轄領(union territories)から構成されている。
人口;13億5,000万人、公用語;英語・ヒンディー語、通貨はルピー。添乗員からルピーへのチェンジは5,000円ぐらいでいいのではないかとのこと、1ルピーは2円弱。大抵の国では最低10,000円は両替する。この国ではあまり買い物するところが無いということか?。
デリー首都圏はニューデリーとオールドデリーに分けられる。ニューデリーの中にニューデリー行政区があり、ここに連邦の首都機能がある。古くは現在のオールドデリーだけの町 であったが、イギリス統治下の新しい首府としてニューデリーが建設された。イギリスの設計と建設による新都市部分をニューデリーと呼び、古くからある町をオールドデリーと呼んでいる。
2016年の近郊を含む都市圏人口は2,573万人であり、世界第3位の巨大都市。ちなみに都市圏人口は「世界1位東京・横浜3,784万人、2位ジャカルタ3,053万人=2014年」。
同部屋の3人で朝食前の散歩。ホテル横の道らしくない道から人がゾロゾロ、牛や猪?(イノブタだった)もいた。人の出てくる方向へ行ってみると 早朝なのに大人から子供まで大勢の人たちが思い思いの形で過ごしており、ヨガのようなことをしている人たちもいた。午後は大変暑いので朝早いうちに公園で過ごしているのだろうか。
ホテルに戻ってビュフェ方式朝食、その後デリー市内観光。
まずは赤い城(赤い砦、レッド・フォートへ、英: Red Fort)インドのデリーにあるムガル帝国時代の城塞。デリー城(Delhi Fort)とも。なお、インドで「赤い城」と言えば同じく帝国時代に築かれたアグラ城を指す場合もあるらしい。毎年8月15日のインド独立記念日には、ここで首相演説が行われるという。
そのあと5日目にいくはずの世界遺産フマユーン廟へ、これも首都デリーにある、ムガル帝国の第2代皇帝フマユーンの墓廟。インドにおけるイスラム建築の精華のひとつと評され、その建築スタイルはタージ・マハルにも影響を与えたといわれるとおり美しい(5月号のTopぺーじ=ぶらり旅・散歩にも)。その後ツアーのバスで二つ目の都市ジャイプルへ。
外国へ行くとバスから観る自動車がどこの国のメーカーのものか気になる。他の東南アジアの国々ではトヨタやホンダをよく見たが、ここインドでは圧倒的にスズキ、私の観た感じでは7割がスズキの軽か普通乗用車、他の3割が国産タタ・他の日本車・韓国・欧州車など。インドでスズキはすごかった。
ジャイブルでのホテルは、ケーケーロイヤルホテル。ロビーではそれらしい衣装の小学生くらいの男の子が踊っていた、柱の陰には父親らしい人が。何がしかのルピーをあげると、次の人の前へ。我々一行のなかにも子供にせがまれると弱い人が多い。私たちの後日本人と思える若い女性の前で踊るのだが、チップについて気が付いているのかいないのか、なかなかくれない。そのうち諦めて次の標的へ。ホテルは昨夜に比べるとかなりまし。
ホテルでの夕食、ここでもビュフェ方式、本日Happy Birthdayの人が。しかも喜寿。我々10人の中の最年長Hさん、添乗員から大きなバースディケーキとインド産のTシャツをプレゼントされて喜ぶ笑顔がかわいい(?失礼)。このインド産のTシャツについては後日譚がある。
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エンターテイメント№161 2017.5月
白亜のタージマハルと絶景の階段井戸チャンドバオリド いいとこどり周遊6日間(クラブツーリズムの旅行名) Ⅰ
「ついに行ってきたインドの地」、とは言ってもこの広大な国土のほんの一分、インド北部 車で5~6時間の三角点3都市。
今回の旅行ほど異例づくめとハプニングの多い海外旅行は今までなかった。10~12人のこの旅行会、今回で8回目、アジア・東南アジアはほとんど行った。インドが候補となった時、新聞広告で見つけた6~7万円の「格安インド」を私が提案、その旅行会社は「てるみくらぶ」。今回のインドへ出発前後大変な騒ぎとなっていた。
旅行会の母体の飲み会で私の「てるみくらぶ」案はあっさり却下された。否決理由は「いくらなんでも安すぎる」、「大手ではないので現地で異例のことがあった場合、対応できるか?」など。私たちがこの会社のインド行き企画にのっていたとすれば出発は1月頃、まあ、何とか無事行けたかも知れない、しかし何かの都合で3~4月に延びていればあの報道通りになっていたかも。
今回の旅行会社はクラブ・ツーリズム。いままで8回のうち日本から添乗員がついていったのは、読売旅行のミャンマーに次いで2度目、査証が必要だったのはカンボジア・ミャンマーに次いで3度目。インドのビザ申請は結構難しいとのことで、今回は初めて旅行会社に依頼することになったが、申請書に添付する写真もパスポート用写真ではなく、大きさ背景などかなり厳しかった。
出発の3日ほど前、(伊丹からインドまでついて行ってくれる)添乗員からの電話、「インドではお腹を壊す人が多いので、その薬も用意してほしい、下痢止めも必要かもしれないが、暑さとカレー料理ばかりで胃腸が弱る、整腸剤・胃薬を用意した方が良い。また食欲が落ちることを考え、レトルトの粥・カップラーメンなどを、熱中症対策として粉末のポカリスエットなども持って行った方がいいのではないか、ホテルには歯磨きが無いかも知れない」等々。
1日目(3/30)
旅行に合わせ体調に気を付けたつもりが出発前から風邪気味、「まあ暑いところへ行くから風邪など吹っ飛んでしまうだろう」、これが間違いであったことに後で気が付く。
この旅行会では伊丹→成田経由は初、関空なら私の住む橿原からリムジンバスに乗れば一直線であるが伊丹へは上本町から高速バス。空港まで約1時間はほぼ同じ。
今回の航空会社はANA,伊丹→成田は1時間20分で15:30着。成田空港17:35発でデリーへ到着は23:50。時差が3時間半あるので実際の飛行所要時間は9時間45分、伊丹成田間を合わせると約11時間の長旅、10人の平均年齢は72歳強、果たして「みんな元気に日本の地を踏めるか、運命やいかに」と、全員の無事を祈って成田空港内で出発式恒例の乾杯。
デリー空港からは現地の旅行会社のバスでデリーのホテル「プレミア・イン」まで。まずこのホテルでありえない展開に。粗末なホテルなのは仕方がないとしても、3人部屋にベッドが2つ。最近はカミさんと旅行しても一緒に寝ないのに、一つベッドで爺が二人寝ることに・・・・。
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エンターテイメント№160 2017.2月 ドラマ
「大河ドラマ「篤姫」
韓流ドラマにはまっていた頃がある、李明博の竹島上陸以降観る気がしなくなっ てしまったが。
そのころから長編ドラマは放映時に観るのではなく録画したものを一気に観てしまうことが多くなっている。とはいっても日本のドラマは韓流に比べ、NHKの大河ドラマ以外それほど長いものは少ない。
私の中の大河ベスト1は、2008年NHK大河第47作「篤姫」。歴代視聴率ベスト10の中にも第5位に入っている。ちなみにベスト5、 1位は44作目の「義経」、2位に43作「新撰組!」、3位「龍馬伝」、4位「独眼竜政宗」、そして5位にこの「篤姫」が入っている。原作は宮尾登美子
天璋院(てんしょういん) / 篤姫(あつひめ、天保6年12月19日(1836年2月5日) – 明治16年(1883年)11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった人物。
実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫である。
幼名は一(かつ、もしくは、いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となった)。Wikipediaによる
このドラマ、幕末から明治に至る激動の時代を実に分かりやすく描いていて、全作50話をあっという間に観た。この時代のことは司馬遼太郎の「龍馬はいく」「幕末」「新撰組」や他の作家の作品もずいぶん読んだ。
物語のあらすじなどは歴史上のことで周知のこと。ここでは幕末の 志士たち とその豪華な俳優陣について書いてみたい。主演の篤姫を演じた宮崎あおい、皇女和宮の堀北真希両美人女優も良かったが、篤姫相手役小松帯刀を演じた瑛太も好演。助演陣もドラマの初章は、島津斉彬の高橋英樹、終盤の勝海舟役北大路欣也、二人の重厚な演技がドラマを引き締めている。生みの親 島津忠剛の長塚京三、母お幸の樋口加南子、嫁いだ将軍家での奇行が目立つ徳川家定役堺雅人、家定の母本寿院高畑淳子と芸達者揃い。
幾島役松坂慶子、帯刀の妻となるお近 ともさかりえ、大奥女中稲森いずみ、御年寄岩井友美・高橋由美子、家定側室志賀の鶴田真由、天璋院の女中 中村メイコ ・中嶋朋子と済々 。
他にも幕末の有名人坂本龍馬 、西郷隆盛、幕閣老中阿部正弘・井伊直弼、徳川慶喜、徳川家茂、大久保利通 名前を挙げればきりがない。
もう一度は観るだろうと50話のDVDは手元にある。
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エンターテイメント№159 2017.1月 Trip&Tour (18-3)
憧れのヴェネチアン・マカオに泊まる
WE LOVE香港・マカオ4日間 Ⅲ
3・4日目 +5日目早朝
朝食は「糖朝」、この店は香港でも結構有名らしい。香港スイーツブームの火付け役として、2002年に日本にも進出、今も根強い人気を誇っているのが『糖朝』とか。どこの国のガイドブックにも必ず載っている超有名店で、観光客で行列ができるなんてことはザラとのこと。
ワンタン麺とマンゴープリン。麺類(特にラーメン)大好き人間の私、ここのワンタンメン結構うまいが、単品とプリン、ちょっと物足りなく思ったが朝食なら、まあ、こんなものか。
ここからは高速船で約1時間、初体験マカオへ。狭いマカオであるが世界遺産がかなりあると聞いて楽しみにしていたマカオ歴史地区を観光(約1時間半程度)。「聖ポール天主堂」「ナーチャ廟」「旧城壁」、「聖ドミニコ教会」「仁慈堂」「セナド広場」「民政総署」など、まあ、どれもスケール的に大したことはない。途中ポール天主堂のところで熱々のエッグタルトがあ配られ、昼食はビュフェ方式のポルトガル料理店へ。
その後マカオタワー周辺散策、タワー入館料は140香港ドルとちょっと高い。展望台で目にしたものは、高所恐怖症の私には信じられない光景、それはバンジージャンプとスカイウォーク。こんな高いところから飛び降りるなんて正気の沙汰ではない。スカイウォークもそうだ、なんぼ命綱がついているとは言え、柵のないタワーの外を歩くなんて信じられない。夕食はマカオ料理。そのあと高級ホテル群の夜景を見て期待のザ・ヴェネチアンマカオリゾートホテルへ。
バスの中の現地ガイド(言葉が巧すぎると思ったらもと日本人)に入った情報によると台風が香港を直撃しているとのこと。明日の香港発の飛行機の遅延・欠航が決定的とのこと。早朝のTV放送で一番強い警報が出ると、マカオの一切の交通手段がストップとのこと。予定されていた噴水ショーなど夜のオプションもすべて中止。
ヴェネチアンホテルに着いて驚きの連続、とてつもなく広い建物に、ぎっしり世界中の有名ブランド店が集まった一つの町とカジノとホテルが同居。館内の地図をもらったが方向音痴でない人(私は極端な方向音痴)も簡単には自分の部屋には戻れない。明日の天気を気にしつつ70平米あるというスイートルーム(といってもここは全室スイート)へ。その後大の賭け事大嫌いのカミさんを説得して一番楽しみにしていた「カジノ」へ。
ここのカジノもかなりの広さ。10年ほど前に行ったロッテホテルJeju(済州)とはまた違った雰囲気。Jejuのカジノは同国韓国人の入場を禁止しているためか入場のときはたしかパスポートの提示が必要だったし、中に入ってみるとアルコール飲料など無料で、服装なども結構フォーマル、室内はかなり高級感が漂っていたような気がする。マカオのここは広くてフリー、だれでも気軽に入れる大衆娯楽場と言う感じ。ルーレットなどやりたかったが、監視付なのでカミさんにも分かりやすいスロットへ。
HKドル紙幣がそのままスロット機へ、絵柄が揃ってもコインは出なくて溜まったコイン数が表示されるだけ、終了したらボタンを押すとレシートが、これで現金に引き換えられる。「ビギナーズラック」というのは確かにある、彼女が座る機械は「出る出る」、その分私の方のスロット機で直ぐなくなる。
翌朝、予定通りであれば早い朝食の後、マカオから高速船で香港へ、夜の8時には関空へ戻れる予定であったが。早朝、ガイドから連絡があり、マカオ行フェリーの就航は難しいとのこと。ホテルは3時ごろにはチェックアウトとなるが、連絡があるまでホテル近辺館内にて足止め。
取り合えず「何か食べよう」ということになったがどこへ行っていいかわからず、マクドナルドで。 こんな絢爛のリゾートでマクドランチとは!。
いつ入るか分からない連絡があるまで時間をつぶすしかなく、昨夜のカジノで少しだけスロット、あとはヴェネチアンの二階へ。ここ館内にはヴェニスの町に倣って運河にボートと世界の有名店が目白押し。カミさんには興味深々ながら店員が確保(台風による交通ストップで)できないのかほとんどの店は閉店状態。夕刻5時ごろになってようやくガイドから6時ごろ高速船が動くだろうとの連絡が。
ガイドに見送られ(パスポートがないとガイドは入関できない)乗り場へ。次の船がどうなるのか、乗り遅れた船のキップがそのまま使えるのか?、など係員などに聞いても言葉が通じない、30人ほどいた立ちっ放しのツアーの人たちも茫然。そこで私のスマホが大活躍、外にいるガイドに連絡、彼からの通話を係員に聞かせ何とか次の船に乗ることに。
フェリーは動いても今日中の飛行機に乗れる可能性は少なく、場合によっては香港でもう1泊の可能性も。それは良いとしても次の日もANAに乗れる保証はないとのことで最終便に乗れるよう急ぐしかない。何とか間に合った日本向け最終便は羽田行きにて機中泊、早朝羽田から伊丹へ。パグ犬ゴン太の預け先には連絡済であるが老犬につき心配。香港では返還後最大級の台風だったとのこと、こんなハプニングは二度とごめんである。
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エンターテイメント№158 2016.12月 Trip&Tour (18-2)
憧れのヴェネチアン・マカオに泊まる
WE LOVE香港・マカオ4日間 Ⅱ
2日目
ホテル出発の後、市内レストランで鮑入り中華粥の朝食後、市内観光とショッピングへ。まずはレパルスベイ&天后廟。海に面した香港で最も美しいビーチといわれる、淺水灣(レパルスベイ)。香港島の南に位置するレパルスベイは、11月頃まで海水浴を楽しむことができ、多くの人で賑わうビーチ。ここは、ハリウッド映画の名作『慕情』(1955年 ジェニファー・ジョーンズ、ウイリアム・ホールデン)の舞台としても大変有名です。ずいぶん前に観たが海水浴シーンがあったのを覚えている。
次は近くにある航海の守り神、天后(媽祖)を祀る天后廟。香港だけでも100箇所ほどあらしいが、その中で一番華やかなのは、ここレパルス・ベイの天后廟。天后以外にも、観音様や福の神、縁起物が集まるスポット。レパルス・ベイの南東端にあったお土産屋さんで我が苗字を入れた縁起物の札を注文、後でバスに届けられた。
このころからまた大粒の雨に。
香港コンベンションセンターを経て、2階建て路面電車の乗車体験、電車の外は雨粒が荒く窓に容赦なく吹き付ける。そのあと香港島からスターフェリーに乗り込み対岸の夜景を動画に収める、風が強く後で見たビデオには大きな音。
行きたくもない宝石店や寝具店にてショッピング、寝具店では高い枕を数個注文する同じツアーの人もいた。
昼食は広東式飲茶料理、飲茶と言うより中華料理、前に食べた香港式のそれとは違った感じであまりおいしくはない。
その後オプショナリーまでしばし自由時間。「ペニンシュラでアフタヌーンティーを」と思ったが、雨のなか少し歩かなければならないので、近くにあったコンチネンタルホテルのロビーでしばし休憩。
DFS Tギャラリアにもよったが、ガイドによると、香港は酒・たばこ・自動車・ガソリン以外はすべてノータックス。デューティフリーの意味はあまりないとのこと。
午後からのオプショナル香港歴史博物館やSKY100、夜の女人街散策などすべて中止。夕食は北京ダック付の北京料理、この後の「シンフォニーオブライツも中止か」と思いきや、少し雨も上がってきたので開催されることになった。
「シンフォニー・オブ・ライツ(幻彩詠香江)」とは。香港政府観光局が2003年から毎晩8時から13分にわたり開催しているナイトイベント。ビクトリアハーバー100万ドルの夜景に、香港島、九龍半島の主要な高層ビルから放たれる色とりどりのレーザーが加わり、世界中から訪れる観光客を魅了し続けているらしい。
また、このシンフォニー・オブ・ライツはギネス世界記録でも「世界最大の永続的な光と音のショー」として認定されているという。少々悪天候であったが九龍側から観た香港島の夜景をしっかりと動画に収めることができた。
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エンターテイメント№157 2016.11月 Trip&Tour (18-1)
憧れのヴェネチアン・マカオに泊まる
WE LOVE香港・マカオ4日間
カミさんとの海外は‘09年の台湾以来7年ぶり、この時が彼女の還暦祝い。その間OBの飲み会仲間では毎年アジア・東南アジアへ。旅行はカミさんも女仲間と行く方が断然多い、今回は1年遅れのサファイア婚(45年)記念。
1日目
10月18日、いつものように我が家の最寄駅大和八木からリムジンバスで関空へ。ギリギリは嫌なので待ち合わせ時間より1時間近く早く着くバスに乗る。これが正解、空港はいつもに比べてかなりの混雑、高校生などの修学旅行が多いからか。今回の航空会社はANA、関空発10:55の定刻を少し遅れて離陸。香港(チェクラップコク)国際空港には14:00(現地時間、大阪は15:00)頃着陸。
香港は3度目、前の2回は‘91年と返還直前の’97年。何れも旧の空港、世界一離着陸の難しいと言われたカイタック(啓徳)空港。新しい空港は比べようのないくらい大きく広い。実はこの大型ハブ空港は乗り継ぎで一度経験がある
、’15年 OB飲み会マレーシア旅行で、行き復り併せて10時間以上空港内に滞在している。
香港は言うまでもなく中華人民共和国の特別行政区(一国2制度)、1997.7.1 イギリスから返還された。九龍半島・香港島からなる1,104Kmという狭い地域に人口707万人、世界でも最も人口密度の高い地域の一つである。
したがって、やたらと住居費が高く、ガイドの話では初任給約15~16万円に対し、家賃は郊外でも2LDK 20万円。多くの人は5万から8万円のエレベーターのない1Kに住んでいるらしい。貧富の差が大きくジャッキー・チェンなどリッチな人は九龍の大邸宅に住んでいるという。
人種は中国系で93%を占め、言語は広東語。中国標準語である北京語はほとんど通じないそうである。ちなみに日本人は14,000人ほど住んでいるらしい。
気候は温帯夏雨気候に属しており、通貨は香港ドル。現地ガイドに依頼した両替は10,000円につき702香港ドル(1香港ドル=14.25円)。
空港には当然ながら旅行会社現地ガイドが待っていた。このツアー、関空からだけかと思いきや成田や福岡空港などからもきており、全員で50人余り、3台のバスに分乗してまずは市内見学、1881ヘリテージに着いたころから雨に。「1881Heritage」とは、九龍の観光メッカ、尖沙咀の新しい名所旧跡として注目を 集めているところとか。香港の歴史的価値の ある建築物をそのまま利用し、ホテル、高級ブティック、レストランなどが入っている。
前出のOB仲間の旅行、雨季に行ってもほとんど雨に遭ってない。カミさんも自称大の晴れ女、「大降りでも必ず止む」と豪語する。次の観光「バードガーデン」に到着のころは大降りというより土砂降り、それでも何人かは降りて観光に行ったがほとんどの人はバスの中。次のフラワー市場においても同様、傘など役に立たなくてずぶ濡れになるのが目に見えていて行く気がしない。
それにしても今夜のメインイベント「ビクトリアピーク」の夜景が気になる。前回は持参したカメラがバカチョンで夜景の写真が巧く取れなかった。重いのと大きくて邪魔になるのを承知で夜景撮りたさにNikonの一眼レフ持参。
夕食の四川料理の後、ビクトリアピークの山頂獅子亭展望台に着いたころ雨は小止みに。しかし空は厚い雲、夜景は見えるには見えたが残念ながら素晴らしい写真は無理。
このあとホテルに着いたのが11:00頃だったか、朝5時起きで19時間、疲れた。ホテルは九龍にあるペンタホテル、割と新しく32階建て695室もある、大きなホテル、口コミ情報などでも評判は悪くなかったが、客室はかなり狭い。フロント階のエレベータ前は中国人客で身動きが取れないほど、その喧しき事この上なし。
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エンターテイメント№156 2016.10月
スポーツ音痴が観た最近のスポーツ
リオパラ ; メダル数だけでどうとか言うつもりはないけれど、我が国の結果、金ゼロ、メダル合計24。対して中国、金107、計239、この差はいったい何なんやろ。政治体制の問題?人権問題をよく批判される中国なのに。東京までにはなんとかせにゃ、主催国がこんなんでは世界の笑いものになる。
相撲 ; 稀勢の里またしても見事に期待を裏切ってくれた。この大関ほど期待してない時は結構頑張るのに、いよいよと言うときは必ずこけてくれる相撲取りをあまり知らない。2敗となってあきらめかけたが10日目まで何とかその2敗を守っていたので小さな期待が少しは生まれていたのに。この間(かん)、先場所まであんなに弱かった寝屋川出身のカド番大関豪栄道がえらく強なって全勝できていた。
この時点で、私としては13勝2敗で稀勢の里が豪栄道に勝って優勝、豪栄道準優勝となったら、今場所後稀勢が横綱、来場所豪栄道が綱取り、二場所連続で和製横綱誕生などと考えた。案の定と言うかやっぱりというか稀勢は綱取り振出となってしまった。しかし来場所豪栄道が何とかしてくれるかも知れない、そうなれば大阪フィーバー間違いなし。今場所は遠藤もよく頑張った、この人も期待をしたらろくなことないんやけど・・・・。
バスケット 「B.LEAGUE ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ」2016.9.22開幕。スポーツ音痴の私、100%ルールが分かっているのはゴルフと野球と卓球(中学・高1でやってた)ぐらい。サッカーもラグビーもテニスもバレーボールも国際試合だけのにわかファン。ましてバスケットは1試合終いまで観たことがない。
プロ野球 ; 今年のセはカープがぶっちぎりの優勝。逆にパは日ハムの大逆転。二刀流大谷の活躍はそれこそ神っていた、10勝・3割・20ホーマー、こんなやつおれへんで。しかも優勝決める試合を1-0で抑えるなんて。
それにしても巨人菅野の勝ち運のなさはハンパない(この言い方やっぱりおかしい?)。ほんまやったらもう15勝ぐらいしていてもおかしくないのに。好投していても援護射撃がない、勝ち越して勝利投手の権利を得ても後の投手が総崩れ、今シーズンこんな試合を何度見た事か。「菅野ってチームメートから嫌われているのとちゃうか」と思ったくらい。今年のGは坂本の首位打者狙い以外何もない、なんとかしたれや打撃陣、救援陣。
もひとつプロ野球 ; 三浦大輔 引退。 私の高校の後輩、同窓で数少ない一流。12.07.29 「おもいつくままに」№ 122 ハマの番長vsジャイアンツ ご参照ください。
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エンターテイメント№155 2016.9月
リオ五輪から東京へ
治安の悪さや競技会場工事の遅れなどで開会さえ危ぶまれたリオデジャネイロオリンピック。終わってみれば素晴らしい大会となった。開会式も閉会式も感動的だったし競技における不手際もほとんどなかったようである。我が国としては史上最高だったメダルの数もさることながら、その内容にも見るべきものが多かった。
金12、銀8、銅21、計41。
金メダル獲得は 競泳 萩野公介、 柔道 大野将平、 体操団体 内村航平・加藤良平・田中佑典・山室光史・白井健三、 柔道女子70k級 田知本遥、 男子90k級 ベイカー茉秋、 体操男子総合 内村航平、 競泳女子200平 金藤、 レスリング 女子フリースタイル48k級 東坂絵莉、 レスリング女子フリー58k級 伊調馨、レスリング女子フリー69k級 土性沙羅、 バドミントン 高橋麗華・松友美佐紀高松コンビ、 レスリング 女子フリー 川井梨沙子。
開会早々から競泳で日本人二人が同じレースで金と銅。この二人、幼少のころからのライバルで、インタビューを聞いていても二人の良い関係が伝わってきた。体操男子、団体と総合の内村、期待通りの金。柔道は全階級でメダル、御家元の面目は大いにたつこととなった。
銀メダルで印象的というより驚いたのはなんといっても陸上男子4×100m。個人トータルのタイムから見て奇跡としか思えない。アンカー ケンブリッジの走りもお見事。
テニス界の世界一桁ランカー錦織、実力は十分。4大大会などの活躍もいいが、やはり日の丸を背負ってのオリンピックで結果を出してくれたことが嬉しい。女子でも喜んで出ていたのに「蚊が怖い」と言って出なかった日本のトッププロがいたが、少し残念だ。
銀でもう一つ、卓球男子団体、正直ここまで来るとは思えなかった。
最後にもう一つ、勝って当たり前の吉田沙保里、主将と言う重責も背負っての今大会。勝負の世界負けることもある、いくら期待が大きいからと言って銀でも立派、そこまで謝ることはない。
銅メダルで2件、1つはウエイトリフティングの三宅、お父さんとよく似たなにか懐かしい気もするあの顔であとがないところでよく挙げた。
最後に卓球の愛ちゃん、この選手ほど日本人みんなに(中国や台湾でも大人気らしい)愛されている人はいないだろう。泣き虫だったあの頃、台にも届かないような小さい時から卓球に打ち込む姿は頭から離れない。その福原が生意気盛りの15歳を優しくリードする立派な女性に成長した。自分自身は勝てなかったが彼女がいない団体のメダルはなかっただろう。
感動をありがとう、次は東京。
【リオデジャネイロ=共同】国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長はリオデジャネイロ五輪の閉会式前日の20日、メインプレスセンターで大会を総括する記者会見を行い、南米初開催となった五輪について「象徴的な、記憶に残る大会になった。厳しい社会問題を抱える中でもスポーツを通して連帯と結束の力を示した」と評価した。
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Trip&Tour (16-4
エンターテイメント№154 2016.8月
湯快リゾート 粟津温泉
毎年行く(昨年は2回)旅行会の楽しみの一つは毎月ある飲み会で、いったん払った会費が戻ってくることである、これが結構多額になることが多い。行くところがいつも海外なのでツアーの費用以外の飲み食いや観光の費用が予想しにくいこともあって、多めに集めることになる。「出したカネが戻っても」と思うかもしれないが、一回出したものはそれで終わり、戻ってくるとなんか得をしたような気になるのは不思議なものである。
「4月のベトナム中部の旅」後の飲み会で、余った金が配られると同時に一部が集金された。「何で?」と思っていると、「次は国内1泊」とのKさんの一言で粟津温泉旅行が決まった。
新大阪発のバスでわれわれ10人含め約30人、一路北陸路へ。温泉は久しぶり、現役銀行員のころ支店単位の慰安旅行はたいてい温泉旅館の宴会だった。そんなこともあってか近隣の温泉には大抵行った。多かったのは白浜か伊勢か、はたまた芦原か加賀近辺だったろうか。石川県は輪島などにも行ったが粟津温泉は初めて。
「余ったお金で」ということで、いつもは高級旅館に泊まる人も、「湯快なる温泉旅行」を一度は行ってみよう」と言うことになった、私にとっても初めての湯快リゾート。
新規に旅館を建設するのではなく、廃業したり競売にかけられた物件を安く買い取るいわゆる「居ぬき出店」で初期投資を抑え、部屋の案内や布団引き(引いてあった)、部屋食などなくして仲居さんの人件費を極力抑え、低価格化を行ったビジネスモデルである。
夜は宴会などと言う雰囲気には程遠かったが、夕食・朝食ともに和洋中、デザート、ご当地メニューと種類も豊富で多彩、ビュフェ方式とはいえ当たり前のことではあるが、ホテルの外国のバイキングなどとは違って刺身やにぎり寿司など和食が充実していた。お風呂を出たところには、マッサージ機や背中をローラーする器具などが置いてあり無料で堪能できた。
翌日は帰るバスの時間までを、オプション料金を払ってバスで金沢へ。まずはキンピカの金箔工芸のお店へ。そのあと久しぶりの兼六公園をしばし散策、当然ながら桜の花も紅葉もなかったが池に映る新緑が目に染みるようだった。
時間の関係で金沢城公園は急ぎ足で通り過ぎ、おなかのすいたところで金沢の台所近江町市場へ。市場の中にある和食の店で海鮮どんぶりかお刺身定食で乾杯。朝チェックアウトしたホテルへ戻って帰りのバスへ。解散場所新大阪では例によって1泊2日の反省会を駅の居酒屋で、それにしてもまあ、よく飲む旅行会ではある。
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エンターテイメント№153 2016.7月 Trip&Tour (16-3)
ベトナム中部満喫の旅6日間 Vol Ⅲ.
中部の大都市ダナン拠点で、リゾートの浜辺と古都の雰囲気を満喫
5・6(最終)日目
バイキング朝食のあと、2連泊のセンチュリーリバーサイドホテルをチェックアウト。本日は3日目に行かなかったところのフエ市内観光。午後から観光予定のカイディン帝の墓所や、トゥドゥック帝廟へ行く前の自由時間、「じっとしていても」ということで私たちだけでホテル周辺を散策することに。外国へ行ったら「市場」が面白いということで、一行11人は街で地図をもらって地元の市場を目指す。
東南アジア独特の横断歩道とは言えない「危ない事この上ない」歩道を渡ったり、バイクの群れをかわしながら目的地へ。地元の人に聞いても教えてはくれるもののうまくは言葉が通じない。歩いても歩いてもそこへたどり着けず、集合時間まであまり時間がなくなり途中で引き返すことに。
最初にに訪れたのはトゥドゥック帝廟、フエ王朝と呼ばれる阮朝4代目のトゥドック帝は歴代の中で最も在位が長かったと言われていました。この帝廟はもとトゥドゥック帝の別荘で、この敷地内で帝は狐と戯れていた逸話があるという。トゥドゥック帝の死後、ここは墓所として改築されて現在に至ります。廟内には皇帝を祀っている寺院と、トゥドゥック帝の墓があります。
トゥドゥック帝の在位期間に造られたので、どんな目的でこの廟が建設されたかはいまだはっきりは分かっていませんが、王宮とは別に上記のとおり長期間滞在用の別荘地として造られたというのが通説らしい。
次の観光はベトナム中部の都市フエ(Hue)の郊外にあるカイディン帝(啓定帝=けいていてい=1925年没)の墓所。啓定帝(1885.10.8~1925.11.6)はベトナム阮朝(グエンちょう、げんちょう)はベトナム第12代の皇帝。諱(いみな)は阮福宝嶹(Nguyễn
Phúc Bửu Đảo)、後に阮福晙(Nguyễn Phúc Tuấn)と改めた。13代続いた王朝の最後から二人目の王の墓。 在位期間6年と短いが、石作りの立派なもの。
フエは、1802年に成立し1945年まで存続した阮朝(グエン朝)の都が置かれた古都で、同市郊外には歴代の王の廟(びょう)がある。12代のカイディン帝廟もその一つで、フランス植民地時代の1920年から12年の歳月をかけて建設された、中国と西洋の折衷(せっちゅう)様式の廟である。
約6年かけて建築したこの墓所はフランスの影響を受けていたためか、ヨーロッパ風の高い塔が建っていました。しかし、中国文化も色濃く残っていて、帝廟の前には中国秦の始皇帝陵にあるような(観てないけど)兵馬俑のような兵士の像が立っていました。帝廟内部は写真や遺品、カイディン帝の像などが展示されていました。
航空便の時間に合わせるためかなり早い夕食の後、来るときはホーチミン乗り継ぎだったがベトナム航空機乗継便にてフエをあとにハノイへ。そして関空へ着いたのは6日目の朝6:40.早いので恒例の反省会はなしで各自我が家へ。
あとがき
この旅行記、最初に「首都ハノイへも最大都市ホーチミンも行かず中部だけ」と書いたが、台湾でいえば「台北も高雄も寄らず」みたいなもの。どの国でも大都市と地方都市では格差があるが、途上国では特にその差が大きいように思う。しかし、このやたら南北に細長い国の「真ん中」へ行ってみて思ったのは、前に行った首都ハノイ程成長国独特の熱気は感じなかったが、リゾート地だからからか道路も広く、意外に清潔でいい気分にさせてくれるところだった。
商売熱心?な現地女性ガイドの言うことには「ここダナンは今後大きく発展する」のは間違いなく、今のうちに「土地を買うこと」をしきりに勧めていた、両大都市に比べれば相当お買い得だと。ここは社会主義国なので土地そのものの所有は認められていないが、「借地権」は50~100年認められているという、まあ、買ったと同じようなものなのだろう。
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エンターテイメント№152 2016.6月
Trip&Tour (16-2)ベトナム中部満喫の旅6日間 Vol Ⅱ.
中部の大都市ダナン拠点で、リゾートの浜辺と古都の雰囲気を満喫 3日目、4日目
3日目
朝食バイキング、今日も前回ハノイへ行ったとき食べ損なったフォーと、野菜・果物をたっぷりとった後、連泊のコテージ風リゾートホテルをチェックアウト。
本日午前はダナン市内観光。先ずはチャンバ遺跡からの出土品を展示するチャム彫刻博物館を見学。
チャンパ王国(ベトナム語 Chăm Pa、占婆192-1832年)は、ベトナム中部沿海地方に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされるらしい。中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだという。
あとフランス統治時に建てられたダナン大聖堂見学。ホテルや商店が建ち並ぶチャンフー通りの一角にそびえるダナン大聖堂。頂には鶏の像があることから「鶏教会」とも呼ばれ親しまれている。ミサの時間には教会内部に入ることができ、聖歌の冊子を貰うことができるとのことでしたが、今回は外から内部を覗きこむだけ。教会外回りのマリアやイエスの石像や、窓から垣間見える内部のステンドグラスもきれいだった。
午後からベトナム中部の都市フエへ。
途中立ち寄った海岸でちょっとしたハプニング。砂浜を歩いているとバスケットのようなものをぶら下げた老婆に声をかけられ、日本のコイン500円硬貨や100円玉を差出された。身振り手振りで分かったことは千円札に替えてくれとのこと。
日本人観光客にもらったか何かを売ったか?。たまったコインがお札でないと現地通貨に替えにくいからだろうと勝手に解釈し1000円札を出して500円玉2枚もらった。今度はYさんに100円玉を10枚出して替えてくれと言う、1000円札をだし、代わりにもらったコインを数えてみると8枚しかない。落語の「時そば」のように巧みに2枚ごまかされた。Yさんは(200円ぐらいくれてやってもええけど)だまし方が気に食わない」と追いかけて行って2枚取り返した。
フエは19世紀から20世紀にかけベトナムに存在した阮朝の首都。フエ市内観光はまずはグエン朝王宮太和殿、王宮門、フラッグタワーの見学。あと全員シクロ(人力自転車)に乗って王宮周辺から市内観光。グエン朝では、清朝の紫禁城に倣ってこの王宮を造営した。元紫禁城には現在故宮という呼称があるが、こちらには特に何の呼称もない。ちなみにベトナムではフエを「故都フエ」と呼ぶ。「古都」ではなく「故都」。確かに「故」にも「古い」という意味があるが、微妙にニュアンスが違う。
夕食はフエの宮廷レストラン。宮廷料理の食事前、全員当時の王族の衣装で記念写真。この旅行会のコンダクターYさんはその体格の良さから王様の衣装や王冠が良く似合った。出てくる料理の彫刻?した野菜、見た目にはいいのだが「食べないように」との条件。王さまが食べたという料理も見た目とは逆にあまりおいしいものではなかった。
食事中無形文化遺産となっている宮廷雅楽「ニャニャック」。笛、バンジョウのような弦楽器、琴のような一弦楽器3人で演奏、音調が日本の笙や楽太鼓を演奏する雅楽に似てなくはない。ヴォーカルはスタイルが良く髪の長い女性歌手。ショーの後CDを売りに来たが1枚だけ買ってあとはコピーすることにした。
ホテルはフエ市内のセンチュリーリバーサイドホテルで連泊。
4日目
朝食後世界遺産フォンニャケバン(PHONG NHA-KEBANG )鍾乳洞へ。本日の観光は1日かけてこの鍾乳洞だけ。前回ベトナムへ行った際、ハノイのハロン湾にもあったが、「鍾乳洞なんてどこでもよく似たものだろう」、と思いつつバスに乗り込む。
フォンニャケバンに行く途中、バスの車窓から濃い緑の田んぼのところどころに直径10メートルぐらいだろうか丸い小さな池のようなものがあった。ガイドの説明ではベトナム戦争時の砲弾の痕とのこと。こんな「静かな田舎にもベトナム戦争の爪痕」を想う。
フォンニャケバンに着いて20人乗り位の女性が船頭さんのボートに乗りこみソン川をさかのぼりました。
フォンニャケバン国立公園(PHONG NHA-KEBANG)、はベトナムのクアンビン省にある国立公園。2003年7月3日、ユネスコによってベトナムで5番目となる世界遺産に登録された。4億年以上前にできたとされるアジア最古のカルスト地帯。国立公園面積は、約86,000ha。公園のほとんどが原生林で、専門家によると568種の植物876種の動物が生息しているという。ここには大小約300の洞窟があるらしいが、ほとんどがまだ詳しく調査されていない。我々が見学したフォンニャ洞、他ティエンソン洞、ヴォム洞など一部が開発されているだけらしい。
洞窟の中まで舟で行くのが珍しく、舟から観る両岸の鍾乳洞もいいが、上陸してみる鍾乳洞内は非常に美しく幻想的だった。 英国の王立地理学会の報告によると、フォンニャ洞の長さは7,729m、その美しさ、大きさ、広さなどから最高の評価を与えられているという。
日本も含め、いままで数か所の鍾乳洞を観たが此処のは格別、往復8時間かけて行った甲斐があった。
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エンターテイメント№151 2016.5月 Trip&Tour (17-1)
ベトナム中部満喫の旅6日間 2016.4.19~24 Vol Ⅰ
中部の大都市ダナン拠点で、リゾートの浜辺と古都の雰囲気を満喫
1日目
このメンバーの海外旅行も回を重ねて(私が参加してから)7回目。今回は旅行会初めて同じ国2度目の訪問となった。最初は2013年4月、「アンコールワットとハロン湾」の組み合わせでベトナムはハノイだけ。今回は首都のハノイも最大都市ホーチミンも乗り継ぎだけで、ベトナム中部のみのというツアーとなった。メンバーは昨年9月のミャンマーから一人増えて11人。
関空発10:30、ベトナム航空でホーチミン乗り継ぎ中部の都市ダナンへ。今回は関空であまり時間がなく、空港内でのいつもの出発乾杯式はなし。
5時間30分でホーチミン。ここでの乗り継ぎ時間もあまりなく、あわてて国内線でダナンへ。着いたのは現地時間で17:20、日本との時差は2時間。
ベトナム社会主義共和国は南北1650km、東西600kmと南北に長く、一番狭いところでは東西に50kmしかない。人口9.250万人、国家主席チャン・ダイ・クアン、首相グエン・スアン・フック、通貨はドン、10000円が約200万ドンに。
ベトナム中部最大の都市ダナン。ハノイやホーチミンと違って流れる時間がゆっくりしていて居心地のいいのがダナンの魅力とか、まわりに自然も多く、またホイアン、フエ、ミーソンへも近く中部観光の拠点としても最高の場所だということです。
空港からバスでホテルへ、Sandy Beach Non Nuoc Rezortホテルは、レストランなどあるメインの施設からカートで独立したコテージ風の建物へ案内してくれる、中長期滞在用に向いたリゾートホテル。プライベートビーチに映る朝日は素晴らしかった(Topページ)。
2日目
「ダナン市内観光のあと古都ホイヤン」の二日目の予定を少し変更して、市内観光を翌日に回してまずはホイヤンへ。ベトナム中部クアンナム省の都市で、ダナン市の南方30キロトゥボン河の河口に位置する港町。ここにはあの有名な来遠橋(日本橋)、がある。17世紀ごろには日本人街があり、少なくとも300人以上の日本人が住んでいたという。日本人が作ったとされる来遠橋は年代を感じるものであった。
午後からチャンバ王国の聖地ミーソンへ。その遺跡の入り口付近で劇場のようなところに案内され、チャムダンスショー。このダンスはタイやカンボジアやインドネシアのあの古典舞踊とは少し違った軽やかでチャーミングな踊りだった。
ミーソン遺跡ベトナム中部クアンナム省にある古代チャンパ王国の聖なる遺跡。1999年ユネスコの世界遺産に登録された。ベトナム戦争当時の爆撃によって破壊されたせいかタイのアユタヤ世界遺産遺跡群のようなスケールはないが、建造物の色や形が酷似して見えた。遺跡群のなかで結婚式場のPRにでも使うのか、若い美男美女のカップルの撮影が行われていた。
夕食の後ホイヤンのランタン祭りへ。ベトナム中部の世界遺産の町ホイアンでは、毎月満月の夜にランタン祭りが行われている。旧暦の14日はわれわれが訪れた新暦4月20日、満月になるこの日は、ホイアンの家々は電気が消え、提灯の明かりだけが町を照らし、地元の人たちや外国人観光客で賑っていました。観光後ダナンの素敵な連泊のリゾートホテルへ。
本日の反省会はやめて、明日夜本館レストランで行うための予約をしたあとそれぞれの部屋へ。
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エンターテイメント№150 2016.5月
TVドキュメント(1) BSジャパン
日本を動かした5人のキーパーソン Ⅳ
戦後70年、敗戦から復興を果たした日本。
そこには復興を後押しした5人のキーパーソンがいた。
(前月「おもいつくままに」から移動)
私が契約社員で再入社した銀行で、パナソニック出身の人とビジネスマッチングの仕事で机を並べたことがあった。他の会社を卒業した人もおり、我々はみな相手の会社を「御社」と言った、だが彼の電話では「お会社さま」。
この言い方には当初は少し違和感を覚えたが、彼の誠実な勤務態度といい、この「お会社さま」という言い方といい、やはり人には長く育った出身企業の「会社柄」が出るのだろうと感心したことがあった。経営の神様松下幸之助さんの「仕事に対する取り組み方や、お客様を大切にする気持ちの影響がこの人にも現れているのか」と思ったものである。
私が銀行のあと転籍した家電量販の社長は、当時NEBAの会長をされていた。NEBAとは今はもうないが日本電気大型店協会という業界団体。当時ヤマダ・コジマ・ヨドバシなどはこの団体に入ってなく、いわば家電業界のアウトサイダーだった。幸之助氏は「これらの電器屋には売りたくない」と頑張っていたと聞いた。メーカー主導で販売体制を確立していたナショナル電器(当時)としては、仁義なき安売りで業界秩序を乱してほしくなかったのだろう。
これまで大企業は別として多くの経営者に会う機会があった。会社員として入り事業を拡大したり、経営の危機を乗り越えた中興の祖と言われる経営者も偉いが、大小にかかわらずオーナー社長は雇われ社長より偉い、創業者はもっと偉いと私は思った。
その「偉い」をすべてもち、一代で世界的メーカーに育てあげたこの人ほど「偉い」経営者はあまりいない。
松下幸之助、1894年11月27日―1989年4月27日。パナソニックを一代で築き上げた経営の神様。和歌山県出身。創業は鶴橋でソケットの製造販売、事業拡大で野田の大開町で松下電気器具製作所を創業。
私が銀行の支店で4年間、肌着の会社で3年間計7年も勤務した地、大阪福島野田阪神近くにある小さな公園に記念の碑があって、野田へ行ったときにはたまに寄る。
主な著書・関連書籍に「松下幸之助成功の金言365」「松下幸之助から未来のリーダーたちへ」「松下幸之助「一日一話」 仕事の知恵・人生の知恵」「松下幸之助夢を育てる」「松下幸之助の哲学 いかに生き、いかに栄えるか」「松下幸之助経営回想録」「松下幸之助若き社会人に贈ることば 自分の幸せは自分でつくれ」「松下幸之助 人を活かし育てるプロの教え」「松下幸之助日々のことば 生きる知恵・仕事のヒント(上・下)」「松下幸之助 私の行き方考え方」「松下幸之助発想の軌跡 経営の道・人間の道」「松下幸之助・経営の真髄」「松下幸之助散策・哲学の庭」「松下幸之助の予言 三度の不況を乗り切った日本人の信念」「松下幸之助は語る 情熱がなければ人は動かん」「松下幸之助が今の時代に伝えたいこと」「松下幸之助に学ぶ経営学」など多数。
松下幸之助の名言集より
失敗の多くは、成功するまでに
あきらめてしまうところに、原因があるように思われる。
最後の最後まで、
あきらめてはいけないのである。
石の上にも三年という。
しかし、三年を一年で習得する努力を
怠ってはならない。
いかにすぐれた才能があっても、
健康を損なってしまっては
十分な仕事もできず、
その才能もいかされないまま
終わってしまいます。
では健康であるために
必要なことは何かというと
栄養であるとか、
休養とかいろいろあるが、
特に大切なのは心の持ち方です。
命をかけるというほどの熱意を持って
仕事に打ち込んでいる人は
少々忙しくても疲れもせず、
病気もしないものです。
こけたら、
立ちなはれ。
「天は二物を与えず」と言うが、
逆に「なるほど、天は二物を与えないが、
しかし一物は与えてくれる」
ということが言えると思う。
その与えられた一つのものを、
大事にして育て上げることである。
すべての人を
自分より偉いと思って仕事をすれば、
く大きな仕事ができるものだ。
現在与えられた今の仕事に
打ち込めないような心構えでは
どこの職場に変わっても
決していい仕事はできない。
たとえ平凡で小さなことでも、
それを自分なりに深く噛みしめ味わえば
大きな体験に匹敵します。
とにかく、考えてみることである。
工夫してみることである。
そして、やってみることである。
失敗すればやり直せばいい。
どんなに悔いても
過去は変わらない。
尽くすことである。
人の心は
日に日に変わっていく。
そして、人の境遇もまた、
昨日と今日は同じではないのである。
悪い時が過ぎれば、
よい時は必ず来る。
おしなべて、
事を成す人は必ず時の来るのを待つ。
あせらずあわてず、
静かに時の来るのを待つ。
人類の生命は無限。
だからその未来は無限。
だから、まだまだお互いに
進歩しなければならないのである。
冷静ほど、
大事なことはないのである。
失敗すればやり直せばいい。
やり直してダメなら、もう一度工夫し、
もう一度やり直せばいい。
知識はなくてもいいんや
熱心ささえ
誰にも負けなかったら
必ず道は開ける。
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エンターテイメント№149 2016.4月
TVドキュメント(1) BSジャパン
日本を動かした5人のキーパーソンⅢ 田中 角栄
戦後70年、敗戦から復興を果たした日本。そこには復興を後押しした5人のキーパーソンがいた。
私の読書歴43「天才」 石原慎太郎著 幻冬舎刊 2016.1.20第1刷 2.29第6刷
戦後の復興を後押しした5人のキーパーソン、前々回は5人のうち、芸能界の2大スーパースター石原裕次郎と美空ひばりについて、前回は野球界のスーパースター長嶋茂雄について書いた。今回は稀有な天才政治家 田中角栄元首相を書いた慎太郎の本。
ハードカバーには
・反田中の急先鋒だった石原が、今なぜ「田中角栄」にひかれるのか。
・石原慎太郎が田中角栄に成り代わって書いた衝撃の霊言!
・幼いころから身につけた金銭感覚と類稀なる人間通を武器に総理にまで伸し上がった男の知られざる素顔。 ・・・・とある。
良きにつけ悪しきにつけ、この政治家を現わす言葉に、曰く 今太閤、コンピューター付ブルドーダー 、日中国交正常化井戸を掘った人、日本列島改造論本を書いて実践した人、ロッキード事件の被告。
首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取ったりもした。
昭和39年、44歳で大蔵大臣に就任したさい、大蔵省幹部を前にしての挨拶
「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。・・・・・・一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室にきてほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。・・・・・・できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上。」
人はなぜこれほどまでにこの政治家に惹かれるのだろうか。
「天才」、この小説は田中角栄一人称で書かれている、慎太郎氏が角さんに成り代わって。
慎太郎氏は 「長い後書き」のなかで、次のように締めくくっている。
いずれにせよ、彼の先見性に満ちた発想の正確性を今日の日本の在りようが歴史の現実として証している。端的に言って政治家個人としての独自の発想でまだ若い時代に40近い議員立法を成し遂げ、それが未だに法律として通用しているという実績を持つ政治家は他に誰もいはしまい。
いずれにせよ、私たちは田中角栄という未曽有の天才をアメリカという私たちの年来の支配者の策謀で失ってしまったのだった。歴史への回顧にもしもという言葉は禁句だとしても、無慈悲に奪われてしまった田中角栄という天才の人生は、この国にとって実は掛け替えのないものだったということを改めて知ることは、決して意味のないことではありはしまい。
以下 次号
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エンターテイメント №148 2016.3月
TVドキュメント(1) BSジャパン
日本を動かした5人のキーパーソンⅡ 長嶋 茂雄
戦後の復興を後押しした5人のキーパーソン、前回はその5人のうち、芸能界の2大スーパースター石原裕次郎と美空ひばりについて書いた。この二人の歌や映画は人々に様々な影響を与えたことは間違いない。
スポーツ界にもすごいスーパースターがいた、いや今もいる巨人のON。
世界の王、人間的にも記録もすごい人ではある。しかし長嶋、記録では王に負けてはいるが、長嶋はやはり記憶に残る選手ではある。長嶋の愛されるゆえんはその勝負強いバッティングや、華麗な守備にあるのは当然として、やはりそのパーソナリティにあるのだろう。
数々の長島語録とエピソード
・「うーん」「ええ」「いわゆる」「ひとつの」「ややもすると」
・打撃論「打つべきときに、打つべき球を打つ」
・アメリカでマクドナルドを見て「アメリカにも進出しているんだ」
・キャンプでアメリカへ「こっちの子は英語はうまいなあ」
「こっちは外車ばかりだねえ、さすがアメリカだ」
・セコムのCMやってるのに泥棒に入られる、翌日株価暴落。
http://2chart.fc2web.com/cho.html 長嶋茂雄伝説から
・昭和34.6.25 プロ野球初めての天覧試合 阪神戦。9回裏4対4、あと何分かで天皇陛下が帰られる、そのときサヨナラホームラン。
・43.5.11 対中日戦 2死2塁敬遠のサインにツーボールの後、バット を持たず打席に立つ。
・サードの守備について、ショートへのボールもとって遊撃手の広岡に怒 られた。
・神宮球場のヤクルト戦、連れて行った長男一茂を球場に置き去りにして 帰ってしまった。
愛すべき人 長嶋。
以下 次号
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エンターテイメント№147 2016.2月
TVドキュメント(1) BSジャパン
日本を動かした5人のキーパーソンⅠ ひばりと裕次郎
戦後70年、敗戦から復興を果たした日本。
そこには復興を後押しした5人のキーパーソンがいた。
2015年8月5日放送のこの番組、今年になってその再放送を観た。その5人とは、美空ひばり、石原裕次郎、長嶋茂雄、田中角栄、松下幸之助。彼らが果たした役割とは。
昨年は戦後70年ということもあって、昭和史を振り返る番組が多かった。綺羅星のごとくいた多くの有名人の中でこの5人。この昭和から平成の70年は私自身の人生そのものでもある、私が選んでも間違いなくこの5人、よく選んだものだと思う。そしてこの5人のエピソードの間へ次のようなイベントや事件を織り交ぜていく。コメンテーターのあの大女優 司葉子はこの5人ともに少なからず縁があったという。
(1)皇太子さま・美智子さま 世紀のご成婚秘話 (2)未解決「3億円事件」…事件記者が明かす真相とは!? (3)V9戦士・柴田勲が見た長嶋茂雄の仰天エピソード (4)「沖縄本土復帰」昭和47年5月15日、あの日の混乱ぶりは… (5)妻・石原まき子が語る裕次郎の素顔 (6)バブルという時代…なぜバブルは起きたのか (7)小泉劇場、国民はなぜ「小泉」を求めたのか (8)秘蔵映像「松下幸之助×田原総一朗」対談
彼らが果たした役割とは。彼らが残した“言葉”にスポットを当て、その時々の世相・流行・エンターテインメントを織り交ぜながら、戦後70年の歩みを振り返る。戦後70年の歴史の中で、人々の心に明かりを灯し、復興を後押ししたキーパーソンがいた。美空ひばり、石原裕次郎、長嶋茂雄、田中角栄、松下幸之助。――。
私はジャイアンツファン、関西なのに何故?ってよく聞かれる、理由を言うと話が少し長くなる。
中学生のころ、ラジオから流れる裕次郎の歌が好きだった。「俺は待ってるぜ」(S32)、「錆びたナイフ」(S32)、「男の横丁」(S33)、「口笛が聞こえる港町」(S33)。映画が見たくても吉野の山奥には映画館はなかったが、高校生になって学校があるその小さな市に8つも映画館があった。そのなかの高田キネマは日活の3本建が良くかかっており、石原裕次郎の映画は必ず観た
いつのころだったか(S34)その裕ちゃんが「セバンゴーサン」で始まる(男の友情 背番号3)、弟分の長島を応援する歌を唄った。そのころは、周りの友人たちも阪神ファンが多かったが、大好きな裕ちゃんが好きな選手だからと、気が付けば長嶋のいる巨人のファンとなっていた
美空ひばりについていえば、彼女の若いころはなぜかあまり好きではなかった。こましゃくれた感じと言い、二卵性のステージママがいたり、どうしようもない弟がいたり・・・・それでも歌は大概知っていた。あるとき「悲しい酒」(S41)を聞いていて、何かこの人が背負っている「悲しい人生」が見えてくるような気がした。そして大歌手で大女優で、何不自由ないはずの彼女が可哀そうに思えたのである。
この番組を見てひばりを慕う人のなんと多い事か、実は気配りのできる素晴らしい女性だったのだ。
この戦後二大スーパースター、奇しくも52才であの世の人となった。辞世の曲、裕次郎「わが人生に悔いなし」、ひばり「川の流れのように」。
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エンターテイメント№146 2016.1月 私の読書歴 42
上総の貧しい農村に生まれたあいは、糸紡ぎの上手な愛らしい少女だった。18歳になったあいは運命の糸に導かれるようにして、ひとりの男と結ばれる。男の名は、関寛斎。苦労の末に医師となった寛斎は、戊辰戦争で多くの命を救い、栄達を約束される。しかし、彼は立身出世に目もくれず、患者のために医療の堤となっていきたいと願う。あいはそんな夫を誰よりもよく理解し、寄り添い、支え抜く。やがて二人は一大決心のもと北海道開拓への道へと踏み出すが・・・・・・。幕末から明治へと激動の時代を生きた夫婦の生涯を通じて、愛すること、生きることの意味を問う感動の物語。 裏表紙より
高田郁(かおる)の小説はこれが初めて、その後、ドラマにもなった「銭二貫」を読んだ。
主人公の夫、関寛斎という人は司馬遼太郎など多くの作家によって題台とされた実在の人物である。その偉大とも思える人物が「婆はわしより偉かった」と言った言葉が残っているという。
「先生(あいは夫をこう呼ぶ)、長崎へお出でませ」。「幾度も無駄な話はするな。私は他人の懐をあてにして留学などしない」という夫の言葉を聞き、あいは厳かに告げた。「ならば、私を離縁してくださいませ。初太郎とスミと大助を連れて、このまま家を出ます」「先生はコレラ禍の江戸へ行かれる時、私に仰いましたね。自分は強い意志を持って医師になったと、そうであるなら,何故その意思を貫こうとなさらないのですか」
苦労に苦労を重ね医師として功成し遂げ、徳島藩主蜂須賀家の御典医まで上り詰めた寛斎は、古希(当時は文字通り古来稀な年齢だったろう)を過ぎ、使命感に揺さぶられ未開の地(蝦夷)北海道開拓へ行く決心をする。
「あい」の健康を心配し、一人で旅たつはずが、病身の妻も「連れていってくださいな、私も一緒に。きっとお役にたちますよ、田畑仕事は、先生よりも私の方が上手ですからね。「あい」と妻の名を呼ぶと、寛斎は顔を歪める。その双眸に盛り上がる涙を零すまい、と寛斎は唇を引き結んで堪えた。
北海道に来たものの札幌で病床に就いていたあいが、夢にまで見た斗満(とまむ)の地は夫の手で開かれて、今は足寄郡陸別町となっている。
「栄達を求めず、清貧に明け暮れ、ただ自分の求める理想に向かって生きる夫を支え尽くした「あい」、本を読みながら目は潤みっぱなしだった。
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エンターテイメント№145 2015.12月 Trip&Tour (15-3)
魅惑のミャンマー5日間 (4、5日目)最終回
いきなり自動車天国?の国だった
4日目 朝、同室の旅行会の長老Hさんと海の近くまで散歩してみようと外出。海岸はそう遠くはなかったが、貨物船の船着き場なのか大型のクレーンが林立しており、浜へは出られそうになかった。今回の旅行でやりたたかったことの一つ、「この国の人たちの生活と、ふれあえたら」との思いで、早朝の庶民の市場見学に切り替え。市場と言っても何の設備もなく幅4~5メートルほどの道端に鶏の足や、大小様々の魚、野菜果物、そして衣類や雑貨が並ぶ。野菜の切れ端などはそのまま道路へ放り投げている人もいた。
何か買うものはないかと探していると、日本で見るものとは違う形の、一房に14~15本ぐらいついている短いがかなり太めのバナナ。買おうと思っても言葉が全く通じないので、1,000チャット(約120円)紙幣をだしてバナナを指差すと500チャットお釣りを。バナナにはひもをつけて持ちやすいようにしてくれ、値段を確認したわけでもないのに、ちゃんとお釣りもくれ素朴さが覗えた。
3連泊のホテルに戻って朝食の後荷物をまとめてロビーへ。このロビーで気になったのが各国の標準時間。ニューヨーク、ロンドン、お隣のバンコクは当然としても、香港、ソウルの時計がかかっている。かなりの親日と聞いていたのに「ソウルがあって東京がないのは解せない、何で?」と抗議しようと思ったが大人げないと思い止めた。
本日の観光はヤンゴン市内見物。昨日行ったバゴーと同じようなものが多い、まずはヤンゴンの中心部にあるシュエダゴンバゴダ、伝説によれば、約2500年前に建てられたとされているが、考古学的研究によれば6~10世紀の間に建立されたと考えられている。地震によって幾度も破壊されており、現在の仏塔の原型は15世紀ころ成立したらしい。
シュエダゴン・パゴダの境内は、東西南北の門から入り、エレベーター上がった上部にある。境内は高さ約100メートルの黄金のストゥーパを中心に60余りの仏塔や廟が林立する空間になっており、供物や土産物を売る店も数多い。なお、ミャンマーでは寺院の境内には裸足で入るものとされており、このパゴダも例外ではなかった。
境内には生まれた日の各曜日の守り神(仏?)があり、そこへお参りすればご利益があると聞き、それぞれが自分の生まれた曜日(生年月日から調べ、あらかじめ知らされていた)の仏壇?へ。私の場合日曜日、この曜日が、9人のうち4人と一番多かった。
次にはチャウダッジーバゴダ、昨日バゴーにもあったが巨大な寝仏、高さ17.7m、長さ65.8m、寝釈迦の足裏には108個の仏教宇宙観図絵が描かれている。ヤンゴンで一番大きな涅槃仏だそうである。
そしてバゴダの最後はスーレーバゴダ、高さ48m、今まで見たバゴダはみな丸いものであったが、この寺院のバゴダは8角形。約2000年前、仏陀の聖髪を納めるために建てられたと伝えられている。
途中マーケット、チャイナタウンを通り、ミャンマー料理の夕食。このレストランでハプニング、食事も終わりになりかけたとき、突然部屋が真っ暗に。旅行前、添乗員から「懐中電灯を」と伝えられていたため、スワ停電?と思ったとき音楽が流れ、電気がともると大きなケーキが運ばれて来た。このツアーの客の中から2名の名前が呼ばれ、我々の仲間からは髭のSさん、他の旅行客から老年女性。大きなケーキに2人でナイフを入れ、みんなにふるまわれた、添乗員のプレゼントだという。
夕食の後、この旅最後のイベント、昼間行ったシュエダゴン・バゴダのライトアップされたところで記念写真。
5日目 その後空港へ、帰りも北京経由で(機中泊)関空にはPM1時前到着、機中で今回初参加のメンバーで2番目に若いHさんと「きつねうどん食べたいなあ」異口同音。関空内「がんこ寿司」の寿司とうどん、ビールで解散会、やっぱり日本の食い物はいい。
あとがき
旅行前、この旅行で制覇できると思っていた世界3大仏教遺跡はどれだったのか?。実は途中で今回の安いツアーには入っていないことが分かり少しがっかり。該当は(ミャンマー)マンダレー管区にあるバガン(行政区画の一つ)、そこには大小さまざまな「パゴダ」と呼ばれる仏塔が3,000棟以上も点在しているという。
旅行後11月8日、この国では歴史的な総選挙が行われ、アウン・サン・スーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)が圧勝した。旅行中3大仏教遺跡ではなくて「何のために?」と思ったりもしたが、大統領より偉くなるスー・チーさんが軟禁されていたという家の前にも立ったし、これからかなりなスピードで成長していくと思われるこの国を見ておくことができて、「行ってよかった」と思うこのごろであります。
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エンターテイメント№144 2015.11月 Trip&Tour (15-1)
魅惑のミャンマー5日間Ⅱ(いきなり自動車天国?の国だった)
ホテルにて朝食後「ビルマの竪琴」の舞台となったバゴーへ、バスで約2時間。
街には阪急バスが走っている。他にも日本語を塗り替えもせず走らせている車を多く見た。この国は、ほとんどが中古車なのでしょうが、車社会でした。90%以上が日本車、そのまた90%がトヨタ。他の東南アジアのようにそれほどバイクを経ず一気に自動車社会になったようで、道路や信号などインフラが追い付いていないように見えた。
先ずはミャンマー南部の古都バゴーにある仏教僧院チャッカワイン僧院見学。市街中心部 を流れるバゴー川沿いに位置し、1,000人以上の僧侶が修行する同国最大規模の僧院として知られる。見どころは11:00ごろから始まる食事風景だという。僧侶たちの入浴、食事の準備から食事風景まで見学できる。時間が来ると合図の音に合わせ大勢の修業僧が集まってくる。なかには小学生くらいにしか見えない子供もいる。
大きな鍋から皿に盛ったご飯を、観光客からも喜捨できるようになっている。私見であるが神聖な修行風景を、入浴や食事の風景まで観光資源とするのはいかがなものかと。また、托鉢というのであれば、私財を喜捨すべきで用意してある食事を、観光客らから僧たちに渡していくのを托鉢風景というのはよくわからない。
次に行ったとこはシュエモード・バゴダ。バゴー王朝の栄華を偲ばせる巨大な仏塔。8~9世紀ごろ当初23mの高さだったのが、再建を繰り返すうちに114mとミャンマーで最も高いバゴダとなったという。そのあと、シュエターリャウン寝仏。ミャンマー最古といわれる寝釈迦像、全長54.88m、高さ16m。そしてチャイプーンバゴダ。4面仏像が東西南北をむいている。
夕食は中国人経営と言われる日本食レストラン。
あした4日目は機中泊となるので、1,2泊目には遅くてできなかったこの旅行恒例の客室内飲み会。近くのスーパーで仕入れてきたビールと北京空港で買ってきたウイスキーで乾杯。(ヤンゴン3連泊)
エンターテイメント№143 2015.10月 Trip&Tour (15-1)
魅惑のミャンマー5日間(いきなり自動車天国?の国だった)
(1・2日目)
我々10人前後の旅行会で「こんどはミャンマー」と決まったのは、この国には世界3大仏教遺跡の一つがあるということだった。あとの二つ、カンボジア アンコールワット遺跡(AngkorWat 2013.1)、インドネシア ボロブドゥール遺跡(Brobudur 2014.1)は観光済みだったからである。このことについては後に詳しく説明する必要があります。
ミャンマー連邦共和国は東南アジアに位置する共和制国家。1989年までの名称はビルマ。インドシナ半島西部に位置し、北東に中華人民共和国、東にラオス、南東にタイ、西にバングラデシュ、北西にインドと国境を接する。面積68万平方キロ(日本の約1.8倍)。行く前ヤンゴンだと思っていた首都はネピドー(「ヤンゴン=ラングーン改め」は旧首都)。通貨はチャット。人口5,100万人、人口の6割はビルマ族、他にいま難民で話題のロヒンギャ族など多くの少数民族がいる。
このツアーは我々9人を含め、24人、読売旅行としてはミャンマー行第1号だったらしい。飛行機は中華国際航空、北京経由ヤンゴン行となっている、ミャンマー入国にはビザが必要。いままでアジア・東南アジアへは十数回行っているが、日本から添乗員がついていくのは18年前行った中国以来2度目。ことほどさように辺鄙なとこへということか?。添乗員が一人当たり5,000円だけ現地通貨チャットに両替、40,000チャットくれた。このことについてもあとで述べます。
第一日目は移動のみ、関空13:50発3時間35分のフライトで北京へ、16:25(現地時間)着、日本との時差は1時間。北京での乗り継ぎの通関は結構厳重、嫌というほどボディチェックされた。空港内の3時間滞在は退屈?と思っていたが、それほどの時間の余裕は感じなかった。中国国際空港から4時間半の飛行でヤンゴン到着は深夜24時半(日本時間午前3時)。日本との時差は2時間半、ここでちょっとしたハプニング。同じツアー夫婦連れの奥さんが何かトラブル、「スーツケースが壊されている」とのことで解決待ち。ホテルへ着いたときは疲れ切っていた。(ヤンゴン泊)
2日目 チャイティーヨーへ
朝、ホテルから見た町の様子に驚く、ここは旧首都の中心街、4~5階建ての建物が建っているが、おそらく数十年も前のイギリス植民地時代(1948年独立)からの建物であろう、古い、相当使い込んでいる。
ホテルにて朝食後陸路チャイティーヨーへ。バスで4時間以上移動、両側の景色はほとんど変わらない、道もまっすぐが続く、一応高速道路。日本の1.8倍の国土と聞いたが、我が国の場合多くの島から成り立っているがこの国は大陸の一部、結構広い、いやかなり広い。
途中車窓からみる平原には、ところどころ田んぼの間に草ぶきの屋根の家があるが電柱がない。電線らしきものもない。山のふもとでトラックバスに乗り換え。ここで100円ショップで買ってきたカッパ着用。トラックバスは大型トラックの荷台に頑丈な手すりを取り付けたもの、25人くらいが乗れる。
標高1,100m以上もある山のてっぺんへ約1時間もかけて登る、登る。途中大粒の雨、「カッパ用意」の意味を理解。着いたところはかの有名な落ちそうで落ちない「ゴールデンロック」のあるところ。その岩の上に乗っかっているのがチャイティーヨーバゴダ。雨に濡れた石畳をはだしで歩く。靴も靴下もダメ、女性はストーンなどには触れない。頂上は濃霧で視界10メートル程度か。頂上なので天気の良い日の景色の良さが想像できる。巡礼者の寄付によって貼り付けられた金箔に覆われた花崗岩の巨礫の頂上に、高さ7.3mの小さなパゴダが乗っている。
帰り、トラックまでの道、地元の女性が頭の上に煉瓦を載せて運んでいる、かなりの量であるが裸足で滑りもせずせっせと運んでいる。一番年輩であるが好奇心旺盛なHさんが、煉瓦を積んであるところで自分の頭に乗せて重さを確認。
問題はこの山からの「下り」である。トラックはすれ違いもできない狭い急坂を、猛スピードで下るのである。「生きた心地がしない」とはこのためにある言葉、私たちにできることは、手すりにしがみついて振り落とされないようにすることと、ただただ運転ミスがないことを祈るのみである。ギンギラギンの落ちそうで落ちない岩、チャイティヨーバゴダ見学のためだけに、命をかけ往復10時間以上のバス・トラック旅、今日も疲れた。ヤンゴン市内でミャンマー料理(昼も)を食べてホテルへ。(ヤンゴン連泊)
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エンターテイメント№142 2015.9月 私の読書歴 (41)
「一路」 浅田 次郎 著 中公文庫
参勤行列に後戻りする道はない、とにかく泣ける上巻帯
この御殿様うつけか切れ者か、ひたすら笑える 下巻帯
そして上巻背表紙に
失火により父が不慮の死を遂げたため、江戸から西美濃・田名部郡に帰参した小野寺一路。齢十九にして始めて訪れた故郷では、小野寺家代々の御役目・参勤道中伴頭を仰せつかる。失火は大罪にして、家督相続は仮の沙汰。差配に不手際があれば、ただちに家名断絶と追いつめられる一路だったが、家伝の「行軍録」を唯一の頼りに、いざ江戸見参の道中へ!
いま、BS時代劇で連続放映中であるがドラマは観てない。この小説、上・下を読んでから録画したものを一気に観賞するつもりである。浅田次郎はこのHP「エンターテイメント」4回目の登場である。一番好きな氏の小説「蒼穹の昴」(2005.1)、とそのドラマ(2010.10)を入れたら5回目。
氏は1991年ごろからの作家活動で、1995年、「地下鉄に乗って」で吉川英治文学新人賞。このころからのファン。その後1997年、ぽっぽや(鉄道員)で直木賞、押しも押されもせぬ我が国文壇の大御所的存在となり、今年紫綬褒章まで受賞している。
主人公「一路」は十九の若さで御供頭の大役を仰せつかった。突然の事故により享年四十一で急死した父は家督を一路に譲るのはまだ先と考え、「剣を磨き学問をおさめよ」と指示。お役目のこと、参勤行軍の知識も作法も何一つ伝授してなかった。
途方に暮れた一路は藁にもすがる思いで頼りにしたのは、焼け跡から見つかった一冊の古文書。父祖が書き残した参勤道中心得だった。
御供頭心得
雖平時戦備長長無怠可相務
御大将蒔坂左京太夫様
御乗物御籠 但 必ス御手馬御替馬二匹伴ヒ
先達交渉権現様恩賜之朱槍二筋
郡役定メ御家来衆 五十徒士ヲ不下
尚 殿軍ノ騎馬武者一騎
一路は一所懸命であった。
文庫本の巻末「解説」は壇ふみ、彼女はこの中で「一所懸命」について書いている。私の「座右の銘」も一生懸命ではなく「一所懸命」。書に造詣が深かった私の現役時代の会社のトップから、色紙に好きな言葉を書いて頂く機会があり、その時揮毫をお願いしたのも「一所懸命」。
本書に上記のような御供頭心得が多く出てくる。壇ふみが「あのような古文書よくありましたね」との質問に、「ぜんぶ創作ですよ」。ことほどさようにこの作家の書くものが史実と虚構の見分けがつきにくい。
ちなみにこの小説のお殿様、西美濃 田名部郡を領分とする蒔坂左京太夫、大名でなく知行七千五百石の旗本。その実態は大名同然であることから参勤の義務を負った。徳川の直臣石高が足らぬゆえ大名には列せられないが旗本中の別格たる交代寄合という格式に落着、赤穂騒動で有名な吉良上野介殿様も同格。
権威の象徴たる殿様は神秘でならなくてはならない、家来に余計なことは言わない、言えない。
「面を上げよ」、「大儀じゃ」、「祝着である」、「よきにはからえ」。
キップがよくて人間味あふれる(馬までが) 登場人物が胸にぐっとくる。浅田小説の醍醐味がここにもあった。
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エンターテイメント№141 2015.8月 映画16
ターミネーター:新起動/ジェニシス
(2015)
シュワちゃんはオジサンになっていた
ターミネーター2を観たのは平成3年(‘91)、初めて海外に行ったとき。タイから香港行きファーストクラス(後にも先にもこれ1回きり)の機内だった。わが国内公開前で、大きなスクリーンだったことを記憶している。
このシリーズはやはりシュワちゃん、彼が演じるT-800もさることながら、このときの『ターミネーター2』から24年を経てシリーズ2度目の登場となるキャラクターT-1000の記憶も鮮明である。液体金属でできているため、何にでも変身でき、撃たれてもつぶされてもどこまでも追いかけてくるあのキャラクターである。今回はかの韓流トップスター イ・ビョンホンが演じている。
今回公開のターミネーター新機動には「ターミネーター3」以来となるアーノルド・シュワルツェネッガーが戻ってきた。将来人類反乱軍を率いることになる男の母親を闇に葬るため、未来から送り込まれた殺戮マシンのターミネーターと、同型の古いターミネーターの直接対決を描く。
2029年、人類とマシーンたちとの熾烈な戦いが繰り広げられている未来。自分を生んだ母サラの命を守るため、人類反乱軍のリーダーは信頼できる同志カイルを過去に送る。一方、機械軍は、抵抗軍のリーダーであり、驚異的な力を持つ予言者ことジョン・コナー(ジェイソン・クラーク)を生んだ母サラ・コナーを亡き者にすべく、1984年にターミネーターを送り込む。(この辺がややこしい)
カイルが守るべきサラはたくましい女性戦士に変身しており、彼女を守っていたターミネーターT800(シュワちゃん)は、彼女から「おじさん」と呼ばれていた。「I‘ll be back」あの有名なセリフも出てくる。
監督はアラン・テイラー(1・2作はェームズ・キャメロン)、およそ12年ぶりに本シリーズに復帰したシュワルツェネッガーの熱演はもとより、新たな展開が見もの。
観終わった後、いつもカミさんと話すのは「この手の映画はやっぱ米国製やなあ、金のかけ方が違う」。
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エンターテイメント№140 2015.7月
私の読書歴 (40)
「社長!銀行は上手に使いなはれ」
銀行と付き合うための10章 松場弘人著 文芸社文庫
いつもは人が書いた本の読後感を書いていますが、こんなことはめったに無いことなので、私の本の読後感を紹介させていただきます。
その1
こんばんは。藤本です。「社長!銀行は上手に使いなはれ」をネットで購入して、一気に読みました。松場さんの「私の履歴書」本当に素晴らしいと感動をもって拝読しました。銀行業を通して、メーカーを通して小売業の仕事を通して顧客の目線で仕事をされたと強く思い感じました。
経営・営業の極意には奇策はなく「原理・原則・基準・方法」だと改めて強く感じました。そのために経営計画・計画書が最も重要で「夢と希望に日付を打つこと」だと思いました。この著書の最後のあとがきは第1章から第10章の特に強く感じたことをうまくまとめられていました。最後の「本気」はいいですね・・・に加えて本心・本音・本腰・本物でした」。
主に銀行での仕事を通して豊かな人間性で社会・お取引先・会社・社員の方々に大きく貢献されたと思っております。今年(昨年)近畿大阪銀行を退社後、BMネットワークグループを起ち上げられましたが、松場さんは今迄の社会・会社での経験を生かし、持ち前のご才覚を縦横に発揮され、素晴らしいご活躍をされると私は確信をいたしております。思い感じた事をうまく表現・メールできませんが、いい著書を拝読できたと嬉しく思っております。有難うございました。松場さんの益々のご活躍をお祈り申し上げます。藤本 右近。(原文のママ)
その2
こんにちは!昨日、本購入して一読しました。私自身の銀行時代が鮮明によみがえってきました。要領よくまとめられたと感心しています。会社の幹部に読ませます。
その1の藤本さまは、某上場会社に途中入社、時を待たず実力で執行役員となられ、その後は関連会社の常務を経て社長までされた方です。現在は複数のNPO法人役員などをされ、悠々ご自適の生活を送っておられます。
その2 は地銀支店長・国際部長などを歴任、その後取引先だった会社の副社長として迎えられ、現在もご活躍されておられる大西さまです。本人様のご了解を得て転載させていただきました。
6月中旬大阪駅ルクア1100(イーレと言うらしい)9階梅田蔦屋書店に足を運びました。私の本は1,000坪もある書店のメイン通りにある格好の場所に、平積みかつ一冊立てかけてくれている。この前行ったときは40冊弱あったのがこの日は残り12冊に減っていた。売り場の人に聞くと「先週よく売れたので、追加発注するところ」とのこと。
この度の出版にあたり、メールやレターでの突然で失礼な私の本の紹介にもかかわらず、多くの方々がアマゾンへ、書店へと駆け付けいただき、これほど有難いことはありません。おかげさまで、長年没交渉になっていた方々との再つきあい?や、文書による再会など、思わぬ副産物があったこともうれしい誤算となりました。「本を出すなどばかげたこと」とも感じながら、思い切ってやったことは良かったのではと思うこのごろです。重版まであと少し、応援のほどよろしくお願い申し上げます。
最後に、なんの実績も名もない者が書いた薄い(中身は?)文庫本を、このような日本一の書店のすごい場所に平積みしてもらえることなど普通ならありえません。お世話をかけた友人Tさんにこの場を借りて再度お礼を申し上げたい、本当にありがとうございました。
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エンターテイメント№139 2015.6月
私の読書歴 (39)
「海賊と呼ばれた男」 上・下 百田尚樹著 講談社文庫
百田尚樹を初めて読んだのは「永遠のゼロ」(本欄№119(2013.10月号)。その後ちょっと興味があって「やしきたかじん」とともに彼の死病と闘った嫁サクラさんを描いた「殉愛」を読んだ。好きな番組「たかじんのそこまで言って委員会」、この番組でそれまであまり好きではなかった「たかじん」に興味を持つこととなり、出たばかりのハードカバーを手に取った。この本により家鋪家とテレビ関係者対未亡人側の泥仕合が今も続いているようだ。
百田尚樹はこの「海賊と呼ばれた男」で2013年の第10回「本屋大賞」を受賞している。昨年1月現在で上下巻累計で170万部売れたとある。読み始めた時はこの本のモデルとなった人物を知らなかった。知らずに読んだほうが面白いのではないかとも考え、あえて調べなかったが、読んでいてすぐに分かった。
1945年(昭和20年)8月15日。世界中を敵に回した、日本の戦争は終わった。東京をはじめとした主要都市は徹底的に爆撃されて瓦礫の山となり、海外資産のすべてを失って莫大な賠償金が課せられようとしていた。これから日本はどうなっていくのだろうかと、全員が途方に暮れて失意に包まれているとき、毅然と店員を集めて話す男がいた。国岡商会の国岡鐡造店主である。
わずかに残った店員を前に、鐡造は「愚痴をやめよ、愚痴は泣きごとである。亡国の声である」「日本には三千年の歴史がある。戦争に負けたからと言って、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」と訓示を述べた。
一代かけて築いた会社資産のほとんどを失い、借金を背負いつつも店員の一人も馘首せず再起を図る。出勤簿もなく定年もないこの会社は石油を武器に世界との戦いを始めるのである。
この小説が読者をひきつけて離さないのは、主人公田岡鐵三こと出光興産創業者出光佐三の人物像にある。自らの企業を個人商店という、この店主には「私」というものがない点であろう。
最近TVの番組で松下幸之助氏の実像を語る番組があった。元民主党代表で総理経験者松下政経塾出身の野田氏と上智大学の教授渡部昇一氏が松下幸之助について、「経営者ではこの人と本田宗一郎氏二人だけは他の経営者と違う、それは「私」がないということだ」と。そしてその「私心のない」最たる人は「昭和天皇」であったと。
終戦の時天皇に「私心」があったら、国民のことを第一に考えることのない人であったら、今の平和と繁栄はなかったかもしれない。
このとき頭に浮かんだのはこの本の主人公。この人にとっては、自社の利益など小さいことで、常に大所高所で「日本国」の国益を念頭に、官僚や、世界のメジャーを敵に回してでも敢えて不利な戦いに挑んでいった。そして常に熱い気持ちで社員一人一人のことを考えていた。社員(店員)たちはこの人のためには、命さえ差し出しても惜しくはない」と思ったことであろう。また実際、店員たちは死をも恐れず仕事に挑んだ。
国を愛し、国のことを思える人は偉い、この本の作者百田氏も愛国心の強い人なのであろう。
「本を出したいと考えている人は絶対読まないように」というような惹句の、百田氏の本が本屋の店頭に並んでいた。読んではないが、出版不況の中の自費出版ビジネスに乗せられる人を描いたものであろう。「何時かはクラウン」というのがあったが、やはりいつかは「自分の本」というものを出してみたかった。この度、小さい本ではあるが実現したことで「死ぬまでに」というのを一つ達成した喜びを感じています。そして多くの先輩・友人・知人そして経営者の方たちの応援があったことに感謝、感謝であります。
元札幌大学教授で作家の鷲田小弥太氏は
定年後には「読む・書く」が似合う。書くとは「余生」の生き方ではない、新しい人生を生きることだ。
書斎がなくて何の人生だ、名刺代わりに著書がなくては、この世に自分が存在した証を残す、などと書くことを薦めています。
そのための出費が「軽自動車1台以下」というのであれば「安い」と私は思う。
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エンターテイメント№138 2015 .5月 Trip&Tour (14-4)
マレーシア縦断6日間の旅 Ⅳ(最終) (2015.1.30~)
マレーシアはトイレ以外は先進国だった
5日目 ペナン島
毎月アップしている間に1月末に行った旅行から3か月経ってしまった。思い出すのに一苦労、昔のことはよく覚えているのに。
ホテルにて朝食後、ペナン島のジョージタウン観光
2008年7月にマラッカとともにユネスコ世界文化遺産として登録されたジョージタウンは、18世紀後 半、当時のケダ州スルタンとイギリス東インド会社との条約により、イギリスの植民地として譲渡され た。当時のイギリス東インド会社の総督・フランシス・ライトにより「プリンス・オブ・ウェールズ島」と名付 けられ、フランシス・ライトの居住する地区をジョージタウンと名付けられた。ジョージタウンは主にイギ リス植民地時代の建物と、様々な文化が融合した独特の町並みを今なお残していました。
先ずはコーンウォリス要塞へ、ここはペナン島北東端の海岸部にある英国統治時代の要塞。1786年、英国東インド会社のフランシス・ライト提督が最初にペナンを訪れた際に、上陸した場所に建てられたという。煉瓦造りの壁に囲まれ、海に向かって設置された大砲が要塞を守っていた。
次に涅槃仏寺院、
敷地内に一歩入ると。そこはもうタイのようだった。お決まりの仏塔と大きな鬼と金ピカの蛇がいて、 本堂には金箔をまとった全長33mの巨大な寝釈迦仏が横たわっていた。
ペナン島最大の「カピタン・クリン・モスク」は、インドの伝統的なムガール様式を用いている。裕福 なインド人のイスラム教徒カウダー・モフディーンによって、1801年建てられ、「カピタン・クリン」とい う名も彼にちなんで付けられたという。
観音寺
ペナンで一番古い中国寺院だそうで、旧正月が近いのかちょうちんがいっぱいぶら下がっ ていました。
次にバスから降りたのはペナン島水上生活村 、ここは、「姓林橋」(LIM JETTY)という19世紀中 期に中国の福建省から渡ってきた民族の子孫が桟橋を中心に集住しているペナンの中でも古い 村の一つで、高層ビルなど近代化が進む街の風景をバックに、そこにへばりつくように展開してい る集落でその落差は相当なものだと思った。
昼食は日本食、
マレーシアの他国籍料理に飽き、この旅行の食事は「もひとつやなあ」と思い、日 本の懐かしい 料理が恋しい時。ホテル・シティテルの1階にある「霧島(KIRISHIMA)へ。ほっとした時間でしたが 料理の高かった(特に日本酒)こと。「日本から来る食材です」と聞き、なるほどと納得まあ良かった 。
PM3:00からはオプショナルツアー
世界遺産ジョージアタウンをリキシャで一周。ここにはリトア ニア出身のアーティスト、アーネスカ ・ザカレビッチさんが描いた「小さな子供達と自転車」など壁画 が印象的。一周のあと、海鮮料理 の夕食。店の名前は忘れたが、その店は小さい湖のほとりに あった。おどろいたのは店の前 の水槽に泳いでいた魚と、シャコなど貝の大きさ。料理もよかった が店員も面白い娘だった。
6日目 帰国へ
早朝AM5:00、ホテルを出発し空港へ、帰りもまた香港経由。香港の空港での待ち時間は約5 時間、イスラム教国では、宗教の関係でどうしても飲む機会が少なくなる。香港では十分時間が あったのでゆっくり飲食できた。
関空へ着いたのはPM9:00、空港での反省会は無し。いつもならリムジンバスへ乗り込めば あとはわが住まいのある八木まで一直線なのだが、終バスがでたあと。5回目となるこの会の旅 行では初めてのJR→近鉄で我が家へ。
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エンターテイメント№137 2015.4月 Trip&Tour (13-3)
マレーシア縦断6日間の旅 Ⅲ(2015.1.30~)
マレーシアはトイレ以外は先進国だった
4日目 キャメロンハイランド観光
マレーシアを代表する高原リゾート地、ヘリテージホテル・キャメロンハイランドで1泊した私たちは、ホテルでの朝食後まずは朝市散歩。気候は涼しく朝は長袖のシャツだけでは寒く感じるほど。急きょ関空まで着てきたダウンのジャンパーを着ての散歩となった。
マレーシアではここでしか取れないという苺で作ったジャムや、ひまわりの蜂蜜が所狭しと並べてあり、ここで蜜蝋入りの蜂蜜を1瓶買い、朝市散歩の後紅茶農園へ。
キャメロンハイランドは駐留していたイギリス人将校が避暑地として開拓、そのためか英国式紅茶畑だそうである。
ここでは至るところでサボテンが売られているそうですが、私たちが立ち寄った「カクタスポイント」ではビニールハウスの建物の中で、大きなサボテンから小さなものまで多種多様なサボテンが大量に並べられていました。
ペナン島へ向かう途中クアラカンサーという地で、マレーシアで最も美しいといわれているウブディアモスクへ。写真撮りたがりの私にはもってこいの被写体、いろんな角度から撮りたくなるアラビアンナイトに出てきそうな魔法のモスクではあった。
きしめんのような麺料理とビュフェの昼食のあと、ブキッメラのオランウータン保護島へ。湖をボートに乗って10分ほどで保護島へ。ここはちょっとした植物園のようになっていて、オランウータン以外にもめずらしい植物などを見ることができた。オランウータンは、ロープを伝って小さな島に行ったり、われわれ室内の観光客をみて威嚇のポーズをとっているのもいた。
ペナン島で海鮮料理の夕食後いったんホテルへ。荷物を置いてオプショナルツアー、ペナンヒル夜景観光へ。標高829メートルの頂上にはモスクのほか仏教寺院・ヒンズー教寺院などがあるらしいが、我々の目的は夜景観光。かなりの急勾配をケーブルカーで、一気に登った頂上では夜になりかけていた。少しするとペナンで一番美しいとされる夜景を一望でき、一行9人は100万ドルならぬ50万ドル?の夜景?(いや90万ドルぐらいはある)をバックに写真におさまった。ヒルを下りたら予定より遅くなっていたが、有名?なホワイト珈琲を賞味してホテルへ。
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エンターテイメント№136 2015.3月 Trip&Tour (13-2)
マレーシア縦断6日間の旅 Ⅱ
(2015.1.30~)
3日目 クアラルンプール市内観光
地元の人々には「KL(ケーエル)」の愛称で親しまれる首都・クアラルンプール。
「泥川の交わるところ」という意味のマレー語を語源に持ち、1800年代に錫鉱山の発見と共に発展しました。旧中央駅を中心に広がる美しいムーア建築とペトロナスツインタワーをはじめとする近代建築と自然が見事に調和された美しい都市です。
まずは王宮、Topページの写真のとおり馬に乗った門兵と銃を持った兵が 門の前に立っていました。その人たちと記念撮影ができるが中には入れず、門から中を見ると美しい建物が見えた。門の前でパシャパシャ撮っていると門兵らに動きがあり、王様の外出?と思い、一目見ようと待っていると、逆に外からの「お帰り」だった。
13の州からなるマレーシアには、ペナン、マラッカ、サバ、サラワクの4つの州を除いた9州にそれぞれ王様が居ます。そしてイスラムを国教とするこの国で王はスルタンと呼ばれ、各州のスルタンが5年交代で国王を持ち回りで担当するというおもしろい制度なのです。ちなみにアラブ首長国連邦も同様のシステムだそうです。
王宮の後、国家記念碑、国立回教寺院(モスク)独立広場独立記念碑(;マレーシア独立戦争で命を失った兵士たちをたたえて建てられたブロンズ像)などを見学。民芸品店でのショッピングの後、マレー鉄道に乗るため駅へ急ぐ。駅の近くでチキンライスの昼食。チキンライスというのでオムライスの卵に包んでないあのチキンライスを想像していたが、チキンの塊を蒸したようなものと少しのおかず、味はもひとつ。
マレー鉄道でスリムバーまで行くとクアラルンプール駅まで乗ってきた私たちのバスが待っていた。そこからキャメロンハイランドへ、途中、原住民の集落がいくつもありました。道幅が狭い上にクネクネ道で対向車が来ると怖いくらい。道の両側はジャングルでガイドさんの話ではトラがいるという。キャメロンハイランドの紅茶畑が見えてきた。イギリスの植民地の頃、スリランカの紅茶技術を取り入れたそうです。
キャメロンハイランドはクアラルンプールの北約150kmパハン州にある高原リゾート。標高が1500mを超えるため年間を通じて気温が20℃前後だそうである。タイのシルク王ジム・トンプソンが謎の失踪をしたところとしても有名だそうである。高原の別荘地らしいホテルが建つところでバスを下車。レストランへ向かう途中日本人から声をかけられた。われわれと同じような観光客とおもいきや、長期滞在中の人であった。
夕食はマレーシア名物スチームボート、日本でいう「しゃぶしゃぶ」(でもないか)。真ん中に仕切りがある鍋に2種類のスープが入っている、辛い方とやや辛い方。具には日本のさつま揚げの薄いようなものなど、あまり高級素材は入っていないが結構おいしかった。最後の仕上げに中華?麺をいれたところは日本の鍋に似ていた。ホテルはクアランプール連泊のあとここは1泊。 つづく
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エンターテイメント№135 2015. 2月 Trip&Tour (13-1)
マレーシア縦断6日間の旅
(2015.1.30~)
1日目
このメンバーの旅行、ここ4回連続で東南アジア(昨年インドネシア、その前ベトナム・カンボジア、その前台湾)。低血圧・低体温で寒がりの私にとっては厳寒の時たとえ6日間でも暑い国へ行くのは大歓迎。
関空集合は7:30、前回インドネシアより1人減って9人、わが町から1時間に1本のリムジンバスで、空港へ、15分前に着いたらすでにお二人が。しばらくして全員そろったところで旅行会社の窓口へ。この旅の人気は添乗員顔負けの世話役Yさん、今回もお世話になります。二人で出国手続き、チェックイン、セキュリティチェックが終わるとそこはもう外国気分、飛行機の出発時間9:30まで旅の無事を祈っていつもの通り売店の生ビールで乾杯。
今回のマレーシア旅行は往復とも香港経由、まず驚いたのはチェクラップコク国際空港(赤鱲角國際機場)とも呼ばれる香港国際空港。香港へは返還前とその後の2回行っているがいずれも悪名高かった啓徳空港。この空港は前に比べて空港の中をタクシー?が走るくらい広く近代的。ここで乗り継ぎ待ち時間3時間10分。香港発16:05空路目的の地クアラルンプールへ3時間50分。
夕食は機内食、クアラルンプール到着は現地時間21:30。日本との時差1時間、宿泊ホテル「ヒルトン・ペタリンジャヤホテル」到着は予定をかなり過ぎていた。
2日目
ホテルにてバイキングの朝食後、トラピックスのツアー80人弱は2台のバスに分かれていざ出発、まずはマラッカ市内観光へ。マラッカ海峡を眺めた後、オランダ広場・キリスト教会・聖ポール教会・サンチャゴ砦・聖雲亭・ジョンカーストリート・ポルトガル広場と盛りだくさん。昼食はニョニャ料理を。その後バスはクアラルンプールに戻って夕食は中華料理。
夜、クアラルンプール市内KLタワー展望台から夜景観賞。夜景のなかにひときわ輝く世界一の高さを誇るツインタワー。展望台を降りてそのツインタワーをバックに9人の記念撮影。ガイドからこのペトロナスツインタワーは日本(のハザマ)と韓国の(サムスン系)建設会社が一棟づつ受注したと聞いた。
東南アジアの中心に位置するマレーシアは、マレー半島とボルネオ島の一部・サバサラワク州から成り立っています。国土面積はマレー半島部分とボルネオ島部分を合わせ、33万338平方キロメートル。日本の面積の9割弱の広さの土地に、日本の16%の人口が住んでいることになります。
そして国土の約60%が熱帯雨林で覆われています。人口3000万人弱のマレーシアは、マレー系・中国系・インド系、そして多数の部族に分けられる先住民族で構成される多民族国家である。ASEANの一員。
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エンターテイメント№134 2015.1月 Trip&Tour (13)
お伊勢さん参拝と三重三大味覚を味わう (2014.11.12~)
カミさんとの旅行は2009年の山城温泉以来5年ぶり。今回は長男小学生時のママ友夫婦と4人。
20年に一度行われる壮大で重要なお祭りの式年遷宮は平成25年に行われた。「神宮の建物を新しく建て直すとともに場所を遷し、さらに殿内の宝物もすべて新調するといいます。
遷宮1年後の「今年中にお参りすればご利益が」ということで、この日になった。
神宮式年遷宮の公式サイトには
継承し、繰り返されることの永遠。
伊勢神宮には常に新しくありつづける、常若の思想があります。これは、伝統的な信仰や文化、建物などが世代を引き継ぐことで永遠の生命を維持するとともに、新しい社殿に遷っていただくことで、神々から新たなエネルギーをいただきたいという気持ちも込められています。
その歴史は古く約1300年前、天武天皇がお定めになり、次の持統天皇の4年〔690年〕に、第1回の式年遷宮が行われました。それ以来、戦国時代に中断したことがあったものの、建物の様式や装束の色形、祭典の形式などのすべてが、古式のままに伝えられてきました。
第62回式年遷宮は、平成17年から平成25年まで、8年の歳月を重ねて執り行われました。とあります。
伊勢神宮は、「お伊勢さん」「お伊勢さま」「大神宮さん」などと呼ばれて親しまれていますが、正式な名称は「神宮(じんぐう)」だそうです。古くは伊勢太神宮(いせのおおみかみのみや)ともいいました。
お伊勢さん参拝の順路は、多くの場合まず外宮からというのがならわしだそうで、今回は正式なルールに従ってのお参りとなりました。
外宮参拝の前にまずは腹ごしらえ。創業明治42年、豚の名がついているのに牛肉の「豚捨」で伊勢肉の焼肉。
外宮では「豊受大明神」へ、天照大御神の食事をつかさどり、産業や食事に関する神様だそうです。
今夜のお泊りは「アルティア鳥羽」、駅にはホテルのバスが迎えに来ていた。鳥羽から乗ったバスは坂道を約10分、山の途中でホテル到着。部屋からは夕刻の鳥羽湾が見えたが、向かいの島はあいにくの裸島、砂利取りか何かで島の多くがえぐられており景観が台無し。
観光ホテルの楽しみはやはり風呂と食事、大浴場は温泉ではなかったが、露天風呂は天然温泉だった。温泉はやはり温まる、汗が引くのに時間がかかった。
最近和式のホテルでもビュフェ方式が増えているらしい。予約の時カミさんはバイキングをと言っていたが私が反対。かなり広いレストランルームで三重三大味覚と銘打った和食コース。序盤 伊勢海老中心、中盤 鮑中心、終盤 松坂牛中心で全17品。松坂牛にたどり着いたころはお腹一杯、もったいないことに半分ほど残す羽目となった。
翌朝は昨夜と同じレスランで和の朝食。前の晩結構飲みかつ食ったのにホテルの朝食はなぜか旨くて食べられる。
10時出発のホテルの車で鳥羽へ、ここからJRで五十鈴川駅、駅からタクシーで内宮へ。
皇大神宮は、内宮(ないくう)とも呼ばれており、御祭神は皇室の御祖神であり、私たち日本民族の大御祖(おおみおや)の神でもある天照大神(あまてらすおおみかみ)です。
天照大神は、初め歴代天皇のおそば近くでおまつりされていましたが、垂仁天皇26年(約2000年前)、現在の五十鈴川上流に、「大御神の御心に叶った最も美しい永遠の宮処」としてお鎮まりになったそうです。
日頃は無信心な私であるが、久しぶりの参拝でおごそかというか清々しい気分となりました。
内宮参拝の後はおかげ横丁へ、「どこかのお店で昼食を」と話しながら散歩しているうち、赤福本店の赤福餅(お茶付き)や、ひもの塾で焼き魚の試食、歩きながら松阪牛のコロッケ、みたらし団子ななど食べるうち、お腹がいっぱいとなってしまいました。
毎年大晦日が近づく通勤電車ではお伊勢さんへの初詣のポスターを見かけます。我が家から特急で1時間余りでいける、いつかは初詣にもと思っています。
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エンターテイメント№133 2014.11月
Trip&Tour (12-2)
ソウルの居酒屋を探索するの旅 vol 2
2日目
AM 8:00ホテル出発、韓国(トラピックスの?)のツアーは「ホテルで朝食」というのは少なく、朝早く出て街中(なか)の食堂での朝食となることが多い。韓国100選レストラン「神仙ソルロンタン」で朝食、粥など韓国の平均的な朝食であるとのこと。
この国では食事処でも飲み屋でも必ずキムチと3種ほどのナムルがつく、食べ放題というのもあり、なんだか得したような気分、朝食後南漢山城へ。
今回の旅、初めての観光地はここだけ。それもそのはず今年7月に世界遺産に登録されたばかり。
南漢山城(ナムハンサンソン)はウィキペディアによると、京畿道 広州市 河南市 城南市に広がる南漢山にある山城。行政上の住所では広州市中部面山城里である。丙予胡乱の際、仁祖が入城して清と対抗した場所である。1950年代に李承晩大統領によって公園化されたのち、現在、道立公園に指定され、多くの市民の訪ねる場所となった。2014年にはUNESCOの世界遺産リストに登録された とある。
地元の人も登山や観光に訪れる有名スポットで、山のてっぺんまで城壁が続く。多くの家族連れやトレッキングの人でにぎわっていた。かなりの坂で結構歩いたつもりでも、まだ相当後がありそう。脚痛で他の人に迷惑をかけてはいけないと思い途中でリタイア。悔しくもあったが4人の中では一番年上なので「無理せんとこ」と引き返し、出発点で待つことにした。
その後昼食の石焼ビビンバを食した後、バスは世界遺産水原(スウォン)華城に向かう、ここも3回目につき書くのは割愛。観光後ソウル市内へ。
市内観光は例によって明洞散策の後、この繁華街にあるスーパーで買い物、あと免税店へ。夕食は市内のレストランで「プルコギ」を賞味。あと夜の飲み会があるので、1人前だけで追加しなかったが結構量もあり、肉は旨かった。夕食後昨日と同じくホテルへもどり、夜の居酒屋探しに向かった。早朝散歩の際見つけた日本語が通じそうな店に向かったが、(朝と昼では景色が違うのか)見つけることができなかった。仕方なく昨夜の飲み屋街に向かった。かなり混んでいたが最も庶民的な屋外の飲み屋を見つけ、地元の人たちに交じって空いていた席を確保した。
ここでも昨夜と同じくまったく言葉が通じないし、メニューなども無い。日本語で注文していると、同席の少し日本語が分かる30代ぐらいの男の人が、おぼつかないながらも我々と会話をし、注文を取り次いでくれた。多くの人が囲んでいる鍋料理を注文したが、「それはあなたたちには辛すぎるよ」と忠告してくれたが、旨そうなので注文。確かに辛かったが美味ではあった。
2泊3日の短い旅であったが、触れ合った韓国民はみんな親切で対日感情は決して悪くはなかった。
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エンターテイメント№132 2014.11月 Trip&Tour (11-1)
ソウルの居酒屋を探索するの旅 vol 1
毎月第2金曜日、鶴橋の居酒屋に集まる二金会と称する飲み会がある。メンバーは昔支店で一緒に仕事をした人たち40代~50代と、定年後、職場を共にすることになった初老の数人。現在、63歳ぐらいから70歳まで。それぞれ異業種で職務を全うした人たちである。
ご存知のように鶴橋には焼肉はじめ、韓国料理や、韓国飲み屋が多い。いつも集まるところは和風居酒屋であるが、たまに国際商店街のなかにある韓国飲み屋にいったりもする。そんな初老のメンバーで「本場の韓国居酒屋へ行ってみよう」ということになった。たまたまトラピックスの感謝祭セールで2泊3日、食事が8回もついて25000円(サーチャージは別)という超格安な旅行を見つけ、4人で行くことになった。
もともと韓国の文化や食べ物が好きだったので、いままでに4度訪れているが、2012年以来行ってない。日韓関係もすこし雪解けモードになっている今、「韓国国民の反日はどうなのか」を直接感じるためにも。
第1日目
関空発 9:30、ひと飛びでそこはソウル、 午前中にはインチョン(仁川)空港にいた。海外へ行くときはいつも「現地通貨への両替をどこで」と考えるが、毎年行っている東南アジア旅行などの経験で、大体着いてからバスガイドに依頼するのが正解のようである。
前回のレートは正確に覚えてないが、今回は1万円につき91000ウオン(ガイドがおまけで95000ウオンくれたが)。何年か前には12万ウオンぐらいあったように記憶している。
簡単な機内食も出たが、早速ソウルについて市内のレストランでの昼食は選べるチゲ、4人ともキムチチゲを注文、やはり日本で食べるのよりかなり辛かった。昼食後は世界遺産「昌徳宮」、ここは3回目。そのあと寄った免税店はソウル1のシーラ(新羅)。ここでカミさんから頼まれた化粧品を買うため売場を目指した。
店内は前回行った時の落ち着いた雰囲気はまったくなく、人の多さと騒々しさに驚くことになる。目的のものを買うのに相当の時間待たされた。その理由は、もうお気づきかもしれませんが中国人。ここでもブランド物や化粧品を買いあさる中国人が喧しかった。
あとは民芸品店へ寄って夕食、本場のカルビはおいしかった。帰りのバスでガイドから例によってアカスリなどオプションの薦めがあったが、我々の目的は夜の居酒屋。初めは明洞か南大門の屋台を考えていたが、ホテルのあるインサドン(仁寺洞)にも結構飲み屋があると聞いて、ホテルへ着いてから行くことにした。
インサドン(仁寺洞)は、韓国の首都ソウルの鍾路区にある。仁寺洞のメイン ストリートには書道・骨董品など伝統工芸品や伝統茶屋が集まり、一歩路地に入ると昔ながらの韓屋(
ハノッ)を利用した韓定食店やマッコリが飲める居酒屋がひしめいていた。ホテルはその近くにあり、ソウル1の繁華街明洞からもそう遠くはない。
4人は街を歩きながら飲み屋を探したが、比較的きれいな韓定食店らしいところへ入った。ここでは日本語や英語の表示が一切なく言葉も全く通じない、身振り手振りで話しても初めは飲みたい酒さえも注文できなかった。そのうち、メニューを持ってきたので料理は中身がわからないまま注文し、やっとビールやジンロもきた。料理は海鮮鍋をイメージして注文したものの、鍋の中身はいままで口にしたこともないような、豚肉のなんちゅうたらいいのか・・・・。
このあとコンビニ(ホテル前の)に寄って寝るだけ。このホテルイビスアンバサダー仁寺洞はオープンして間がなく、きれいだったし、繁華街の近くにあるので便利で良かった。
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エンターテイメント№131 2014.10月
ドラマ TBSドラマ「99年の愛」
キャスト&スタッフ
出演 ; 草彅剛、 仲間由紀恵、 松山ケンイチ、 寺島咲、 川島海荷、
中井貴一、 泉ピン子、 イモトアヤコ
八千草薫、 上條恒彦、 岸恵子、 大泉洋、 小林稔侍、 笹野高史、
片岡愛之助ほか
キャスト ; 脚本 橋田壽賀子、 音楽 千住明、 演出 福澤克雄、
制作著作 TBS
仲間由紀恵が結婚、このニュースを巷の年頃の男性にインタビューしているテレビの場面があった。「ショックで・・・」とか、「ボクの由紀恵が!」とか、この女優の人気がうかがえる。われらの世代吉永小百合の結婚の時のショックに似てなくもない。お相手は穏やかな年配の男性であることも共通している
裕次郎ファンの私には、石原慎太郎の小説をドラマ化した「弟」で、伴侶石原まき子(北原三枝)を演じたことも印象に残っている。二人とも長い髪が魅力的であった。
その仲間主演のドラマを観た。相手役は草彅剛。TBS開局60周年特別企画と銘打った大作。脚本は橋田壽賀子。
今は見なくなって数年経つが、長いものは100話も200話もある韓流に嵌っていたころから、連続ドラマは毎週や放映の都度見るのでなく、DVDなどに録画したものを一気に見る癖がついている。
このドラマは2010年11月に制作、2時間もの五夜連続で放送されたものをDVDに収めていた。
我が国にもう少しましなドラマが多ければ、韓流ドラマなど見なくてもいいのだが、いまのTV番組は低俗なバラエティばかりで普段見るものがない。その点、久しぶりに見ごたえのあるものを観た。
「99年の愛」Webでの紹介文
99年前一人の男が海を渡った。・・・・アメリカへ渡った日系移民が、働くため、生きる ために人種差別や戦争による逆境・苦悩を乗り越え生き抜く家族の「愛の物語」。脚本家・ 橋田壽賀子が自身の生涯のテーマでもある「戦争と平和」というテーマで描く最後の作品と して、世代を超えて現在に至る彼らの魂、そして99年にわたるその変遷を描く中で日本人の 誇り・勇気・愛を問いかけます。
1世紀前、貧しい農家を捨てるというより、他の家族のためにも国を出ていかざるを得なかった日系移民。戦争が彼らの運命を翻弄する。
日系1世、海を渡り、他人の農場に雇われ少し落ち着いた頃、日本からの嫁を待ち受ける草 彅剛の前に美人の写真と似ても似つかぬ田舎の娘 イモトアヤコが現れる。
顔はともかく性格が良く働き者の彼女と、二人三脚で苦労に苦労を重ねながら少しずつ農 場を広げていく。アメリカの荒れ野に、日本人にしかないと思われる勤勉さで築きあげたフ ァームを、一瞬にして二束三文で米国人に奪われ?一から出直しとなる。
(年取って役変更)中井貴一と泉ピン子。罪もないのに思想的に疑われた中井は連行され収 容所へ。
日系2世、(〃) 草彅剛(二役)と仲間由紀恵の愛。草彅の弟に松山ケンイチ。
平成の今、みな年老いて仲間由紀恵は八千草薫に、松山ケンイチは上條恒彦に、2世草彅 と松山の妹 川島海荷が岸恵子に・・・・。
戦争が激しくなる頃、日系であるばかりに周りから迫害され、危険と感じた中井貴一夫婦 は、娘二人を日本の親戚へ預ける。ここにはアメリカよりさらに過酷な生活が待っていた。 辛酸をなめながら成長した岸恵子とその孫たちが何十年ぶりかでアメリカへ。
八千草、上條、岸恵子らの追想。
その後ここアメリカでも、(2世の)草彅が家族を守るため、日本兵と銃を交えるかもし れない米軍にあえて志願、そして戦死。ともに日本へ帰った岸恵子の姉は原爆死。悲惨な時 代ではあった。
このドラマは、反日感情にさらされ、戦争に翻弄されながらも、夢を追って海を渡り、命 を懸けて激しい困難に立ち向かい続けた日系移民の「愛と勇気の物語」である。
仲間ファン・スマップ(草彅は大好演)ファンでなくとも、一見に値するドラマではある。
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エンターテイメント№130 2014.9月 映 画 (15)
男はつらいよ №39 寅次郎物語
2014.7.19 ひろ坊PC・TV・VTR部屋で
【スタッフ】 : 脚本・監督; 山田 洋次
【キャスト】 ; 渥美 清、倍賞千恵子、秋吉久美子、五月みどり、吉岡秀隆
毎週土曜日、テレビで寅さん映画をやっている、久しぶりにCM入りの「男はつらいよ」を観た。我が家には1969年8月第1作「男はつらいよ」から、1995年12月48作「男はつらいよ、寅次郎紅の花」まで48本のDVDが全部そろっている。好きな寅さんにいつでも会えると思うと放送があっても普段はあまり観ることはない。
この日観たのは「男はつらいよ №39 寅次郎物語」、1987年公開。マドンナは秋吉久美子、ゲストに私の好きだった「五月みどり」も出ている。
私自身にとってこのシリーズほど安心して観ていられる映画は他にない。あの主題歌が流れてきたら寅さん映画の中にいる自分がある。
〈 あらすじ 〉
「とらや」に秀吉という男の子が訪ねて来た。寅さんのテキヤ仲間「般若の政」の子どもだった。政は女・酒・賭博に溺れ、嫁(五月)に蒸発され、秀吉を遺して急死。「俺が死んだら寅を頼れ」という遺言で、福島は郡山から柴又へやって来たのだ。
やがて寅と秀吉、二人の母親捜しの旅が始まる。秀吉の母ふでは新和歌浦のホテルで働いていることをつきとめ、訪ねてみると既に吉野に移ったという。元気のない秀吉を励まし、吉野へ行くがそこにもいなかった。
その晩、秀吉は旅の疲れから、吉野山の旅館で高熱を出す。たまたま隣室にいた若い女(秋吉)の看護で少年は回復する。翌日3人は仲睦まじく近くの観光名所などをめぐった。旅館の主人の勘違いもあって2人はこの数日、「とうさん」「かあさん」と呼び合っていた。
柴又駅に寅を見送りながら、甥の満男(17歳)が「人間は何のために生きてんのかな」というと、寅は「ほらー 生まれてきてよかったなって思うことが 何べんかあるじゃない ねっ、そのために人間生きてんじゃねえのかな」。満男が「ふーん」というと「そのうちお前にもそういう時が来るよ、 うん まあ、頑張れ」と言って別れる。
最後おなじみ正月のシーン。テキヤの店を開こうとする寅の前を、秀吉母子と連絡船の船長が仲睦まじく歩いているのをみるが、「俺たちのような人間が声をかけると迷惑なんだ」といって会わないようにする寅さん。
今のテレビ番組で私を笑わせてくれる番組は笑点以外にないし、笑わせてくれる芸人は皆無に近い。
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エンターテイメント№129 2014.9 映 画 (14)
GODZILLA ゴジラ
アメリカ ワーナーブラザーズ・東宝配給
監督 ; ギャレス・エドワーズ
キャスト ; アーロン・テイラー-ジョンソン、 渡辺謙、 エリザベス・オ ル セン
ゴジラが誕生したのは昭和29年(1954)今から60年も前のことになる。ビキニ環礁の核実験で起きた第5福竜丸事件をもとに、東宝は水爆怪獣映画として第1作を制作した。身長50メートルの大怪獣ゴジラは、核が生み出した恐怖の対象であった。観客動員数は960万人を超えた。
映画好きの私自身でも、28作もあるゴジラ映画を映画館で観た記憶はない。こういった映画は特撮が「ちゃちである」と思い込んでいた。初期のゴジラは大体、本多猪四郎がメガホンをとっていた。特撮はかの有名な円谷英二監督、CGなどなかったこのころは、円谷さんの着ぐるみを使用したゴジラの特撮は海外でも評価が高かったらしい。
〈あらすじ〉 1999年、フィリピンの炭鉱を調査していた科学者・芹沢博士(渡辺 謙)らは、そこで巨大な生物の化石を発見する。その化石には繭のようなものが寄 生するように付着しており、そこから「何か」が誕生して海へと這い出た痕跡があ る。同年、日本のある原子力発電所に勤務するブロディ アメリカ人夫妻は、近づ きつつある謎の振動と電磁波を探知する。
その振動によって炉心が異常をきたしたため、妻・サンドラは原子炉の調査へと 向かうが、奇怪な鳴き声と共に大きな揺れに襲われる。夫・ジョーは街の住民を守るべく、原子炉の内部にサンドラを残したままやむなく防護壁を閉じ、その原発が倒壊する。
それから15年、ジョーとサンドラの息子、フォードは軍での任務を終えサンフラ ンシスコで待つ家族のもとに帰ってくるが、日本に暮らす父ジョーが警察に逮捕さ れたという知らせを受け、急遽日本に向かう。ジョーは事故の真相を探るべく、放射能汚染により立入禁止区域となったその原発跡地に侵入したため、逮捕されてし まったのだった。
放射能を餌に生きながらえた空を飛ぶ奇怪な怪獣ムートーは、凶悪の限り暴れまわる、そこでぴんときた。「正義の味方ゴジラが現れてやっつけてくれるのだ」と。映画の中で芹沢博士も、「ムートーを排除するためゴジラも復活する」と推測した。
ゴジラ対ムートーの壮絶な戦い、何度かゴジラがやられそうになるが、最大の武器放射熱線をムートーの喉の奥に直接浴びせてやっつける。
ちなみに日本で生まれた時のゴジラは、身長50メートル、この映画では108メー トル9万トン。
ビルの谷間の怪獣の死闘、津波のシーンなどはさすがハリウッド映画、半端じゃ ない。
恐怖の対象から人間の味方、子供たちのヒーローへ。初期には奇怪な姿に見えたゴジラも、今ではなぜか愛おしく見える。息を吹き返したゴジラが、海の彼方へ引き上げていくのを見てほっとしている自分があった。
映画が終わったとき、カミさんが言った。「ゴジラかっこいい、ファンになりそう」
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エンターテイメント№128 2014年7月 その他 釣り (1)
明石の蛸釣り
6月13日、久しぶりの海釣り。子供のころから川釣り専門だったがもう15年ほど竿を握っていない。S55年ごろ鶴橋支店時代、取引先の釣キチ経理部長と、同僚Tujiさんらと、よく海へ行った時期があった。主に船から竿を用いず、手釣だったが、ガシラ、チャリコ、ハゲ、グチなどがよく釣れた。寒い冬、カレイを釣りに行ったこともあった。前の日飲み過ぎて船酔いで「釣りなどどうでもよい、早く陸へ」と思ったことも思い出す。
そのTujiさんに海釣り指導のお返しにと、吉野川上流のアユの友釣りへ誘ったことがあった。私の田舎は紀ノ川の上流吉野川のそのまた支流にある。そのころは漁協が毎年大量の稚アユを放流していてよく釣れた。解禁日は村の祭りのようなもので、たいていの人は早朝から釣り場を確保し、日が明けるのを待って釣果を競うのである。
中学生ぐらいのときが一番釣っただろう。竿は大人になってからグラスの長いものを買ったが、当時は自分で作った。竹やぶから細くてできるだけ長いものを切ってきて、火にあぶりながら穂先を創っていく。
Tujiさんは、アユの友釣りはその時初めて、さすが海で鳴らしただけあって何匹か釣ったように記憶している。アユがかかった時の「引き」というかグリグリ感は経験した者でないと分からない、格別の感触がある。
この日の蛸釣りについて書くはずだったのに、寄り道しすぎた。前日釣りバカHamaちゃんとサウナのカプセルに泊まり、もと同僚のTeraさんの車に同乗させてもらい、兵庫県は今津の港に向かった。もともとこの釣りは、先に(2度目の職場を)退職したTeraさんを釣り仲間に誘い込もうとHamaちゃんとOoさんが仕掛けたもので、Hukaさん(Teraさんの前に退職)に計画を委ねたもの。
朝5時半ごろ出発した船には、私たち5人の仲間を含め15人ぐらいの人が乗り合わせていた。船は1時間ほど走り、明石大橋を越えたところで停まった。いよいよ蛸釣り、それも明石の蛸である。
竿も仕掛けもすべて舟屋で借りたもの、蛸のしかけも初めて見た。5人の仲間のうち3人はベテラン、海の釣りではまったくど素人のTeraさんと、30年も昔少しかじった程度の私はそれぞれベテランの間に挟まった。推進40メートルぐらいのところを重い錘を底に沈めると間もなく「引く」というより少し重くなったように感じたところで、リールを巻いてみると小さいが「明石の蛸」が乗っているではないか。
ビギナーズラックというか、この日5人で4匹(?)の蛸釣果のうち私が2匹ゲット。
この後場所を少し移動してキス釣り、ここではやはりベテランに1日の長があり、結構大きいのを釣っていた。私は2尾のトラギス(ベテランは捨てるらしい)と小さいキスが2尾。PM1:00ごろ納竿。
明石大橋の上を走ったことはあったが、下をくぐったのはこのときはじめて。前日まで鬱陶しい天気であったが、釣っている間は良い天気。舟屋で少し休んで車に乗って大阪へ向かう途中大雨が降ってきた。
蛸は我流でさばき(頭は捨てた、後でOoさんに話すと「もったいない」云われた)、1匹は刺身にした。こりこりした歯触りの新鮮この上ない生タコサシだった。後の1匹はイモと煮てもらった。トラギスと小さいキスはから揚げにした。Hamaちゃんからもらった大きめのキスは冷凍にした。
釣は「獲物をちゃんと持って帰って胃に収めるべき」というHukaさんに叱られないで済みそう。
冒頭のウミキチだったTujiさんは、その後アユキチになってしまい、海釣は見向きもしなくなり、全国のアユを追うようになったという。今年もどこかの解禁で胸まである胴長(横文字ではウェーダー)を着て竿を振っていることだろう。
エンターテイメント127 2014年6月 私の読書歴 (38)
「終わらざる夏」 上・中・下 浅田次郎著 集英社文庫
浅田次郎もっとも好きな作家のひとりである。デビュー3冊目ぐらいから新作が出るとすぐすべてハードカバーで購入、ほとんど読んでいる。この「終わらざる夏」は、2010年7月上・下巻で出たのは知っていたが、この本ぐらいから文庫本を待つようになった。すぐ出るだろうとかなり待ったが昨年6月やっと出た。
私自身、あの戦争末期8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、ソ連軍が満州に攻め込んできたことを知ったのは社会人になってからだった。学校では中大兄皇子の時代(=天智天皇 645年大化の改新)のことは詳しく習っても、こんな近い歴史を教えてはくれなかった。ましてポツダム宣言受諾後になって新たな戦争を仕掛けてきたことはだいぶあとまで知らなかった。
上・中・下とある文庫本の上巻の背表紙には
1945年、夏。すでに沖縄は陥落し、本土決戦用の大規模な動員計画に、国民は疲弊していた。東京の出版社に勤める翻訳書編集者・片岡直哉は45歳の兵役年限直前に赤紙を受け取る。何もわからぬまま、同じく招集された医師の菊池、歴戦の軍曹・鬼熊と、片岡は北の地へと向かった。—-終戦直後の“知られざる戦い”を舞台に「戦争」の理不尽を描く歴史的大作、待望の文庫化。第64回毎日出版文化賞受賞作。 とある。
片岡ら補充要因は、行先を知らされぬまま、北辺の地へと向かう。その孤島で見たものは無傷の帝国陸軍最新鋭部隊だった。千島列島の先端に位置する占守島(しゅむしゅとう)にソ連軍が攻め込んできたのは、玉音放送から3日後の昭和20年8月18日未明だった。
「終わってから仕掛けてくる戦争とはいかなる戦争であったか」、精鋭部隊ではあったが、日本はすでに無条件降伏をした敗戦国であり、勝利するまで戦うことは許されなかった。停戦交渉を行った日本軍は8月21日に降伏し、23日にソ連軍によって武装解除、そして生き残った将兵はあの悲劇のシベリアへ送られた。
「たかじんの言って委員会」や「TVタックル」に出演して歯に衣着せぬ言動で人気があった(私に?)評論家 故三宅久之氏もこの小説を激賞していた。
小説の中にもあるように、ロシアは国際協定などを一方的に破ることでは折り紙つきの国であり、自分たちの都合だけで約束を反故にしてしまう国です。ウクライナ問題が起きる前の一時期、北方領土返還について一条の光が見えたような錯覚がありました。でもこんな国から四島を取り返すのは至難の業ではないかと思います。
あんな無法なやり方で取り上げられた島々が、70年経とうとしている今も取り返せないのは何とも残念なことではありますが。
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エンターテイメント№126 2014年5月 私の読書歴 (37)
人間にとって成熟とは何か 曽野綾子著 幻冬舎新書
背表紙に 人はみな平等に年をとるが、次第に人生がおもしろくなる人と、不平不満だけが募る人がいる。両者の違いは一体何か。「憎む相手からも人は学べる」「諦めることも一つの成熟」「礼を言ってもらいたいくらいなら、何もしてやらない」「他人を理解することはできない」「人間の心は矛盾を持つ」「正しいことだけをして生きることはできない」等々、世知辛い世の中を自分らしく生きぬくコツを提言、まわりに振り回され、自分を見失いがちな人に贈る一冊。 とある。
この本のなかで「同感」と思えること、教えられたこと。
「苦しいときの神頼み、人間はよく神と取引をする」。「もし病気が治りましたら」「生きて帰ってくれたら」甘いものを断ちます・・・・。私も娘が1才3か月のとき、高熱で医師から「今夜がヤマです」といわれたとき、神に祈り神と取引をした事があった。
「人生は想定外そのもの」。「想定外」、東京電力の関係者だけが自分の責任逃れにそういっているなら不愉快であるが、大震災後いち早くこの「想定外」という言葉を口にしたのはその土地に住む人たちであった。原発事故も想定外だったことは間違いない。
「自分の不運の原因は他人と考える不幸」。この頃、卑怯な日本人が増えたような気がしてならない」、そういう人たちの多くは、健康状態も申し分ない、外見もいい、教養や学歴も充分、親も良識ある家庭の人たちである。それなのにそこに育った若い世代はいつも及び腰で、周囲に文句ばかり言っている。 失敗を恐れ挑戦しない若者が多い。
「老人なのに成熟してない人」。 定年後自分のしたいことを見つけていない人。そうならないようにしたい 。
「絆」という古い言葉が震災後急に思い出されるようになった」 地震後に「改めて絆の大切さがわかった」などという言葉を、いい年をした大人の口から聞くとしらけた気持ちになる。 同感。
「震災後コンサートを開いて被災者を元気づけるという発想も筆者にはわからなかった」という。毎日の暮らしに必要なのは雨の漏らない住処、毎日食べるお米、洗濯に必要な洗剤、そして冬の寒さを防ぐ布団やオーバーなどの衣類。震災を利用する催しも筆者には被災者に失礼と映る。自分の作曲した曲を披露する音楽会に「被災者に捧げる」なども。 そんな芸能人やスポーツ関係者が多く、違和感があった。被災地の必要なものを送るのではなく、自分が要らないものを送った人が多かったという。
「感謝が抜け落ちた言葉」「高齢出産をして、(多くの障害を持って生まれた子に対する)野田聖子氏へのインタビューで、どうしても違和感が残る言葉があった。息子の医療費は医療制度に支えられている、高額医療は国が助けてくれるので、皆さんももしものときは安心してください。国会議員の子供だから特別と云う事では全くないのです。言葉の裏に「大臣や党の幹部は普通の人とは違う」という意識があるんやろなあ。
国会議員の家族だけに支払われる?そのような発想がおかしいのと、自分の息子が高額医療を国民の負担において受けさせてもらってているという「一抹の申し訳なさ」と、「感謝」が全くない。生活保護を受けてる人たちのなかにももそういう人が多いと聞く。
日教組的教育は「人権とは要求すること」だと教えた。 聖子さん、この人も日教組教育の影響か。
「破れたジーパンは幼稚な証拠」1.その人が貧乏である。2.(相手が破れたジーパン姿なら)その人は自分に会うことを評価していない。つまり自分を馬鹿にしている。流行する前だったら人に笑われた筈や。
「目立ちたくないは卑怯な姿勢」。霞が関の住人は「できない理由を素早く云う事の出来る秀才。
「芸が達者でなくても存在できる世界」 AKB48は動機が不純、一人の芸では到底観客の期待に応えられないから、数を揃えて見せれば若さという素材だけで金になる。 全く同感、お笑いの中にもゲイのない芸人があまりにも多い。
「日本には中産階級がどんどん減り、貧困階層が増え、格差社会になりつつある」などというが、貧困とは「今夜食べるものがない」ことを言う。「家のローンが払えない、子供を大学にやる費用の捻出が難しい、新車を買えない」などという理由は世界的にみて全く貧困の条件にはならない。 バブル以降、分け合う総量が減ってるさかいや、アベノミクスでパイを増やさなあかんのや。
曽野綾子 1931年生まれ83才、クリスチャン。日本郵政社外取締役、保守論客の一人。
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エンターテイメント№125 2014.4.1 Trip&Tour (12-3)
インドネシア
歴史と伝統のジャワ島・神々の楽園バリ島 5日間 vol 3
最終回 4日目・5日目
ウブド(Ubud)は、バリ州ギャニャール県ウブド郡の村。ウブド郡の中心で、ガムラン音楽、バリ舞踊、バリ絵画など、芸術の村として知られているらしい。地名の由来は薬草(現地語でウバド:Ubad)が訛ったものと言われている。また、少し離れた北には昨日行った棚田で有名なテガラランもあり、それらが観光の中心地となっている。
ウブドでは、まずは木彫りの店へ、店の前には等身大の犬の木彫りを彫る人がいた。雑貨の店にも行った、ここには高額なものから土産用の手ごろな価格の可愛いネコやカエルの置物もあり、バリ土産を物色。
村の中心部のウブド村寺院とその向かいのマーケットの付近を歩いたときのこと、路地の奥でガイドから「ここから奥へは入れなくなった」との話、「日本人ならこんなことはないのだが、実は中国人のマナーが悪すぎるので」とのこと。そういえば日本でも中国人の団体のやかましいこと。
あと、モンキーフォレストへ。ここには猿の自然保護区があり、多くの猿が生息していた。ここの猿はニホンザルよりかなり小さく、グレーがかった色をしていた。ガイドから猿にはバッグを開けるふりなどをしないことを注意されていたので被害はなかったが、青い目の観光客、女の子の背中や肩の上に乗る猿もいた。そのウブド村のモンキーフォレスト内にはダラム・アグン・パダントゥガル寺院というお寺があった。
昼食のあとカップ1杯で100ドル(約8000円)もの高値が付くというインドネシアの世界最高級コーヒー、「ルアックコーヒー」の店見学。その高価なコーヒーは、ジャコウネコが糞(ふん)とともに排泄するコーヒー豆だそうであり、テレビで見た記憶がある。「ルアック」とは現地語でジャコウネコのこと、一袋12,500円だという。これには誰もばかばかしくて手を出さなかった。が2500円のコーヒーはお土産に2袋買った、家で煎れてもらったが、あまり香りもなく美味しくはなかった。 これならネスカフェのインスタントのほうがマシ。
このあといよいよ本日のメインイベントタナロット寺院見学。バリ島にある寺院の中でも、最も多く写真に撮られているのがこのタナロット寺院であり、とりわけ夕景の美しさは格別らしい。この旅行の行程表には「海に浮かぶタナロット寺院にて夕日鑑賞」とあったが、時間的に早めの訪問で夕日は無理。それでも多くの観光客で大変な賑わいとなっていた。
タナロット寺院(Pura Luhur Tanah Lot)はバリ島中西部の海岸にあり、バリ六大寺院のひとつ。エルニーニョ現象による海面の上昇などが原因で海岸の浸食が進んでいたが、日本のODAによる景観を再生するプロジェクトが行われているという。
バリ島いやインドネシア最後の観光を終えてバスに戻った時、雨が降り出した。この時期インドネシアは雨季で、1年で一番雨の多いときだと聞いていた。ジョグジャカルタ空港でバス出発のとき少し降ったぐらいで4日間雨にはほとんど無縁だった。ガイドによるとこの時期これほど雨が降らない日が続くのはめずらしいらしい。われわれ一行はよほど日頃の行いがいいらしい。空港が近づくにつけ雨は大粒となっていった。
中華レストランでショーを見ながら夕食のあと、空路ジャカルタへ、ここで乗り継ぎ帰国の途に就いた。関空には朝10時ごろの到着、5日間しばし寒さを忘れていたが、空港には雪が舞っていた。
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エンターテイメント124 2014年2月 Trip&Tour (11-2)
インドネシア
歴史と伝統のジャワ島・神々の楽園バリ島 5日間 vol. 2
3日目
昨夜 デンパサール空港でちょっとしたハプニング。ガイドはきたにはきたが、ホテルまでのバスが来ない、30分ぐらい遅れてお迎えのバス到着となった、ガイドは言い訳ばかり。
これもあって昨夜も遅い就寝だった。デンパサール クタのホテル メルキュールハーベストに着いたときは日付が変わっていた、そのため就寝前の反省会は今夜も無し。朝食は今朝もホテルのバイキング。眠い目をこすりながらの出発は9:00、今日の目玉はバリ島で有名なキンタマーニ高原へ。
ジョグジャカルタは女性のベテランガイドだったが、バリ島のガイドは日本大好きの30代?男性。我が国の出来事に詳しく、吉本芸人のことや流行語はわれわれよりよく知っているほど。「じぇじぇじぇ」 や「今でしょ」などの流行語や日本語ダジャレの連発。日本びいきと性格の良さで昨日のチョンボは帳消し。
バリ島(Pulau Bali)はインドネシアの首都ジャカルタがあるジャワ島のすぐ東側にあり、周辺の島々とともにバリ州となっている。2010年の人口は389万人、宗教はジャワ島と違い、ヒンドゥーが中心であるが、1990年以降ではイスラム教徒の流入が目立つという。ジャカルタとは時差が1時間(日本とも1時間)ある。
私自身はハワイやグアムのような海辺のリゾート地を想像していた、それもあるがバリには山リゾートや、世界遺産もある。またここは宗教に基づいた神々の島として多くの観光客に愛されており、リピータも多いと聞いた。
予定は「銀細工のチュルク村見学のあとキンタマーニ高原」だったが、変更して日本大好きガイドの案内でバスはウブド郊外の遺跡「ゴア・ガジャ」へ。
「ゴア・ガジャ」は、ウブドから車で約11分の近郊に位置する遺跡、「ゴア・ガジャとは「象の遺跡」という意味なのだそうですが、バリ島には象は生息しておらず、動物の象を指すだけではなく「大きいもの」も意味することから、「大きな洞窟」と名付けられたとのこと。
、この遺跡は1923年にヨーロッパ人によって発見されたが、11世紀に造られたものだと言われている。仏教的な要素も強く、歴史的な謎も多いのだそうです。
ティルタエンプル寺院(Tirtha Empul)は、ウブドの北、タンパク シリンにある寺院で「聖なる泉が沸く寺院」として、大変よく知られているお寺です。 伝説 によるとこの寺院に沸く泉は962年に発見されたそうです。
この寺院の上の方に緑に囲まれた建物がありました。これはスカルノ元大統領の別荘だったそうで、デヴィ夫人も訪れたとか。
キンタマーニ高原はバリ島東北部の高原地帯。バスは緩やかな坂を上っていくが、途中から形の良い山が迫ってくる。バトウール山と、バトウール山火口湖のバトウール湖及び外輪山のひとつプヌリ山、それらの外輪山を右にみているうち、尾根伝いにあるキンタマーニ村に到着。
昼食は火口湖バトウール湖を見降ろすレストランで。
世界遺産「テガラランの棚田」にも行った。日本にも有名な棚田がありますが、ここのは写真のとおり周りにヤシの木などがあってやはり南国らしい。
このあと、予定になかったホテルのプライベートビーチへ、人やにわとりやハリネズミが住む民家へ、そして庶民がいくスーパーへ。
夕刻、必見のバリ島名物ケチャックダンス。 ヒンドゥー教の神話と、古代英雄であるコーサラ国のラーマ王子に関する伝説をまとめた「ラーマーヤナ」を基にしたストーリーだとか。ケチャックダンスは、会場入り口で日本語の簡単なストーリーをもらうことができた。独特の発声と旋律はいまも耳の奥に残っている。
会場でハプニング、インドネシアでもイスラム教徒の女性はヒジャブという頭を隠すものをつけている。色とりどりのヒジャブをつけた女学生らしい集団から黄色い歓声が上がった。あまりにも激しいのでその方向を見てみると 「I ♡ BALI」と書いたTシャツなどを着た若い女の子たちに向かっての歓声だと分かった。
ひょっとしたらインドネシアのアイドル?。好奇心旺盛なMYさんがその女性たちに聞きに行ったら、なんと「茨城県かどっかから来た普通の日本の女の子たち」だった。
夕食はレストランで、タイやカンボジアで観たような伝統舞踊を見ながらロブスターなどのシーフード料理。本日のバス走行距離は約170キロ、疲れた。
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エンターテイメント№123 2014年2月 Trip&Tour (11-1)
インドネシア
歴史と伝統のジャワ島・神々の楽園バリ島 5日間 vol. 1
11人で行ったアンコールワット・ハロン湾旅行、あれからちょうど1年、メンバーは1人減って10人。インドネシアに決まるまでタイも候補に挙がっていたが、やめて正解。タイを選んでいたら、命の危険はないにしても、首都バンコクの反政府デモによる主要交差点の封鎖などで困ったことになっていたに違いない。
インドネシア共和国は、東南アジア南部に位置する共和国。首都はジャワ島にあるジャカルタ。5110kmと東西に非常に長く、赤道をまたがる1万3466もの大小の島により構成されるとしているが、正確な島の数はインドネシア政府すら把握していないらしい。人口は2億3,000万人を超え世界第4位、その大多数はイスラム教徒であり、世界最大のイスラム人口をもつ。
島々によって構成されている国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、東ティモールのティモール島、マレーシアのカリマンタン島(ボルネオ島)、パプアニューギニアのニューギニア島の3国だけである。海を隔てて近接している国は、パラオ、インド、(アンダマン・ニコバル諸島))、フィリピン、シンガポール、オーストラリア。 フライト地域を映す機内のモニターの地図でもすぐ南にオーストラリア。
ASEAN(東南アジア諸国連合)の盟主とされ、アセアン本部もインドネシアの首都ジャカルタにある。そのため、2009年以降、アメリカ、中国など50か国あまりのASEAN大使が、本部のあるジャカルタに常駐。日本も、2011年5月26日、ジャカルタに日本政府代表部を開設しASEAN大使を常駐させている。
この旅行メンバーの特徴は平均年齢 約 71歳、上下7~8歳の年齢差があるものの和気藹々、朝・昼・夕食で飲む、寝る前も飲む。関空で通関のあと搭乗口までの途中、売店でまずは生ビールで乾杯。
行程表によるとガルーダ・インドネシア航空で、ジャカルタまでのフライトが5時間半となっていたが、到着時刻は現地時間で表示されており、2時間の時差があるため実際には7時間半。ジャカルタで乗り継いでジョグジャカルタまで1時間15分、関空をでてから大方9時間、結構遠い。
ホテル「シェラトン・ムスティカ.ジョグジャカルタ」に着いたのは現地時間でPM10:30(日本時間12:30)、即インドネシア料理の夕食、また食べる飲む。ほとんど寝る時間のないままうとうとしかけたとき、4時ごろだったかアラーのお祈りらしい声で目が覚めてしまった。
ドルには関空で両替、インドネシア通貨は現地でガイドに頼んだところ、10,000円で 1060,000ルピア、小遣いが大幅アップしたような錯覚に。
2日目
昨夜ホテル着が遅かったので気が付かなかったが、シェラトンの周りが美しい。鮮やかな緑の木々や、真紅の花、遠くには富士山のように形の良い高い火山。ホテルの朝食はバイキング、期待していた果物は種類も少なく大味。
朝9時ごろホテルを出てボロブドゥール遺跡(Borobudur)へ 。
バスを降りて帽子を忘れてきたことに気づき、「1000円、1000」とやかましい売り子から買うことに。500円に値切ったが聞かない。「まいっか」と買ったのが間違いの元、あとで困ったことに。
インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する、大規模な仏教遺跡かつ世界的な石造遺跡。また世界最大級の仏教寺院であり、「ボロブドゥール寺院遺跡群」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。インドから東南アジアに伝播した仏教は一般に部派仏教(上座部仏教)と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは大乗仏教の遺跡である。2010年ムラピ山の灰で被害を受けた。
ボロブドゥール遺跡は、中部ジャワの中心都市ジョグジャカルタの北西約42km、首都ジャカルタからは東南東約400kmに所在し、巨大なムラピ火山などの山々に囲まれた平原の中央に立地する。遺跡総面積はおよそ15万m2。高さはもともと42mあったが、現在は破損して33.5mになっている、 我々は160段の階段をあがって行った。
午後、ジャワ島にある 手描きバティック(ろうけつ染め)工房見学。 天然染料を併用し、繊細なジャワ更紗を 制作していた。
次に、プランバナン寺院群(Candi Prambanan)
ここでも「1000円1000円」の物売りの攻撃がすごい、ほかの人に行った場合「無視」か「No」であきらめるが、何故か私にはあきらめない、しつこくてうんざりする。「理由は帽子」だったようだ。私のかぶっている帽子は前に行ったボロブドゥール遺跡で買っている。帽子のマークで「私は買う人」と思われたに違いない。マークを他のバッジで隠したところあまり来なくなった。
寺院群のうち中心的存在であるプラバナン寺院は古マタラム王国のバリトゥン王(在位898年~910年)による建立と言われる。古マタラムの王宮もこのあたりにあったと考えられているが、伝染病が流行り10世紀ごろ遷都した。
のちの1549年の地震で遺跡のほとんどが崩壊した。しばらく忘れ去られていたが、1937年から遺産の修復作業が行われている。プランバナン寺院群はヒンドゥー教の遺跡としてはインドネシア最大級で、仏教遺跡のボロブドゥール寺院遺跡群と共にジャワの建築の最高傑作の一つとされる。
インドネシア料理の夕食後ジョグジャカルタ空港から、空路デンパサール(バリ島)へ 以下(3日目)次号
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エンターテイメント30 昭和(後期)の映画史 (14) 06.05・・
スクリーンののなかの女優遍歴
昭和後期の映画で、我が胸をときめかした美しかった女優たちを思い出してみる。
私が映画が好きになるころには、伝説の女優「原節子」は(映画界には)もういなかった。その頃の大物女優といえば(二十四の瞳)など木下恵介監督の映画によく起用された演技派「高峰秀子」、(長谷川一夫)の相手役「淡島千景」、(君の名は)の「岸恵子」、(東映のお姫様)「丘さとみ」「桜町弘子」、ミス日本から大映のトップ女優となった「山本富士子」、他に大スターといえば「京マチコ」「司葉子」、「岡田茉莉子」「有馬稲子」「香川京子」「北原三枝」らがいた。
映画のヒロインに始めて胸をときめかしたのは大映若尾文子、あまりにも美しかった年上の女性(ひと)。
美人女優といえばデビューしたころの佐久間良子、東映のもう一人の(よしこ)三田佳子は30台の半ばごろか急に魅力的になったように思う、この二人は少し上のお姉さん。
高校生の頃は日活映画をよく見ていたが、北原三枝引退後の裕次郎や、渡り鳥シリーズなどで小林旭の相手役をしていた浅丘ルリ子の可愛かったこと、美しかったこと、本人は「この頃の自分があまり好きではない」といっているのを聞いたことがあるが、私にとってはルリ子の旬のとき。
吉永小百合の実質的なデビュー作は赤木圭一郎主演の「無敵が俺を呼んでいる」だったと思うが、これを見たときからファンになってしまった。その後さまざまの女優を好きになったが、いわば吉永小百合が「本妻」で、他の女優は浮気であったように思う。彼女を一度だけ「生」で見たことがある。家電量販の会社にいた頃、シャープ主催で小百合主演映画の試写会の招待を受けたが、その舞台挨拶に来ていた。彼女はS20年の早生まれで私と同級、還暦を過ぎているが、なぜかかなり下の年代にまでサユリストがいる。
当時では珍しく奔放な行動で話題を呼び、小悪魔を地でいく加賀まりこ。彼女にはフランス映画の(ブリジッド・バルドー)のような若い性的魅力を感じた。日活で小百合の青春映画全盛の頃、他社の若手女優では若大将加山雄三の相手役星由里子、同じく酒井和歌子、内藤洋子らがいて関根恵子(いまの高橋恵子)がデビューした。
その後「映画女優」と呼べるような人はほとんどいなくなってしまった、あえて云えば宮沢りえ、沢口靖子ぐらいだろうか。今、映画に出ているのは女優ではなくタレントである。
昭和の終わりごろの大女優はだいたい’60前後にデビューしている。緋牡丹のお竜で一世を風靡した藤純子、松竹の岩下志麻は、当時ヌーベルバーグ旗頭の一人「篠田正浩」監督の「乾いた湖」でデビュー。同じ松竹の下町女優倍賞千恵子は’61デビューしたが、その後歌も「下町の太陽」が大ヒットした。
後に銀行の新規開店で、窓口担当の私の真横に座った彼女と二言三言会話を交わしたことは、良い思い出となっているが、このときの倍賞さんは22~23歳で最も美しいころだったと思う。
あなたにとっての女優は誰でしたか?
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エンターテイメント29 私の読書歴 (11) 06.4.28
亡国のイージス 福井晴敏(講談社文庫)
最近本屋に行く回数がめっきり減ってしまったためか、ハードカバーの長編を買うことが少なくなり、我が家の本棚には文庫本のみが増加している。 そのためか、今まで読んだことのない作家との出会いも少なくなってしまい、最近購入の数少ない中に「福井晴敏」があり、昨年来彼の長編を2作続けて読むことになった。
最初に読んだのは映画になって話題となった「亡国のイージス(上、下)」そして「終戦のローレライ(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ)」
いま沖縄の基地移転問題が話題となってるいるが、この本を読んで改めてわが国の防衛について考えさせられた。
「亡国のイージス」は沖縄辺野古にある在日米軍基地で発生した大惨事からはじまり、わが国最新のイージス艦が暴走し、東京湾から首都圏に向けて「新型爆弾の砲」を向ける物語であるが、フィクションとわかりながらもいつの間にか映画を見ているかのごとく小説の中に入ってしまっている私があった。
この小説には「ダイス」(防衛庁情報局)なる架空の秘密組織が出てきますが、そのDAISに暗殺されることとなってしまった防大生であるイージス艦の艦長の息子が書いた、論文の中に次のような文章が出てくる。
「自衛隊は従来の在日米軍とのリンクがあって初めて能力を発揮するというあり方をやめ、削るべきは削り、増やすべきは増やして、日本の地勢と国力に合わせて完結した戦力を整備していくのが正しいやり方ではないのか」
「日米安保はあくまで国連貢献の一環であることを明示して、片務ではない、両国の相互利益に基づいて運営されていることを互いに自覚しあうこと。
それには何よりもまず日本が自らの所信を表明し、一つの国家として一貫した主張とカラーを打ち出していかなければならない。今までそれを怠ってきた結果が未だに大日本帝国の復活を恐れるアジアの愚にもつかない誤解と誹謗を招き、誰からも、自分自身からも信用されないし、尊敬もされない体質を作り続けてきたのではないだろうか」
「重要なのは国民一人一人が自分で考え、行動し、その結果について責任を持つこと、それを「潔い」とする価値観を、社会全体に敷衍させ、集団のカラーとして打ち出していったとき、日本人は初めて世界に示し得るのではないだろうか」
著者は「誰も責任を取らない平和論や、理想論では現在の閉塞を打ち破ることはできない」ということを言いたかったのだろう。
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エンターテイメント28 私の読書歴 (10) 06.3.25
国家の品格 藤原正彦(新潮新書)
われわれの世代は、「愛国心」「君が代」「日の丸」などの言葉になぜか一種の「抵抗感」のようなものを感じます。敗戦後の教育やマスコミが、これらが即軍国主義に結びつく「悪いこと」のような風潮を創ってきたのだと思います。
一時代前であれば、すぐ「保守・反動」といわれた改憲論争やこのようなことが、いま抵抗なく語れるようになってきたのは、やっと当たり前の国になりつつあるということでしょうか。
この本は第1章から第7章からなっていますが、各章の表題を見ただけで著者の言いたいことがよくわかります。
第1章 近代的合理精神の限界
第2章 「論理」だけでは世界が破綻する
第3章 自由・平等・民主主義を疑う
第4章 「情緒」と「形」の国日本、
第5章 「武士道精神」の復活を
第6章 なぜ「情緒と形」が大事なのか
第7章 国家の品格
なかでも特に感銘を受け、共感すべきことは、
・ 「株主主権をやたらに言い出すのは「武士道精神」から下品で卑怯。
・ 国際的に通用する人間になるには、英語教育よりきちんと国語を勉強するこ と、とりわけ本を読むことが 不可欠。
・ 教育において論理より「駄目だから駄目」、重要なことは押し付けよ。「卑怯」を教えよ。
・ 情緒力がなくて論理的人間は最悪。
・ 自由、平等、民主主義を疑う、「マスコミ」が第一権力になり政治を決定すること になってしまう。平等で なく「惻隠」を。
・ 真のエリートが必要。その条件とは 1.文学、哲学、歴史、芸術、科学といった何の役にも立たないような 教養をたっぷり身につけている事、2.「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があるこ と。
・ 「情緒」と「形」を重んじよ。自然に対する感受性、茶道・華道・書道、もののあわれ、サクラの花に何を見 るか、四季 等々。
・ 愛国心でなく祖国愛を
・ 武士道精神の美意識、
ライブドアショックになどにより、今この国が目指している弱肉強食のいわゆるグローバルスタンダードとい う名のアメリカ型株主資本主義が、「日本という国」にとって本当に良いのか議論が分かれるところです。
私自身いままで「努力や実力によって差が出てくるのは仕方がない」と競争社会を肯定する気持があったの は否定できません。やってもやらなくても大して変わらない世の中であれば国の活力が失われていく」と思う 半面、「経済至上主義が果たして人を幸せにするのか」との疑問もありました。
しかしながらこの本を読んで、「目からうろこ」の思いがしたのは私だけでしょうか。
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エンターテイメント27 映 画 (3) 06.01.02
日本映画 「男たちの大和」 東宝シネマ橿原
監督 佐藤 純弥 主演 反町隆士、中村獅童 松山ケンイチ
一昨年2月の「ザ・ラストサムライ」以来2年ぶりに映画館に足を運んだ。60歳を過ぎたことにより免許書を見せると1000円で見ることができたが、得をしたような思いと少し寂しい思いが交錯し、複雑な心境ではありました。
戦艦大和のセットだけで6億円、邦画史上空前の制作費25億円という宣伝文句に恥じず、観客動員でも新記録続出らしい。長淵の主題歌に惹かれ観にくるのかこの手の映画にしては若者の姿も結構多いのに気づいた。不覚にも歳を経るにつけ弱くなる涙腺が早々から全開となってしまった。
物語はある漁村で一人の女性(鈴木京香)が「大和の沈んだ場所へ連れて行ってほしい」と老漁師神尾(仲代達矢)に懇願するところから始まる。この漁師こそ太平洋戦争で日本軍の敗戦が色濃くなっていた頃、特別少年兵として多くの若者たちとともに、戦艦大和に乗船した少年であった。その少年たちを厳しく指導訓練し、ともに戦った上官が、孤児であったこの女性の育ての親内田二兵曹であった。
東シナ海の大和が沈んだ海へ向かう漁船で老船長とともに操船を手伝う幼さの残るイマの少年。あの頃否応なく戦地へと送り出され国のため大和とともに死んでいった少年たちと同世代。
世界最大最強の戦艦と謳われながらも、さしたる活躍の場を与えられず3000名を超える命とともに東シナ海に散った戦艦大和
空前のスケールのセットでの爆撃シーンなどは迫力満点で娯楽映画として大いに見ごたえがあるが、愚かな争いの象徴でもある「大和」の史実の映画化で、敗戦後60年たった今、「あの戦争はナンだったのだろうか」と考えさせる映画でもある。
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エンターテイメント26 昭和(後期)の映画史 (13) 05.12・・
男はつらいよ
2006年の新しい年が明けました。
初詣の参道などを歩いていていつも思うのですが、ふとその辺の露店から「四谷(よつや)赤坂(あかさか)麹町(こうじまち)、チャラチャラ流れるお茶の水、粋(いき)な姐(ねえ)ちゃん立ち小便」 「白く咲いたはユリの花、四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水くさい」「見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」などと、テキヤの寅さんの口上が聞こえてくるような気がします。
はじめて「男はつらいよ」が製作されたのは’69年、それから’95年最後の「寅次郎紅の花」まで26年間で実に48作品が上映されました。その間、第1作の光本幸子から最終編にも出演した浅丘ルリ子まで、マドンナ役にもずいぶん多くの人が出演しました。寅さんすなわち渥美清が’96年68歳で亡くなって10年になりますが、妹サクラ役の賠賞千恵子も最初は20代だったはずですが、その間ずいぶん年もとりました。
山田監督自身の特に好きな作品は、浅丘ルリ子が踊り子リリーを演じた「寅次郎ハイビスカスの花」(’80)だそうですが、私の一番好きな寅サンは「純情編」です。マドンナが昔あこがれた若尾文子が演じているからだけではありません、結婚に失敗した宮本信子演じる絹代が、父親で千造役の森繁久弥が住む田舎へ出戻ってきたときの、親子の対話シーンが忘れられないからです。
この映画は ビデオで何度見てもなぜか涙がでて止まらなくなります。 絹代がどこかの島で危ういところを寅さんに助けられるシーンがあります。彼女には、礼をするべき何も持ち合わせがなく、身体で返そうとする場面がありますが、寅サンは「妹サクラが、そのような目に会い、男がつけいって求めたりしたら、オレはその男を殺すだろう」といって去る場面も忘れられない。
これほどの国民的映画ともなれば、テレビの水戸黄門のように「主役が死ねば他の俳優で」、ということになるのでしょうが、寅さんばかりはそうはいきません。西村晃が演じても里見浩太郎が演じても黄門サンは黄門さんですが、寅さんの場合、他の人が演じればそれは「フーテンの寅さん」ではなくなってしまうからでしょう。この正月もあの懐かしいテーマ曲とともに聞こえてくる名台詞を映画館で聴くことが出来ないのはさびしい限りです。
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」
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エンターテイメント25 昭和(後期)の映画史 (12) 05.11・・
日本映画のスーパースターたち
日経新聞「私の履歴書」の11月には「仲代 達矢」が登場した。
昭和後期の日本映画界を支えた男優スーパースターを私の独断と偏見で5人挙げるとすれば、次の俳優たちとなる。
まず東宝で多くの黒沢作品の主演を努めた「三船敏郎」。(前出 12)
東映では片岡・市川御大のあと、時代劇の看板スターとなった「中村 錦之助」(後に萬屋と改姓)、一心太助や森の石松に扮した威勢のいい姿が目に浮かぶ。同じ東映の現代劇では網走番外地シリーズややくざ映画でならした「高倉 健」、やくざ映画以外にも数々の名作に主演した。
大映は悪名や座頭市シリーズの「勝 新太郎」。
そして演技以前に存在そのものが絵になり、日活の救世主となったスーパースターのなかのスーパースター「石原 裕次郎」。この5人は映画会社別にすらっと出てきます。
新聞を読みながら当時の5大スターに匹敵する人を一人忘れていたのを思いだした。映画会社別に記憶をたどっていくと出てこなかったのは無理もなく、ここでも書いていたように五社協定がありながら、どこの会社にも属せずこれほど数々の大作の主演を努めた俳優は「仲代 達矢」をおいてほかにいないだろう。
今までに私の見た邦画で感激した映画を、これも5本挙げるとすれば五味川 純平の長編小説を映画化した「人間の条件」(1・2部、3・4部ともに’59、完結篇 ’61)と「切腹」(’62)の2本がまず頭に浮かぶ。この名作はいずれも小林 正樹監督 仲代 達矢主演であった。
「梶は鉄条網を抜け出した。やがて、雪が降りだした。「美千子、僕は君のところへ帰るよ」とつぶやきながら梶は倒れた。その上に雪が降りしきった。」(人間の条件)
「窮迫した浪人者が切腹すると称してなにがしかの金品を得て帰ることが流行していた時代、嫌がらせで切腹の場をつくってやると「一両日待ってくれ」と狼狽したばかりか、刀は竹光を差しているていたらくで舌かみ切って無惨な最後をとげた」(切腹)
これらのシーンは40年以上たった今も鮮明に記憶に残っている。
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エンターテイメント24 昭和(後期)の映画史 (11) 05.08・・
印象に残る洋画
小・中学時代、学校の映画会でも運送屋の車庫での興業にもほとんど上映されることが無かった為あまり洋画には縁が無かった。50年代にみた数少ない洋画の中ではじめて映画館で見たのはアンソニー・パーキンス主演の「ロンリーマン」(’57米)だったと記憶している。
その後高校時代に名作映画のリヴァイバル上映などで、チャールトン・ヘストン主演の「十戒」(’57)「ベン・ハー」(’59)などを見てアメリカ映画のスケールと迫力に感心したものです。
はじめてみた外国ミュージカルは「南太平洋」(’58)、この頃には珍しいカラー映画で、珊瑚礁の海がすごく綺麗だったのが印象に残っているものの、台詞が歌でできているため「ナニ・コレ」と云う感じであったことを覚えている。
60年代になって洋画を見る機会も少しは増えてきたが、断崖のロッククライミング シーンが迫力の「ナバロンの要塞」(’61)、何回見たかを競い合ったミュージカルの名作「ウエストサイド物語」(’61)は高校時代。
1963年は私が社会に出た年で、他にあまり娯楽もないその頃のデートはイコール映画であり、なぜか洋画であった。映画の題名でそのとき付合っていた相手を思い出す、以下がその頃見た洋画。新人子役パトロシア・ゴッジ好演の「シベールの日曜日」(’62)。大女優エリザベス・テイラーの超大作「クレオパトラ」(’63)。バックに流れる音楽がすてきだった、クラウディナ・カルディナーレ、ジョージ・チャキリスの「ブーベの恋人」(’63)。最後のどんでん返しが強く印象に残っているジャン・ギャバン、アラン・ドロンのフランス映画「地下室のメロディ」(’63)。
見ていて涙が止まらなくなった、ジャック・レモンの「酒とバラの日々」(’63 )。大ヒットした、ジュリー・アンドリュースの「サウンドオブミュージック」(’65)。スティーブ・マクイーン・岩松マコの感動の名画「砲艦サンパブロ」(’66)。そして圧巻だったのは、’39の製作ながら’65ごろリバイバルで大ヒットした、ヴィヴィアン・リー、クラーク・ケーブル主演、永遠の名画「風と共に去りぬ」。
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エンターテイメント23 昭和(後期)の映画史 (10) 05.07・・
勝新の大映、ロマンポルノの日活
大映で、2枚目俳優としてスタートした勝新太郎は、最初はもうひとつパッとしなかったが、「不知火検校」(’60)で悪徳検校に扮し、一躍個性が開いた。翌年「悪名」、翌々年「座頭市物語」の第1作が製作され、両シリーズは彼の大ヒット作となり、大映のドル箱となった。悪名、続悪名、新悪名、続新悪名と続くが、新悪名で死んだと思っていた八尾の「朝吉」が帰って来たが、田宮二郎扮する人気者の「モートルの貞」は死んでいた。シリーズにするには、ぜひとも田宮演ずるキャラクターは必要であり、次の作品からは弟の「清二」として登場する。こうして「朝吉」と「清二」はきっても切れない名コンビとなる。
銀行時代支店勤務の最後は八尾支店だったが、「朝吉」のモデルとなった人の会社が市内にあった。また原作者の今東光が住職となったお寺の話も聞いた。朝吉を生んだ中河内の八尾は言葉こそ柄は悪いが人情豊かな町であり私の好きな土地となった。
座頭市は悪名以上に勝新の当り役となり、後年勝新自身が監督することにもなった。2枚目俳優ではもうひとつパッとしなかった勝新は、こうしてスーパースターへの階段を上っていく。
この頃からテレビにおされ、日本映画の凋落が始まった。そのうち「やくざ映画」しか客が入らないようになり、高倉健や鶴田浩二の任侠路線が軌道に乗ると、大映までもが江波杏子の女賭博士シリーズを製作し、日活は同じように高橋、渡のやくざ映画を量産する。
同じ頃、藤田敏八 鈴木清順などユニークな監督も出るには出たが、しまいには恥も外聞も捨て、なりふり構わずロマンポルノへと移っていった。そのうち日活は業績不振に陥り、大映は破綻へと向かっていった。あれほど日活映画が好きだった私も、ロマンポルノを見に映画館へ足を運ぶ事は一度もなかった。
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エンターテイメント22 昭和(後期)の映画史 (9) 05.04・・
健さんやくざと緋牡丹お竜
高倉健の任侠映画は’64「日本侠客伝」、’65「網走番外地」、同じく’65「昭和残侠伝」それぞれ第1作目が製作され、シリーズ化された。当時の社会情勢がどう影響したのかよくわかりませんが、こういう映画を上映している映画館は一種異様な雰囲気が漂い、その雰囲気を味わうため映画館へ足を運んだ人も多かった。ストーリーは大体決まっていて、悪一家に散々やられて辛抱に辛抱を重ね、ついに我慢の限界で最後の最後に一人で相手先へ乗り込んでいく。
殴りこみの日はたいてい雪が降っていて、途中鶴田浩二か池部良が傘を差し出し、ともに悪やくざ一家へむかうことになります。深夜興行などの映画館で「いよっー健さん!」と声がかかるのを聞いた事があります。「出入り」が済むと警官が待っていて、またムショの人となる。’
69ごろから「緋牡丹博徒」のお竜さん参上となりました。当時の東映プロデューサーの娘、藤純子が女賭博師に扮し、これがまたなんとも美しく絵になった。やくざ映画の良さはこの任侠道の形式美にあって、こののち深作欣二監督の「仁義なき戦い」など実録ものといわれるものが大ヒットするが、私の場合どちらかというと健さんの唐獅子牡丹などのほうがすきでした。
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エンターテイメント21 昭和(後期)の映画史 (8) 05.03・・
東宝の若大将と尤敏(ユーミン)
裕次郎の出現は映画界にとって衝撃的でもあり、ファンにとっては今までになかったタイプのスター誕生であった。太陽の季節でデビューした彼の魅力は不良っぽいところにあったが、60年代にはいってすぐ、みるからに健康的なスポーツマンで、育ちが良く、なんとも爽やかな青年が東宝に現れた、二枚目俳優上原謙と女優小桜葉子を両親に持つ加山雄三である。彼が主演の若大将シリーズはその後東宝のドル箱となる。相手役は星由里子、青大将役の田中邦衛は、いやな役をやって本当にいやな奴に見えたが、その後存在感のある役者へと成長していった。
私はサユリストであったが、同級生に熱烈な星由里子ファンがいました。
この頃香港や台湾の女優が相次いで日本映画で活躍した。一人は「香港の夜」(’61東宝)で宝田明の相手役をした尤敏(ユーミン)。もう一人は裕次郎主演「金門島にかける橋」(’62日活)のヒロインとなった華欣(ファーシン)。私にとってのユーミンは松任谷由美でなく、尤敏であり、なんとも美しくチャーミングな女優ではあった。前述の「香港の夜」で注目された彼女はその後「香港の星」(’62)に出演し、森繁の社長シリーズ「社長洋行記」「続社長洋行記」(ともに’62)に出、最後に「ホノルル・東京・香港」(’62)に出演した。もちろん5作とも全部見ています。
私の周りの同級生もみなこの香港女優に魅了され、サユリストも星由里子ファンも一時休憩となった。その後香港で実業家と結婚し、芸能界から引退したと聞いている。香港へは二度行く機会があったが、そのときふと思い出し、「この街のどこかにいるのだろうなあ」などと思った。そのうち東映でやくざ映画が大当たりし、日活でも高橋・渡の任侠ものの製作が増えていき、なんとなく青春映画は日活から東宝へと移っていったような感があった。東宝青春映画では若大将コンビのほか、黒澤年男、浜美枝、酒井和歌子、内藤洋子らが活躍した。 20 Trip&Tour (2) 05.03.21 世界遺産 吉野山
昨年、紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に指定されました。霊場は主として修験道の拠点である「吉野・大峯」、熊野信仰の中心地である「熊野三山」、真言密教の中心地である「高野山」の3ヶ所からなり、これらの3つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」は太古の昔より大勢の信仰者を惹きつけ、日本人の精神・文化面に、重要な影響を与えてきました。
選ばれた最大の要素は、自然の霊場性などにあるのでしょうが、吉野郡で育った私にとっては、身近なところでの世界遺産と言う事でなにか誇らしい気持ちでもあります。
大峯山については、私の田舎にはその習慣はありませんでしたが、男子が一定の年齢に達すると親戚か近所の人とかで登山し、命綱は付けているものの、千尋の谷へ落とす振りをされ、「親に孝行するか?」などと問われた経験を、知り合いから聞いたことがあります。
カミさんの父は謹厳実直な人で、趣味といえば休みの日、近くの川で一日中釣糸を垂れるか、詩吟教室で鍛えたのどで「鞭声粛々」などをうなることぐらいで、酒も飲まず賭け事も何一つしない人でありました。義父の最大の楽しみは一人娘のカミさんや孫の為、小遣いを貯めては年に2~3回義母とともに遠い関東からやって来る事でした。
我が家からそう遠くないところに名所旧跡が結構多いこともあって、来るたび奈良や京都、吉野や明日香、伊勢や伊賀など日帰りでいけるところにはほとんど行きました。年の割にはシャイなところのある義父は、どこへ行っても何を食べても素直に「良かった」とか「旨かった」とは言わない人でしたが、最後に行った高野山だけは「いいところへ連れて行ってくれた」と珍しく喜んでくれましたが、それを最後に交通事故のため67才の若さで亡くなりました。
私にはよくわかりませんが、高野山には何か義父の心をひきつけるものがあったのでしょうか。そういえば38年間お世話になった銀行の先輩方が祀られているのも高野山でした。
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エンターテイメント19 05.02・・ 昭和(後期)の映画史 (7)
日活青春映画と吉永小百合
スポーツの国際試合ならともかく、テレビドラマの開始時間に合わせ帰宅した事などかつて無かったと思います。1月でしたか石原慎太郎原作の「弟」が、テレビドラマ化され、5日連続で放送され、裕次郎ファンとしては大変楽しく見させて貰いました。’60代初め日活ではその戦後最大のスター石原裕次郎を軸とする「ダイアモンドライン」と称する男優陣のアクション映画と並行して、吉永小百合を中心とする青春モノも多く作られています。
私がはじめて彼女をスクリーンで見たのは、若くしてこの世を去った和製「ジェームス・ディーン」といわれた赤木圭一郎主演の「霧笛が俺を呼んでいる」(’60)でだったと思いますが、そのときの可憐さは今でもはっきり記憶に残っています。
その後、浦山桐郎の力作「キューポラのある街」(’62)に主演し、かわいさだけでなく演技力もあるところが証明され、一躍日活の看板女優となりました。
それからは男性アクション映画の相手役としてではなく、川端康成「伊豆の踊り子」(’63)三島由紀夫「潮騒」(’64)大仏次郎「帰郷」(’64)太宰治「真白き富士の嶺」(’63)(「葉桜と魔笛」を改題)など文学小説を映画化したものや、石坂洋次郎原作の「草を刈る娘」(’62)「青い山脈」(’63)「光る海」(’63)など多くの青春モノに主演しました。
「キューポラ・・・」のあと、中平康が監督した上流家庭外交官の娘とチンピラの純愛物語、「泥だらけの純情」(’63)が印象に残っています。
また当時若い娘が顔面の腫瘍に冒され、その恋人に励まされながら死んでいく実話が出版され、これを映画化したマコとミコの「愛と死をみつめて」(’64斉藤武市監督)は若者の注目を集め大ヒットしました。
’60代に裕次郎と共演した2作品、裕ちゃん骨折からの再起第1作「あいつと私」と(’61中平康監督)、「若い人」(’62西川克巳監督)はともに好きな映画である。
上記「泥だらけ・・・」「愛と死・・・」両作品はじめ、小百合映画の相手役の多くは浜田光夫でしたが、他に今はテレビの時代劇などでおなじみの高橋英樹(「激流に生きる男」「雨の中に消えて」「帰郷」「伊豆の踊り子」「こんにちは20歳」)、や渡哲也(白鳥’66、だれの椅子?’68)との共演もあり、坂本九(上を向いて歩こう)や橋幸夫(いつでも夢を)とも共演した。浜田は演技力もあり、好感が持てる役者であったが、目に大怪我をしたあと、なかず飛ばずとなってしまったのは残念である。
吉永小百合は今年還暦を迎えるはずですが、4年程前、シャープ主催の「長崎ぶらぶら節」の試写会の舞台挨拶ではじめて「生」を見ました。最近ではその家電メーカーの宣伝などで見る最近の彼女も結構美しい、出来得るならまだきれいなうちに引退してほしいと思うのは、サユリストの一人である私だけの思いなのであろうか。
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エンターテイメント18 05.01・・ 昭和(後期)の映画史 (6)
二枚看板
映画が娯楽の王様だったころ、「五社協定」(前出13)のなかで述べた5社以外にも「新東宝」があり、東映は「第二東映」を作ったため、7配給系統となり、邦画だけで7つの封切館で新作を上映していました。この頃は2本立が普通でしたから毎月(毎週だったかもしれない)14本もの新作を量産していたことになります。まさに日本映画全盛でした。
当時どこの映画会社も二枚看板がいたことを、昨年小林旭ショーの中で本人が言っていたと、このショーを見た人から聞きました。そういえば、日活では裕次郎と小林旭、東映では錦之助と橋蔵、大映では勝と雷蔵、東宝は三船と鶴田浩二?だったでしょうか、松竹では佐田啓二や田村高広ではちょっと古いし、渥美清はもう少しあとに「寅さん」で一枚看板になりますが、この当時は津川雅彦ぐらいか、ちょっと思い浮かびません、新東宝には高島忠夫、菅原文太がいました。
これも小林旭がショーの中で語っていたそうですが、「裕ちゃんとは世間で言われるほど仲が悪かったわけではなく、裕次郎派と旭派が何かと反目していただけだ」と。「裕次郎を人気の点で抜いた時期があったが、巨人の長島と王選手のように、ギャラではとうとう抜くことが出来なかった」ことも。
当時日活の2大スターは「錆びたナイフ」で共演していますが、この映画の主題歌がラジオから流れるのを必死で覚えたのを思い出しています。
残念ながら、その後真に映画スターと呼べるような人は出ていないし、映画女優もいなくなって久しい。いまの映画はスターでなくテレビタレントが出ているだけですが、あの当時は裕ちゃんにしてもアキラにしても相手役の北原三枝にしても浅丘ルリ子にしても輝いていました。
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エンターテイメント17 私の読書歴 (9) 04.12.12
浅田 次郎と「蒼穹の昴」
「蒼穹の昴」が文庫本になった。
かつて同じ部にいた友人から、2冊の単行本が送られてきた事があった。そのときはお互い営業店へ出ていたが、読書家の彼にはかねがね「いい小説に出会ったら教えて欲しい」と頼んであった。私には、「自分が読んだ本は必ず自分の書棚に置いておきたい」というこだわりがあり、好きな本で貸したものが返ってこなかったときなど、わざわざ買いに行ったこともあった。それでもせっかく送られてきて手元にあるので、それを読ませてもらうことにした。「蒼穹の昴」上下、浅田次郎との出会いでした。
読み終えたあと私はすぐ本屋で彼の作品を探し、文庫になっていた「地下鉄に乗って」を買った。この2作で浅田次郎とは只者でないと思った私は、売れっ子となって、つぎつぎとハードカバーが書店に並ぶのをいまや遅しと買っては帰りほとんど読んでいる。
「蒼穹の昴」副産物の「珍妃の井戸」はじめ「日輪の遺産」「天切り松闇語り」「活動写真の女」「シェーラザード」「霞町物語」「姫椿」「待つ女」「壬生義士伝」「薔薇盗人」「天国への100マイル」「血まみれのマリア」「歩兵の本領」「王妃の館」「椿山課長の7日間」「沙高楼綺譚」等々の長・中篇も良いが、この人の本領は短編でしょう。「月のしずく」「見知らぬ妻へ」そして、あの「鉄道員(ぽっぽや)」も「鉄道員」という短編集の中にあった。他に「プリズンホテル」「きんぴか」シリーズも面白い。
「蒼穹・・」は前に読んで8年経っていますが、上に書いた理由で私の書棚にはない、文庫になったら買ってもう一度読もうと決めていたが4巻となってやっと出た。このたび再読して、またしても浅田作品の魅力を再認識することになった。
この物語は清朝の時代、燃料用の牛馬の糞拾いを生活の糧とする貧しいが、利発な少年「春児(チュンル)」が自ら男の大事なところをちょん切り、ついには紫禁城で西太后直々に仕える宦官の頂上に。
同じ簗家屯地方の名主の次男「簗文秀(リャンウエンシウ)」が科挙の難関を次々と突破して、挙士となり、「月日も動かす」進士に、しかも状元という最優秀の成績で登第されていくという二人の出世物語である。 ところどころに出てくる狂言回し役、「白太太」老婆の「予言」がこの小説の面白さの味付けとなっている。
日本との戦争(日清戦争)に負け、列強に領土を侵食されつつあった断末魔の清朝末期、宮中、政界では西太后(シータイホー)系旧守 派と皇上系変法派に別れ、紛糾していた。そのころ変法派の「文秀」は宰相に近い位置にまで上り詰めており、宦官の最高位には「大総管太監」に出世した「春児」がいた。
陳舜臣が巻末の解説で『この「蒼穹の昴」は破天荒な小説である』とし、「日本は中国から多くのものを吸収したが、科挙と宦官の制度だけはついに採用しなかった」と書いている。この小説はまさにその科挙と宦官の物語でもある。「破天荒」とか「圧巻」という言葉は科挙用語であるという。
イギリスとの香港割譲の交渉ではあくまでも「租借」とし、返還の時期を中国では永遠の意味をもつ99年後とした話はあまりにも有名であります。小説によるとこのときの交渉はプレジゼント・リー(李鴻章)であったということですが、この返還はつい最近の現実の出来事であり「なるほど」とうならせる、
この人の場合、フィクションと思っていたところがノンフィクションであったり、逆もあったりで読者をだますのが上手で心憎いほど小説が巧い。
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エンターテイメント16 私の読書歴 (8) 04.11.14
遠藤 周作と「深い河 」
遠藤周作といえば、機知に富んだエッセイやユーモア小説を生み、またテレビで女優さんとの対談などで見せたおとぼけの素顔を思い出します。氏はそのような人柄からは想像も出来ない、シリアスな作品を残しており、このギャップが魅力でもありました。
前者には「オバカさん」、「大変だァ」、「孤狸庵閑話」等があり楽しく読んだ記憶がありますが、作者自身がクリスチャンということもあり「海と毒薬」、「沈黙」や晩年の作品「深い河」など、キリスト教の「原罪」をテーマにしたものなどが、氏の本質であろうと思います。
「時代小説もかなり書いていますが、ハードカバーの分厚い本で信長の妹「お市」から秀吉の子秀頼の妻となった「千姫」までの、戦国武将たちの政略の犠牲となりながらも、歴史を裏から支えた女性たちを描いた「女」という長編も読み応えがありました。
「深い河」は、氏の小説の中でも最も好きな作品であり、映画にもなりました。 私の大変親しくさせていただいている銀行の先輩Kさんの長男は大手建設会社に入社し、仕事でインドに行っています。約 8億という中国に次ぐ膨大な人口をもった国、釈迦が生まれ、仏教が発祥した地、カースト制という世にも不条理な制度を持ちつづける国。
この小説は、このような国インドへ向かうことになる日本人たちの姿を描いたものです。一人の男は、いまわの際に「生まれ変わった私を探して欲しい」といった妻の転生の奇跡を見出すために、ある者は戦友の法要のために、またあるものは動物への恩返しのために、そして一人の女は、彼女の誘惑に負け、それまで信仰していた神を捨てた落ちこぼれの神学者の愛とは何なのかを知るために。
ヒンズー教徒の彼らは人間の形をしながら、人間らしい時間のひとかけらも無かった人生で、ガンジス河で死ぬことだけを最後の望みとして町にたどり着く。彼女は、かつてからかうためもてあそんだ、あまりに真面目で不器用な彼が、ガンジス河のほとりで行き倒れた人たちを運びつづける姿を見つける。
火葬された死人の灰がまかれ、死体を流すその横で、沐浴する人たちで溢れるガンジス河、そして悠久のときを、絶えることなく流れつづけてきたガンジス河は、これからも善も悪も、清も濁も、あらゆる不条理をも流しつづけていくのでしょう。
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エンターテイメント15 私の読書歴 (7) 04.11.07
吉川 「武蔵 」
書棚の奥に眠っていた「宮本武蔵」全8巻を読み返していると、小学3年のとき国語の時間がすごく楽しみだったことがよみがえってきます。
当時全校生徒が100人にも満たない山間部の小学校でしたが、そこへ新しい先生が赴任してこられました。その先生の授業では「宮本武蔵」の朗読が毎回連続で行われることが大きな魅力でした。教室中響き渡る声で語ってくれる「一乗寺下がり松の決闘」の場面などはへたな講談師よりよほど迫力があったのを覚えています。
「武蔵」と言えば吉川英治ですが、昭和10年8月23日~昭和12年5月20日、昭和13年1月1日~昭和14年7月11日の2回にわたり東西朝日新聞夕刊に連載されたといいます、挿絵は岩田専太郎でした。
私の文庫本は「昭和50年7月一刷、53年7月第十刷講談社文庫本」で、それからでも25年以上も経っております。当時吉川武蔵を読んで、「剣の道を極めるためひたすら武者修行に明け暮れ、「剣聖」とまで呼ばれるようになった武蔵の、剣豪としての一面だけが強く印象に残っていました。
今回読み返してみて別の一面を強く感じています。小説では、本阿弥光悦との出会いがあり、交流を深めるシーンがありますが、分野は違っても一芸に秀でた者同士には何かあい惹かれるものがあるのでしょう。また光悦に誘われ灰屋紹由とともに、絢爛たる郭に遊ぶシーンがあります。
教養、識見など当時一流の人物であったといわれた「吉野太夫」が、追われる武蔵を匿い、琵琶の「張り詰めた弦」をたとえに、遊びがない(武蔵が)ことを諭す場面がありますが、太夫を絡ませて描かれていた事など記憶になかったことです。ヒロインお通との恋も今読んでみてプラトニックゆえに胸をうつものがあります。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。能能吟味有るべきもの也」・・・私は読んでませんが、宮本武蔵の「五輪書」の一節だそうです。
司馬遼太郎の「真説宮本武蔵」によれば、吉岡道場との経緯など史実とはかなり違うようですし実在の武蔵は気位とともに実に計算高い人で、吉岡道場以降は自分より強いと思える者は相手にしなかったようですし、それが武蔵の兵法ともいえるようです。引き立て役本位田又八やヒロインお通なども創作の人物ですし、吉川武蔵は養子となった伊織が後に誇張して書いたものにかなり近いようです。
武蔵は晩年を熊本で過ごしています。肥後藩主細川忠利に招かれ、現在の熊本市千葉城町に居を構え、忠利の相談役を務めました。忠利没後は失意のもと霊巌洞にこもり、自己の武道の集大成ともいえる「五輪書」を書き上げました。したした。
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エンターテイメント14 Trip&Tour (1) 04.10.10
上海はいま
上海が懐かしい。会社の海外研修で上海、蘇州、東莞(トンガン)、香港などへ行ったのは平成9年11月、来月で丸7年となりますが、上海の街はこの間にまた大きく変貌していることでしょう。
空港に降り立って駅への道を歩いていると、小銭をねだる子供達がしがみついてきたり、上海駅ではベンチというベンチに土色をした大人達が微動もせず座り続けていたり、庶民の市場では蛇や亀などが店先に並んでいるという光景が目に焼き付いています。
一方では高速道路の工事や、高層ビルの建設ラッシュがあちこちで見られ、日本から進出したデパート「ヤオハン」などには、高級車初め、当時大人気のナイキのシューズなどものがあふれていました。あのとき感じた上海は、いまの東京と、敗戦直後のそれが同時にある国という感じでした。
蘇州へ向かう列車の中では中国らしい情景に出くわしました。私達が座るはずの座席に先客がいて、指定席券を見せても席をゆずろうとしない。現地の中国人ガイドに頼んで車掌に話してもらったところ、「座っているのは(車掌の)友人だから指定席券を持っている人より優先する」というようなことを言ったらしい。彼女の抗議でやっとわれわれ一行全員座れたものの、さすが中国は聞きしに勝る「人治国家」だと、妙なところで感心しました。
蘇州で1泊(2泊だったか?)した後上海へ戻りここで2泊した後、空路香港へ飛び、九龍半島をワゴンカーで再度中国に入った。そのとき香港は復帰前であったため、当然のことながら国境を越えるとき、「税関」を通過せねばならなかった。当時香港支店の行員らは、国境を越えて深センの近くまでゴルフをしに行くといっていた、このとき「免税店でまとめ買いするマイルドセブンの減税分が馬鹿にならない」とも云っていた。
国境を越えたとたん、左側通行の車(香港は復帰前日本と同じ左側通行)が、右側通行に変わるのが印象に残っています。深センを通り取引先企業のある東莞へと向かった。このあたりはあの「食は広州にあり」の広州なのだろうが、招待を受けた豪華な中国料理の昼食も、私達の口には合いませんでした。
上海ではもちろん、蘇州でも例の「経済特区」とやらがあり、研修旅行であったため、毎日のように特区の責任者や日本からの進出企業の人たちに会った。このときは通り過ぎただけであった深センは、数年前まで畑ばかりで人口数万人の農村だったというが、そのころ数百万人の大都市となっていました。
ジェトロの上海事務所にいた人がそのままこの地に残り、日本からの進出企業の支援などする会社を作っていた。その人から「経済発展で貧富の差が大きくなりすぎ、いつ暴動が起こっても不思議でない」という話を聞いたが、今のところ杞憂に終わっています。
中国はその後も驚異的な経済発展を続けており、ずいぶん豊かになっていると聞きますが、低所得の人たちも少しは底上げされているのでしょうか。空港前のストリートチルドレンや、上海駅の座りっぱなしの土色をした大人たち、中国料理屋の地下にあったあの怪しげなカラオケスナックの若い女性達、日本人と見るとなんでも「センエン、センエン」といって追いかけてきた物売り、等々は今も変わっていないのだろうか。
そして「豫園」の近くでなぜか私を追いかけて来ようとした、子供連れの薄汚れたあの中年女性はいったい何だったのでしょうか。蘇州で見た、人々が湧いて出てくるような朝のすさまじい自転車通勤の風景は今もあのままなのでしょうか。
ところでこの時のメンバーの皆さん、途絶えている「中国料理を食べる会」やりましょうよ、幹事役のFさんまたお世話願えませんか。
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エンターテイメント13 06.10・・
昭和(後期)の映画史 (5) 五社協定 (’60代)
映画全盛のころ、東映、東宝、松竹、日活、大映の間に「五社協定」というものがありました。このため、専属契約を結ぶと独立プロを作ることや、他社の作品に出演することができなかった。そうしたなかで日ごろから「俳優は男子一生の仕事にあらず」といっていた裕次郎が独立プロを作ろうと動いたが、協定の壁が厚くなかなか進まなかった。
結局日活が興業権をもったまま、いわば企業内独立プロのような形でできたのが石原プロモーションで、第1回作品は市川昆監督の「太平洋ひとりぼっち」(’63)だったと思います。
この映画でヨットがアメリカの港へへ着いたとき「みんな英語や」という東京なまりの大阪弁はちょっといただけなかった記憶がありますが、市川作品らしい良い映画になりました。
石原プロで、裕次郎には数少ない時代劇「城取り」(’65)などを製作しました。その後’70「ある兵士の賭け」’71「蘇える大地」などが興業的にはあまりぱっとせず、天下の裕次郎も借金がかさみ、窮地に立たされた事がありました。余談ですが、そのとき渡哲也が自分の貯めたお金を「使ってください」と持っていった話は有名であり、その後男と男の絆はより強固なものとなりました。
4人ともすべて故人となってしまいましたが、当時日活には石原裕次郎、東宝に三船敏郎、大映に勝新太郎、東映には中村(萬谷)錦之助がそれぞれトップスターとして君臨していました。映画ファンとしては「スーパースター達の共演映画」を見たい気持ちはありましたが、この五社協定なるものの為実現が難しかった。
のちに ’68「黒部の太陽」で裕次郎と三船、’69「人斬り」で勝新と裕次郎、’69「風林火山」で三船・錦之助・裕次郎が共演し、ついに、’70には4大スター共演の「待ち伏せ」という映画が製作された。
これらの映画のなかで、私にとってはやはり石原プロ、三船プロ共同製作で熊井啓が監督した「黒部の太陽」が見ごたえがあり一番印象に残っています。
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エンターテイメント№12 04.10・・
昭和(後期)の映画史 (4)
世界の巨匠 黒澤 明 (’50~’90代)
黒澤監督が’98年、88歳で亡くなって早や6年になります。名作「羅生門」(’50大映)「生きる」(’52 以下全作品東宝)「七人の侍」(’54)「どん底」(’57)は後にテレビなどでみましたが、映画館で観た最初の黒澤作品は「隠し砦の三悪人」(’58)であったと思います。上原美佐という新人女優を起用したことが当時話題となり、脇役の千秋実、藤原鎌足がいい味をだしていたのを記憶しています。
「用心棒」(’61)「椿三十郎」(’62)も三船敏郎主演で大ヒット、用心棒ではジェリー藤尾が片腕を切り落とされるシーン、椿三十郎の最後のシーンで仲代達矢の心臓から血が吹き出るシーンなどは、モノクロでありながら黒澤監督ならではの迫力ではありました。
のちにアメリカ映画でユル・ブリンナー、スティーブ・マクイーン、チャ―ルス・ブロンソンらの豪華キャストで大ヒットした「荒野の七人」’60米)は日本映画「七人の侍」のリメーク版であるのはあまりにも有名ですが、このように、黒澤時代劇は海外でも大いに評価されました。一方現代劇では、社会の悪に挑んだ作品、当時流行語になった「悪い奴ほどよく眠る」(’60)や、身代金誘拐事件で犯人役の山崎努が印象に残っている、「天国と地獄」(’63)なども手に汗して見たものです。
また山本周五郎の原作を映画化した「赤ひげ」(’65)は黒澤活劇とはまた違った、人間味あふれる映画ではあり、監督の他の一面であったと思います。その後はますます寡作となり、「どですかでん」(’70)「影武者」(’80)「乱」(’85)「夢」(’90)「8月の狂詩曲」(’91松竹)などを撮り、「まあだだよ」(’93)が最後の作品となりました。
どれをとっても大作かつ完成度の高いものばかりであったこの大監督作品のなかで、代表作を一作だけ私が選ぶとすれば、質量ともに最大作であった「影武者」になるのではないかと思います。
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エンターテイメント11 04.07・・
昭和(後期)の映画史 (3)
日活アクションと石原裕次郎 高校のあった小さな市に、在学当時映画館が8館もありました。学校の帰りにはよく三本立50円の映画館へ行ったものです。
そのころの日活はアクション映画全盛で、男優陣にはダイヤモンド・ラインというのがあって、タフ・ガイ裕次郎を頂点として、マイト・ガイ小林旭、第三の男赤木圭一郎、和田浩治らで構成、赤木圭一郎急死のあと、エースのジョーこと宍戸錠、ダンプ・ガイ二谷英明などもダイヤモンドライン加わり、主演に回った。
当時人気があったのが、国会議員を長くやっていた原健三郎原作で、小林旭主演の「ギターを持った渡り鳥」(’59)を初めとする渡り鳥シリーズなどの無国籍映画であった。時代考証やストーリーなどどうでもよく、敵役のジョーや無国籍人に扮する藤村有広などが面白く楽しい映画ではあった。日活には直後に高橋英樹、少し遅れて渡哲也が入ってくる。
石原裕次郎が衝撃的に映画界へ現れたのは私の高校生時代より少し前であったが、デビュー作「太陽の季節」、「狂った果実」(’56)(いずれも石原慎太郎原作)、続いて田坂具隆監督「乳母車」(’56)蔵原惟繕監督「俺は待ってるぜ」(’57)、などを経て。「勝利者」「嵐を呼ぶ男」(ともに’57井上梅次監督)などで人気を不動のものとし、まさにスーパースターへ階段を昇っていった。
裕ちゃんはタフ・ガイといわれ、アクションものが多かったが、源氏鶏太の「喧嘩太郎」、石坂洋次郎の「若い人」など文芸モノも結構良かった。全盛のころは、裕次郎主演映画だけで年間10本以上も製作され、どれもが映画館をいっぱいにし、立って観たことなど今では信じられないことである。
一方女優陣はパールラインといい、(裕次郎と結婚するため女優トップスターの北原三枝が引退したのち、)浅丘ルリ子、芦川いずみ、笹森礼子、吉永小百合、松原千恵子、和泉雅子などが人気を集めた。
カミさんと観た唯一の裕次郎映画は、新宿日活での「栄光への5000キロ」(’69蔵原惟繕監督)。
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エンターテイメント10 04.07・・
昭和(後期)の映画史 (2)
‘50年代の大スターと見た映画 50年代は、私自身にとって見たい映画を選ぶ事は出来ない時期ではありました。山深い村に映画館があるわけがなく、学校や倉庫でたまに上映されるものを唯一の例外(学校で禁止された溝口監督作品「赤線地帯」)を除いて全部見た。いわば’あてがいぶち’を見るだけで、それ以外映画に触れる機会はほとんど無かった。
この頃、映画の中で次のような大スターにめぐり合っている。
東映は片岡千恵蔵、市川右太衛門両大御所(他に月形龍之介、近衛十四郎、大友柳太郎らがいた、悪役に進藤英太郎、山形勲、加賀邦男などがいた。相手役女優は千原しのぶ 丘さとみ、高千穂ひずる などであった)。
日活では裕次郎の作品などで重厚な演技をした宇野重吉・轟由起子がいて、高品格という特異な俳優もいた。
大映の主演スターは長谷川一夫、大分遅れて川崎敬三、相手役は淡島千景他に京マチ子、山本富士子など。
松竹で高田浩吉、相手役は嵯峨美智子、草笛光子など。 他の大物女優に有馬稲子、岡田茉莉子、小山明子もいた)。
東宝では黒沢映画によく出た 三船敏郎、鞍馬天狗の嵐寛寿郎(その後新東宝で前出の天皇映画などに出演)。
年に1~2度オールスターキャストと銘打って東映が製作する、「忠臣蔵」ものか「清水港の次郎長」ものをよく見た。その名の通り片岡・市川両御大はじめ主演級俳優総出演は壮観であった。
大映では長谷川一夫主演映画のひとつ、怪談’お菊と播磨’の「番町皿屋敷」(’54)は、見たあとしばらく一人でトイレにいけなかった。他に「残菊物語」(’56)もみた。長谷川伸原作ご存知’鯉名の銀平’「雪の渡り鳥」(’57)、駒形茂兵衛「1本刀土俵入り」(’60)の2本は三波春夫の主題歌とともに思い出す。
その他印象に残っているものは三船 志村(喬)の「男ありて」(’55)、久松静児監督森繁久弥の「警察日記」(’55子役の二木てるみは今どうしているのか)、加東大介主演「大番」(’58)、伴淳・アチャコの「二等兵物語」(’58)等々。最近亡くなった三橋達也はその後東宝で活躍するが、この当時は日活にでていた。
フリーの女優で大きな人を失念していた、溝口監督・黒澤監督作品にもよく出ていた香川京子。
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エンターテイメント9 04.06・・
昭和(後期)の映画史 (1)
ふるさとの学校や倉庫で見た映画 私が少年のころは映画が最大の娯楽でした。映画館などあるわけがない山村で見ることができたものは、学校などが主催する「映画会」か、運送屋さんの倉庫で筵を敷いての「興業」か、のどちらかであった。
小学校の講堂で見た映画、木下恵介監督「二十四の瞳」(’54松竹)、子供たちが、童謡を歌いながら暮れゆく小豆島の山道や海岸通を歩くシーンを思い出す。大石先生に扮した高峰秀子の好演もこの頃なりによく理解できた。
「ビルマの土は赤い、そして岩(石だったか?)も又赤い」という字が画面いっぱいに出てきた。中学の体育館で上映された市川 崑監督の「ビルマの竪琴」(’57日活)の1シーン。その後も同監督で再映画化されたが、安井昌二が主演した最初の作品はその頃なりに感動を覚えた映画であった。
講堂やガレージではどこかと掛け持ちで映写しているのか、フィルムの到着が遅れたこと、そのフィルムが途中で切れてしまい、いらいらして復旧を待ったこと、晴天のシーンでも画面に雨が降っていたこと、クライマックスになると館内で拍手が起こったりしたことなどを思い出す。
時折興業のあった倉庫で、溝口健二監督、若尾文子主演の名作「赤線地帯」(’56大映)を上映する事になったが、事前に学校から「禁止令」が出、見に行くことができなかった。この映画は私が所有している映画のビデオ約500本の中にもなく、いままで見る機会がなかった。
当時経営基盤が脆弱だった新東宝が、社運をかけて製作した大作「明治天皇と日露大戦争」(’57)、「天皇・皇后と日清戦争」(’58)が大ヒットした。天皇役の嵐寛寿郎は適役だったし、高倉みゆきは皇后女優とまで言われた。
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エンターテイメント8 私の読書暦 (6) 04.05・・
城山 三郎と「落日燃ゆ」
城山三郎も私の好きな作家の一人である。初めて読んだ氏の小説は社会人になりたてのころ百貨店の白木屋乗っ取り事件を描いた「乗っ取り」であった。
我が家の本棚には、大正時代の商社・鈴木商店の盛衰を描いた、「鼠」、後で述べる「落日燃ゆ」、倉敷紡績を育て、クラレを興し、大原美術館を創った大原孫三郎の「わしの眼は十年先が見える」、「毎日が日曜日」、「ビジネスマンの父より息子への手紙」、財界総理と言われた石坂泰三の世界「もう君にはたのまない」、元国鉄総裁の石田礼助の生涯「粗にして野だが卑ではない」、などがならんでいる。
気骨のある経済界の人物を描いた伝記ものが多く、高度成長期のビジネスマンにとって格好の読み物であった。また城山小説は題名に惹かれるものが多く、たいてい書き下ろしのハードカバー本を買っている。
数多い作品のなかでも「落日燃ゆ」はもっとも好きな小説の一冊である。東京裁判の判決を受け、7人のA級戦犯が処刑された。広田弘毅はその処刑者の中のただ一人の文官である。戦前、戦中を通し、軍部の暴走を何とかして止めようとした主人公は、戦後、そのことに何ら言い訳をせず、死んでいったのだ。
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エンターテイメント7 私の読書歴 (5) 04.05.・・
新田 次郎
売れてる作家 太郎・次郎・三郎のうち、前回は司馬遼太郎について書いた、今回は新田次郎。
気象庁の職員であったときから小説を書き始め、実際に富士山の山頂に測候所を設置した経験をもとに「芙蓉の人」を書き、後に石原プロが裕次郎主演で「富士山頂」と言う題名で映画化した。
「孤高の人」「栄光の岩壁」「銀嶺の人」「強力伝」(第34回直木賞受賞)「八甲田山死の彷徨」など山岳小説が多いが、サンゴ漁という珍しい分野で、一攫千金を狙う波乱万丈のサンゴ漁師を描いた「珊瑚」も手に汗して読んだ記憶がある。
「八甲田山・・・」も高倉 健の主演で「八甲田山」と題して映画化された。死の行軍で多くの兵隊が命を失っているが。一方無事だった部隊があり、その違いが明らかにされている。映画の中でも、冬山の寒さの厳しさをよく描いており、発狂したり、凍死する姿が印象に残っている。
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エンターテイメント 6 私の読書歴 (4) 04.05.・・
司馬 遼太郎
よく売れている作家 3人を「太郎、次郎、三郎(司馬遼太郎、新田次郎、城山三郎)」などと言った時期がありました。
司馬遼太郎との出会いは、「竜馬はゆく」全5巻(S39初版、49文芸春秋刊)であった。その後、順不同で「梟の城」「燃えよ剣」「新撰組血風録」「国盗り物語」「関が原」「義経」「幕末」「韃靼疾風録」「花神」「坂の上の雲」「翔ぶがごとく」など夢中で読んでいった。小説以外に紀行文「街道をいく」シリーズや随筆「この国のかたち」など膨大な著作を残している。
氏の作品に「十六の話」(H5年中央公論社)という単行本がある。その名のとおり随筆16篇が収められているが、その本の「華厳をめぐる話」のなかに「東大寺と井上博道氏のこと」という一編がある。私が富雄支店時代親しくさせていただいた写真家で大阪美大の教授でもあられた井上氏のことが書かれている。当時よく店頭に来られていた教授の奥様のことも出てくる。店頭で見かけた奥様にお願いして、その本に博道氏のサインをもらうことができ私の大切な本となっている。
「竜馬がゆく」は、学生時代あまり小説を読まなかった息子に何とか活字に親しませようとして薦め、やっと小説の面白さをわからせることができた本でもあり、私にとっては司馬遼の原点でもある。
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エンターテイメント5 私の読書歴 (3) 04.05.・・
カッパの本と松本清張
カッパの本(光文社)が全盛だった時期がある。文庫本より少し縦に大きめで、カラーの表紙に書かれた題名に惹かれてよく買ったものです。「松本清張」や「高木彬光」の推理小説のほか、「ノストラダムスの大予言」のようなセンセーショナルなものが多かったように思う。
清張の著作は推理ものといっても、今本屋でところ狭しと並んでいるミステリー物などとは格が違うように思えてならない。我が家にある清張の推理小説の題名を挙げてみると。「ゼロの焦点」(S34初版・S49版)、「点と線」(S35初版・S49版)、「黒い画集」(同)「眼の壁」(同)「黄色い風土」(S37初版・S49版)、「蒼い描点」(S35初版・S50版)、「告訴せず」(S49初版)、「生けるパスカル」(S45初版・S49版)、「Dの複合」(S43初版・S50版)などで、映画化されたものも少なくはない。
そして清張でもう一冊、昭和24年に起こったいわゆる「下山事件」や、昭和27年の「白鳥事件」などを描いた問題作「日本の夜と霧」がある。「文芸春秋新社刊S35初版、同年3刷」となっているのだが、この頃はまだ高校生(16歳)、当時この本を買う機会はなかったと思われるので、後に古本屋ででも探したのであろうか、よく覚えていない。
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エンターテイメント4 私の読書歴 (2) 04.05.03
初めての単行本
読書暦についてもう少しさかのぼってみると、小・中学校時代小説などは、田舎の学校の図書室の数少ない蔵書のなかから選ぶ以外、読む機会はほとんどなかった。教科書や家に配達される新聞以外でかろうじて接した活字は10キロ以上はなれた本屋で買ってもらう少年雑誌。正月号などは漫画の付録が何冊もついていた記憶がある。雑誌の名前は「少年」か「少年倶楽部」だったように思う。この頃図書室から借りてきて読んだ「家なき子」と「岩窟王」が記憶に残っている。
生まれて初めて自分のものとして手にした単行本は、著作が誰であったか記憶にないが、母方の祖母(大阪のおばあちゃん)に買ってもらった「偉人の少年時代」というものであった。
この本は数人の歴史上の人物が出てくるものだったが、「毛沢東」と「リンカーン」だけは覚えている。その毛沢東に「マオ・ツオ・トン」と振り仮名があったのを、なぜか鮮明に覚えている。
小学時代に読んだ日本の小説としては、山本有三の「路傍の石」下村湖人の「次郎物語」が印象に残っている。
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エンターテイメント3 私の読書暦 (1) 04.04.・・
日本文学全集と世界文学全集
このHP自己紹介のところで好きな作家、いま「浅田次郎」、むかし「高橋和巳」などと書きましたが、私の小説遍歴は、ほぼ昭和39年発行の新潮社版「日本文學全集」で始まります。
赤い箱に入ったB5番の半分くらいの小さい本で全72巻ありました。カミさんに何度か捨てられそうになりましたが2~3冊欠落しているものの、ほとんどが残っています。
3~4年前、なかにし礼が書いた「長崎ぶらぶら物語」が、吉永小百合主演で映画化された。その作品をシャープの試写会で見る機会がありましたが、映画の中にこの全集が出てくるシーンがあって妙に懐かしく思いました。
日本文学全集は第1巻「二葉亭四迷」で始まり、68巻目に「三島由紀夫」がやっと間に合ったぐらいで、あと「慎太郎」の太陽の季節はじめ、その後日本の文壇で活躍する「大江健三郎」「清張」「福永武彦」「庄野潤三」「遠藤周作」など当時の新進作家の作品は72巻目の「昭和篇・下」に各1篇掲載されているのみ。
1巻から67巻までの間に昭和30年代までの文豪と呼ばれた「露伴」「鴎外」「藤村」「漱石」「谷崎」「志賀直哉」「芥川」「川端康成」「太宰」「井上靖」日本の著名な小説家はほとんど網羅されている。
外国の小説はS43年発行の河出書房「世界文学全集」全42巻。これは東京勤務時代に会社の何人かで予約注文し、配本の都度勤め先へ配達してもらっていたのを思い出す。かなり分厚いもので字も細かく、「ホメロス」から始まり、「シェイクスピア」「ゲーテ」「ドストエーフスキー」「トルストイ」「ヘミングウェイ」などがあり、38巻目に「カフカ」と「サルトル」が収められています。
このころは学生運動の華やかかりしころで、左翼学生がよく読んでいた週刊誌「朝日ジャーナル」に高橋和巳の「邪宗門」が連載されました。この小説は、戦前弾圧をうけた「大本教」教主出口王仁三郎をモデルにしたもので、これを読んで、感銘を受けた私は「悲の器」「憂鬱なる党派」「わが心石にあらず」「捨子物語」など氏の小説をむさぼるように読み、感動を覚えたものです。 京大の文学部教授でもあった氏は39歳の若さで亡くなってしまい、当時相当ショックだったことが思い出されます。
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エンターテイメント2 映 画 (2) 04.02.18
ザ・ラストサムライ
米映画 ムービックス橿原
監督 エドワード・ズウィック 主演 トム・クルーズ、 渡辺 謙
評判通り質量ともに見ごたえのある作品であった。今までの日本を描いた外国映画はたいてい、われわれ日本人が見て何かヘンなところがあって、気になったものです。この映画は珍しくそういった違和感なくみることができました。
官軍の総司令官の名が「大村」であったので、つい司馬遼太郎原作「花神」の主人公「村田蔵六」のちの「大村益次郎」を連想してしまいました。司馬作品とは時代も少しズレており、渡辺謙が演じた日本のサムライ勝元も前出の大村も歴史上の特定の人物をモデルにしたものではなく、まったくのオリジナルな役柄だったようです。
この映画が(われわれ日本人にとって)カッコいいのは「サムライの精神」に帰するところと思われますが、ザ・ラストサムライを創った国アメリカでも武士道の精神が理解されたでしょうか。
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エンターテイメント1 04.02.04 映 画 (1)
半落ち
東映映画 ムービックス橿原
監督 佐々部 清 主演 寺尾 聡 原作 横山 秀夫
映画館(といってもシネコンですからそれほど大画面ではありませんが)で映画を見るのは何年ぶりだったでしょうか。まして家内と一緒ということになると、前に見たのがいつだったか思い出せないほどです。
この映画は原作もベストセラーになっていますが、映画も面白い。「半落ち」とは警察用語で容疑者の自白で「半分落ちた」ということだそうです。落ちなかった半分「空白の2日間」に何があったのか・・・・・・これ以上はいいません。
「原作を超える映画はめったにない」といわれていますが、この作品はどうでしょうか?「おとなの男」を泣かせる映画ではあります。見たあと原作を買いにいき、今読んでるところです。