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エンターテイメント№217 2023.4月号
3月14日産経新聞夕刊「ビブリオエッセー」掲載文
【書名・著者】 「西行花伝」辻邦夫(新潮文庫)
【見出し】 3度目の桜を心待ちに
【筆者】 奈良県橿原市 松場弘人 78歳
わが家から東へ7、8分も歩くと飛鳥川があり、同じくらい西へ歩くと曽我川が流れています。二つの川べりは桜並木でも知られ、毎年、蕾の頃から徐々に膨らみ、満開を迎え、散っていくのを見続けてきました。また東南へ、春の藤原京跡は菜の花の黄色と池の周りにある桜のピンクが見事なコントラストを見せます。
そんな桜の場面を思い浮かべながらこの小説を読み返しました。西行がまだ北面の武士、佐藤義清(のりきよ)として院の警護にあたっていた頃。法勝寺で開かれた花の宴で「女院の艶やかな気品が、淡い薄紅の香りとなって、ほんのりと、そこに照り映える」場面。西行は花に重ねて一心に女院(待賢門院)だけを見つめていました。
『西行花伝』は章ごとに語りを変え、西行の内面まで動乱の時代の中に描きます。それは若くして出家した不世出の天才歌人を多彩な音色で織り上げた交響絵巻。待賢門院への思いを抱き続けたその生涯は私の心をとらえて離しません。かつて『背徳者ユリアヌス』を読んで圧倒され、辻文学を読み始めました。私は生まれ育ったのが東吉野ということもあり、辻さんが「構想三十年」と書いた『西行花伝』も忘れられない一冊です。
桜に寄せる西行の思いは多くの歌に残されています。「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」。やはりこの歌でしょうか。最後にその願いを遂げたといわれる生涯でした。
三年前の夏、胃に進行性のがんが見つかり、余命6カ月を告げられ、好きな桜を二度と観ることができないと覚悟した時期がありました。先進の医療や多くの人たちの励ましのおかげで運よく生かされ、3度目の桜ももうすぐです。ひときわ華やぐ時を心待ちにしています。